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さて、保元の乱です。
一一五六年七月、鳥羽上皇が崩御されると、崇徳上皇は、皇統の奪還に向け、早速行動を起こします。
桓武天皇が正規軍の基本機構を廃止して以来、平安時代の三百年間の間、朝廷には正規の軍隊が存在しませんでしたから、崇徳上皇が頼ったのは新興勢力であった武士です。
崇徳上皇は、あり余る才能を持ちながら、藤原家の主流にはなれず、不満の鬱積していた藤原頼長を味方につけ、また平家や源氏の武将を配下に収めて、戦備を整えます。
しかし生前の鳥羽上皇は、自分の死後、内乱に至るであろうことを見越して、後に残されることになる後白河天皇のために、備えを怠りませんでした。もちろん正規軍というものが存在しない以上、信頼できそうな武士に頼るのです。その辺の事情は、崇徳上皇側と同じです。
崇徳上皇側はひそかに兵を集めますが、これを探知した後白河天皇側は先手を打ち、夜明けとともに攻撃を仕掛けました。不意をつかれた崇徳上皇側はなすところなく敗れ去りました。
崇徳上皇は仁和寺に逃げることが出来ましたが、頼長は死に、武家の棟梁たちは捕えられました。
この乱は、親兄弟が敵味方に分かれて戦った戦いでした。
崇徳上皇は後白河天皇の兄ですし、関白の藤原忠通は戦死した頼長の兄です。また崇徳上皇側についた、平忠正と源為義は、それぞれ、後白河天皇側についた平清盛の叔父、源義朝の父でした。
それにしても後白河天皇の敗者に対する処罰は過酷でした。
戦死した頼長はともかく、反逆罪で、しかも武家ですから、平忠正と源為義が斬罪に処されたのは無理もないのですが、後白河法皇はあろうことか、その処刑を、甥の清盛と実子の義朝に執行させたのです。
つまり五倫五常の一つ、孝に反する厳命を下したわけで、皇室の不徳もここに極れりという感じです。
肝心の崇徳上皇は讃岐への流罪となります。
そう、崇徳上皇が怨霊と化す、あの讃岐の白峰です。
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