連写2眼×2.5・ローカル私鉄を訪ねた日々

ビデオウォークマン入手。DVテープ(11/200)巻をダビング。白黒フィルムの現像もしなければ…。頭痛い。

豊橋鉄道田口線・後日談

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 豊橋鉄道田口線を取り上げた番組の放送日が決定した旨、メールを頂きました。
 平成22〔2010〕年2月1日、東海テレビ〔フジテレビ系列〕の“ぴーかんテレビ”で紹介されます。番組はワイドショーとして、午前9時55分〜午前11時25分の時間で放映されますが、田口線を取り上げる「歴史になった風景」は、午前11時過ぎにオンエアーのようです。5分少々の映像です。瞬間視聴率86%は無理としても、視聴率がより上がるよう番組を宣伝しておきたいと思います。不測の事件・事故等が起こらないことを切望します。
 田口線廃線跡ロケ日の翌日、カメラマン氏とアシスタント氏は、北恵那鉄道廃線跡の撮影に向っています。プロデューサー氏は異なるそうですが、こちらの番組も気になるところです。可能ならば、北恵那の放送日も確認したいものです。景気悪い状況下、番組のスポンサー離れもあるようで、これら番組を収録したDVDの発売も計画されているそうです。

 この番組を録画するために、HDD搭載ブルーレイディスクレコーダーを急遽購入しました。現在使用しているブラウン管テレビで、地上デジタル放送を眺めるためのチューナーを兼ねています。テレビの上にレコーダーが置けるよう、昨日ホームセンターで木材を購入しました。田口線番組は2月半ば頃オンエアーと読んでいましたので、これは誤算でした。放送日まで3日しかありませんので、仕事をすっぽかしてレコーデーを設定しなければなりません。先日、タイムリミット間近で市の無料検診を受けました。胃検診の結果が芳しくないようで、本日、医院から呼び出しの電話がありました。田口線番組を眺めた後日、市民病院で胃カメラ検診を受けるハメとなりました。せわしない2月上旬になりそうです。

 写真、崩落寸前の三河田口駅舎横でインタビューを受ける黒柳嘉治さん。黒柳さんが持参した田口線健在当時のご本人写真と照らし合わせて、同じ場所に立つ形でカメラを回しています。「今言った事、一寸ニュアンスが違うんじゃないのー」などと思いながら話を聞いていました。いざ自分の番になった時、最初の質問で戸惑ってしまいました。「そう来たのかー?」。つい質問されるプロデューサー氏の顔を眺めてしまいますので、「ここはニュース番組アナウンサーのようにカメラのレンズを眺めなければ…」とか、「笑顔を作った方が良いかも。下を眺めるのも手かな…」などと、余計なことを考えながら喋っておりましたので、何を話したものか訳が分からなくなり、断片的な記憶しか残っておりません。「使い物にならない映像のため、全てカット」の可能性もあります。5秒間、顔でも出してくれたら、それで十分です。田口線が廃線となった翌年頃、田口線を纏めた番組が流されたました。ここに18歳当時の私の顔がドアップで登場したそうです。雨降る田口線最終日に三河大草駅辺りで、連写2眼1号機を使用して田口線を撮影していた時と思っています。友人から話だけは聞いています。「どの様なアホ面で写っていたものか?」、結局、この映像を眺めることはありませんでした。以来40年以上が経過。再び、田口線でテレビの中へ入るチャンスが訪れました。「テレビ放映された自らの姿を眺めてみたい。悲願達成なるか?」。DNo.355−53・平成21〔2009〕年12月23日(13:33)撮影。

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 豊橋鉄道田口線の大井川橋梁は、本長篠〜三河大草間に架設された橋梁でした。昭和61〔1986〕年3月10日発行、鉄道ピクトリアル誌No.461{1986−3臨時増刊号<特集>中京・北陸地方のローカル私鉄}の中に、「奥三河に咲いたローカル線 田口線の回想」と題された白井良和先生の記事が掲載されています。田口線主要橋梁一覧表も掲載されています。長い橋梁順に、第四寒狭川橋梁104.06m。第二寒狭川橋梁82.706m。第三寒狭川橋梁79.10m。第一寒狭川橋梁64.96m。大井川橋梁32.40m。塩津川橋梁28.48m。海老川橋梁26.17m。傘川橋梁22.83m。以上8箇所の橋梁が紹介され、橋梁構造は、全て「上路鋼鈑桁」と表記されています。
 清崎へ戻ってしまった友人の実家を訪ねたのは、昭和40〔1965〕年1月2日のことで、中学3年生の時でした。初めて乗車したモ38の車内が明るかった事と、トンネルの多い路線に感動したものです。直後に購入した鉄道ファン誌で田口線が紹介されます。昭和40〔1965〕年4月1日発行の鉄道ファン誌46号で、全68頁。1冊の価格が180円の時代でした。「消えゆく路線をたずねて 豊橋鉄道 田口線」と題された3頁半の内容です。堀江光雄氏が執筆されていました。掲載された写真10カットの内、4カットは白井良和先生の写真です。路線図も掲載されています。この1冊を眺めたことで、田口線に対する思いが、より強くなりました。掲載されていた路線図をノートに書き写して、後に全線を歩く結果となっています。
 大井川橋梁を歩いて渡ったのは2度であったと思います。でも、この橋梁を撮影することはありませんでした。その分、何度も見返した鉄道ファン誌46号の大井川橋梁を渡るモハ14+モハ15の2連写真は印象強いものがあります。
 近年に至り、Rail Magazine誌に「消えた轍」シリーズが連載開始。平成13〔2001〕年10月発行のRail Magazine誌217号が初回で、「消えた轍 ローカル私鉄廃線跡探訪−第1回 田口鉄道・三重交通(松坂線)・東濃鉄道<文責;寺田裕一氏>」としてスタートします。後に、このシリーズは、地域別の合本として再発行される形になります。「消えた轍3 甲信越・東海・北陸」で、再び、田口鉄道として紹介されますが、新たな写真として大井川橋梁の白黒写真〔確か、渡辺渥美氏撮影〕が追加されています。更に、「発掘カラー写真 昭和40年代の鉄道写真」が東日本編・西日本編の2冊の形で発行されます。J.WALLY.HIGGINS氏のカラー写真集です。鮮やかなカラー写真で大井川橋梁の写真も掲載されています。田口線健在当時の大井川橋梁は、これらの出版本のお陰で、よりリアルな状況が判断可能となりました。これらの冊子に関しましては、購入時の袋に収めたまま、横積みにした状態で所在が分かりません。間違っていた場合は、後日修正とさせて頂きます。
 小池陽一氏より届いた5枚の写真の内、2枚は大井川橋梁を撮影された写真でした。この角度で撮影された写真は初めて眺める結果となりました。当初、メールを頂いた時、この写真に関しては「傘川橋梁と思います」と表記されていました。再び、傘川橋梁の写真等を調べ直し、「この写真は大井川橋梁です」で返信メールしています。
 大井川橋梁と傘川橋梁の異なる点は、2連アンダーガーダー橋梁の中間を支える橋脚上架線柱の有無です。橋脚上部に張り出したコンクリート箇所にトラス構造で構成された架線柱・ビームが固定されているのが大井川橋梁になります。第一、第二寒狭川橋梁の架線柱も同様の構造でした。それに対して、傘川橋梁の橋脚には、架線柱は存在しません。傘川橋梁の架線柱は、橋台側面に〔おそらく〕H鋼の架線柱2本をアンカーで固定して、上部に3本のビームが渡された構造です。傘川橋梁跡、三河大草側に残る橋台には、架線柱もセットで残っております。大井川橋梁跡以上に、田口線健在当時の面影を残す遺構と思っていますが、残念なことに、伸びた樹木の枝葉のため、全容が撮影出来ません。撤去されてしまった鳳来寺側の橋台も同様の構造であったものと推測しています。

 写真1枚目、これから大井川橋梁を渡るモ14+モ15の2連本長篠行。本長篠〜三河大草間。写真右手が三河大草方向になります。小池陽一氏が、昭和42〔1967〕年8月〔15日頃〕撮影された写真です。

 写真2枚目、大井川橋梁の全景。写真左手が本長篠側。本長篠側の橋台は、道路拡幅のため現存しませんが、写真中央の橋脚と写真右手の橋台が、廃線から41年経過した現在でも残っております。1枚目の写真は、小池氏が写真左手の築堤斜面を途中まで上り、写真右手にカメラを向けて撮影したカットです。「消えた轍」「発掘カラー写真 昭和40年代の鉄道写真」で発表された写真は、写真左手の築堤上架線柱横辺りから撮影された写真でした。小池陽一氏が、昭和42〔1967〕年8月〔15日頃〕撮影された写真。

 写真3枚目、2枚目写真に近い現在の光景。写真左手で、3名のロケスタッフが橋脚を撮影中です。DNo.355−8・平成21〔2009〕年12月23日(9:44)撮影。

 写真4枚目、ロケ翌日の帰り道で、再度撮影した大井川橋梁跡。橋台上部の切り欠き箇所が分かるように撮影したつもりです。1枚目写真と同様のアングルは撮影不能のため断念しています。撮影しても伸びた樹木を写す結果となっしまいます。DNo.356−2−96・平成21〔2009〕年12月24日(15:27)撮影。

 小池陽一様へ。私も蛇は嫌いです。でも、蛇に遭遇しても向ってくることはありませんでした。今では蛇の姿を見る機会も少なくなりましたので、見付けたら逆に蛇を追い掛けて写真に収めたい気分です。昔、田口線を撮影した場所に立ち、ご自身の目で再確認することをお勧めします。

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 平成21〔2009〕年12月23日〔祝水〕、1日まるまる、ロケ隊にお付き合いする結果となりました。スタッフは、プロデューサー、カメラマン、アシスタントの3名です。以下、これをP氏、C氏、A氏と表記します。
 P氏から電話を頂いたことで、最初に決起したのはDVテープのダビングでした。黒柳嘉治氏が8ミリカメラで撮影した12分30秒の傷付き白黒映像です。この映像は既に数回テレビ番組で取り上げられています。Hi8のビデオテープに録画し直して、黒柳さんが知人に貸したところ、知人さんが、そのテープを放送関係者へ渡したことで番組に採用されたそうです。この番組を黒柳さんがVHSビデオテープへ録画してありました。田口線の事を調べるに当って、このビデオテープもお借りしています。しかし、画像が鮮明ではありません。そこで、黒柳さんの8ミリ元フィルムをお借りして、DVテープへダビングさせて頂きました。DVテープを眺めると、VHSビデオテープで判断不能な箇所が解析可能となりました。このDVテープを再度ダビングして、P氏へ手渡します。ダビングしても画質の劣化はありませんので、昔のテープより綺麗な映像で表現されるものと思っています。
 「ロケ隊が撮影中のシーンをカメラで撮影して、ブログで紹介しても良いですか?」とP氏に確認。「タレントを呼んでいると、顔の撮影は不味いですが、今回、タレントは来ませんので構いません。番組を紹介して下さい」とP氏。
 P氏からメールで頂いたロケスケジュール表では、本長篠で8:30待ち合わせ。ここから撮影を開始して、12:00頃、三河田口駅舎。15:00頃、奥三河郷土館。18:00終了となっています。この間には、黒柳嘉治氏と私へのインタビューが計画されています。廃線跡の撮影予定地は14箇所。是非撮影したい場所として9箇所がリストアップされています。
 黒柳さんに電話をします。「布団を積んで行くから、1晩泊めて下さい」。12月22日、日没後の田口線廃線跡に沿って、近況を確認しつつ黒柳宅へ向かいます。鳳来寺表参道入口に存在した、閉店“豊鉄ほうらいじ食堂”建物は、解体され更地になってしまいました。黒柳宅へは18:46到着。スケジュール表を黒柳さんにも眺めてもらい、作戦会議。DVテープへダビングした映像も初めて見て頂きました。ロケ当日は、黒柳さん親子と一緒に、黒柳さんの車で本長篠へ送ってもらいます。持参した日本酒を持ち込み、普段より早めに眠りに付きます。午後11時頃、眠れたのですが、午前2時には目覚めてしまいました。再度、酒を煽って寝ようと試みましたが、ロケの時間割り振りが頭の中でちらついて、結局、朝まで寝られませんでした。
 ロケ当日の23日、半ば酔っ払った状態で、7:50に黒柳宅を出発。待ち合わせ場所である飯田線本長篠駅に近い旧鳳来町町役場前へ8:20到着。スタッフらしき姿が見当りませんので、「本長篠駅でも撮影しているのかも?」と思い。歩いて本長篠駅周辺を探してみましたが、姿は有りませんでした。スタッフ氏3名は、20分遅れの8:50に到着し、やっと合流することになりました。
 ロケ隊の車に便乗して、本長篠駅付近から廃線跡を走行してもらいます。黒柳車が後方に続きます。
◆ 内金隧道を抜けた時、C氏が一言、「ここ、やってみましょう」。いきなり予定に無い場所でした。このトンネルの撮影のみで30分近くを要しています。
◆ 9:30頃、大井川橋梁跡の橋脚へ到着。ここは最初のロケ予定地で、廃線跡を紹介する趣味誌等で必ず登場する定番スポットです。ここでも20分程を要して撮影しています。
◆ 次は三河大草駅跡です。黒柳さんは、大草隧道北側へ車を止めて、トンネルを抜けるコースがお勧めでした。黒柳さんも事前に下見したそうです。私は敢えて、富安地区側から案内しました。三河大草駅を利用した田口線健在当時の乗客の思いを体感してもらおうと思ったからです。駅までの山道を歩くのは、2度目の経験ですが、想像以上に距離があり、プラットホーム跡へ到着した時には、息が上がってしまいました。振り返ってもスタッフ氏3名の姿がありません。暫らくして到着。撮影はP氏とC氏が担当。A氏と私は先に車へ戻り、大草隧道北方へ車を移動させて、2名の到着を待ちます。
◆ 傘川橋梁の架線柱へ移動したのは、10:40頃と思います。ここは、私がリクエストしたスポットです。理由は、今まで紹介されることの無かった田口線の遺構だからです。架線柱回りに樹木が増え、撮影が難しい状態でした。暫らく眺めていたC氏、「挑戦してみます」。

11:00過ぎ、これで撮影予定地3箇所の撮影が終了しました。当初から、時間を必要とするポイントと考え、ここまでの撮影時間は1時間程と読んでいましたが、既に1時間半、押してしまった状態です。この後、1時間で三河田口までを撮影することは不可能です。次の予定地は玖老勢駅の鳳来寺側に残る鉄橋なのですが、P氏の判断で取り止め。双瀬〔ならぜ〕隧道へ向います。途中の“サークルK”で食料を調達します。「皆さんは仕事ですけれど、私は仕事ではありませんので、缶ビール1本を呑ませてもらいまーす」と、スタッフ氏3名は無視して、車の中で先に腹ごしらえを済ませます。「私は廃線跡を潰すのに3年掛かりました。これを3時間で撮影…?。チト甘い」とも話しておきました。

◆ 双瀬隧道へ到着。結局、定番スポットを撮影する結果となりました。C氏、失敗が許されないためか、慎重に撮影しています。数カットを撮影しているのでしょうが、1箇所で20分程は当たり前と言った感じでした。その間、黒柳さんや私は、ひたすら待つのみですから、辛いものがありました。宮裏隧道、海老隧道は通過。田峰森林鉄道のトンネルは、一応確認してもらいましたが、パス。第三清崎隧道、清崎交差点も通過しました。
◆ 橋梁の映像がまだ撮影してありませんので、予定に無い第三寒狭川橋梁へ案内しました。弁天淵辺りからの撮影です。この時、既に12:00を過ぎておりました。
◆ 放置レール箇所へ移動したのは、12:30頃です。この映像も今まで発表されたことは無いと思っております。傘川橋梁の架線柱と放置レールは、黒柳さん親子も初めて目にした光景だそうです。
◆ 三河田口駅跡へ到着したのは、13:00頃でした。途中の撮影予定地をカットしましたので、予定より1時間遅れの到着ですが、ここでの滞在時間は約2時間となっております。三河田口駅跡を含めて、撮影場所は8箇所という結果です。

 年明けの4日から編集に入るそうです。放送日はまだ確定していないようです。

 写真1枚目、大井川橋梁跡に残る橋脚を撮影中のスタッフ3氏。「ビデオカメラは縦に撮れませんから」と話すP氏の言葉が印象的でした。人の姿を入れて撮影したことで、橋脚の高さ、大きさを再認識した次第です。DNo.335−15・平成21〔2009〕年12月23日(9:49)撮影。

 写真2枚目、弁天淵から第三寒狭川橋梁を撮影中。使用するビデオカメラは、SONY民生用ハイビジョン〔タイプの業務用?〕のカメラです。番組の瞬間視聴率が86%を得られる様、弁天様に願掛けしているものと思います。DNo.335−35・平成21〔2009〕年12月23日(12:15)撮影。

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 名古屋在住の小池陽一氏より白黒写真5枚が届きました。わざわざ写真を送って頂いた理由は、「実は私もたった一日だけ田口線を訪問した事がありまして、それが昭和41年の8月なのか昭和42年の8月なのかを特定したいという事なのです」
 これは難題です。私が撮影した写真、昭和41年7月の時点で田口線車両のヘッドライトは1灯でした。廃線の昭和43年には、ヘッドライトはシールドビーム2灯に変わっています。昭和42年は撮影していません。小池氏撮影写真の1枚に関しては、私も近いアングルを撮影してありました。築堤に伸びる1本の樹木写真を見比べ、「おそらく、昭和41年8月と思いますが、確信は持てません」と返答しておきました。
 その後、数回ご自宅へ電話をすることになりました。同級生に当る人物です。ノーベル物理学賞を受賞した先生を世に送り出した大学の出身だそうです。「頭脳明晰な小池氏が分からない事を、高校で落ちこぼれた私に分かるわけないだろう」というのが本音です。ご本人が調べたことで、撮影日は、昭和42〔1967〕年8月〔15日頃〕と判明したそうです。更にメールを頂き、「鉄道ピクトリアルNo.461に掲載された、昭和42〔1967〕年11月23日撮影の白井良和先生写真では、もう2灯のものに変わっています。という事は、8月16日から11月22日の間に変わっていることになります」といった内容が記述されています。
 小池氏より送って頂いた写真5枚の撮影場所は、何とか特定出来ました。先日のロケ翌日に、小池氏撮影写真の現在風景を撮影してきました。その内の1枚を紹介しようと思います。

 写真1枚目、田口鐵道工事完成記念寫眞帳より転載。「地盤高より25米盛られた1粁7分附近の大築堤及び大石垣」。田口線の本長篠〜三河大草間は2.6km。この写真撮影場所は三河大草駅から0.9km南方地点になります。大石垣は、写真中央の白い三角エリアと判断。昭和4〔1929〕年〜昭和7〔1932〕年に渡り全線開業した田口鐵道。開業間も無い頃の撮影と思います。築堤上〔写真左寄り建物上部〕を電車が走行中。無蓋車を牽引して三河大草方向へ向っています。電車の写真右手に人物2名が立っています。保線員?。写真手前が大井川。写真右手は鈴木さん宅。

 写真2枚目、写真中央左寄りが中野さん宅。写真右側奥が鈴木さん宅。後方の山の形を確認するために撮影したカットです。写真左手後方、陰になった山の斜面のように見える箇所が、コンクリート擁護壁で固められた築堤跡。中野さん宅写真後方、日の当った竹薮も築堤跡です。竹薮箇所は、以前撮影した時より低く削られてしまいました。道路拡幅のため、道路部分の築堤は消滅しています。写真手前、県道脇植え込み後方を大井川が流れます。1枚目写真は、この写真撮影場所から、少々左方向へ歩いた地点で撮影されたものと思われます。DNo.356−1−72・平成21〔2009〕年12月24日(14:56)撮影。

 写真3枚目、小池陽一氏が、昭和42〔1967〕年8月〔15日頃〕撮影された写真。本長篠〜三河大草間、起点1.7km付近の景観。写真左が中野さん宅。写真右手が鈴木さん宅。写真後方には、田口線の高い築堤と架線柱が確認出来ます。中野さん宅写真後方の築堤は、コンクリート擁護壁箇所と思われます。三河大草駅は、鈴木さん宅後方の山中に存在します。

 写真4枚目、3枚目小池氏写真の現在風景。小池氏写真を所持して2軒のお宅を訪ねてみました。中野さん宅では、ワンちゃんに吼えられただけで、玄関チャイムを押しても応答はありませんでした。鈴木さん宅の玄関チャイムも押しましたが、応答はありません。諦めて戻ろうとした時、年配の奥さんが出て来られ「何でしょうか」と声を掛けられました。奥さんから伺ったお話では、「海老から嫁いで来た時、三層構造の屋根最上部〔鈴木さん宅母屋〕の小さな屋根は壊した。隣の建物は、2階部分を無くした。倉庫と思われる建物は、当時のまま」だそうです。奥さんに質問してみました。「当時、道路が田口線築堤の下をトンネルで抜けていたと思うのですが、そうではありませんでしたか?」。意外な答えが返ってきました。「通れないけれど、今でもトンネルは有りますよ」。
DNo.356−1−71・平成21〔2009〕年12月24日(14:56)撮影。

 写真5枚目、田口線路線図を作成するため、東京九段の国土地理院を訪ねています。田口線健在当時の1/5万地図を調べると、田口線1.7km付近には、伊那街道〔県道32号線〕から分岐して、富保・横川地区を抜け、長篠城付近へ続く道路が存在します。この道路を越える田口線は、鉄橋ではなく田口線築堤下をトンネルで抜けていたものと推測しています。車が通行可能なトンネルと思っていたところ、当時の道路トンネルが、この写真〔画面左下〕です。「へェー!! こんなに小さなトンネルだった」。3枚目小池氏撮影写真、中野さん宅横の細い道を写真奥に向って進むと、このトンネルに辿り着きます。車が通行可能どころか、人一人が、やっと通れる程、断面の小さなトンネルです。田口線廃線後、コンクリート擁護壁を避けて田口線築堤を切り崩し、道路拡幅工事が施工されたものと考えられます。DNo.356−2−76・平成21〔2009〕年12月24日(15:07)撮影。

 写真6枚目、人道トンネルが存在する田口線築堤跡。コンクリート擁護壁の最上部を電車が走行していたことになります。築堤高さを25m。軌道敷き幅を5mとして、任意で築堤断面の台形を画いてみました。築堤の最下部をくり抜いた人道トンネルの長さは30m程と思われます。DNo.356−2−85・平成21〔2009〕年12月24日(15:11)撮影。

 写真7枚目、人道トンネル内部から入って来た方向を撮影。反対側入口は道路拡幅工事の際、土砂で埋まったものと思われます。撮影場所で振り返っても、内部は真っ暗で奥の状況は判断不能でした。次にチャンスがあれば、懐中電灯を所持して、もう少々奥まで進んでみたいと思っています。DNo.356−2−88・平成21〔2009〕年12月24日(15:13)撮影。

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 テレビ製作会社の方から、初めて電話を頂いたのは、12月9日〔水〕でした。東海テレビ〔フジテレビ系列〕の朝8時代に放送している5分枠の番組で、田口線を紹介したいそうです。産業遺産や歴史的建造物を紹介するコーナーのようです。田口線運転手であった黒柳さんには出演して貰うと話されます。来年1月オンエアー予定。朝の8時代は寝ている時間帯で、テレビは主にNHKを眺めるのみですから、如何なる番組であるものかは想像も出来ません。電話で会話していると、田口線沿線には土地感が無いようですから、「何ならば、撮影ポイントまでの道案内位は致します」という運びになってしまいました。
 12月16日〔水〕の夕方、再び電話を頂きました。3人のスタッフで、田口線廃線跡を12月24日に撮影することが決定したそうです。「あ痛、事務所の忘年会へは行けない」。母親の親族2名、余命が幾ばくもない状況下で、訃報が入れば、お袋を乗せて静岡県三島まで走らなければなりません。そのため、「事務所の忘年会へ行ける行けないは、半々」と答えてあります。最悪のシナリオは、事務所忘年会へ出向いている時、訃報の知らせが入ることです。東京から急遽、豊橋へ戻り、車で再び三島へ向うことになります。所持する気が無かった携帯電話を考えるようになりました。
 12月17日〔木〕の昼、またまた、田口線廃線跡ロケの件で電話を貰いました。ロケ日が、24日から23日に変更。忘年会へ出席出来ない旨を蒲田事務所の社長さんに伝えました。
 12月19日〔金〕、22:47、田口線番組のスケジュール表等9ページがメールで届きました。内容を眺めて「ゾーッ」としています。「携帯電話番号を教えて下さい」と表記されていますので、即、折り返し電話して「携帯電話は持っていません。これから買ってきます」と答えておきました。
 このお話を頂いてからは、仕事になりません。18日にメール予定の図面が仕上らないため、週明けに送信すると東京客先に伝えておきました。
 12月20日〔日〕、午後2時過ぎ、急遽、携帯電話を入手するため、スクーターで出動。知人宅2軒に立ち寄りアドバイスを受けています。結果、駅ビルの“ソフトバンク”へ向います。国道1号線の電車通りを走行中、強い向かい風を受けてヘルメットが頭から抜け、道路中央まで転がってしまいました。車は何とかヘルメットを避けて走行してくれましたので、信号機が切り替わった瞬間に拾いに向い、事無きを得ています。“ソフトバンク”へ到着したものの、記帳して受付順番待ち。1時間待たされる結果になりました。携帯電話の購入に銀行印が必要なことも知りませんでした。家電店で電気カミソリを購入する程度の感覚でしたので……。途中まで話を進めて、銀行印を取りに自宅へ一旦戻ります。すっかり日が落ち、寒いこともあり、今度は車を使用して“ソフトバンク”へ出直し。手続きが完了したのは、夜の7時過ぎでした。地下駐車場で事前に駐車代金を清算。車へ戻ると、駐車券が無いことに気付きました。つり銭と領収書のみを所持しておりました。この日は、ロクなことありません。結局、自宅へ戻ったは、夜の7時30分。携帯電話で、これ程時間を費やすとは思いませんでした。仕事の予定が全く狂ってしまいました。その後の作図作業は、午前8時過ぎまで掛かってしまい、ヘトヘトです。
 23日のロケスケジュール。廃線跡の撮影は、午前8時半〜昼までの3時間半となっています。この間で22.6kmの14箇所を撮影目標。ハードスケジュールと判断しました。全てのカット撮りは無理であろうと思っていますが、スタッフ氏のご意向に沿うよう道案内しようとは思っています。マイカーの先導では、タイムロスが生じますので、ロケ隊の車に便乗させて貰います。テロップやナレーションの内容で、?と思える箇所は、移動中の車内で、チャチャを入れたいと思っています。
 撮影した写真等を提供するだけのつもりが、何故か、この様な形になってしまいました。2度と無い経験でしょうから、面白そうです。撮影当日の天気は、曇りであることを望みます。でも、寒そう。

 添付した写真は、JR飯田線本長篠駅ホームに停車中のクハ118−14運転台。写真左手、草で覆われた箇所が田口線のレールが存在した所です。いきなり撮影ポイントでは、田口線の全体像は掴めませんので、やはり、本長篠駅から道案内することになると思います。DNo.308−13・平成21〔2009〕年9月22日(11:41)撮影。

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