連写2眼×2.5・ローカル私鉄を訪ねた日々

ビデオウォークマン入手。DVテープ(11/200)巻をダビング。白黒フィルムの現像もしなければ…。頭痛い。

東京急行〔路面〕

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 “たまでん”三宿電停へ到着するデハ201の写真なのですが、意外であったのは、デハ201の写真右手にトヨペット・クラウンのパトロールカーが写っていた点です。

 10歳代の頃、豊橋で見掛けるパトロールカーといえば、白一色のジープでした。白黒テレビが我が家へ入ったのは中学生の頃と思います。白黒テレビで眺めた警視庁のパトカーが、この手のクラウンで、「東京のパトカーは格好いいー!!」と感動。プラモデルを購入して組み立てたものです。
 “たまでん”を撮影したのは、運転免許証を取得して、まだ1年経過していない頃と思います。豊川の運転免許試験場で実地試験の際、運転したのが当時のクラウンでした。いざ試験とクラウンに乗り込む時、アクセルペダルを目一杯踏んでしまい、凄まじいエンジン音。これで頭の中が真っ白になってしまいました。走行直後のS字コースで脱輪。結果は不合格。2度目の試験で何とか合格しています。それでも運転免許取得に費やした費用は1万6000円程でした。トヨタのクラウンを運転したのは、この2回のみです。試験場で乗車したクラウンのスタイルは覚えていますが、形式等は分かりません。今回の写真を撮影した頃には、デハ201横のパトカーは既に時代遅れであったと思われます。

 写真を眺めていたら思い出しました。
 ♪了解 了解 目標了解 けんかというから西銀座 赤いランプにサイレン鳴らし‥‥‥‥‥‥途中は、メロディーが思い浮かばず‥‥‥‥‥‥白いジープのパトロール♪

 警察官のスタイルで、曽根史郎さんが歌った“若いお巡りさん”が流行ったのは、昭和32〔1957〕年。同じく曽根史郎さんが歌った“白いジープのパトロール”は、昭和33〔1958〕年のようです。私が小学校低学年の頃は、東京でも白いジープのパトカーが走り回っていた?。CDでも購入して、久々に“白いジープのパトロール”を聞いてみたい気分です。パトカーのサイレン、一時、「保安 保安 保安」と鳴らす時期もありましたが、あのサイレンは何時生滅したのでしょう。

 写真1枚目、東京急行玉川線、三宿電停へ到着するデハ201下高井戸行。No.76−15・昭和44〔1969〕年4月28日(12:48)撮影。

 写真2枚目、全国各地の路面電車の撮影に明け暮れていた当時、電車と一緒に写っている当時の車が、やはり懐かしいです。シリーズ化された昭和の個性的車両プラモデルを少々購入してあります。写真は、組み立てることなく放置してあるトヨペット・クラウンのプラモデル。7DNo.23−72・平成23〔2011〕年5月5日撮影。

 写真3枚目、一度で良いから、プラモデルになるような車に乗車してみたいと思った時期もありました。我が家で愛用した車両で、プラモデルが存在したのは、50ccのホンダ・ロードパルだけでした。写真は、いすゞ・ピアッツァのプラモデル。いすゞ・べレットは良く見掛けましたが、いすゞ・ピアッツァ実車を眺める機会は少なかったです。最近の車は、さっぱり分かりません。7DNo.23−75・平成23〔2011〕年5月5日撮影。

東京急行電鉄、砧線

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 東京急行電鉄玉川線の二子玉川園から分岐していたのが砧線でした。砧線は、二子玉川園−砧本村間2.2km。専用軌道全線単線の長閑な路線でした。昭和44〔1969〕年5月10日の運転を最後に、玉川線と同じ日に廃線と化しています。急ぎ足で沿線を1往復歩いたのみですから、撮影したカットもあまり残っていません。時々、廃線跡の映像がテレビ番組で紹介されますが、浦島太郎気分で眺める結果となってしまいます。「ここが、砧線の存在した場所?」。今では、すっかり都会の道路となってしまったようです。
 二子玉川園〜中耕地間0.5km。中耕地〜吉沢間0.6km。吉沢〜砧本村間1.1km。廃線間近の頃には、途中駅が2駅のみ。中間の吉沢駅が撮影してありませんので、列車交換が可能であったものかは判断出来ません。駅だけでも撮影しておけば良かったと後悔しています。発表された玉川線の写真は、折に触れ眺めることもありますが、砧線の写真は紹介されることが少ないです。

 写真1枚目、きついカーブを曲るデハ60形63号の砧本村行。当時の地図を眺める、このカーブを過ぎると、間も無く吉沢電停です。吉沢電停を発車すると鉄橋で川を越えていました。かつて購入した趣味誌の廃線跡写真には、この鉄橋が紹介されたと記憶しています。鉄橋だけでも撮影しておけば良かったと思ったものでした。撮影場所としては、吉沢〜中耕地間になります。No.77−3・昭和44〔1969〕年4月28日(16:24)撮影。

 写真2枚目、終点の砧本村〔きぬたほんむらと読んだと思います〕のデハ60形63号。1枚目写真の次に撮影したカットです。「1枚目写真を撮影後、終点まで歩いて撮影?。となれば、砧線の運転間隔は30分に1本?」。砧線で撮影した車両は63号のみでした。村を使用した電停名は思い当たりません。現在は、東京都世田谷区鎌田2丁目に砧本村の地名も残っているようです。写真右手に少々趣きの異なる建物が確認出来ます。東京都水道局砧下浄水場の建物と思われます。No.77−4・昭和44〔1969〕年4月28日(16:48)撮影。

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 大学受験のため上京。試験会場で配られた問題用紙を眺め愕然。見たことの無い問題ばかりでした。書き込んだのは氏名と受験番号のみです。30分間は試験会場を出ることが出来ません。30分が経過した途端、試験会場を飛び出して撮影に向ったのが、東京急行電鉄玉川線でした。当然の如く、結果は1浪です。翌年、何とか東京の学校へ拾って貰い下宿場所を決めましたが、東急玉川線は東京での生活開始直後に廃線となってしまいました。沿線風景をもっとじっくり撮影したかった路線です。

 以下は、平成6年5月1日、大正出版発行「世田谷 たまでん時代」 宮脇俊三・宮田道一編著の巻末“玉電年表〔監修:宮田道一氏〕”からの抜粋です。

・明治40〔1907〕年3月6日、道玄坂−三軒茶屋間が開通〔1067mm軌間、複線〕。二軸電動客車10両、
10トン積み無蓋貨車20両で営業開始〔のち車両を増備〕。
・明治40〔1907〕年4月1日、三軒茶屋−玉川間が開通〔1067mm軌間、三軒茶屋−用賀間は単線、他は
複線〕。
・明治40〔1907〕年8月11日、渋谷−道玄坂間が開通〔1067mm軌間、複線〕。
・大正9〔1920〕年3月27日、駒沢−用賀間の複線化が完成。
・大正9〔1920〕年5月31日、広軌用〔1372mm軌間〕車両を収容するための大橋車庫増設工事が完成。
・大正9〔1920〕年8月21日、広軌改軌のため全線の単線運転を開始。
・大正9〔1920〕年9月3日、広軌〔1372mm〕電車で単線運転を開始。
・大正9〔1920〕年9月11日、上下両線とも広軌運転を開始〔三軒茶屋−駒沢間は単線〕。
・大正9〔1920〕年10月31日、上馬引沢−駒沢間の複線化が完成。
・大正9〔1920〕年?月?日、1372mm軌間1〜15号四輪単車と1〜5号四輪電動貨車を新製〔以下、車両は
すべて1372mm軌間〕。
・大正12〔1923〕年2月18日、三軒茶屋−上馬引沢間の複線化が完成。
・大正13〔1924〕年3月1日、砧線玉川−砧間が開通〔大正12年中に竣工していた〕。
・大正14〔1925〕年1月18日、三軒茶屋−世田谷間が開通。
・大正14〔1925〕年5月1日、世田谷−下高井戸間が開通。
・……………………………………………………………………………………………………………………
・昭和44〔1969〕年4月17日、首都高速道路公団と「同時施工に関する協定」を締結〔大橋−三軒茶屋
間〕。
・昭和44〔1969〕年5月8日、玉川線に花電車を運転〔10日まで〕。
・昭和44〔1969〕年5月10日、玉川線渋谷−二子玉川園間、砧線二子玉川園−砧本村間の営業廃止。三軒
茶屋−下高井戸間は存続し、世田谷線と呼称。残存車両はデハ70形デハ71〜78号、デハ80形デハ81〜
90号〔デハ87〜90号はデハ104〜107号を改番〕、デハ150形デハ151〜154号の22両。

 開業時に貨車の両数が多いのは、玉川線建設目的の1つが多摩川で採取した砂利を移送するためなのです。砧線は、砂利採取用に建設されたと路線と記されています。「たまでん」が「ジャリ電」と呼ばれる所以です。実際、一時は旅客収入よりも砂利収入〔輸送と販売〕の方が上回り、渋谷駅側線には砂利の山ができたとも記されています。砂利が縁で、東京市電に乗り入れるため1372mm軌間に改軌。大正12〔1923〕年3月、玉電と東京市電の連絡線が完成。
 昭和44〔1969〕年5月10日の運転を最後に、高速道路建設のため邪魔になる玉川線渋谷−二子玉川園間9.2kmは廃線。同時に、砧線二子玉川園−砧本村間2.2kmも廃止されてしまいました。その後、玉川線に代わり、地下を走行する新玉川線が建設されることになります。

 写真1枚目、上馬電停に到着するデハ65花電車。花電車後方を走行中の軽自動車は、花電車のスピーカーから流される♪蛍の光♪を録音していたようです。No.79−23・昭和44〔1969〕年5月10日(11:26)撮影。

 写真2枚目、上馬電停より撮影したデハ65花電車。乗降扉を開けて、乗務員さんが沿線見物人に手を振っています。この日限りで、玉川線・砧線の運転は終了。花電車に表記された“1907−1969 さようなら玉電”の文字から、全線開通に至る経緯を少々調べてみました。No.79−24・昭和44〔1969〕年5月10日(11:26)撮影。

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 鉄道ピクトリアル 1969年 4月号・臨時増刊 通巻223号。これこそ、学生時代のバイブルです。今でも、この1冊だけは、白黒フィルムを収めたケースに撮影記録を書き込んだノートと一緒に保管しています。“全日本路面電車現勢”のサブタイトルが付けられています。通常号の1969年 4月号 通巻222号は定価200円。臨時増刊号は290円と少々割高でした。
 東京での学生生活が始まる昭和44〔1969〕年、グッドタイミングで発刊された1冊でした。コピー機など無かった時代ですから、掲載された路線図を大学ノートへ書き写して、日本各地の路面電車を目指すキッカケにもなった1冊です。昭和44〔1969〕年は、どの様に行動したものかも思い出せない程、めまぐるしく動き回っておりました。
 名古屋市電の元祖ワンマン路線、下之一色線が廃線予定と知り、昭和44〔1969〕年1月20日、名古屋へ向かう。廃線前の東急玉川線撮影のため、昭和44〔1969〕年2月14日、2月21日、4月28日と決起。僅かになってしまったとはいえ、2路線残っていた大阪市電撮影のため夜行急行で大阪へ。昭和44〔1969〕年3月18日の撮影で大阪市電は見納め。大阪市電全線廃止は、昭和44〔1969〕年3月31日限り。同じ日に川崎市電も全廃でしたので、川崎市電は最終日を撮影することになりました。これで、いよいよ学生生活が始まるのですが、授業はヘルメットを被った学生に妨害されて、結果的に大学はバリケード封鎖されてしまいます。訳の分からない学生生活スタート直後に廃線となってしまったのが、東急玉川線でした。昭和44〔1969〕年5月10日、スピーカーから、♪蛍の光♪を流しながら走行する花電車を撮影。現世田谷線を残して、他の路線は消滅することになります。以降も次から次へと路面電車の廃線が続きます。廃線予定路線の全線全区間の撮影を目標としましたが、とても撮り切れるものではありませんでした。満足な白黒写真が残せなかった昭和44〔1969〕年のカラースライドだけでもスキャナーで取り込もうと考えていますが、撮影カットの1割にも至らないのが現実です。

 平成6年5月1日、大正出版発行「世田谷 たまでん時代」 宮脇俊三・宮田道一編著より、デハ150形に関する記述を転載させて貰います。文責は、吉川文夫氏です。
 『昭和三十九年、東急車輌で四両の新車が造られた。デハ150形で、玉電の新車はこれ以降とだえている。一段下降窓、平凡なボギー車で、側面にコルゲートされた鋼鈑を張ってあるのがアクセントといえばアクセント。東急車輌ではステンレスカーが東京急行の鉄道線用に続々と造られだした時代で、屋根上のFRP製通風器とともに玉川線用に遊んだと思いたい。側面のコルゲートは、いまは晴れてステンレスのコルゲート板に変更されている。この車両の新しいところは、大きな方向幕付きとなった点と、前灯が二ツ目玉となった点である。デハ150形、平凡なれど、丈夫で長持ち車というべきか。』
 路面電車の全盛期は昭和30年代。昭和40年代は、各地の路面電車が廃線へと向かう時代。既存車両を使用してレールが消えて行く中、昭和39〔1964〕年デビュー〔玉電廃線5年前〕のデハ150形は、新鮮な感じがしたものです。正面2枚窓で、角張った車体は、他都市の路面電車には無かったスタイルで、私の目には、かなり個性的な電車の印象が強いです。模型化し易いという気持ちが働いていたのかも知れません。「ペコちゃん」と呼ばれたデハ200形のインパクトが強過ぎて、吉川文夫氏は、デハ150形を平凡と表記されたのかも知れません。

 写真1枚目、三宿電停のデハ153+デハ154連結2人のり渋谷行。この頃、故郷の豊橋市内線、近在の名古屋市電、名鉄岐阜の路面電車、塗色は何れも腰回りが緑色で窓周りはクリーム色。玉電は逆の塗り分けでした。上下を逆さまにするだけで随分印象が異なったものです。玉電廃線後、残された現世田谷線でも、暫らくは、この塗色で走行しています。後に前面方向指示灯〔方向幕の両側ライト〕と側窓保護棒が撤去されたと表記されています。No.62−12・昭和44〔1969〕年2月14日(12:04)撮影。

 写真2枚目、三宿〜池尻間を走行するデハ151+デハ152連結2人のり下高井戸行。このカットには広々とした玉川通りを走行する車の姿が1台も写っていません。No.62−14・昭和44〔1969〕年2月14日(12:14)撮影。

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 前回、38年前の三軒茶屋交差点をお見せしましたので、今回は現在の三軒茶屋駅を添付してみます。道路脇から眺めることの出来た玉電廃止後の三軒茶屋駅、道路から少々奥まった位置に存在しましたが、今では幹線道路から更に100m程後退してしまった感じです。「かつての玉電線路上の位置?」と疑ってしまうような場所に存在します。20年程昔の写真でも探してみないと三軒茶屋駅位置の変遷は理解出来そうにありません。

 写真1枚目、世田谷線三軒茶屋駅。券売機で乗車券を購入する改札口ではありませんでした。140円を支払ってホームへ入る形です。DNo.129−68・平成19〔2007〕年12月8日(11:53)撮影。

 写真2枚目、三軒茶屋駅を背にして撮影。電車を降りた乗客が、新玉川線の三軒茶屋駅を目指しているのでしょう。現在の駅が、かつての玉電線路上の位置であれば、緑色の洋服を着ているお子さんの位置は廃線跡ということになります。“セブンイレブン”の入ったビル後方に旧三軒茶屋駅が存在したことになります。DNo.129−71・平成19〔2007〕年12月8日(11:54)撮影。

 写真3枚目、三軒茶屋駅構内。最初に到着した301号は、デハ200形“ペコちゃん”を彷彿させる塗色車でした。スカートの塗装まで“ペコちゃん”排障器風です。短い2両編成ながら2機のシングルアームパンタを搭載しています。DNo.129−72・平成19〔2007〕年12月8日(11:57)撮影。

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