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名鉄挙母〔ころも〕線と表示すべきところを、ブログの返信コメントに名鉄拳母線と表記してしまいました。「名鉄拳母線」で画像検索すると東急玉電写真を載せた私のブログが表示されてしまいます。ウェブ検索してもウィキペディアは表示されません。ただ、別の方の廃線跡画像も紹介されますので、間違いには気付きませんでした。何気なくコメントを書き込んで、お粗末な結果となってしまいました。軌道修正するために、「名鉄挙母線」として改めて写真を紹介しようと思います。
名鉄挙母線を走行する電車を撮影したのは、仕事に出掛ける父親の車に便乗した時のことです。それ故、撮影写真は数枚残るのみ。走行中の車の中から遠目で眺めた矢作川の鉄橋、「近くから撮影してみたい」と思った程度の記憶しか残っておりません。
全く別な時、日本レイヨン専用線を撮影しています。こちらは印象強いです。東京で学生となり下宿生活が始まりましたが、4月、入学式直後の授業はヘルメットを被った学生に邪魔され授業にはならず。学校へ出向いても15名程の機動隊員が学校を固めている有様です。授業が始まったのは、11月でした。これ幸いと豊橋の実家から岡崎へアルバイトに通っておりました。授業は無いし、アルバイトで稼いだお金で日本各地を目指します。勉学に勤しむといった気持ちなど全く持ち合わせておりませんので、実家と下宿を拠点として、日本各地を飛び回る夢のような昭和44〔1969〕年でした。
アルバイトは、中学生時代の仲良し同級生が通っていた会社を知り、一緒に通うこととなりました。日本レイヨンと関わりのある小さな町工場〔今きれ工業所〕でした。板金屋さんが仕上げたダクト据付工事手伝いのため、門鑑所持して日本レイヨン構内へ入ることもありました。午後1時頃になると、名鉄の貨物列車が日本レイヨンへ到着し、貨車を連結し直して日本レイヨンを出て行きます。そこで社長さんにお願い。従業員さんが休憩している昼休みの間、音の出ない板金加工を済ませ、午後1時近くなると町工場を抜け出し専用線貨物列車の撮影に向かいます。3タイプの機関車を撮影しましたので、4度位は決起したものと思います。
再び、ウィキペディアを参照。『国鉄岡多線は、昭和45〔1970〕年にトヨタ自動車の自動車輸送を目的に、貨物線として岡崎〜北野桝塚間が開業。昭和46〔1971〕年からは岡崎〜北岡崎間のユニチカ岡崎工場向けの原料輸送も行われている。昭和48〔1973〕年3月4日、平行路線の名鉄挙母線全線廃止。一部が岡多線の用地に転用された。昭和51〔1976〕年に新豊田駅まで路線が延長され、4月26日から旅客営業も開始』。その後、紆余曲折を経て、『昭和63〔1988〕年1月30日、岡崎〜新豊田間はJR東海の岡多線として最後の日を迎え、翌1月31日、岡崎〜新豊田〜高蔵寺間が愛知環状鉄道として開業』。
国鉄岡多線で撮影したのはプッシュプルのお召列車のみ。幼かった息子を連れて、初めて愛知環状鉄道の撮影に出向きましたが、高架区間ばかりで撮影場所がありませんでした。
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