日本車輌製、高性能オリジナル車2000系が特急として活躍。0系OSカーがデビューした時には、鉄道ファン誌表紙を飾った。湯田中まで国鉄DC・ECが乗り入れた。若い頃の印象、長野電鉄は富山地方鉄道同様の中堅私鉄といった感が強いです。
河東線の一部区間〔通称:木島線〕が廃線と知った時は、「長野電鉄でも廃線!?」。予想外でした。それまで長野電鉄の撮影に出向いたのは、昭和50〔1975〕年8月の1度だけ。2000系が特急として活躍し、OSカーも走っておりました。須坂の車庫には、後に豊橋鉄道渥美線を走行することになる3連電車の姿もありました。遠目で撮影したと思います。長野駅は地下化される前の時代でしたが、残念なことに長野駅では撮影しておりません。木島線・屋代線も撮影することはありませんでした。
「ワゴン車で木島線の見納めに行くぞ」と決起しましたが、木島平は新潟県に近い所で豊橋からでは遠かったです。既に木島線廃線から13年以上が経過して、撮影当時の記憶も曖昧になってしまいました。
ブログネタが無い。以前、無作為に取り込んだ画像を物色。「こんなこともありましたので、今回はコレ」。
長野電鉄木島線、赤岩〜四ケ郷間の夜間瀬川鉄橋はソコソコ撮影しましたので、信州中野へ向かいワゴン車を走らせます。四ケ郷〜北中野の間は、果樹園の中をレールが続く区間で、程好い撮影場所が見付かりません。気付けば北中野駅が見える場所まで走ってしまいました。踏切を左折。少々走ると更に左折。道路は行き止まりのため、会社ブロック塀横にバネットコーチを留め置き。撮影機材を担いで踏切方向へ戻ります。四ケ郷〜北中野間はレールと道路が並行する場所で通過電車を待ちます。目の前の畑で男性が廃材を燃やし始めました。風が少々強い1日でした。火の手が大きくなりましたので、「随分、派手に燃やすなー」などと思って傍観しておりました。間も無く、近在お宅の男性が出て来て、「えらい事してくれたなー。アアー、向こうの桃の木は、もう駄目だ」と話します。「廃材を燃やしているのではないのですか?」と質問。長期に渡り廃材を集めていた男性による失火のようです。暫くするとサイレンが聞こえ消防車が到着。電車の撮影は済ませましたので移動することにします。ワゴン車を留め置いた路地は消防車で塞がれておりました。諦めて消火活動中の消防車の撮影に。待機していた消防車両を含め8台を撮影。バネットコーチを出すまでに随分のタイムロスになってしまいました。お陰で長野線夜間瀬川鉄橋撮影再びの目論見は断念。
時間を掛けて掻き集めた廃材は、僅かの時間で木炭と化してしまいました。呆然としていた男性の姿が目に焼き付いております。人生の虚しさを眺める結果となってしまいました。稼いだ金は全てフィルムに置き換えてしまった我が人生。自宅消失、フィルム全滅などといった事態になれば、立ち直る術はありません。
写真1枚目、「マッコウクジラ」3500系O2編成〔モハ3522+モハ3532〕の木島行後追いカット。「さようなら木島線 77年間」と表示されたヘッドマークを掲げております。No.1932−23・平成14〔2002〕年3月17日(15:39)撮影。
写真2枚目、1枚目写真を撮影した直後、カメラを右方向へ回して撮影したのが、このカット。標準レンズでは電車と炎が一緒には写し込めませんでした。高社山をバックに燃え盛る廃材の炎と黒煙。No.1932−25・平成14〔2002〕年3月17日(15:39)撮影。
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