今年も残すところ2ヶ月強。スタートは良かったのですが、夏場は惨めな毎日の繰り返しでした。東日本大震災で被害を被った方々に比べたら、まだ幸せと思っております。
2月から3月の間で手掛けた仕事が1件。5月に手掛けた仕事が1件。今年の稼ぎはこれだけです。6月以降、年内の収入ゼロが確定しました。無収入7ヶ月の間で、僅かばかりの現金収入は田口線冊子2冊分代金のみです。
6月に作図依頼の話はありました。内容を眺め、「この物件は流れてしまうであろう」と判断。結果は予想通りです。8月には、別件の作図依頼が入りました。資料は届きましたが、今までとは少々勝手が違います。下準備程度しか進められません。1ヶ月が経過した9月には現場へ呼び出され、台風12号が接近する中、碧南まで車を走らせています。工事の完了は再来年の年度末のようで、これから撤去される装置を眺めても何の足しにもなりません。「来年の8月位に呼んでくれれば良かったのに‥。折角、この地までやって来たのだから名鉄を撮影して帰らねば‥」。ワゴン車ごと吹き飛ばされそうな強風の中で、名鉄三河海線既存区間と廃線跡を少々撮影。傘を支えていた右腕肩を痛めてしまい整形外科へリハビリに通うハメとなってしまいました。所持していた傘は2本共、強風で壊してしまいました。その後1ヶ月、仕事に関しては梨の礫です。
平成23〔2011〕年8月9日、保険をお願いしている杉浦氏より電話がありました。名豊ビルで10月後半にイベントがあるそうです。「企画担当者の方と話が盛り上がり、豊橋鉄道田口線の写真を展示したいから30枚程提供して欲しい」といった内容でした。「ソコソコに伸ばして眺められる田口線写真は、10枚有るか無いかです」と返答しておきました。
平成23〔2011〕年9月30日、火災保険の満期が近付いているので、お袋が杉浦氏に電話したようです。「10月4日に杉浦さんが3時にやって来る。4時には男性も連れて来る」。電話直後の母親の話です。「何?、どう言う事」。そこで杉浦氏に電話。イベント会場へ田口線写真を展示することで話を進めてしまったようです。当方の考えを無視して、杉浦氏本人の勝手な思い込みで走っていたようです。「鉄道全般の展示は11月頃では?」と杉浦氏は話しますが、意図が良く分かりません。「稼ぎも無く、預金切り崩しの生活で紋々としている日々、余計な手間と出費が掛かる事はやりたくない。男性には、その旨、断っておいて下さい」と伝えました。「それならば、自分の写真を並べます」と杉浦氏。「じゃー、何も田口線でなくてもイイじゃないですか」。イベントにコンセプトが無いのでは?。会場に展示する写真30枚を揃える任務を杉浦氏は背負ってしまったようです。「だから、サークルなどといったものには入りたくない」と思ったものです。「4日、保険の話で来た時、ブログで紹介した写真を見せてあげる。それで良ければプリントするけれど、諸経費は支払って下さい」と話しておきました。
話を頂いて2ヶ月目の10月4日、仕事の資料がやっと届きました。午後やって来た杉浦氏には、これはと思える写真を見せました。「この写真は後で返して下さい」と話し、田口線冊子印刷前に仕上がり具合を確認するためラボでプリントした写真4枚も手渡しました。
10月7日、金曜日の未明に息子のワゴン車が到着。2人でコンビニへ食料の買出しに出て、酒を呑みながらデジカメ談義。何時寝たものかは覚えていません。11:30頃、電話で起こされました。東京神田神保町の“書泉グランデ”からでした。主旨は何となくメモしましたが、「酒を呑み過ぎてしまい、今、酔っ払っていますから後程電話をします」と話し電話を切っています。
連休開けの10月11日、客先担当者からの電話で起こされました。「今週末までに図面を頂けませんか」と。話を貰ってから2ヶ月間すっぽかされ、やっと10月4日に届いた資料は、まだロクに眺めていません。連休中は花電車を追い掛けておりました。今までの感覚であれば1ヶ月は掛かる作業内容を「これから3日で‥。そんな無茶を言われても‥」。資料を渡せば、後は客先から煽りの連続です。のらりくらりとかわしながらマイペースで作図するしかありません。「それ程急ぐのであれば、他へ流して下さい」と言うしかありませんでした。この物件、まだ正式な作業依頼票が発行されていません。何処まで作図すれば作業が終了するものか、先も見えません。報酬を受け取れない事も腹に据えて作図することになります。
10月13日、別の仕事の話で電話が入りました。車両とは関係ありませんが、北陸新幹線絡みの依頼です。ダクト作図で煽られている状態では、お断りするしかありませんでした。もう少し早く電話を貰えば処理出来た物件です。こちらの方が作業し易い物件だけに無念でした。晩飯中の19:40、表で声がします。予告も無く、杉浦氏がやって来ました。おおよその意向を確認し、任意で選択した写真13枚を追加で手渡しました。「これで勘弁して下さい。プリント代金は請求しない代わりに写真は返して下さい。もう、この後はやりません」と話しておきました。2時間程寝た後、パソコンを立ち上げたところ、“書泉グランデ”からメールが届いておりました。こちらも督促のようです。
10月14日、“書泉グランデ”へ電話をします。ネコ・パブリッシング社、名取紀之編集長の推薦図書百選に田口線冊子が選ばれているとの事でした。特設コーナーも完成間近で、ポスターも刷り上ったそうです。このポスターの目立つ場所に田口線冊子写真が掲載されていると話します。それで急遽、「30冊を送って下さい」という運びであったようです。3年前に“書泉グランデ”を訪ねて直接手渡した3冊と、その後、宅配した30冊は既に在庫が無いそうですから、請求書・納品書と追加30冊は10月17日に発送しました。「助かりました。困った時の田口線は健在でした。これで少々、生活費がやりくり出来ます。杉浦氏に手渡した写真のプリント代金は泣きでイイや」。
お荷物であった杉浦氏の1件をまず外します。次は、目先の銭として“書泉グランデ”さんへ宅配。この間に本業を少しづつ進めます。悶々とした日々から一転、慌しい昨今です。
長くなってしまいましたが、ここからが本音です。田口線冊子1000部の印刷見積代金は270万円でした。これでは赤字にしかなりませんので、30万円上乗せして300万円を支払っています。「1冊3000円として1000部はけたらチャラ」と考えておりました。伊藤印刷さんから冊子を引き取り、「さてどうしましょう」と思っていた矢先に、第1購入者であった故・白井良和先生に「幾ら?」と聞かれ、2800円と即答してしまったことがスタートでした。マージンなるものを考えていませんでした。以来、4年近くが経過。“書泉グランデ”へ渡した33冊を加算すると、贈呈分含めた流出部数が丁度1300部。皆さんが支払ってくれた代金の合計は281万円程になります。自ら決起した唯一の営業活動が、“書泉グランデ”さんの本棚へ冊子を並べて貰うことでした。その“書泉グランデ”さんから追加注文を頂きましたので、ほぼ目標地点に近付いた心境です。
田口線健在当時を撮影したカラースライドは、確か178カット?。「30枚程データを提供頂けませんか」といったメールが届いたこともあります。30/178は、1割以上の枚数です。「よくもヌケヌケと‥。古いカラー写真を1枚でもよいから1度処理して、如何に辛いものであるかを体験してみー」と言いたい。当然ながらデータの提供は、お断りしました。この手の話は、持ち掛けてきた相手側に営利目的、思惑、下心があります。人の褌で相撲を取るといった感じです。テレビしかり、出版社しかりで、予想以上の手間と出費を浪費する結果となってしまいます。杉浦氏から伺った話も同じような内容でしたので、田口線写真を提供する気持ちはありませんでした。この先も考え方は変わりません。代金支払って冊子を購入して頂いた皆さんに失礼だと思っていますので、自ら撮影した田口線写真をブログへ掲載することも控えています。天涯孤独の身となってしまった男性が、冊子にお父さんの姿を見付け涙した話。田口線電車で通学していた当時を懐かしく語ってくれた奥さん。病弱なお母さんを元気付けようとして冊子を購入してくれた佃島の青年。戻って来た281万円には、この様な皆さんの想いが詰まっています。
名豊ビルは開業43年になりますか。確か開業当時は高校生のハズです。名豊ビル3Fの催事場予想配置図に表記された田口線写真展〔小早川〕の文字は消滅するものと思います。丸栄デパートも無く、名豊ビルだけがデンと威容放っていた時代の写真を杉浦氏に手渡しました。多くはブログで紹介した写真ですが、印刷モードで仕上げた物です。開催日時は10月22・23日の10:00〜17:00の間。「後の事は知らん。“名豊ビル”より“書泉グランデ”のポスターを生で眺めてみたい」。以上、息子への伝言板は終了。
写真1枚目、豊橋鉄道市内線、赤岩口を発車したモ601市民病院前行。Zパンタ化直後のようです。黄色円形の続行表示板を掲げています。後方に続くのはモ506単車ワンマンカー。柳生橋支線への回送です。当時の記録を調べると、競輪場前〜井原間が舗装工事中のようで、写真区間の道路も間も無く舗装されたものと思います。赤岩口車庫の車両が確認出来ます。名豊ビル完成当時の写真と思っておりましたが、まだこの時点では名豊ビルは無かったことになります。ハーフ版カメラで撮影。赤岩口〜井原間にて。No.13−14・昭和40〔1965〕年2月13日撮影。
写真2枚目、1枚目写真付近の現在風景。撮影の時間差は46年になります。モ784日本通運車駅前行。赤岩口〜井原間にて。D100No.487−24・平成23〔2011〕年4月13日(15:13)撮影。
写真3枚目、同じく赤岩口〜井原間を走行する「ほっトラム」。赤岩ビルがチラリと確認出来ます。D100No.487−34・平成23〔2011〕年4月13日(15:27)撮影。
写真4枚目、駅前大通ですれ違う「ほっトラム」とモ786日の丸薬局車。写真左手が名豊ビル。写真右手が丸栄デパート。考えてみたら、この場所で撮影した記憶はありません。その分、新鮮な感じがします。新川〜駅前大通間にて。7DNo.55−139・平成23〔2011〕年10月11日(16:40)撮影。
写真5枚目、名豊ビルをバックに撮影した「ほっトラム」。新川〜駅前大通間にて。名豊ビルは、昭和43〔1968〕年10月開業。本館:地上9階・地下2階。新館:地上12階・地下2階となっています。MEIHOと表示されているのが本館で、写真左手後方の白い建物が新館?。すると道路側チョコレート色の5階の建物は何?。そう言えば、中学・高校時代からの仲良し同級生2名は、名豊ビル内の豊橋グランドホテルで結婚披露宴でした。随分昔の話になりますが、まだ誰もお爺ちゃんには達していません。豊橋グランドホテルは、平成23〔2011〕年6月20日をもって閉館とありました。意外と知らない名豊ビルです。「ほっトラム」シングルアームパンタ付け根後方辺りが、写真展示のイベント会場なのでしょう。7DNo.55−156・平成23〔2011〕年10月11日(16:50)撮影。
写真6枚目、平成23〔2011〕年10月19日〔水〕の中日新聞朝刊19面。こういう事でしたか。丸栄デパートと共同開催とは知りませんでした。この手のイベントは、あまり興味がありませんので、この新聞内容でしたら出向くことはありません。仕方無いから少々覗いてみることにします。杉浦氏から頂いた素案に関しては、何も表記されていません。「本当に有りかな?」。写真展示コーナーは、所詮「刺身のつま」と思っていましたが、イベント出店そのものが、「刺身のつま」のようです。杉浦氏の面子だけはフォローしたつもりです。