連写2眼×2.5・ローカル私鉄を訪ねた日々

ビデオウォークマン入手。DVテープ(11/200)巻をダビング。白黒フィルムの現像もしなければ…。頭痛い。

豊橋鉄道市内線

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 中学生時修学旅行のため、ハーフ版カメラを親に買って貰いましたが、高校生になってからはカラーポジフィルムを充填して使用していましたので、高校生時に撮影した白黒フィルムは皆無に等しいです。改めて白黒フィルムを確認してみると、数本は撮影してありました。そんな中から豊橋鉄道市内線で、昭和511976〕年36日の運転を最後に廃線となってしまった柳生橋支線の白黒画像を紹介します。
 
 豊橋鉄道市内線で単車が活躍していた時代を撮影出来たのは、柳生橋支線の単車ワンマンカー3両のみです。中柴電停ですれ違う単車ワンマンカーのカラー画像は、2010年に紹介済みですから宜しかったら参照して下さい。
 
 ある時、何気なく柳生橋支線の撮影に出向くと、走行していたのはモ700形ボギー車でした。渥美線同様、黄色に太い赤帯途色で、ワンマン化改造された車両です。4両在籍したモ700形の中で、モ702とモ704が柳生橋支線用として抜擢改造されました。その後、名古屋市電の1400形を譲り受けたモ3100形もデビュー。黄色に太い赤帯途色は豊橋鉄道市内線ワンマンボギー車の標準色と思っています。
 
 
 
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 写真1枚目。柳生橋支線中柴電停ですれ違う2両の単車ワンマンカーモ505とモ504。Zパンタの向きが違い、ウィンドー・ヘッダーも異なります。屋根のカーブも微妙に違うようです。モ506はモ505と同様のスタイルながら、明るい途色を纏っておりました。写真左手が柳生橋。写真右手が新川方面。撮影から49年が経過しております。白黒No.083820)・昭和401965〕年66日撮影。
 
 
 
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 写真2枚目。1枚目写真の現在風景。軌道敷き跡は中央分離帯に変わりました。7DNo.39459・平成261010日(1532)撮影。
 
 
 
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 写真3枚目。終点柳生橋到着間近のモ702ワンマンカー後追いカット。柳生橋支線用モ700形ワンマンボギー車の運用開始は、昭和421967〕年126日とあります。そして、昭和431968〕年111日、豊橋鉄道車両は大改番。写真のモ702はモ3702へと改番されました。後に腰板に広告が描かれてしまいます。腰板広告無し、黄色に太い赤帯途色で走行したのは、モ3702とモ37042両のみでした。現在のモ3203が黄色に赤帯途色で復活するまでの間は……。白黒No.54728)・昭和431968〕年105日(1047)撮影。
 
 
 
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 写真4枚目。3枚目写真撮影から46年が経過した現在風景。写真左手、「ヤマニのタネ」・「アヤベ武道具店」・「中島薬局」の建物は、3枚目写真撮影当時と変わっていないものと思われます。7DNo.39464・平成262014〕年1010日(1542)撮影。
 
 
 
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 写真5枚目。3枚目写真撮影のために立った場所、現在風景で、この辺りでは?。7DNo.39473・平成262014〕年1010日(1545)撮影。
 以前、豊橋鉄道市内線と渥美線新豊橋〜芦原間を撮影する場合の移動手段は自転車でした。自転車荷台にはビデオ用三脚をくくり付け、前篭にはビデオカメラが入ったバッグを押し込んだものです。左肩に担ぐカメラバッグに収めたフイルムカメラは4台。撮影場所を決めると、まず三脚にビデオカメラをセットして水平出し。フイルムカメラで電車通過シーン撮影の際には、必ずビデオカメラも回していたものです。撮影日時が記録されるところがビデオカメラの魅力でもありました。
 
 母親が乗らなくなったスクーターを使用することで行動範囲は広がりました。渥美線田原まで走行することもしばしば。軽バイクで名鉄蒲郡線西浦駅までの1往復は流石にしんどかったです。
 
 中古デジタル1眼を購入したことで撮影方法も徐々に変化。連写2135mm専用機をデジカメに置き換える形になりました。ビデオカメラのバッテリー5本が寿命。バッテリー代替品は市場から消滅したため、ビデオカメラの使用は断念。昨今は連写250mm専用機1セットとデジタル1眼の3台態勢で出向いております。
 
 豊橋駅前で出発式ありの情報を得た時は、スクーターで電車を追い回しております。ビデオカメラを所持しなくなった分、ソコソコの撮影枚数を残さないと撮影に出向いた気分にはなれません。自己満足ですが…。
 
 掲載する画像は昨年撮影したものです。スクーターで自宅を飛び出し、まずは渥美線高師車庫へ。伺った通り1804F「ひまわり」試運転が実施されるようですから、植田駅へ向いました。試運転電車〔掲載済〕を撮影すると、急いで市内線駅前電停へ移動。広告電車で出発式が執り行われた珍しいケースであったと思います。
 
 
 
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 写真1枚目、「のんほいパーク号」として活躍していたモ3201は、この様な塗色で3番庫を出ておりました。これからラッピングが施されます。7DNo.2282・平成252013〕年513日(1340)撮影。
 
 
 
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 写真2枚目、仕上がったモ3201「ブラックサンダー号」を背にして有楽製菓・河合社長氏が挨拶。設置されるボードには出発式と表記されることが多いのですが、モ801「パト電車」の時同様、発車式と表記されています。駅前電停にて。7DNo.23064・平成252013〕年517日(1101)撮影。
 
 
 
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 写真3枚目、駅前電停、モ3201「ブラックサンダー号」を背にしてテープカット。7DNo.23072・平成252013〕年517日(1111)撮影。
 
 
 
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 写真4枚目、駅前電停、一日駅長「ブラックサンダー」オブジェ。7DNo.23075・平成252013〕年517日(1112)撮影。
 
 
 
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 写真5枚目、モ3203続行の形で駅前電停を発車したモ3201「ブラックサンダー号」初電赤岩口行。7DNo.230105・平成252013〕年517日(1130)撮影。
 
 
 
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 写真6枚目、スクーターへ戻って追い掛けます。東八町電停より撮影したモ3201「ブラックサンダー号」赤岩口行。7DNo.230116・平成252013〕年517日(1143)撮影。
 
 
 
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 写真7枚目、競輪場前電停付近で「ほっトラム」駅前行とすれ違い。モ3203続行モ3201「ブラックサンダー号」。2両セットで赤岩口行。7DNo.230128・平成252013〕年517日(1150)撮影。
 
 
 
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 写真8枚目、スクーターに跨ったまま撮影。井原〜競輪場前間を走行するモ3201「ブラックサンダー号」赤岩口行。休肝日無しで酒する私には、豊橋銘菓・ブラックサンダーより、豊橋名物・ヤマサちくわの方が嗜好品です。7DNo.230135・平成252013〕年517日(1153)撮影。
 
 
 
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 写真9枚目、赤岩口電停のモ3201「ブラックサンダー号」。写真奥のモ3203は「お役御免」で入庫します。7DNo.230141・平成252013〕年517日(1158)撮影。
 
 
 
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 画像10枚目、平成252013〕年517日、中日新聞夕刊12面記事と写真。「へー、そうなんだー」。
 先週、「長い道程でした」でブログ更新しましたが、今回はその続編と思って下さい。
 
 ハーフ判カメラを使用して撮影したED71 3とキハ82 42他特急「つばさ」。それと、13両編成の上り上野行特急「はつかり」は、国鉄福島駅で撮影した画像です。豊橋鉄道田口線を撮影中にカメラを落としてしまい使用不能となってしまったカメラを自ら分解修理。分解修理後のハーフ判カメラで撮影したのが前回紹介した写真なのです。それから3ヶ月程後、レンズを固定していた止めネジが徐々に緩んでしまい、結果的には花巻電鉄軌道線撮影途中からはピンボケ。これがハーフ判カメラを見切る切っ掛けでした。
 
 中学生修学旅行の際、父親に買って貰ったのが、ハーフ判カメラ、“ミノルタ・レポ”でした。高校時代の3年間は“ミノルタ・レポ”にカラーポジフィルムを充填して撮影したものです。今回紹介する画像は、高校1年生当時撮影した数少ないハーフ判白黒写真です。カメラ購入から1年程経過した時期の撮影と思います。
 
 高画質フラットヘッドスキャナー、EPSON GT−X970で取り込み。レタッチ作業が完了すると、画像名称の頭に「済」の文字を追記して元データとして保存。カラー画像として取り扱われるため、第2ステップは白黒画像に変換。画像名称の頭は「白黒変換」に変更。第3ステップは画像サイズを変更してレベル補正・フィルター掛け。これをプリント用〔印刷用〕の別写真として保存します。画像名称の頭は「完」に変更。フィルターを掛けることで容量は上がってしまいます。ブログで紹介する画像は、容量の関係で完成写真のサイズを落として掲載しております。国鉄福島駅で撮影したハーフ判画像、1カットの容量は220KB前後です。
 
 今回、初めてプリントモード用として仕上げた完了写真を掲載してみます。この感じであれば、A4サイズでプリントアウトしても、ソコソコ見られる画像に仕上がっているものと自負しています。1カットの容量は1.81MB。ブログ掲載容量は最大2MBまでが条件ですから、1カットのみで限界です。
 
 
 
 
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 写真は、高校1年生当時撮影。豊橋鉄道市内線、競輪場前電停〔現在の安全島+上屋根設置場所に停車中〕で発車待ちのモ602市民病院前行。当時は道路も未舗装でしたか!!。豊橋競輪場と表記された散水車が未舗装道路に水を撒いていた時代を思い起こします。腰板に大きな広告表示もが無い時代です。暫くすると、市内線ボギー車全てが広告電車に様変わり。三重交通神都線時代にはヘッドライトはありませんでした。大きなヘッドライトは豊橋鉄道譲り受け後に備えられたものです。伊勢から豊橋へとやって来て4年程が経過した時期で、模型化したのは、この姿でした。昭和401965〕年66日撮影。
 「月光仮面」をテレビで初めて眺めたのは、小学校低学年の時です。生誕の地から61間のアパート2階部屋に引っ越した後の事です。トイレも流し場も共同使用で階段を下りなければなりません。風呂は近場の銭湯へ。アパート室内に置いてあったのは、子供背丈程の大きなラジオと丸いちゃぶ台。そして、母親の箪笥だけ。二親は働きに出ていましたので鍵っ子でした。小学校から帰ると近所の友達と夜暗くなるまで表で遊んでおりました。
 
 このアパート時代に子供用自転車を買って貰いました。始めは補助輪を付けて乗っておりました。当時は当たり前の未舗装凸凹道。水溜りの窪みに補助輪を落とせば、そのまま横転。アパート前の県土木事務所広場が遊び場であり自転車の練習場でもありました。暫し練習することで自転車は補助輪無しでも乗れるようになりました。
 
 我が家に白黒テレビがやって来たのは中学生になってからです。小学校低学年の時、「月光仮面」を眺めたのは、アパート大家さんの白黒テレビを窓の外から見せて貰ったからです。マンモスコングの股下をオートバイに跨った「月光仮面」が通過するシーン程度の記憶しかありません。円弧を描いた道路を作成。センターラインに相当する箇所に溝が切ってありました。オートバイに跨った「月光仮面」の人形を溝に沿わせて動かす。マンモスコング自ら、ボードの道路を跨いで、股下の「月光仮面」を上から撮影したものと思います。子供心に、「子供騙し」と思ったりしたものです。
 
 「月光仮面」の放映は、昭和331958〕年224日〜昭和341959〕年75日までとありますから、小学3年生の時に眺めたことになります。20系寝台特急「あさかぜ」や151系電車特急「こだま」が運転を開始した時代でした。
 
 テレビで懐かしの映像として時々「月光仮面」が紹介されました。今になって思うと、時代劇の刀を拳銃に持ち替えた類の造りであった気がします。右手の悪者が放った拳銃の弾を「月光仮面」は頭を左にかわして避ける。その後、悪者に向って「月光仮面」が銃を放つと悪者は倒れたり、屋根から転落したり。次に左手の悪者が打った拳銃の弾を「月光仮面」は頭を右にかわして避ける。以下同じ。腰の両側に2丁拳銃を構え「月光仮面は不死身だ!!」などと言います。「不死身ならば、拳銃の弾を避けることもないだろうに…」と思ったものです。チャンバラの殺陣に同じと考えれば納得出来ます。「月光仮面」が屋根から登場するのは、時代劇に登場する忍者の発想に準じていたのでしょう。
 
 アパート東側には東田遊郭の一部が残っており、遊郭の更に東側は一面の水田地帯で“水神池”まで続いておりました。“水神池”付近の小川には何度も魚掬きに出向きました。小川のあった場所が、現在の豊橋鉄道市内線運動公園前電停近辺になると思います。
 
 チャンバラごっこは、「月光仮面」ごっこに変わりました。風呂敷で覆面をし、もう1枚の風呂敷を首に結わえてマントにします。おもちゃのサングラスまで所持していたかは定かでありません。この出で立ちで、子供用自転車に乗り小川の堤防を走る。「月光仮面待てー!!」と追い掛けてくる2人の友達を振り返りながらペダルを踏み、堤防斜面にコースを反れ、そのまま自転車もろとも小川へ転落。「あの場所は何処であった?」。“水神池”から東田遊郭方向へ向って流れていた小川であることは確かです。
 
 
 
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 写真1枚目、豊橋鉄道市内線赤岩口車庫6番線奥に留置されたモ3202「豊橋競輪号」。7DNo.10719・平成242012〕年528日(1426)撮影。
 
 
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 写真2枚目、同じく、赤岩口車庫6番線に留置されたモ3202「豊橋競輪号」。7DNo.11386・平成242012〕年69日(1643)撮影。
 
 
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 写真3枚目、赤岩口車庫6番線に留置されたモ3202「豊橋競輪号」の広告アップ。「これって、月光仮面を真似ている?。ラッピングの上にラッピングした?」。7DNo.119179・平成242012〕年623日(1430)撮影。
 
 
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 写真4枚目、この日の16時過ぎ、競輪場前側線を出たモ3202「豊橋競輪号」は駅前へ向います。駅前を発車すると赤岩口行として走行。赤岩口到着後は、そのまま入庫する運用でした。7DNo.114103・平成242012〕年611日(1713)撮影。
 
 
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 写真5枚目、競輪場前電停付近。ほっトラム赤岩口行と続行モ3203「ビール電車」運動公園前行。すれ違ったモ3202「豊橋競輪号」駅前行。7DNo.115189・平成242012〕年613日(1848)撮影。
 
 
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 写真6枚目、駅前大通を発車して駅前電停へ向うモ3202「豊橋競輪号」。月光仮面もどき写真は撤去されています。7DNo.121171・平成242012〕年73日(1639)撮影。
 
 
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 画像7枚目、朝刊に折込まれていたチラシをスキャン。2度に分けて取り込み貼り合わせてあります。「先行仮面でしたか」。「先行仮面」を貼り付けたモ3202「豊橋競輪号」の走行写真は、あまり撮影してありません。2週間程の走行と思っていましたが、1ヶ月近くは走ったようです。
 
 
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 写真8枚目、『ある時はモ3202豊橋競輪号 ある時はモ3202プラット号。しかして、その実態は、結局、モ3202豊橋競輪号』。(「多羅尾伴内」+「月光仮面」)÷2=「七色仮面」。モ3202「豊橋競輪号」は、モ3202「プラット号」に変身。その後の動向が気になっておりましたが、モ3202「豊橋競輪号」に戻されています。「多羅尾伴内」のように7つの顔を持つ電車にはなれませんでした。写真は井原の急カーブを右折するモ3202「プラット号」運動公園前行。7DNo.16717・平成242012〕年114日(1500)撮影。
 豊橋電気軌道株式会社が、豊橋駅前−神明〔豊明館前〕―大手通札木十字路間、神明〔豊明館前〕―柳生橋間を開業したのは、大正141925〕年714日と記されています。1形木造4輪単車6両を使用。
 大正141925〕年721日には、大手通札木十字路―赤門前〔現:東八町〕間延長開業。
 大正141925〕年1225日には、赤門前〔現:東八町〕―東田〔東雲通り〕間延長開業。
 
 豊橋の市内線電車が開業した頃の略歴を抜粋。当時の神明電停はデルタ線を有した由緒ある電停でした。開業直後は、全線単線で車庫も交換設備も無かったものと思います。デルタ線を使用して電車の行き違いを行っていたようです。
 
 昭和201925〕年620日、豊橋大空襲により大被害。全線不通。
 昭和231948〕年77日、神明町交差点線路移設。⇒⇒⇒ 意味が理解出来ず。
 昭和251950〕年47日、東田坂上−車庫前〔後の北臨済寺〕間開通。
 昭和251950〕年917日、車庫前〔後の北臨済寺〕−競輪場前間開通。
 昭和251950〕年1020日、駅前−神明間複線化。⇒⇒⇒ 駅前−神明間広小路通りから駅前大通に移設複線化。
 
 改めて眺めた略年表、自分自身がこの世に出て来た年に市内線電車のルートが大きく変化していたことに気付きました。0歳児の頃は、まだ広小路や大手通りを市内電車が走っていたとは…。眺めた記憶などはありません。
 
 昭和261951〕年1030日、神明−市役所前間複線化。⇒⇒⇒ 神明−市役所前間大手通りから新大手通りに移設複線化。
 昭和271952〕年105日、駅前−市民病院間開通。
 昭和351960〕年61日、競輪場前−赤岩口間開業。車庫を赤岩口に移設。(これで市内線全線距離が最長の時代になると思います)
 昭和441969〕年515日、駅前−市民病院間休止。
 昭和461971〕年715日、北臨済寺停留場廃止。神明電停を札木停留場に併合。
 昭和481973〕年324日、駅前−市民病院間廃止許可。
 昭和511976〕年37日、柳生橋支線・新川−柳生橋間廃止。
 昭和571982〕年731日、井原−運動公園前間を新設開業。
 
 以上の表記で、市内線路線の変遷概要〔廃止・移設・新設開業〕は判断可能と思います。
 
 
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 写真1枚目、市民病院跡地に建設された“こども未来館ここにこ”に保存展示されているモ3702車内に張られている「市内電車のあゆみ略年表」。7DNo.340128・平成262014〕年322日(1604)撮影。
 
 
 
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 写真2枚目、カラフルな地図に市内線開業当初の路線を茶色で書き込んでみました。デルタ線表示した箇所が、開業当初の神明電停。この地図は新川電停脇の歩道に立っていた周辺案内地図をデジカメで撮影したものです。画像左手が北方向になります。札木通り〔旧東海道〕を走るバス路線は現存しません。7DNo.350190・平成262014〕年416日(1856)撮影。
 
 
 
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 画像3枚目、昭和341959〕年630日発行、150000地図 豊橋の一部。中学生時、教材として買わされた地図。駅前−市民病院間は表記されていますが、東田坂上−競輪場前−赤岩口間の路線が表記されていません。現在の路線位置を茶・緑・黄色で書き込みました。東田坂上−競輪場前間は開業していたハズです。市内線開業当初は、東田遊郭を目指して線路が延びていったことが見て取れます。遊郭手前の終点が「東田」で、現在の東田電停の場所とは異なります。
 
 
 
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 写真4枚目、広小路通りと田原街道が交わる現在の交差点。市内電車開業当初、神明電停はこの場所でした。写真右手、斜めに延びる道路が開業当初の電車通り。7DNo.34974・平成262014〕年1216日(1210)撮影。
 
 
 
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 写真5枚目。移設された神明電停安全地帯から撮影したモ3603駅前行。方向幕は「競輪場前」を表示。電車後方は、当時の電電公社ビル。屋上看板には“ダイヤルはメモを見ながら休まずに”と書かれています。試しに黒電話に切替え。久々にダイヤルを回し、10秒間指を動かすのを止めると回線は途切れてしまいました。当時は電話する相手も少なかったこともあり相手の電話番号は記憶していましたので、メモを眺めることもありませんでした。昨今は、自分の携帯電話番号すら覚えられません。情けない。白黒No.6096)・昭和441969〕年105日(1247)撮影。
 
 
 
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 写真6枚目。神明電停安全地帯脇から撮影したモ3805競輪場前行後追いカット。白黒No.60107)・昭和441969〕年105日(1252)撮影。
 
 
 
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 写真7枚目、6枚目写真と同じ場所から撮影した現在の光景。新川〜神明間は距離が短かったため、札木電停を新川寄りに移設することで、昭和461971〕年715日、神明電停消滅。電電公社ビルは当時のままのようですが、看板掲出はありません。7DNo.34988・平成262014〕年1216日(1715)撮影。
 
 
 
イメージ 8
 写真8枚目。神明電停安全地帯にて撮影。モ3703駅前行。白黒No.60129)・昭和441969〕年105日(1255)撮影。
 
 
 
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 写真9枚目、白黒画像の神明電停安全地帯のあった場所を走行する現在の2車両。手前はモ784「日本通運号」運動公園前行後追いカット。写真奥はモ3504「県民共済号」駅前行。7DNo.34990・平成262014〕年1216日(1804)撮影。

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