|
大学受験のため上京。試験会場で配られた問題用紙を眺め愕然。見たことの無い問題ばかりでした。書き込んだのは氏名と受験番号のみです。30分間は試験会場を出ることが出来ません。30分が経過した途端、試験会場を飛び出して撮影に向ったのが、東京急行電鉄玉川線でした。当然の如く、結果は1浪です。翌年、何とか東京の学校へ拾って貰い下宿場所を決めましたが、東急玉川線は東京での生活開始直後に廃線となってしまいました。沿線風景をもっとじっくり撮影したかった路線です。
以下は、平成6年5月1日、大正出版発行「世田谷 たまでん時代」 宮脇俊三・宮田道一編著の巻末“玉電年表〔監修:宮田道一氏〕”からの抜粋です。
・明治40〔1907〕年3月6日、道玄坂−三軒茶屋間が開通〔1067mm軌間、複線〕。二軸電動客車10両、
10トン積み無蓋貨車20両で営業開始〔のち車両を増備〕。
・明治40〔1907〕年4月1日、三軒茶屋−玉川間が開通〔1067mm軌間、三軒茶屋−用賀間は単線、他は
複線〕。
・明治40〔1907〕年8月11日、渋谷−道玄坂間が開通〔1067mm軌間、複線〕。
・大正9〔1920〕年3月27日、駒沢−用賀間の複線化が完成。
・大正9〔1920〕年5月31日、広軌用〔1372mm軌間〕車両を収容するための大橋車庫増設工事が完成。
・大正9〔1920〕年8月21日、広軌改軌のため全線の単線運転を開始。
・大正9〔1920〕年9月3日、広軌〔1372mm〕電車で単線運転を開始。
・大正9〔1920〕年9月11日、上下両線とも広軌運転を開始〔三軒茶屋−駒沢間は単線〕。
・大正9〔1920〕年10月31日、上馬引沢−駒沢間の複線化が完成。
・大正9〔1920〕年?月?日、1372mm軌間1〜15号四輪単車と1〜5号四輪電動貨車を新製〔以下、車両は
すべて1372mm軌間〕。
・大正12〔1923〕年2月18日、三軒茶屋−上馬引沢間の複線化が完成。
・大正13〔1924〕年3月1日、砧線玉川−砧間が開通〔大正12年中に竣工していた〕。
・大正14〔1925〕年1月18日、三軒茶屋−世田谷間が開通。
・大正14〔1925〕年5月1日、世田谷−下高井戸間が開通。
・……………………………………………………………………………………………………………………
・昭和44〔1969〕年4月17日、首都高速道路公団と「同時施工に関する協定」を締結〔大橋−三軒茶屋
間〕。
・昭和44〔1969〕年5月8日、玉川線に花電車を運転〔10日まで〕。
・昭和44〔1969〕年5月10日、玉川線渋谷−二子玉川園間、砧線二子玉川園−砧本村間の営業廃止。三軒
茶屋−下高井戸間は存続し、世田谷線と呼称。残存車両はデハ70形デハ71〜78号、デハ80形デハ81〜
90号〔デハ87〜90号はデハ104〜107号を改番〕、デハ150形デハ151〜154号の22両。
開業時に貨車の両数が多いのは、玉川線建設目的の1つが多摩川で採取した砂利を移送するためなのです。砧線は、砂利採取用に建設されたと路線と記されています。「たまでん」が「ジャリ電」と呼ばれる所以です。実際、一時は旅客収入よりも砂利収入〔輸送と販売〕の方が上回り、渋谷駅側線には砂利の山ができたとも記されています。砂利が縁で、東京市電に乗り入れるため1372mm軌間に改軌。大正12〔1923〕年3月、玉電と東京市電の連絡線が完成。
昭和44〔1969〕年5月10日の運転を最後に、高速道路建設のため邪魔になる玉川線渋谷−二子玉川園間9.2kmは廃線。同時に、砧線二子玉川園−砧本村間2.2kmも廃止されてしまいました。その後、玉川線に代わり、地下を走行する新玉川線が建設されることになります。
写真1枚目、上馬電停に到着するデハ65花電車。花電車後方を走行中の軽自動車は、花電車のスピーカーから流される♪蛍の光♪を録音していたようです。No.79−23・昭和44〔1969〕年5月10日(11:26)撮影。
写真2枚目、上馬電停より撮影したデハ65花電車。乗降扉を開けて、乗務員さんが沿線見物人に手を振っています。この日限りで、玉川線・砧線の運転は終了。花電車に表記された“1907−1969 さようなら玉電”の文字から、全線開通に至る経緯を少々調べてみました。No.79−24・昭和44〔1969〕年5月10日(11:26)撮影。
|