連写2眼×2.5・ローカル私鉄を訪ねた日々

ビデオウォークマン入手。DVテープ(11/200)巻をダビング。白黒フィルムの現像もしなければ…。頭痛い。

関東・大手私鉄

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 下宿生活を始めて間もない頃に撮影した画像を載せることにします。この日撮影したカラースライドは退色が激しく色補正も侭なりません。同時撮影した白黒写真はハーフ判カメラで撮影していますので、今となってはカラー・白黒、共倒れといった感は否めません。
 
 雑色駅から横浜駅まで京浜急行に乗車。横浜で下車すると横浜市電の撮影開始。須崎神社前〜横浜駅前〜高島町〜浅間下〜洪福寺と沿線を歩いています。洪福寺は終点でした。次は保土ヶ谷駅前へ向かう〔国道1号線上の〕路線を目指して軌道の無い道路を浜松町へ向かったものと思います。再び東海道本線等をオーバークロス。その時、眼下に眺めたのが相模鉄道西横浜駅。「折角だから撮影しておきましょう」。
 
 
 
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 写真1枚目、荷物電車モニ1009+モニ1007が移動中。トフ401の一部も確認出来ます。No.8032・以下全て、昭和441969〕年516日撮影。1223撮影。
 
 
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 写真2枚目、荷物電車モニ1009+モニ1007は写真の場所に留め置かれました。トフ1両を連結したED12も留置中。間も無く横浜行の電車が到着します。No.80331226撮影。
 
 
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 写真3枚目、荷物電車モニ1007+モニ1009。相模鉄道1000系電車に関するウィキペディア一文を拝借して、以下に添付しておきます。相鉄1000系と言われてもピンときませんが、今にして思えば、相鉄3連黄色編成、日立電鉄、京福電鉄福井は撮影してあるものと思います。No.80341237撮影。
 
相鉄1000系電車は、かつて相模鉄道に在籍した電車である。
概要:1926年(大正15年)から1927年(昭和2年)にかけて日本車輌製造で製作された、もと小田原急行鉄道(現・小田急電鉄)1形→東京急行電鉄(大東急)デハ1150形のうち、1948年(昭和23年)に1155115911621165の計9両が譲渡されたものである。
1951年(昭和26年)の車両番号一斉改番でモハ100010011009とされた。
1958年(昭和33年)には、10011003および10041006はそれぞれ3両固定編成に改造され、編成中間に入った10021005はパンタグラフ、運転台が撤去された。また1004のみ外観が違っていたが、これは小田急時代に経堂工場で火災に遭ったままで譲渡され、相鉄の星川工場で復旧工事が行われたためである。この6両は1963年(昭和38年)−1964年(昭和39年)に、10011003が日立電鉄、10041006が京福電気鉄道(福井支社。路線は現、えちぜん鉄道)に譲渡された。このうち京福に譲渡されたものは、同社ホデハ271形(後にモハ271形)となり、1987年(昭和62年)まで使われた。
残った10071009は足回りおよびブレーキを強化の上、1965年(昭和40年)に荷物電車に改造されモニ1000形となった。1978年(昭和53年)に日立電鉄に譲渡され、先に譲渡されていた10011003とともに旅客車として使われた。
 
 
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 写真4枚目、跨線橋上から撮影。西横浜駅を発車した4連普通大和行後追いカット。最後尾はアルミ試作車モハ6021。この頃は、急行も普通列車も4連運行であったようです。相模鉄道モハ6021に関してもウィキペディア一文を拝借して、以下に添付しておきます。No.80351246撮影。
 
モハ60211967年(昭和42年)にモハ6000形の1両として登場したアルミニウム合金車体試作車。6000系の中でもアルミ車体はこの1両のみであり、横浜方先頭車として他の普通鋼製車両と連結し使用された。また、この車両を基に後から2100系・5000系・7000系がアルミ製の車体で製造されている。車体重量は軽量性に優れるアルミ素材を用いた結果、普通鋼製のモハ6000形に比べ約4.5tの軽量化に成功している。塗装はアルミの地の色を活かしたクリア塗装であるが、正面の貫通扉付近にはアクセントとして縦一直線に赤色を配色、銀一色では風景と同化しやすいため、目立つ色を配置することにより、車両接近時における視覚伝達の機能を兼ね備えたデザインとした。
屋根上のベンチレーターも他の車両のガーランド型に対してグローブ型を搭載、また後年の冷房装置搭載改造の際にも、7000系電車で試験的に設置されていたヒートポンプ式の冷房装置が移設されるなど異彩を放っていた。なお、7000系で試用されていた際には、頭上の吹き出し口から温風が出ていたが、モハ6021に移設した際に、温風を座席下へダクトで送り込む方式へ改造し、試行していた。晩年はサハ6621とともに新6000系へ組み込まれ、旧6000系としては最後に廃車された。

東京急行蒲田付近にて

 600V時代の豊橋鉄道渥美線で活躍した車両には、モ1731+2731なる編成が存在しました。昭和501975〕年、渥美線に導入された元東急3550形です。雑色で下宿生活していた時代に東急池上線の撮影に出向き渥美線へ譲り渡される前の3両編成を1カットだけ撮影してあります。悲しいかなモ1731に該当する車両は3両編成の中間に入っておりました。
 
 ステンレス製車両は好きになれません。やはり鋼製で塗装を施した電車の方が好みです。学生時代、東急東横線では、ステンレスカーと一緒に5000系青ガエルも走行しておりました。大井町線を走る5000系青ガエルも撮影したものです。主要車両が新しいステンレス車両に置き換えられる時代でも、池上線・目蒲線ではライトグリーンの旧型車両が活躍しておりました。ついに東急5000系青ガエルも目蒲線を走る結果となってしまいました。その後、5000系青ガエルは日本各地のローカル私鉄へ譲り渡され、東急路線からは消滅。池上線・目蒲線も転属してきたステンレス車両が台頭する時代に様代わりしています。
 
 アサヒペンタックス67で撮影したカラー画像を紹介します。近場であった東急蒲田へわざわざ重いカメラを携えた理由は、カラーリバーサルフィルム、エクタクロームが有効期限を過ぎてしまったためと思います。アサヒペンタックス67に載せて使用する白黒フィルム専用機は、キャノンEX EE。現場で組み替え済ますと重かったー!!。
 
 
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 写真1枚目、目蒲線を走って蒲田駅到着間近の70004連後追いカット。スロープ途中の踏切から撮影。4線を横切って踏切反対側へ移動すると、池上線車両が撮影し辛かったこともあり、この場所で撮影することが多かったです。長女誕生1ヶ月程前の撮影。ロクナナNo.1373713)・平成元〔1989〕年720日撮影。
 
 
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 写真2枚目、こちらは、蒲田を発車直後。池上線を走って五反田へ向かう72003連。撮影から8ヶ月程後、父親突然の他界。東京での生活に見切りを付けることにしました。この踏切で撮影した最後の写真であろうと思っています。7200系が後に豊橋鉄道渥美線を走ることなど撮影当時は想像もしませんでした。元名鉄7300系を追い遣ってしまったステンレス車両でしたので、甲種輸送で花田貨物駅跡に到着した時は複雑な気持ちでした。車両としては、名鉄7300系の方が好みなのですが、東急7200系を馴染みと考えると、フィフティー・フィフティーということにしておきましょう。ロクナナNo.1373815)・平成元〔1989〕年720日撮影。
 東京都大田区で下宿生活を始めたのは、昭和441969〕年4月。東京での生活に見切りを付けて故郷豊橋へ戻ったのは、平成51993〕年328日〔日〕。この間、約24年間。でも、昭和441969〕年当時は学生運動が決起盛んな時期で10月まで授業はありませんでした。豊橋の実家から岡崎へアルバイトに通い、稼いだ給金で東北周遊をしておりました。11月から翌年3月までの授業のみで1年生は終了。実に有意義な1年間でした。
 
 雑色で5年。糀谷で8年。すると南蒲田での生活は11年間ということになります。今になって思い返すと、東京では様々な事がありました。
 
 「革靴を買いに出ましょう」。南蒲田のアパート“鶴屋荘”を出発。環8道路を横切り、京急空港線の蒲田踏切を眺めながら第1京浜国道を横断。京急蒲田駅舎前を歩き京急本線の踏切を横切ると右折。アーケード街から国鉄蒲田駅へ続く道路を1往復すれば、あらかたの品物は購入することが可能でした。アーケード街の靴屋さんに入店。高価な靴が並んでおりますので、「もう少し安い靴はありませんか?」と質問。「家はラフな品物は置いてありません」が返答でした。「この店は分不相応」と思い、少々、京急蒲田駅寄りの靴屋さんへ入店。茶色の革靴を購入しております。
 
 “鶴屋荘”の玄関扉を開いて中へ入ると、土間の左側壁面にはコインロッカーのような木製下駄箱が備えられておりました。12階共、中央廊下とトイレは共用。2階部屋、入口の施錠を解除して室内へ。61間ながら押し入れ横には小さな流し台がありました。
 
 購入した革靴は、下階、土間横の下駄箱へ入れておいたのですが、1週間程で行方知れずに。「誰かが履いていってしまった?」。諦めて再びアーケード街へ出向き同じ革靴を購入しております。
 
 数ヶ月後であったと思います。蒲田警察署から電話がありました。捕まった窃盗犯が“鶴屋荘”の下駄箱から革靴を盗んだことを自供したようです。そこで環8沿いの蒲田警察署に出向くことに。調書を作成するために暫し聞き取り調査。担当官に「どのような靴でした?」と聞かれましたので、履いていた革靴を見せ「これと同じ物です」と返答。「ご本人の靴であることを確認しました」などと言われ、奥の部屋から靴を持ってきてくれました。無くなった革靴が戻ってくることなど想像もしませんでした。「窃盗犯の素性までは勘弁して下さい」と言われましたので未成年だったのかも…。「革靴盗んで何をしたかった?」。アパートの狭い下駄箱には同じ革靴を2足入れることになってしまいました。
 
 この件は、事務所呑み会では何度も笑い種になってしまいました。「俺なら盗まれた靴と同じ物は買わねーや」と社長。
 
 
 
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 写真1枚目、京急蒲田駅西口。写真右側が高架工事進捗中の京急蒲田駅。写真左側の建物は、駅前再開発のため全てが解体されてしまったものと思います。スーパーマーケット“ライフ”手前を左折すれば、蒲田駅西口のアーケード街。ND100No.4718・以下全て、平成222010〕年1225日撮影。857撮影。
 
 
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 写真2枚目、アーケード街から眺めた京急蒲田駅西口。地方行脚のためのフィルムを購入したのは“ナカムラ写真店”でした。写真左手、人物が2人立っている場所辺りに店は存在しましたが、撮影時には別店舗に様変わりしております。「伊豆出身のお姉さん、今は何処で何をしている?」。ND100No.4717856撮影。
 
 
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 写真3枚目、空港線、京急蒲田駅を発車する京成3584急行羽田空港行。高架工事のためゴチャゴチャの景観になってしまいました。昔、警手が遮断機を上げ下げしていた時代が懐かしい。ND100No.47111903撮影。
 
 
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 写真4枚目、3枚目写真の後追いカット。第1京浜国道の踏切。急行羽田空港行後部車両は京成3517。大田区在住時代、空港線で撮影した車両は、3両編成の230400500700800形でした。1000形が試験走行したのも撮影したような…?。ND100No.47111903撮影。
 
 
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 写真5枚目、第1京浜国道の踏切。京急6048快速特急羽田空港行後追いカット。日陰に立っていたので寒いこと。ND100No.47121930撮影。
 
 
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 写真6枚目、第1京浜国道の踏切上部。歩道橋からの撮影。高架軌道を走行する京成3524印旛日本医大行。ND100No.47125934撮影。
 
 
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 写真7枚目、第1京浜国道の踏切を背にして糀谷駅方向を撮影。京急蒲田駅到着間近、京急2068急行新逗子行。昔であれば、写真右手のレールを走行していたのですが、撮影時点では架線も脱線ポイントも撤去されておりました。ND100No.47136955撮影。
 廃業してしまったこともあり東京へ出向く機会もなくなってしまいました。
 
 東京都大田区での生活は23年間。雑色での下宿生活が5年。晩年、糀谷では8年間暮らしましたので、途中、南蒲田での生活は10年間になると思います。
 
 周遊券で全国を巡る場合、豊橋の実家へ帰省する場合、まず最初に乗車するのは京浜急行でした。仕事の打ち合わせに出向く交通手段も多くの場合は京浜急行を利用しています。学生時代の駅名は京浜蒲田でしたが、昭和621987〕年61日、京急蒲田と改称されました。
 
 豊橋の実家へ戻って既に22年近くが経過しようとしています。昨今はテレビ映像で眺めるだけの京急蒲田駅。東京で生活していた頃の面影は微塵もありません。
 
 
 
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 写真1枚目、2番線に到着する京急1500形最終編成17318連下り快速特急三崎口行。画像の跨線橋階段は何度も上り下りしています。中古デジタル1眼を購入して間も無い頃の撮影です。ND100No.162・以下全て、平成182006〕年324日撮影。(1439)撮影。
 
 
 
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 写真2枚目、同じく2番線到着の京急1500形最終編成17318連下り快速特急三崎口行。京急らしからぬスタイルで好みの電車ではありません。昔の京急蒲田駅に快速特急は停車しませんでした。ND100No.164・(1441)撮影。
 
 
 
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 写真3枚目、京急蒲田駅を発車する京急150017368連下り快速特急三崎口行後追いカット。上り線プラットホームは川崎側へ延長されています。京急蒲田駅舎を出て西口へ移動するのに利用した踏切は「何処にあった?」。高層ビルが増えました。ND100No.165・(1441)撮影。
 
 
 
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 写真4枚目、13枚目の1500形快速特急の通過を待って、空港線1番ホームへ入線する京急新100014164連特急羽田空港行。この様なポイントが敷設されていたのは驚きでした。後方から馴染みの1000形が追い掛けて来ます。ND100No.166・(1441)撮影。
 
 
 
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 写真5枚目、久々の京急蒲田駅。新しい車両を期待していたのに「何のことはない、見慣れた京急1000形の並びでしたか。まだ頑張っていたー!!」。人生で最もお世話になった電車です。ND100No.169・(1443)撮影。
 
 
 
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 写真6枚目、京急蒲田駅を発車する京急100012986連下り普通浦賀行後追いカット。ND100No.1610・(1443)撮影。
 
 
 
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 写真7枚目、京急蒲田駅空港線1番ホームに停車中の住宅都市整備公団〔撮影時の正式鉄道会社名は未調査〕Cフライヤー運転室越しに眺めた光景。発車して写真左手方向へ進むと直ぐに第一京浜国道の踏切。羽田空港から到着した横浜方面行電車は、スイッチバックして写真右手方向へ向うことになります。昔であれば空港線電車を下車して隣の2番線到着電車に乗り換えていたのですが、「新たにポイントまで敷設して、ご丁寧な事です」。ND100No.1611・(1447)撮影。
 
 
 
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 写真8枚目、京急蒲田駅空港線1番ホーム側から撮影。2番線ホーム〔本線下りホーム〕到着電車を待つ乗客の後姿。かつて踏切であった場所に立って撮影しています。写真左手後方、ベージュ色のマンション1室が所属会社の事務所でした。社長に貰った古い自転車荷台に、これまた社長に貰った古いカラーテレビを載せて糀谷の間借り部屋へ戻る際には、ここの踏切を横切ったものです。線路と平行して呑川を越える橋〔写真右手の白い欄干〕も上京当時は木製欄干でした。駅周辺再開発のため、事務所の入っていたマンションも解体され建て替えられることに…。景観は激変しています。ND100No.1625・(1618)撮影。
 
 
 
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 写真9枚目、京急蒲田駅空港線1番ホームの品川寄り末端は、踏切を潰し、呑川をも越えて「こんな場所まで延びてしまいましたか」。羽田空港からやって来た北総鉄道〔←北総開発鉄道〕7501急行印西牧の原行後追いカット。2層構造の京急蒲田高架駅の完成で、これら画像も全て過去の風景となってしまいました。ND100No.1627・(1620)撮影。
 東京都大田区蒲田界隈での生活が23年間。最寄駅が京浜急行空港線の糀谷駅であった時代は、晩年の8年間でした。
 父親突然の他界。新婚生活を送った間借り部屋は、家主さんが家を建て替えるため、新たな住まいも探さなければなりません。これら事情で豊橋へ戻る事を決断しました。糀谷幼稚園を卒園した長男は、豊橋の小学校へ入学。長女幼稚園入園も豊橋からスタートしました。以来、来年で20年目になります。
 
 糀谷〔こうじや〕間借り部屋から最も近くに存在した空港線踏切での写真を紹介します。一昨年、事務所忘年会へ出向いた時に撮影したカットです。自転車に子どもを乗せて萩中公園へ遊びに出向く際には、必ず横断する踏切でしたが、空港線の光景は激変しておりました。糀谷から豊橋へ引っ越す際には東京生活に未練もありましたが、久々に糀谷商店街を歩いて、「こんなにゴチャゴチャした所で生活していた!!。今なら、もうイイヤ」。
 
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 写真1枚目、京浜急行空港線の大鳥居〜糀谷間を走行する京急2028他上り急行新逗子行。本来は、写真右手が上り線、写真左手が下り線なのですが、ホテルエアーライン〔写真右手3階建て建物〕横にダブルクロッシングポイントが建設されました。羽田空港を発車した急行新逗子行は、上り線を走行した来た後、写真のポイントで下り線に進入して地表線を走行。第一京浜国道の踏切を横切り京急蒲田へ向かいます。京急蒲田でスイッチバックした後、下り列車として横浜方面へ向うことになります。D100No.47163・以下全て平成222010〕年1225日〔土〕撮影。(1033)。
 
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 写真2枚目、1枚目写真の後追いカット。京急2021他上り急行新逗子行。写真右手の茶色フェンス横は細い路地になっており、昔はこの路地から3連の空港線電車が撮影可能でした。D100No.47166・(1033)撮影。
 
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 写真3枚目、2枚目写真と同じ方向を見ています。高架線から下る形で元々の上り線を走行する京急1401他下り急行羽田空港行。D100No.47168・(1034)撮影。
 
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 写真4枚目、3枚目写真の後追いカット。京急1484他下り急行羽田空港行。上り線を走行して来た下り列車は、ダブルクロッシングポイントで本来の下り線へ進入します。環状8号線〔写真右手側〕に面してホテルエアーラインは存在します。環8沿いにも随分高層ビルが増えたようです。D100No.47169・(1035)撮影。
 
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 写真5枚目、昔のように下り線を走行して来た京成3055他下り快速特急羽田空港行。D100No.47171・(1046)撮影。
 
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 写真6枚目、5枚目写真の後追いカット。京成3055他下り快速特急羽田空港行は、下り線をそのまま直進。D100No.47172・(1047)撮影。
 
 
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 写真7枚目、羽田空港からやって来た京成3701他上り快速特急青砥行。この電車は上り線を直進して高架線を走行します。DNo.47179・(1056)撮影。
 
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 写真8枚目、7枚目写真の後追いカット。京成3708他上り快速特急青砥行。D100No.47181・(1056)撮影。
 
イメージ 9
 写真9枚目、撮影時点の糀谷駅時刻表。羽田空港へ向うのが下り列車。京急蒲田方向へ向うのは上り列車。昔は1番線(1F)が下りホーム、2番線(2F)が上りホームであったのですが、この時点では、12番線共上下列車が発着する形となっています。時刻表をしっかり確認しないと、1列車乗り損なう恐れもあります。糀谷在住の頃、糀谷駅は橋上駅舎に様変わりしています。蒲田方面へ向うためには、いちいち階段を上り下りしなければなりませんでしたので、面倒と思ったものです。今にして思うと、あの橋上駅舎は何であった。2層式京急蒲田駅高架工事完成の暁には、糀谷駅高架工事も完成するものと思われます。京急蒲田駅の糀谷寄りに設置されているダブルクロッシングポイントが使用可能になれば、大鳥居〜糀谷間のダブルクロッシングポイントは再び消滅するのでしょう。D100No.471129・(1201)撮影。

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