|
☆本日は、詩集「風の詩音」に載らなかった詩の中から『夕焼け』を再掲します。
「夕焼け」
夕焼けはまぶしかった
太陽はその存在を残すため
精一杯赤くなる
俺も誰かの風景の一部と化して
赤く染まっているだろう
もっと赤くなりたい
たとえいっときの色にせよ
全てを染める色だから
幸福の色だから
あと何回この夕陽をみることだろう
そのたびに俺は幸福でいられるのだろうか
夕焼けへの想いは六十億
俺の想いはその一つ
そうだった
夕焼けとは
人々の想いの燃え上がる現象なのだ
やがて俺の長い影は闇と同化するだろうが
俺はもう少しだけ赤いままでいたいと思う
この想いを言葉にしても赤いままでいたいと思う
ことばが理性的なものであるとは限らないから
(詩作の時期不明)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(追記)
☆朝からよく晴れた日。そして夕刻になっても未だ、かすかな暖かさの残る夕暮れの中で 真っ赤に染まった沈みゆく太陽(夕陽)を偶然発見した時。
そんな時は時折、人を少し高揚させると同時に、感傷的にもさせるのかもしれない。
我が子が亡くなった年(2012年)の5月末のある晴れた日、私は独り、日本海の夕陽を見 に山形県の鶴岡市の加茂まで車を走らせた事があった。
その時、私は生まれて初めて「海に沈む夕陽」を見続ける体験をしたのだったが、果た して我が子(伊達)がこの詩を書いたのは、このような場所であったのだろうか。
いや、決してこのような場所では無かったのではないのかと、私はその時、何となく直 感的に、そう感じたのであった。
確かに美しい夕陽ではあったのではあるが、何の感傷も感情も殆ど浮かんで来なかった からなのである。
では、我が子が夕陽を見たのは、どんな場所で、どんな心境の時だったのだろうか。
勝手に色々考えてみた結果、私は、大勢の人々が帰宅を急ぐそんな都会のビルの谷間に 沈む少し小高い場所で、誰か想いを寄せる人(女性)の事を想いながら眺めたのではな かったのではないのだろうかと・・・。
「東京砂漠」という歌謡曲があるが、當に、都会の喧騒の渦巻く群衆の中だからこそ、 明日という確かな日(幸せの)到来があるのを期待しながらも、何故か自分だけには、 もしかして「明日が来ないのではないだろうか」という、一抹の「寂寥感」や「不安 感」に襲われたのではなかったのではないだろうか。
私には、何故かそのように思えてならない・・・。
2019年5月9日(木) 野川秀行。
|