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崇徳天皇は、躰仁親王が皇位を継げば、天皇の外祖父として権勢を振るうことができると目論んだ、藤原忠通の強い勧めもあって、鳥羽上皇の提案を受け入れました。
崇徳天皇は鳥羽上皇の悪意には気づかず、油断していました。
いざ譲位の段になって、宣命が開かれてみると、そこには躰仁親王のことが皇太子と書かれてあるべきところ、皇太弟と書かれてあったのです。崇徳上皇が院政を布くためには、天皇の父でなくてはなりません。崇徳上皇にとって躰仁親王はどうあっても皇太子でなければならないのです。
つまり崇徳上皇は鳥羽上皇にまんまといっぱい食わされたわけです。
慈円の『愚管抄』によると、崇徳上皇はこのことで鳥羽上皇をひどく恨んだといいます。
慈円は、崇徳上皇とは別の思惑から、譲位を熱心に勧めた藤原忠通の実子ですから、これは忠通の観察でしょう。忠通も鳥羽上皇に騙されたうちのひとりですから、崇徳上皇がそのような態度を彼に見せたのかもしれません。
崇徳上皇の権力中枢からの排除に成功した鳥羽上皇でしたが、近衛天皇(躰仁親王)は、子のないまま、十七歳の若さで崩御されました。
鳥羽上皇は誰に皇位を継がせるかで思い悩みましたが、崇徳上皇の子には決して継がせようとはしませんでした。鳥羽上皇は藤原忠通の意見を聴いて、崇徳上皇の弟雅仁親王に皇位を継がせることにしました。
近衛天皇の母美福門院から、天皇の死は崇徳上皇の呪詛によるもの、という訴えがあったからともいいます。
雅仁親王は後の後白河天皇で、鳥羽上皇と、崇徳上皇を生んだ璋子との間に生まれた子でした。すなわち鳥羽上皇にとって、叔父子の崇徳上皇と違って、実子だったわけです。
崇徳上皇の血統の、皇位継承からの排除が決定的となり、その恨みは頂点に達しました。
いよいよ保元の乱です。
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