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下宿生活を始めて間もない頃に撮影した画像を載せることにします。この日撮影したカラースライドは退色が激しく色補正も侭なりません。同時撮影した白黒写真はハーフ判カメラで撮影していますので、今となってはカラー・白黒、共倒れといった感は否めません。
雑色駅から横浜駅まで京浜急行に乗車。横浜で下車すると横浜市電の撮影開始。須崎神社前〜横浜駅前〜高島町〜浅間下〜洪福寺と沿線を歩いています。洪福寺は終点でした。次は保土ヶ谷駅前へ向かう〔国道1号線上の〕路線を目指して軌道の無い道路を浜松町へ向かったものと思います。再び東海道本線等をオーバークロス。その時、眼下に眺めたのが相模鉄道西横浜駅。「折角だから撮影しておきましょう」。
写真1枚目、荷物電車モニ1009+モニ1007が移動中。トフ401の一部も確認出来ます。No.80−32・以下全て、昭和44〔1969〕年5月16日撮影。12:23撮影。
写真2枚目、荷物電車モニ1009+モニ1007は写真の場所に留め置かれました。トフ1両を連結したED12も留置中。間も無く横浜行の電車が到着します。No.80−33・12:26撮影。
写真3枚目、荷物電車モニ1007+モニ1009。相模鉄道1000系電車に関するウィキペディア一文を拝借して、以下に添付しておきます。相鉄1000系と言われてもピンときませんが、今にして思えば、相鉄3連黄色編成、日立電鉄、京福電鉄福井は撮影してあるものと思います。No.80−34・12:37撮影。
相鉄1000系電車は、かつて相模鉄道に在籍した電車である。
概要:1926年(大正15年)から1927年(昭和2年)にかけて日本車輌製造で製作された、もと小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)1形→東京急行電鉄(大東急)デハ1150形のうち、1948年(昭和23年)に1155−1159・1162−1165の計9両が譲渡されたものである。
1951年(昭和26年)の車両番号一斉改番でモハ1000形1001−1009とされた。
1958年(昭和33年)には、1001−1003および1004−1006はそれぞれ3両固定編成に改造され、編成中間に入った1002・1005はパンタグラフ、運転台が撤去された。また1004のみ外観が違っていたが、これは小田急時代に経堂工場で火災に遭ったままで譲渡され、相鉄の星川工場で復旧工事が行われたためである。この6両は1963年(昭和38年)−1964年(昭和39年)に、1001−1003が日立電鉄、1004−1006が京福電気鉄道(福井支社。路線は現、えちぜん鉄道)に譲渡された。このうち京福に譲渡されたものは、同社ホデハ271形(後にモハ271形)となり、1987年(昭和62年)まで使われた。
残った1007−1009は足回りおよびブレーキを強化の上、1965年(昭和40年)に荷物電車に改造されモニ1000形となった。1978年(昭和53年)に日立電鉄に譲渡され、先に譲渡されていた1001−1003とともに旅客車として使われた。
写真4枚目、跨線橋上から撮影。西横浜駅を発車した4連普通大和行後追いカット。最後尾はアルミ試作車モハ6021。この頃は、急行も普通列車も4連運行であったようです。相模鉄道モハ6021に関してもウィキペディア一文を拝借して、以下に添付しておきます。No.80−35・12:46撮影。
モハ6021:1967年(昭和42年)にモハ6000形の1両として登場したアルミニウム合金車体試作車。6000系の中でもアルミ車体はこの1両のみであり、横浜方先頭車として他の普通鋼製車両と連結し使用された。また、この車両を基に後から2100系・5000系・7000系がアルミ製の車体で製造されている。車体重量は軽量性に優れるアルミ素材を用いた結果、普通鋼製のモハ6000形に比べ約4.5tの軽量化に成功している。塗装はアルミの地の色を活かしたクリア塗装であるが、正面の貫通扉付近にはアクセントとして縦一直線に赤色を配色、銀一色では風景と同化しやすいため、目立つ色を配置することにより、車両接近時における視覚伝達の機能を兼ね備えたデザインとした。
屋根上のベンチレーターも他の車両のガーランド型に対してグローブ型を搭載、また後年の冷房装置搭載改造の際にも、7000系電車で試験的に設置されていたヒートポンプ式の冷房装置が移設されるなど異彩を放っていた。なお、7000系で試用されていた際には、頭上の吹き出し口から温風が出ていたが、モハ6021に移設した際に、温風を座席下へダクトで送り込む方式へ改造し、試行していた。晩年はサハ6621とともに新6000系へ組み込まれ、旧6000系としては最後に廃車された。
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