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新旧の写真で、江ノ電藤沢駅を比較してみたいと思います。白黒写真を撮影した頃は、東京での学生生活が始まった年で夢多かりし時代。カラー写真を撮影した時は、客先会社が消滅する経緯を、東京まで聞きに出向いた翌日のことで、お先真っ暗な気分。40年の歳月が流れると、風景も己の心境も、随分様変わりすることを実感することになりました。
とは言え、藤沢駅白黒写真を撮影した当時の状況など、今となっては思い出せません。記録したメモを眺めたことで、少々当時を振り返ることが出来ました。日々の記録は、僅かでも記録すべきだと思います。昭和44〔1969〕年、東京大田区に下宿先を決めたものの、学園紛争のため、学校はバリケード封鎖され授業にならず。豊橋実家暮らしで岡崎までアルバイトへ通う毎日でした。稼いだお金で東北周遊したのが、この年でした。目標とした福島交通軌道線、花巻電鉄を白黒撮影したのはハーフ判カメラで、現像ミスにカメラの不具合が重なり、満足な白黒写真が残せませんでした。そこで、35mm版コニカC35を購入。連写2眼2号機を製作することになります。2号機が完成した直後の10月、5歳年上の叔母さんが結婚することになりました。両親共々、豊橋から三島へ向い、結婚式の写真撮影を担当する事になります。その翌日、江ノ電の撮影に向かっています。藤沢駅から極楽寺までの間を歩いておりました。11月からは、やっと授業が開始。本格的な東京での下宿生活が始まりました。5ヶ月程学校へ通って1年生は終了。学校へ通う主目的の学生割引証明書だけは全て受け取り。5ヶ月程の授業で単位を貰えましたので、良き昭和44年でした。勉学を目指す気持ちなど、全く持ち合わせていませんでした。
写真1枚目、地表駅時代の藤沢駅へ到着する300形301+351連接車。ウインドーシルが波打って見えます。昭和56〔1981〕年9月1日、江ノ島電鉄に社名が変更。写真は江ノ島鎌倉観光と言われていた時代です。踏切の中で撮影?。決してその様なことはありません。白黒No.66−36・昭和44〔1969〕年10月21日(8:56)撮影。
写真2枚目、1枚目写真の後追いカット。地表時代の藤沢駅は、2線どころか車両留置線まで存在したようです。木製柵で封鎖されていますので、この頃、留置線は使用されていないようです。江ノ電ホーム写真後方に国鉄藤沢駅の跨線橋と駅舎らしきものが確認出来ます。地表駅が何時まで存在した?。ウィキペディアを調べても表記はありませんでした。昭和60〔1985〕年9月15日発行“江ノ電賛歌 編著者 吉川文夫”に記述を見付けました。江ノ電百貨店内の高架藤沢駅は、昭和49〔1974〕年6月7日より使用開始。高架工事の際、営業キロが100m短縮したため、江ノ電全線距離は10.1kmから10.0kmに変更されています。地表駅時代の藤沢駅を撮影したのは、この時だけです。白黒No.66−37・昭和44〔1969〕年10月21日(8:56)撮影。
写真3枚目、1線2面ホームの駅ビル内、高架藤沢駅。21+61+22+62、レトロ調車両の4両編成。橋上駅舎の現JR東海道本線藤沢駅の改札口を出ると、ペデストリアンデッキを使用して同じフロアーで江ノ電藤沢駅まで移動可能です。デッキから見下ろす藤沢駅南口駅前道路辺りに、地表時代の藤沢駅が存在したものと思います。DNo.306−121・平成21〔2009〕年9月16日(14:34)撮影。
写真4枚目、自動改札機越しに眺める高架藤沢駅の21+61+22+62、レトロ調編成。DNo.306−124・平成21〔2009〕年9月16日(14:35)撮影。
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