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保元の乱から承久の変にいたる一連の流れで、皇室が権力を喪失していくことになった最大の要因を、『逆説の日本史』の井沢元彦氏は、律令制度の根幹である公地公民制が当時の日本の実情に即さなくなっていたからだとしています。
これは藤原氏の専横によって全国に蔓延した荘園が、公地公民制を有名無実化し、その結果として、土地支配の不安定化から、開拓武装農民である武士勢力の発生と台頭という事態を招いたということです。
井沢氏はこのように土地制度の問題を皇室の権力喪失の最大の要因と見たわけですが、江戸時代の儒者が見たような、皇室の失徳行為が自らの権力喪失という事態を招いた、とする見解を否定しているわけではありません。どちらかといえば、土地制度の問題を重く見ているということです。
私はここでどちらがより大きな問題であったかというようなことを論じるつもりはありません。
大きな歴史事件の多くは、さまざまな要因が絡まりあって起きることが多い。
大事なのは、どの要因が大きかったかということはもちろんですが、これらの要因がどのように絡まりあって、大きく歴史を動かしたのか、ということではないでしょうか。
そのほうが大きな運動体である人間社会の動態性、歴史のダイナミズムが、数世紀を隔てた現代のわれわれにも伝わってくるように思えるのです。
さて、私はここで、保元の乱から承久の変にいたるまでの、皇室が権力喪失に至る一連の過程を、扇子にたとえてみようと思います。
扇子の骨格は、骨と要(かなめ)の部分からなっています。
要とは骨が重なって留められている部分です。この要を中心に骨は広がり、そして折りたたまれていた和紙の部分は、風を送るための扇を形成するのです。ちなみに「おうぎ」は、「あふぐ」(あおぐ)から派生した言葉です。
日本社会をこの扇子にたとえるなら、折り目によって区分された和紙は社会各層が見せる諸相であり、骨は日本社会を構成する各共同体ということになりましょうか。各骨ごとに折りたたまれた和紙は、各共同体にまつわる事件であり、これらは密接につながっているとともに、すべてに表と裏があります。
そして骨を柔軟に束ねる要の部分は皇室ということになるでしょう。
われわれが扇子で舞ったり、風を送ったりするとき、力を入れて、しっかりつかんでいるのは、要の部分です。和紙が風圧を受けると、骨の部分を通じて要の部分にその圧力が集中してかかります。これを、しっかり力を入れて掴んで動かすのです。
その要を掴んで動かす力とは、現実社会においては、その社会が持つ政治力といっていいものだと思いますが、独裁者を好まない日本の歴史においては、皇室がその役割を果たすことも時にはありますが、そういったケースはごくまれで、多くの場合は皇室を握っている権力者たちが日本という扇子を大きく動かしてきました。
しかし、そもそも要の部分、それ自体が強くひとつにまとまっていないと、扇子をつかむ手に大きな負担がかかってくるのは当然なことです。これは、要が外れて、骨がばらばらになった扇子を振り回すことを想像してみればわかりやすいでしょう。
さてここで、この扇子を保元の乱当時の日本の社会に当てはめて見ますと、井沢氏の指摘しておられるように、土地制度の矛盾によって、皇室の掲げる名と社会の実態の乖離は著しいものがありました。
つまり日本という扇子は、非常に骨の撓んでいる状態にあったわけです。
通常、この骨は竹などでできていますから、強くてしなやかな弾力と復元力を持っています。この弾力と復元力を担っていたのが、当時、地方(すなわち土地)に密着して、政治的実力を蓄えつつあった武士ということになるでしょう。当時藤原氏は、後三条天皇以来の院政の強化により、勢力を衰えさせていました。
こういった状況にありましたから、自然、当時の復元力は、新興勢力であった武家が担っていたこともあって、その復元力が強く、これを束ねておくには要の部分である皇室がより強くまとまっていなければならないはずでしたが、皇室自身の乱倫が有力な原因となって、自ら分裂してしまいました。
日本社会が勢いよく弾け散ったのは、当然のことだったといえるでしょう。
このように見たとき、骨が撓んでいたことに象徴される社会制度の矛盾が極限にまで達し、内乱の大きな要因となったのはもちろんのことですが、要の部分がしっかりしていれば、また違ったかたちで復元の方向に向かうことも可能だったでしょう。
にもかかわらず、後白河天皇はさらに失徳を重ね、戦後処理において残忍な処置を行い、さらにはその非寛容の精神から崇徳上皇の怨霊まで発生させてしまいました。当時の価値観から言っても不徳の極みです
この要の部分を最終的に壊したのが、数代にわたる皇室自体の失徳行為であったことは、やはり歴史の教訓として押さえておかなければならないことだと思います。
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