連写2眼×2.5・ローカル私鉄を訪ねた日々

ビデオウォークマン入手。DVテープ(11/200)巻をダビング。白黒フィルムの現像もしなければ…。頭痛い。

豊橋鉄道田口線・後日談

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 豊橋鉄道田口線について調べると、結局は、白井良和先生の記事へ辿り着いてしまいます。田口線を語れるのは、やはり、白井良和氏のみであったと思っております。10代の頃、購入した鉄道趣味誌の中に白井先生投稿写真をワクワクして探したものです。
 白井先生は、記述の中で「最も好きな路線は飯田線」と記されています。鳳来寺もみじまつりの当日には、国鉄車両が田口線の鳳来寺駅まで乗り入れました。この乗り入れ国電撮影のために、白井先生は幾度も田口線を訪ねています。三河田口まで乗り入れたクハ16515+モハ11216の2連旧型国電を第4寒狭川橋梁で撮影した写真、旧国大好きであった白井先生の執念を感じる1カットです。田口線を「枝線」「ミニ飯田線」と表現された理由は、この辺りにあったのでは…? 田口線に乗り入れる旧型国電、チョコレート色の17m車2連であったようです。
 元田口線運転手・黒柳嘉治さんを訪ねて、鳳来寺駅に乗り入れた4連国電の写真を拝見した時には感動しました。白井良和先生投稿写真では見ることが無かった写真です。お借りした鳳来寺駅の4連国電写真2枚も冊子に使用させて頂きました。1枚のカットに書き込んだ説明書き、

“昭和36年〔1961〕撮影と思われる 田口線鳳来寺駅。4両編成で乗り入れた国電。「昭和36年の夏には、飯田線快速列車の予備車両を動員して、名古屋―鳳来寺の直通快速列車が運転され、80系電車による入線試験も実施されたが、電圧降下等の問題点も多く、営業列車として実現しなかった」と白井先生は記述されている。この写真、名古屋からの直通快速乗り入れ列車と思われる。サボ受けに毛筆で鳳来寺と表示された本長篠寄り車両はクハ47151形。昭和41年〔1966〕に身延線へ転属した際、ヘッドライトは埋め込み式に改造されている。”

 時々お目に掛かる白井良和先生なのですが、田口線冊子作成に関しては、一言も話すことなく進めておりました。年末に印刷完了。引き取ってきた1冊を行き着けカメラ店のオバちゃんに見せたところ、話が白井先生へ伝わってしまいました。年内は内容をチェックして、年明けまで非公開のつもりでした。ところが友人からの電話で、「白井先生が1冊欲しいと話している。値段は?」と質問されたため、即答で価格が決定。結果、田口線冊子の第1購入者は白井良和氏。その後、白井先生から3度電話を頂きました。「ゲラの段階で相談して欲しかった」「車両形式の表記がまずい」 上記説明書きの「クハ47151形」が間違っていることになります。「クハ47151」とすべきでした。4連国電の写真に関しては、「編成の車両形式全て分かります。“RAIL FAN”に投稿しています。東海道本線で鳳来寺直通快速が80系を追い抜いています」と教えて頂きました。「RMライブラリーのように田口線を1冊に纏めてもらえませんか」と電話を通じてお願いしましたところ、「話は頂いているが、お断わりしています」と話されます。白井良和先生との会話で最後に耳にした言葉は、「良いお年をお迎え下さい」でした。これから1ヵ月半程経過して、白井先生の訃報を知ることになります。「豊橋鉄道田口線 白井良和写真集」は、叶わぬ願いとなってしまいました。今になって思い返すと、もし、印刷前に白井先生に相談を持ち掛けたとしたら、白井先生がイメージした写真集になってしまったかも……?。
 先日、黒柳嘉治氏より、田口線に乗り入れる4連国電の別写真をお借りしました。今回の写真、三河田口側の車両形式は、クモハ42011と読み取れます。白井良和氏投稿の“RAIL FAN”記事を確認出来れば、撮影日時・車両形式・運転状況等が確認可能と思われますが、“RAIL FAN”を所有していませんので、詳細は依然不明のままです。白井先生のお話から、数回は運転されたものと推測しています。レイルロード発行「飯田線の旧型国電 白井良和写真集」の中に、昭和36〔1961〕年2月18日に撮影された写真が掲載されています。「幕板もブルーに変更した第二次快速色の快速編成。42011+47108+42008+47151」の説明が付記されています。鳳来寺へ乗り入れたのは、この編成では? 塗色は腰回りが濃いブルー。窓回りはオレンジです。J.WALLY HIGGINS氏の著書、“発掘カラー写真 昭和30年代鉄道原風景 国鉄編”に飯田線で撮影された、当時のクハ47151の鮮やかなカラー写真が掲載されています。ヒギンズ氏の写真集を企画・プロデュースしたのが、大井川鐵道顧問の白井昭氏で、白井良和氏のお兄さん。名鉄パノラマカーの名付け親でもあった白井昭氏。黒柳嘉治氏の運転教官でもあったそうです。デビュー直後のパノラマカー試運転時、白井昭先生に運転台へ乗せて貰ったと、黒柳さんは懐かしく語ります。

 写真1枚目、昭和36〔1961〕年夏、20m2扉車の4連で鳳来寺へ乗り入りた42系国電。ツートンカラーの4連国電が田口線に乗り入れたことは、当時としては画期的な出来事であったものと思われます。写真の本長篠寄り車両がクハ47151。昭和36年は、6月に名鉄パノラマカーがデビューした年です。

 写真2枚目、鳳来寺駅の4連国電、三河田口側クモハ42011。「夏には多くの学生が鳳来寺へやって来た」と話す黒柳嘉治さん。私も遠足で鳳来寺山の石段を登っています。その後は山を下って湯谷へ向いました。中学生時代と思うのですが、田口線に乗車した記憶は有りません。1学年が650人程でした。田口線2連に収まる頭数ではありませんでしたので、豊橋から貸切バスで往復したものと思っています。

 写真3枚目、本長篠へ向う4連国電。黒柳さんが、クモハ42011乗務員室から前方を撮影したと思われる写真。三河大草を通過して、そろそろ大井川橋梁を渡る地点と考えます。私が、モ15さようなら装飾電車を最後に撮影した場所と地形が似ています。

 写真4枚目、本長篠駅田口線ホームのクハ47151。

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 元田口線運転手・黒柳嘉治氏からお借りしたビデオテープ、内容を熟視することで知らなかった田口線健在当時の状況を把握することが出来ました。お借りしたテープ内容をカット毎に書き出したのも懐かしい思い出です。今回使用させて頂く写真は、ビデオで存在を知ったものの、写真そのものを見ることが無かった1カットです。後藤氏のホームページ、“田口線(田口鉄道)今甦る”で紹介されているのを知り、先日、黒柳宅へお邪魔して他の写真と一緒にお借りしてきました。
 この写真を撮影した場所は、田口線20.5km付近と考えておりました。昭和40〔1965〕年9月17日、台風24号のため田口線は被災。以降、清崎〜三河田口間は運休となってしまいます。三河田口駅にはモ14・モ36と貨車2両が閉じ込められる結果となりました。その後、被災したレールを仮復旧させ、これらの車両は救出されています。線路を仮復旧させる際に撮影されたのが、この写真と思っていました。土砂で埋もれた大久賀多第二隧道清崎側坑口を背にして撮影すると、丁度、写真の様な感じになります。
 結果は、黒柳さんがおっしゃる通り、長原前停留場付近で撮影された写真のようです。

 写真1枚目、長原前停留場を背にして、田峰方向を撮影した写真。落石により損傷した線路を復旧させる時の写真だそうです。モ15のライトが1灯時代ですから、昭和41〔1966〕年以前の撮影と思われます。補修作業に携る方々の服装、線路脇に並べられた木製工具を眺めますと、昭和30年代の撮影では…? 国民帽、制帽、白い鉄兜?と被り物もまちまちです。レールに足を掛けているのが黒柳さん。腕に腕章していますので、車掌時代と思います。撮影日時不明。(平成21年3月15日追記:黒柳嘉治さんは、昭和35年に運転手免許を取得しているそうです。よって、この写真が撮影されたのは、昭和30年の前半と思われます。隣に立つのは、運転手の中村武司さん。)

 写真2枚目、1枚目写真に準じた田口線廃線跡。後方の山が2つ重なって眺められます。この日は、あまごが解禁となったため、撮影場所には釣り人のマイカー2台が駐車中でした。No.2287−31・平成21〔2009〕年2月15日(11:00頃)撮影。

 写真3枚目、2枚目写真とDMVを合成した写真です。写真奥に向って進むと左方向にカーブして第二清崎隧道。118.26mのトンネルを抜けると、一旦、川沿いに出た後、第一清崎隧道332.54mが存在します。第一清崎隧道の田峰側には2本の橋梁も健在です。昭和43年に全線廃線。レールと架線は撤去されましたが、その後は自然のなすがままに、40年以上が経過。忘れ去られたような形で廃線跡は健在です。この間、約1km。ここにレールを復活させたい願望を込めて写真を合成してみました。

 写真4枚目、三河田口〜清崎間の20.5km地点の今。黒柳氏写真の撮影場所と思っていた地点です。後方の山の形状が、やはり異なっていました。写真中央の木の根元に残る2本のレール。この日も健在でした。設楽ダム建設のため、工事車両が走行するようになれば、この光景も様変わりするものと思います。DNo.225−10・平成21〔2009〕年2月15日(12:09)撮影。

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 昭和43〔1968〕年8月31日、早朝の国鉄飯田線1番電車で田口線最終日の撮影に出向いてから、丁度40年が経過しました。当日は、先日程の記録的豪雨ではなかったとはいえ、雨が降り続く1日でした。つい、この間のことであった様な気もしますが、この間の人生を振り返ると、やはり様々な事が思い起こされます。時間経過40年は、やはり長い期間でもありました。
 田口線廃線から40年をアピールするために自作した、モ14ペーパーモデル。8月14日〜19日の間、豊橋丸栄デパート8階催事場の「東三河 たのしい鉄道フェア」会場に置いてまいりました。14日、“YAMA模型”の東山氏と共に、エンドレスレイアウトの一角に田口線車両コーナーを勝手に設置。配置して間も無く、我がモデルを携帯電話で撮影する男性の姿を眺め、悦に浸っておりました。
 後日、再び丸栄デパートを覗いてみました。田口線関連の車両は、レイアウト内側に他の車両共々、雑多に置かれた状態です。この日のためにペーパーキットを組み上げ、塗装まで終了した“YAMA模型”デモ用車両は、ガラスショーケースに並べられた製品キット上にチョコンと載せられ、正面が僅かに窺える程度です。
 6日間、ガラスショーケース内に展示されていた “YAMA模型”製、「豊橋鉄道田口線モ14ペーパーキット」、1本も売れなかったようです。東山氏から愚痴を聞く結果となってしまいました。ショーケース内に詰め込まれたHO模型の商品。中身の分からない箱が並べられているのみ。あれでは、購入しようという気持ちも起こらないものと思われます。東山氏に同情しないでもありません。引き取ってきた自作モ14のパンタグラフも壊されてしまいました。

 写真1枚目、豊橋鉄道田口線の運転最終日、三河海老駅の装飾モ15。三河海老〜清崎間は、前々日の台風10号の影響で運転不能でした。No.47−25・昭和43〔1968〕年8月31日(10:45)撮影。

 写真2枚目、勝手に展示した田口線車両コーナー。写真奥の左手は、“YAMA模型”製モ14ペーパーキットの完成見本車両。時間を裂いて、この日のために東山氏が完成させた車両です。垂れ幕をぶら下げて連結しているのが、我が車のモ14。手前に配置した車両は、中村氏よりお借りしたモ14+サハ201+木材を積載したチキ。写真右手奥は、“YAMA模型”製モ14ペーパーキット組み立て途中のボディ2タイプ。その右手は飯田線を走行した旧型国電2両。私が30歳の頃、真鍮キットを組み立てた車両で、昔の渥美線カラーで塗装してあります。共にインサイドギヤーで駆動しますが、インサイドギヤー、現在市販されていないと聞いて、いささかショックでした。DNo.174−16・平成20〔2008〕年8月14日(11:40)撮影。

 写真3枚目、山車+我が車+中村車で田口線モ14の3重連を組みました。我が車のみが時々脱線しました。DNo.175−5・平成20〔2008〕年8月17日(12:57)撮影。

 写真4枚目、3枚目の写真の編成前部に旧型国電を増結。先頭は谷川製キットを組み立てたクモハ52001。その後は、ピノチオ製キットを組み立てたクモハ42001。田口線モ14は、旧豊川鉄道→買収国電として国鉄飯田線でも活躍した車両ですが、写真の様な編成が実現したことは有りません。小さな僕が、「あっ、木を引っ張ってる!!」と一言。「最近、この様な貨車を見ることもありませんね」。DNo.175−25・平成20〔2008〕年8月17日(13:16)撮影。

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 同級生の実家を訪ねて初めて乗車した田口線車両は、モ38です。電車内は、薄暗い白熱灯車両が多い時代に、このモ38は蛍光灯を採用しておりました。本長篠駅から清崎まで乗車する間には、幾本ものトンネルを抜けます。トンネル内で、より明るく感じる淡いピンクの室内からも、田口線に取り付かれることになります。停車中の車両をスケッチして、床下等まで書き込んだ図面風イラストが残っていますので、当時、模型化したいなどと考えていたものと思います。
 ところが、モ38は廃線前の昭和41〔1966〕年4月23日に渥美線へ転属してしまい、田口線時代の満足な写真は撮影することが出来ませんでした。
 同形車モ36・37は生粋の田口鐵道発注車両であるのに対して、モ38は田口鐵道には在籍しない電車でした。豊川鉄道モハ31→買収国電モハ1610として国鉄飯田線で活躍→国鉄福塩線に転属して昭和31年廃車→昭和31年、国鉄豊川分工場で車両更新が施された後、豊橋鉄道に購入され田口線モハ38→昭和39年7月22日、称号改正により田口線モ38。モ38、田口線で活躍するのは10年程の期間でした。
 上野哲司氏撮影写真の中から、三河田口駅構内に留置されているモ38の写真2カットを紹介させて頂きます。撮影日時は、昭和39〔1964〕年9月12日。モハ38からモ38に変更後の写真ということになります。現在、奥三河郷土館に保存されているモ14のサボ、「三河田口」と表記されています。田口線健在当時、「三河田口」のサボは無かったと上野氏が語ります。おっしゃる通り、駅名は三河田口ながら、三河田口のサボは見た記憶はありません。

 写真1枚目、三河田口駅構内側線に留置されたチョコレート色のモ37+モ38。飯田線の旧型国電に併結して豊橋まで乗り入れていたため、連結器は密連を備えています。モ38正面には、37−6 豊川分工の文字が読取れます。

 写真2枚目、三河田口駅構内側線のモ38。田口線では、最後までチョコレート色で活躍。三河海老の車庫で、降圧改造と共に、緑とクリームの塗り分けに変更され渥美線へ転属しています。渥美線では緑とクリームでしばらく活躍した後、黄色に太い赤帯塗装に変更。更に、モ1713に改番。方向転換して2連化される等、めまぐるしい遍歴を繰り返した電車でした。

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 上野哲司様より送って頂きました写真の中から、清崎駅が終点であった当時の写真2カットを紹介させて頂きます。田口線カラー写真として、3枚のプリントで受け取っています。田口線のカラー写真は発表される機会が少なく、貴重の歴史の1コマと思っています。

 写真1枚目、昭和43〔1968〕年8月10日、清崎駅でのモ37。この年、8月31日限りで廃線となった田口線。当時、清崎〜三河田口間は運転休止状態で、この駅が終点でした。廃線20日程前に撮影された写真です。清崎駅舎の三河田口寄り、保線詰所横踏切辺りから撮影されています。貨車を牽引してきたものか否かは定かでありませんが、車両位置を変更するため、この場所まで移動したものと推測されます。光線状態から、午前中の撮影。

 写真2枚目、昭和41〔1966〕年8月8日に撮影された清崎駅舎。台風24号の影響で、昭和40〔1965〕年9月18日より、清崎〜三河田口間は運転休止。結果、バスによる代行運転となってしまいました。清崎駅舎入口横に立つ“謹告”の看板には、連絡バスの運転時刻が表記されています。清崎〜田口間で記されています。桜の木の下を発車した連絡バスは、急峻な山道を上り、田口市街地へ直接向います。三河田口駅前から、標高差150m・距離2kmの連絡道路で田口市街地間を結んでいたバス運行も、台風24号による水害以降、運転休止。
 中学生当時、友人を訪ねて初めて降り立った清崎駅。水害以前で“謹告”看板も無かった時代でした。

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