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鉄道ピクトリアル 1969年 4月号・臨時増刊 通巻223号。これこそ、学生時代のバイブルです。今でも、この1冊だけは、白黒フィルムを収めたケースに撮影記録を書き込んだノートと一緒に保管しています。“全日本路面電車現勢”のサブタイトルが付けられています。通常号の1969年 4月号 通巻222号は定価200円。臨時増刊号は290円と少々割高でした。
東京での学生生活が始まる昭和44〔1969〕年、グッドタイミングで発刊された1冊でした。コピー機など無かった時代ですから、掲載された路線図を大学ノートへ書き写して、日本各地の路面電車を目指すキッカケにもなった1冊です。昭和44〔1969〕年は、どの様に行動したものかも思い出せない程、めまぐるしく動き回っておりました。
名古屋市電の元祖ワンマン路線、下之一色線が廃線予定と知り、昭和44〔1969〕年1月20日、名古屋へ向かう。廃線前の東急玉川線撮影のため、昭和44〔1969〕年2月14日、2月21日、4月28日と決起。僅かになってしまったとはいえ、2路線残っていた大阪市電撮影のため夜行急行で大阪へ。昭和44〔1969〕年3月18日の撮影で大阪市電は見納め。大阪市電全線廃止は、昭和44〔1969〕年3月31日限り。同じ日に川崎市電も全廃でしたので、川崎市電は最終日を撮影することになりました。これで、いよいよ学生生活が始まるのですが、授業はヘルメットを被った学生に妨害されて、結果的に大学はバリケード封鎖されてしまいます。訳の分からない学生生活スタート直後に廃線となってしまったのが、東急玉川線でした。昭和44〔1969〕年5月10日、スピーカーから、♪蛍の光♪を流しながら走行する花電車を撮影。現世田谷線を残して、他の路線は消滅することになります。以降も次から次へと路面電車の廃線が続きます。廃線予定路線の全線全区間の撮影を目標としましたが、とても撮り切れるものではありませんでした。満足な白黒写真が残せなかった昭和44〔1969〕年のカラースライドだけでもスキャナーで取り込もうと考えていますが、撮影カットの1割にも至らないのが現実です。
平成6年5月1日、大正出版発行「世田谷 たまでん時代」 宮脇俊三・宮田道一編著より、デハ150形に関する記述を転載させて貰います。文責は、吉川文夫氏です。
『昭和三十九年、東急車輌で四両の新車が造られた。デハ150形で、玉電の新車はこれ以降とだえている。一段下降窓、平凡なボギー車で、側面にコルゲートされた鋼鈑を張ってあるのがアクセントといえばアクセント。東急車輌ではステンレスカーが東京急行の鉄道線用に続々と造られだした時代で、屋根上のFRP製通風器とともに玉川線用に遊んだと思いたい。側面のコルゲートは、いまは晴れてステンレスのコルゲート板に変更されている。この車両の新しいところは、大きな方向幕付きとなった点と、前灯が二ツ目玉となった点である。デハ150形、平凡なれど、丈夫で長持ち車というべきか。』
路面電車の全盛期は昭和30年代。昭和40年代は、各地の路面電車が廃線へと向かう時代。既存車両を使用してレールが消えて行く中、昭和39〔1964〕年デビュー〔玉電廃線5年前〕のデハ150形は、新鮮な感じがしたものです。正面2枚窓で、角張った車体は、他都市の路面電車には無かったスタイルで、私の目には、かなり個性的な電車の印象が強いです。模型化し易いという気持ちが働いていたのかも知れません。「ペコちゃん」と呼ばれたデハ200形のインパクトが強過ぎて、吉川文夫氏は、デハ150形を平凡と表記されたのかも知れません。
写真1枚目、三宿電停のデハ153+デハ154連結2人のり渋谷行。この頃、故郷の豊橋市内線、近在の名古屋市電、名鉄岐阜の路面電車、塗色は何れも腰回りが緑色で窓周りはクリーム色。玉電は逆の塗り分けでした。上下を逆さまにするだけで随分印象が異なったものです。玉電廃線後、残された現世田谷線でも、暫らくは、この塗色で走行しています。後に前面方向指示灯〔方向幕の両側ライト〕と側窓保護棒が撤去されたと表記されています。No.62−12・昭和44〔1969〕年2月14日(12:04)撮影。
写真2枚目、三宿〜池尻間を走行するデハ151+デハ152連結2人のり下高井戸行。このカットには広々とした玉川通りを走行する車の姿が1台も写っていません。No.62−14・昭和44〔1969〕年2月14日(12:14)撮影。
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