国体学のすゝめ

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話は遡ります。

廃藩置県の成功は、当時の内閣に自信を植え付け、勢いに乗った政治的飛躍、冒険的政策へと駆り立てます。本来なら、公議として熟さぬ内の廃藩置県断行でしたから、次は内政に力を注いで混乱の収拾、人心の鎮静化に努めるべきでしたが、国外に対しては西洋各国への条約予備交渉のための勅使および視察団派遣、国内に対しては彼らが条約改正の前提条件となると考えていた国内の文明化(概ね西洋文明化)に向けた諸改革の実施という、さらなる急進的政策に走ったのです。

西郷を首班とする留守内閣の優秀さが言われますが、彼らが行った諸改革はほとんど勅使派遣以前に内閣の評議を経て公議として定められていたものです。留守内閣がこれを実行していくコツは反目対立しがちな政府内の一致一和をいかに破綻させないかにかかっていました。特に省庁間の対立、強大な権限を誇る大蔵省の横暴は改革が廃藩置県断行に飛躍したことで棚上げされた状態でしたから、そこをいかに破綻させずに、諸改革を進めるか、それで留守内閣の力量が問われるのです。

視察団の目的の一つ、特に大久保に課せられた課題は、先進国がどのようにこの問題に対処しているかを視察する事にありました。だから人事には手をつけないという約束が視察団と留守内閣の間で交わされた。これは大久保らが帰国して改革に当たるまで、省庁間の対立をこれ以上こじらせず、現状を維持するという意図があったからです。別に巷間言われているように留守内閣に好き勝手をさせないためではありませんでした。問題児であった大隈重信も回想で言っているように、当時の内閣は歴代内閣でも最も結束して成果を上げた内閣であり、廃藩置県という偉業を成し遂げた一体感には相当なものがあったのです。

むしろ約束は、その約束の趣旨にも書かれているように、政府を二つに分割して、一方は長期の外遊へ、一方は内政に当たるという古今未曽有の冒険的事業を行うにあたって、諸事連絡を取り合って、意思の疎通を細心に図りつつ、遠く離れ離れになった政府の一致一和を維持するために交わされたのです。

幕末以来、人心の一致一和こそ、王道的人民民主主義のコツであると弁え、これを天道として行ってきた西郷はここで力を発揮しました。留守内閣は文明化のための諸改革を実施していく上で、様々な問題に直面しますが、筆頭参議兼陸軍大将(後に近衛都督も兼ねる)の西郷が何とか破綻を回避していくのです。

そこで大きな障害となってきたのが、西郷が多忙でなおざりにしてきた、すでに触れたところの旧主島津久光による西郷弾劾でした。彼は帰郷して、久光の誤解を解くと、久光とともに上京することに決し、脚気の症状が緩和する春まで鹿児島に滞在します。その間に、要を失った政府では、省庁間の対立が激化し、大蔵省と司法省がほとんど機能停止状態に陥ります。予算をめぐって江藤新平率いる司法省と井上馨が率いる大蔵省が激しく対立した結果としてです。井上は大久保から大蔵省の後見を託されていた西郷の上京を切望しますが、彼は鹿児島を離れることが出来ません。予算をカットされた司法省は機能停止、非難された井上が辞職し、守秘義務に違反して新聞紙上に政府財政が危機的状況にあることを暴露して騒ぎは大きくなります。参議大隈重信は大蔵省総裁に就いて火消しに努め、江藤が司法捜査に乗り出すなど、事態は思わぬ方向に進んでいきます。政府は大幅に遅延している岩倉使節団の帰国を待ちきれず、大久保・木戸の帰国を要請していましたが、大久保が帰国した時には、上京した西郷を中心に混乱を収拾するため、政府が、諸省より、佐賀藩出身の江藤と文部卿大木喬任、土佐より後藤象二郎らを参議に加え、政府権力を補強した後でした。彼らは誓約に配慮してこれを「政体潤飾」と言いましたが、実質的には人事改革であり、これにより参議構成は薩摩一、土佐二、佐賀三で、長州閥との関係が深い太政大臣三条実美を除けば、長州人はいない状態になってしまいました。西郷は道義による一致一和の立場から門閥藩閥人事に無頓着でしたが、江藤新平が藩閥打破の立場から長州の腐敗官僚退治を始めたため、問題がこじれる事になります。

大久保・木戸はそれぞれ、この問題に巻き込まれることを嫌って、政府と距離を置きました。
しかし、本来なら彼らこそ、この問題の解決に取り組まなければならなかったはずです。大久保の外遊の目的の一つはこの対立解消の方策を見つけることにあり、木戸はこれら急進官僚たちの庇護者であったのですから。
さらに西郷と大久保の間に何か亀裂が走ったことも、今後の日本を揺るがす大きな亀裂となったようです。国内にとどまった西郷はこれまで通りの國體論、すなわち王道的人民民主主義に基づき、西洋文明を相対的に捉え比較考量しながら取り込んでいくべきだと考えていましたが、西洋文明を実際に見て来た大久保は、西洋文明の本質をとらえきれないまま、かなりの高みに置いて、取り込めるだけ取り込んで、後の整理は後進に任せる、という考えを持っていました。

このタイミングで征韓論という外征問題がにわかに立ち起こり、輿論が一部で沸騰します。木戸が廃藩置県と並んで、自ら命懸けで取り組みたいと考えていた、外交における維新政策、言わば王政復古討幕、廃藩置県に次ぐ、第三の維新です。しかし、西洋を視察してきた木戸の考えは外征不可、内治優先論に変わっていました。
実は参議である西郷・板垣、外務卿の副島は一年程前から、この外交問題の調査研究にあたってきていて、国際情勢を見て取り組むべき問題と捉え、準備を進めてきたのです。

遅れて帰国した岩倉と大久保は必ずしも外征反対論者ではありませんでしたが、薩長を軸とする廃藩置県断行時の内閣構成を最善と考えており、江藤の長州閥退治の秘められた策謀を同じ佐賀閥で西郷嫌いの大隈が漏らしたため、外遊前の状態への巻き戻しのために結束していきます。それを背後で運動したのが、江藤の長州閥退治に深刻な危機感を覚えていた伊藤博文と木戸でした。彼らは征韓の輿論に乗っかって、道理に基づく大使派遣論を唱える西郷の主張が公論となることを阻止して、新たに参議になった江藤を排除しようと企てます。この企てを留守内閣の政策に対し怨望を抱えてきた勢力が後押しします。大きな働きをした人物で言えば、樺太政策などの外交政策で対立して、副島や板垣に強い不満を抱いていた北海道開拓使長官黒田清隆などは、西郷の信頼を逆手にとって、征韓派の動静を窺う間諜の役割を果たしています。
西郷を中心とする征韓派は最新の大陸情報を分析して、朝鮮問題に着手する好機と見なして、閣議に相当する正院における評議にかけます。

これまで朝鮮は、宗主国である清朝に対する配慮から、また彼らの中にある小中華意識から、日本を侮蔑し、草梁倭館という釜山にある旧幕府から引き継いだ外務省の出先機関を通じての国交修好要請を拒絶してきたのです。外交文書中に、中華の皇帝以外使用してはならない「皇」の字が使用されていると言って、またそもそも東夷である日本人が今度は仮洋夷になったと言って、草梁倭館に現在の反日デモのような事まで行って侮蔑したのです。これはこれから作ろうとしていた天皇を中心とした近代国家日本の國體・政體に対する拒絶でしたから、正院における評議では、国際法(万国公法)に則って護衛兵力を伴った問罪使派遣を適当とする議論が盛んでしたが、これに待ったをかけたのが西郷だったのです。西郷は道義上の立場から、万国公法の上を行く、道義外交を行うべきだと考え、問罪使派遣の前に、まずは護衛兵を帯同しない開国修好を勧説する勅使を派遣すべきだと訴えたのです。そして、その勅使の役目は自分に務めさせてほしい、と。

あらゆる証言を分析して、西郷の真意を深く探ると彼の深謀遠慮が浮かび上がってきます。
まずは世界を鳥瞰する視点から入っていきましょう。
西郷が最も憂慮していたのは世界最大の陸軍国である帝政ロシアの東アジアへの侵略です。
西郷はユーラシア大陸の覇権をめぐって対立関係にある英国と結んで、ロシアを挟撃するという構想を持っていました。当時老帝国オスマントルコの衰退は著しく、英国はこれを助けることでロシアの西アジアにおける膨張を抑えようとしていましたから、ロシアの東西両側で同じ構図を作ることで、ロシアに対抗できると踏んだのです。そのために重要なのが、清朝の封禁政策(清朝は満州人の王朝で、故郷である満州への立ち入りを禁ずる政策)によって軍事的空白地帯となっていた広大な満州地方でした。西郷は廃藩置県で職を失った軍事の玄人である武士をここに送り込んで、開拓させつつ、防衛に従事させ、同時に東アジアにおけるオスマントルコに当たる衰退著しい老帝国清朝を激励して、近代化を助けることで、満州地方へのロシアの浸食を予防するつもりでした。その大陸政策のとっかかりとしての朝鮮問題という位置づけです。主題は朝鮮の開国による近代化で、そのことにより満州地方への通路を確保するということです。これは領土的野心などというものではなく、その名も「東方を制覇せよ」という意味の都市ウラジオストックを拠点に、朝鮮北部の国境地帯に迫りつつあるロシアを牽制する目的で派兵するためでした。この頃既に朝鮮李朝は内政が破綻寸前の状態で、国境地域で朝鮮人の難民が越境を開始していたのです。
いずれにしてもいわゆる満鮮一帯へのロシアの南下を防ぐ意図から発せられたものでした。かつて勝海舟は日清朝三国の同盟構想の一環として神戸海軍操練所を設立しましたが、同じ趣旨から発せられたものと言っていいでしょう。
西郷は開国近代化を勧める勅使となって李朝に赴く。これにどのように応じるかは彼ら次第ですが、当時李朝を牛耳っていた鎖国攘夷主義者であった大院君は、翌年、彼の政治に不満を抱く勢力の巻き返しに遭って失脚しますから、西郷は勅使としての使命を無事果たせた可能性もあります。彼らが勅使を殺すに違いない、という言い分は大陸情勢に疎い反征韓派の言い分ですが、その可能性はなかったとは言えませんが、うまく行って戦争にならない可能性も十分にあったのです。常識的に考えれば、日本政府の筆頭参議兼陸軍大将が護衛兵も帯同しない礼装で勅使として訪れれば、その平和目的は際立つはずで、しかもこれを殺せば、彼らが侮蔑しつつも恐れる日本の軍隊が黙っていないことぐらいは容易に想像できるでしょう。外務卿の副島が勅使を務めるより、よほど平和目的と示威が両立しうる絶妙な政治的選択なのです。副島が主張する問罪使の派遣は彼らが対応を誤った時でよく、そうすれば国際社会を味方につけて、副島が堂々従来の抱負を行なえばよいのです。西郷が以上の政治的洞察を持っていたことは彼の主張をよく読むと明らかです。
そもそも征韓と言っても、当時の元勲の儒教的教養によれば、「征」という字は「正」すということで、必ずしも征服を意味しません。「征」とは「政」の一部で、「正」すことを意味するのです。その目的のために、武力の発動が必要とされるとき、「征」となる。この辺のニュアンスを、「征韓」の言葉に畏縮する近代の知識人はあまり理解していないのです。

日本にとって、西洋列強の侵略を防ぐための開国近代化は國是でした。清朝や李朝の王朝体制の既得権益を守りたい勢力にとってははた迷惑であったかもしれませんでしたが、自主保全もままならない彼らを開国近代化させるというのは、われわれの道義から導き出された正義でありました。
すでに外務卿の副島種臣は特命全権大使として清に赴き、この大趣旨に則した外交を堂々展開して大変な成果を上げていました。彼は万国公法に照合させつつ、その該博なシナの古典籍の教養を駆使して、清朝の実力者で日本との提携を模索していた李鴻章を感服せしめ、頑迷な朝鮮の開国も視野に入れた王道外交の基礎を築きつつあったのです。
本来なら朝鮮へ派遣される勅使の任に当たるべきは外務卿の副島でしたが、西郷は趣旨を説明して帰国したばかりの彼を説得し、これを納得させます。正院の評議は西郷を勅使として派遣することで一決しましたが、太政大臣三条実美は念のため、もうじき帰国する予定の岩倉らを待って、彼らの承認を経てから実施するということで明治天皇の裁可を得ました。

しかし、岩倉が帰国しても評議は一向に行われません。岩倉は特に征韓論に反対であったわけではありませんでしたが、征韓派の面々、特に江藤が質朴な薩摩人の驥尾に付して、藩閥打破のために長州退治を目論んでいるという情報を、恐らく同じ旧肥前佐賀藩出身の大隈重信が漏らしたものと筆者は考えています。彼は江藤から藩閥打破のために長州退治で手を組もうと持ち掛けられ、断ったことを後に回想しているのです。
岩倉が伊藤や大隈を自邸に招いて意見を聴取したあたりから、雲行きは怪しくなっていきます。彼らは急に事態を悲観し始め、西郷の勅使派遣を阻止しようと画策し始めるのです。

岩倉らの外遊は西欧視察を兼ねていたものの、条約改正予備交渉こそが主目的であり、その点で予定を大幅に上回りながら、何の成果も挙げることがなかった外遊でした。だから岩倉自身、鉄面皮の官費旅行と自嘲したのです。

一方の留守政府は不十分ではありましたが、予定された改革において成果を挙げ、政府の破綻を免れて、今度は外交面における維新に取組もうとしていました。これが成功すれば、征韓論に与する新参議を排除することは難しく、長州勢は復権できなくなってしまう。
非征韓派はそのように受け止めたと推測されます。

政府の在り方を薩長の提携を主軸にして天下の人材を糾合するものと考えていた三条と岩倉は西郷の勅使派遣を阻止すべく、大久保に白羽の矢を立てます。大久保を立たすべく周旋したのは後に長州閥を担って立つことになる伊藤博文でした。
大久保は三条・岩倉の趣旨に則ると言って、両者に見捨てないとの誓約をさせた上で、征韓論阻止のための論陣を張ります。それがいわゆる内治優先論で、木戸の内治優先の建白を借りてきて、西郷が海を渡れば彼らは勅使を殺し戦争になる、と言って反対するわけですが、ためにする議論です。だから、彼らが結果的に政争の勝者となった暁には、率先して外征を行い、内乱を誘発し、膨大な国費を使って西郷をはじめとする優秀な人材を粛清してしまう事になるのですから、何をかいわんやです。
西洋文明を取り込んでの富国強兵は何も大久保の専売特許というわけではなく、維新政府中枢のコンセンサスでしたから、彼は薩長閥を死守し、彼なりの殖産興業政策を布いた功を挙げたというにとどまります。筆者は大久保の維新政治家としての堕落をこの政変に見るのですが、それは明らかに外遊がきっかけで、それ以降の彼は岩倉や伊藤や大隈とはうまくやっていけても、維新の精神を継続して事に当たっている西郷と協力して、すなわち一致一和してやっていくことはどう見ても無理であったでしょう。天を相手にして、人を相手にせず。敬天愛人に則って行動する西郷と、人事に拘泥する大久保。
大久保の論はためにする議論でしたから、しっかりとした事実に基づく調査を行って大きな視野で策を立てている征韓派の議論に全く歯が立たず、最終的には西郷本人が評議を欠席したにもかかわらず、三条・岩倉は大久保を見捨てて、征韓派の意見を採用せざるを得なくなりました。
大久保は辞職し、岩倉は病気と称して評議に出て来なくなりました。

征韓派は天皇への奏上をすぐに行うよう孤立状態の三条に迫ります。
精神的に追いつめられた三条は、ストレスのあまり家で倒れ、人事不省に陥ります。軽い脳溢血であったようです。これが反征韓派にとって起死回生の足掛かりとなります。ここでも岩倉と大久保を立ち上がらせたのは伊藤でした。
大久保は同郷の吉井幸輔が天皇の侍従を務めていることを利用して、倒れた太政大臣の代理として岩倉の指名を工作します。天皇は三条邸に見舞いに訪れた後、岩倉邸に行幸し、直々に太政大臣代理を指名します。大久保は指名の経緯を岩倉に伝えなかったようで、彼はこれを天皇の親断と受け止めたようです。岩倉は三条の代理として、勅使派遣決定の奏上の責を負うことになりますが、釘を刺しに岩倉邸を訪れた西郷をはじめとする征韓派の面々に、征韓派の意見と岩倉の意見を同時に奏上する、と伝えます。それでは閣議は意味をなさず、万機公論に決すという政府自身が定めた維新の意義を自ら否定してしまう事になります。征韓派の面々は激昂しますが、西郷はこれを不法行為として、政府を見限る決断をします。彼は辞表を提出し、早々に帰国します。これは兵隊を中心とする征韓派の有志が激昂し、都下で騒擾が起きることを防ぐためでもありました。

西郷は岩倉の不法行為で政府を見限りましたが、実はもっと悪質なことが行われていました。大久保は吉井には事情を知らせず、征韓派の面々が天皇への直訴に及ばぬよう、御所の警護を固めさせたうえで、岩倉に、反征韓派にとって都合のいいように書かれた虚偽の奏上を行わせたのです。曰く、皆が反対したが、西郷一人が大使派遣を言い張った、と。
そして、大久保は西郷の辞職願は、陸軍大将の肩書はそのままながらも認め、辞職願を提出していた他の征韓派の参議については勅命により免職させるよう、指示していました。結局、勅許という形になったのを、大久保は手筈と違うではないかと、岩倉に抗議する手紙を送っています。
大久保は自己の陰謀が岩倉以外に知られぬよう、細心の注意を払いましたから、西郷は彼の陰謀を知りません。西郷は後に大久保を「腐れ芋連」の筆頭に挙げますが、今回の岩倉の不法行為の裏にいるのは、決して表に出てこなかった木戸孝允だと思っていたようです。木戸は確かに伊藤とともにありましたから、長州閥復権のための、反征韓派の側にあったのは確かでした。
そういった事情もあって、腐っても自己の主張を堂々開陳した大久保に、西郷は別れの挨拶に行きます。薩摩に帰るから後はよろしく頼むという西郷に大久保はいら立ちを隠せず、つっけんどんな態度を取ったようです。後で、たまたま対面の現場に居合わせた政変の陰の立役者であった伊藤は、大久保の平静に似合わぬ態度に、今のはちょっと酷かったのではないですか、とたしなめられたほどです。これには大久保も反論はなく、自分でもそう思うと答えたと、伊藤は後に回想しています。
西郷は去り際に「汝は十分にやれ、自分は故郷に帰って、自然天下に大事があれば、召されずとも出京致す」と言い残したと言います。彼は陸軍大将職を残した大久保の隠れたメッセージをちゃんと受け止めていたのです。そもそも二人の間には外交は西郷が、内政は大久保が分担協力して取り組むという固い約束が交わされていたようです。西郷の征韓論は言わばこの役割分担から自然に生じたものでしたが、人心の一致一和を政治的信条とする彼は内政についても大綱を掴んでいました。廃藩置県以後の政権を維持せしめたのも西郷の人望、政治力という面が確かにあったのです。この約束により、大久保が東アジア外交において、全く見識と遠略を欠いていたことも腑に落ちますが、その見識不足がその後の日本外交の運命を左右することになるのです。

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征韓論の趣旨は、「朝鮮を武力征服する」ではなく、対露外政政略の重要な一環として、頑迷な朝鮮の目を見開かせ、現実に気付かせて、ロシア南下の防壁とする狙いなのは、今や結構知れ渡って来ていますね。
「征」の字面から私も、昔は武力征服を意味するのかと勘違いしてましたが。

それにしても(いくら史実を論じてるとは言え)、維新後の大久保が、維新前とは打って変わって、視野狭窄な人物として描写されてるのには、何やら残念なものが・・・

2019/3/27(水) 午後 9:01 ZODIAC12 返信する

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コメントありがとうございます。

「征」と「政」は音が「正」と通じていて、漢字では音が通じると意味が通じることが多々あるのです。「征」「政」が「正」であることは、『論語』『孟子』でも主張されていることでもあります。

外遊後の大久保に関しては評価が微妙で難しいところですが、彼自身が自任するところの内政家として見た時、征韓論破裂で彼が勝者となってからの内政の混乱、迷走ぶりを見ると、また失ったものの大きさを秤にかけると、どうして高い評価が出来るのか、逆に不思議で仕方ないのです。

2019/3/28(木) 午前 5:06 [ 稲垣秀哉 ] 返信する

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