国体学のすゝめ

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西郷帰郷後の政府は迷走を重ねます。
政変の主目的たる江藤新平が佐賀の征韓派(彼らは民権派でもある。彼ら旧武士階級にとって、民権とは国民としての義務を行う権利であり、彼らは輿論を提議し、公議として定まった国策に参加する権利として征韓論を主張していた。)と島津久光を崇敬する島義勇を首領とする保守派が組んだ決起に参加すると、これを討伐して、大久保自ら出張して、ろくな裁判も行わずに処刑した上、さらし首にまでしました。その写真は今でもインターネット上で見ることが出来ます。大久保の江藤に対する憎悪はそこまですさまじかったのです。

そして、大久保は内治優先を唱えたその舌の根も乾かぬうちに、台湾征伐に取り掛かり、清朝が抗議すると北京に赴いて、強引に台湾が化外の地(中華文明の教化に属さぬ地である事)であることを認めさせ、戦争の賠償金までせしめました。そして江華島事件を契機とするペリー流砲艦外交により、李朝を恫喝して開国させると、これで李鴻章は完全に反日になります。

筆者はこの時期の大久保を政治家として全く高く評価していません。現代の政党政事家に比べれば大変優れた愛国政事家であることを認めるのにやぶさかではないのですが、西郷との比較ということになるとどうしても比較にならないと思われるのです。
大久保は薩長閥を護るために政変を画策し、公議となった大陸政策を潰し、そのことによって大火事を起こしておいて、その飛び火を躍起になって消して回った。そして、いざ自己の抱負を実行に移そうとしたその矢先に凶刃に倒れてしまったのです。いや、最後の火の粉が彼にかかって、彼を焼いたと言った方がよいかもしれません。

一方、帰郷後の西郷は晴猟雨読の生活で自己を韜晦していましたが、政府を見限り、彼を慕って帰郷した兵隊たちの要望を容れて、言わば国のために義を踏み行なう志士を養成するための学校を設立します。公に対する私の学校ということで「私学校」と名づけました。また西郷を引っぱり出すために帰郷した従弟の大山巌がもたらした福沢諭吉の海防論(おそらく『学問のすゝめ』第三篇「国は同等なる事」「一身独立して一国独立する事」)を読んで、政府からの秩禄で暮らしを立てている旧士族の独立の活計のための開墾事業を興して、自ら鋤鍬を振るって今度は晴耕雨読の日々を送り、長州で前原一誠が起こした乱、肥前熊本で廃刀令に憤慨した神風連が起こした乱にも、私学校徒の動揺にもかかわらず、けっして与することはありませんでした。
彼は廃藩置県の時のように、いずれ政府が立ち行かなくなると見ていて、その時、再び政府を立て直せるよう、実力を蓄えていたのです。

その間、島津久光もまた西郷が下野した後、政府を正そうと尽力しますが、政変以来、天皇を私している大久保を柱とする政権の迷走を止めることが出来ず、辞職して薩摩に帰ります。事情を理解した久光は帰郷後、西郷に使者を送り、王政復古の時のように共に手を組んで国家に尽くそうと申し入れますが、西郷は「日本人たるの道を踏み、斃れて止むのほか他意ない」「私共素志においては、唯国難に斃るるのみの覚悟」と述べて、この申し入れを謝絶しました。

そして、明治十年に入って、いよいよ国民の義務に起ち上がる時が来ました。
どこの情報筋からかわかりませんが、ふたたびロシアとオスマントルコの間で緊張が高まっている、との情報が私学校にもたらされたのです。彼らは再び時期は来たと見て、武器類の点検を行い、大陸政策着手の輿論を喚起するために陸軍大将西郷が薩摩義勇兵を帯同して上京するための準備を整えました。
四月には実際にロシアとオスマントルコの間で戦争が勃発しますから(いわゆる露土戦争)、私学校が国際情勢にいかに敏感でアンテナを張り巡らせていたかが窺えますが、政府はこれを問題にするどころか、情報を探知した形跡もありませんから、いかに彼らが国際戦略を持ち合わせていなかったかが浮き彫りにされるのです。

これを密偵からの情報で、政府に対する挙兵の準備であると大久保に報じたのが黒田清隆です。彼らは西郷を信頼していても、その忠実な弟子たちである私学校徒は信用していませんでしたから、これを決起の準備としか受け止められなかったのです。大久保は特に桐野利秋に送り込んだ密偵から、彼が戦争するつもりだ、と豪語していたとの報告を受けて、彼を警戒していました。

大久保は海軍の船を差し向けて、武器庫の武器弾薬を運び出して暴発を予防するとともに、「東京獅子」と呼ばれる密偵二十余名を送り込んで、より詳細な情報収集と、私学校と若年校徒との離間を謀ります。これを探知した私学校は警戒感を強めます。

私学校では、「東京獅子」と呼ばれる帰省中の警察官らの中心人物の一人、中原尚雄と旧知の間柄で、貧しさを理由に私学校へ入校していなかった谷口登太という人物を間諜としてスカウトします。後に谷口が供述しているところによると、明治十年正月二十六日頃、私学校の相良長安という人物が彼のもとを訪れて、私学校に入るよう勧めた際、私学校は外難が生じた時に備えるための学校であって、国内で戦争するための学校ではない、現在すでにアジアのトルコで戦争が始まっているから日本に及ぶ可能性もある。二月下旬ころには私学校は繰り出し、上京の手はずで、兵器などの取り調べもしている、と聞かされたと述べているのです。

正月二十九日の深夜、重大な事件が起きます。酔っぱらった私学校徒数十名が、このままなら先にやられる、ということで、草牟田にある政府の武器弾薬個を襲撃し、略奪するという事件が起きたのです。翌朝には私学校の中堅幹部辺見十郎太が「仕方ない、ちょっと取るも沢山取るも、五十歩百歩で同じことじゃから、いっそのこと全部取ってやれ」と言って、騒動に加わったものですから、暴徒は千人に膨れ上がり、一部の私学校徒の犯行から私学校全体の犯行になってしまったのです。

やがて私学校は暴発すると見ていた政府は前年十二月末頃から鹿児島近辺にある武器弾薬の移送を極秘の内に進めていました。数回に分けて運び出しは行われたようです。実はこれは県庁との取り決め違反で、本来なら白昼堂々、県庁の人間の警備と立会いの下で行われることになっていましたから、これに感づいた鹿児島の人士が疑心暗鬼に陥ったのも当然のことでした。
あまつさえ、政府が密偵を鹿児島に送り込んで、西郷暗殺を企てているという噂が流れていた時のことです。

武器弾薬略奪事件の勃発は三十日早朝には私学校幹部の知るところとなり、帰省している警官らの調査を急ピッチで進める事になり、中原に対する谷口の訪問が促されたのです。

谷口は早速、中原のもとを訪ねて、久闊を叙し、言葉を交わすうちに油断した相手から、「しさつ」するために帰省したとの言質を取ります。「しさつ」とは「視察」の意味であったのか、それとも「刺殺」の意味であったのか。谷口は後者の意味にとり、報告を受けた私学校は政府が西郷らの暗殺を指示したと言って騒然となります。

これが全くの誤解ないし、作り話ではなかったのは、西郷が事を挙げる時機が来たならば、中原個人の判断で内密に面談を申し入れて説得に当たり、聞き入れなかったら刺し違えるつもりで、この人とともに斃れるならばわが身において不足はないと述べたといい、中原自身もその件は相違ないと後に述べていることからも明らかです。

これは微妙な問題で、政府側、特に警視総監川路利良とその上司である内務卿大久保は、西郷と私学校を区別し、私学校は間違いなく起つが西郷がこれに与するはずがないと考えていて、それでも私学校の謀叛に西郷が与するならば、川路は訓示で東京獅子らに殺害を使嗾し、大久保もまた、必死の覚悟で帰省している彼らが大小為す事があるであろうと了承していたのです。そこには私学校幹部の暗殺、後方撹乱まで含まれていたことは確かです。

一方、私学校徒にとって、西郷は彼らのボスであって一体の存在で、私学校が起つということは西郷と共に起つことを意味していましたから、これを暗殺と受け止めました。

谷口による中原の爆弾発言引き出しが一月三十日の事で、これが私学校に伝えられたのが翌三十一日。

事態は緊迫しました。
私学校幹部篠原国幹は、西郷の実弟小兵衛を大隅半島小根占にいる兄のもとに遣わし、事件を伝えさせました。事件を聞いて驚いた西郷は膝を打ち、思わず「しまった」と言ったといいます。彼が鹿児島は武村の自宅に戻ったのは三日朝の事で、この日より東京獅子の検挙は本格化します。

篠原や桐野は西郷宅を訪問して、こうなった上は軍勢を率いて立たなければならない、としきりに勧告を行ったと言いますが、西郷は当初、大義名分を説いて、頑として応じなかったと言います。しかし、熟慮の上、彼は立つことを決断したようで、七日には県令の大山綱良に決意を伝えています。しかし、これは挙兵をするという意味ではありません。義を踏み行なう決断をしたということであって、大義名分に従って行動する、ということです。

彼は沸き立つ鹿児島県民の政府に対する怒りを見て思ったのでしょう。『孟子』によれば、一つになった民の心は天意である、ならばそれに従うのが天命というものであり、敬天愛人ということになろう、と。それが有名な「それじゃ、俺の体を上げましょう」という言葉になったものと筆者は受け止めています。

西郷は東京獅子らの自供を元に、本来内務省の管轄外である武器弾薬運び出しの事を大久保が知っていたのはなぜか、政府は何の罪もない現役陸軍大将である西郷および私学校幹部で陸軍少将である篠原や桐野の暗殺を命じたというがその真相はどうか、これらを政府に尋問するため(西郷は県令に対して明確に大久保に尋問すると言っています)、兵を帯同して、陸路堂々上京することを、沿道の政府諸機関に通知して、実行に移ります。西郷は県令に「大将の任たるや全国の兵を率いるも、天皇陛下の特許にして、すなわち大将の権内なり。時機次第鎮台兵をも引率すべし」と述べていますから、彼の根底にある頼山陽の著作や水戸学から学んだ國體観に基づいてそのように考えていたのです。
兵は暗殺を指令した疑いが濃厚な政府の刺客から大将らを警護するために帯同する、ということですが、ここには大陸政策着手の輿論を喚起するという、いまだ秘められた意図を内包していることが重要です。後の大山綱良の口供にある西郷の言い分というのは、こういった微妙なニュアンスを伝える貴重なものと言っていいでしょう。

「先年拙者とも東京を引き取る時、既に兵隊のもの、大難を起こし、戦にも及ばんとするの勢いに付き、右の人数を連れて、直に御暇を願い、帰県し、その以来今日まで、人数を纏め居りし拙者の旨意は、何れ近年の内には外患起るべく、然るに日本今日の形勢にては、とてもその防禦を為すこと能わずと見込に付き、その節に当っては、右兵隊のものを以て、国難に報ずる素志なれども、最早今日の場合に至りては、事情切迫するに付き、已むを得ず、右兵隊のものを引率し、上京の上、大久保へ対決し、自分の見込み政府において曲なりと見認めらるれば、甘んじて罪を受くべく、何分大久保へ面会の上ならでは、その曲直も分かり難く、且つ大久保においては、何の謂れを以て、隆盛は事を起こすならんと見込みたるや、その辺も詰問すべく、一体大久保は足下承知の通り、幼年より一家親子同様の交を為したるもの故、拙者において疑いあれば、上京を申し越すか、また自ら帰県してその事情を談ずるか、また委しき書面にて差し越すべき筈なり。」

実は武器弾薬事件が発生する二日前、すなわち正月二十八日の時点で、私学校高岡分校一番隊二百二十八名は高岡を発し、三十日に鹿児島に着したという証言があります。つまり、二十八日以前に動員令が下されていたことになります。そこに事件が勃発して、さらに増員がなされたのです。当時鹿児島に滞在していたアーネスト・サトーもこの速やかな動員を目撃して、遠征に必要な一切の準備は前もってなされていたにちがいない、西郷は自分の合図があり次第、出陣できる準備を整えておくよう、支持者に命じておいたのだろう、と書いています。しかし、西郷は政府に反抗する意志を持っていませんでしたから、他の動機があったことを裏付けています。それが、現在の政府中枢を占める大久保や岩倉の不法行為によって葬られた第三の維新政策たる、大陸政策の時機を見ての輿論喚起であったことを筆者は言いたいのです。

しかし、政府は全く国際情勢に目を向けておらず、ひたすら鹿児島の暴発を最小限に抑えることに心血を注いでいました。大久保は彼らが再び起てば戊辰の役の再現になると予想していましたから、深刻でした。征韓論破裂直後、自らの指示で下させた勅命「西郷従三位、病気につき辞表の趣ありて参議・近衛都督等差免じ、尤も大将旧の如く申し付け置けり。元より国家の柱石と依頼致すの意においてかわることなし。皆々決して疑念を懐かず、これまでの如く職務を勉励せよ」のことなど脳裡に浮かんだ形跡さえもありません。政府は西郷らを免職するどころか給与まで支払い続けていましたから、法理論から言って、西郷らの官位が一方的に剥奪される二月二十五日までは当然のことながら、この大久保が岩倉を通じて天皇に下させた勅命が生きています。大久保が私学校徒による事件の勃発を知ったのは二月三日でしたが、鎮静させるべく、西郷の親戚である海軍大輔川村純義を鹿児島に派遣して西郷に面会させようとしてます。しかし、政府は西郷と親しい川村の派遣に難色を示して引き延ばし、彼が鹿児島についたのは九日の事で、時すでに遅し、西郷に面会することはできませんでした。

大久保が川村からの電報で、一挙に西郷が加わっていることを知ったのは十二日の事で、焦燥し、眼には一杯涙を湛え、鴨居に頭をぶつけながら、家の中を一晩中歩き回っていたと言います。この夜、結局彼は一睡もできず、思慮を重ねた上で、自ら鹿児島に赴いて西郷に直接会って、誤解を解いた上で、意思の疎通を図り、鎮撫しようと決意し、閣議で訴えましたが、これは容れるところとなりませんでした。

鹿児島は十二日より五十年来まれと言われる大雪に見舞われます。薩軍は十五日より、大雪を侵して規律正しく進軍を開始します。西郷は陸軍大将の軍服を着て、島津斉彬が祀られている照国神社に参拝し、旧主島津忠義邸門前では馬を降りて拝礼し、出陣したと言います。久光は西郷の立場に理解を示し、無事上京できるか非常に心配していたといいます。
鹿児島県民はこの大雪を神々が政府の奸計を防ぐために降らせてくれたものと受け止めていたとアーネスト・サトーは書き残しています。これは密偵による放火などの後方撹乱工作の事をさしているのでしょう。

十七日、熊本県庁から「薩人兵器を持し、県下に入る」との急報を得た大久保は内務卿として「速やかに鎮台に報じ、臨時の処分をすべし」と命じます。報を受けていた鎮台は、武器の携行は国憲に触れるということで、薩軍からの通知にもかかわらず、十八日、これを暴徒と決めつけ一方的に奇襲します。

薩軍が挙兵したのはようやくこれに反撃したところから、ということになるのです。
ですから、翌十九日になってようやく政府は征討令を下し、有栖川宮熾仁親王を征討将軍に任命したのです。

筆者が言いたいのは、巷間言われているように、西郷は暗殺疑惑に対する政府への尋問を大義名分にして挙兵したのではない、ということです。彼らはあくまでも、道理に遵って、戦争も辞さぬ覚悟で尋問のために、もっと言えば、大久保と直接対決するために、行動を開始したのであって、戦争になるかどうかは相手の出方次第でした。もっと穿って言うなら、少数の護衛兵を連れて船で直接東京に向かうという方法を取らなかったのは、すでに陸軍大将として大陸政策に関する輿論喚起のため上京の準備を整えていて、今度の上京の目的にそれを内包させていたからです。

しかし、政府の対応は武器を携行してはならないという国憲を理由に、県境を越えた時点で一方的に攻撃を仕掛けるというものでした。これまで先に国憲を犯して征韓論を破裂させたのは大久保と岩倉です。西郷は大久保の国憲違反は察知していませんでしたが、それでも国憲とやらを守り、怒った士族が反乱を起こさぬよう、これを統制してきたのは西郷ら私学校幹部の功です。それをもまた破裂させたのは大久保であり、しかも西郷が固く守っている彼を陸軍大将のままとする、自分が出させた勅命をも破って、今、彼らを攻撃しようとしている。私学校徒のみならず、西郷でさえ、そんな政府に服せるはずがないでしょう。武器を携行してはならないという一般国民に対する国憲と、陸軍大将西郷隆盛をこれまで通り、国家の柱石と依頼し、皆々決して疑念を懐かず、これまでの如く職務を勉励せよ、という特別の思し召し(勅命)はどちらが優先するのでしょうか。鎮台兵は武器を携行してはならないという国憲を破ったとして、直接ではないにしても、彼らの職務の最も頂点に立つ、いわば最高司令官たる陸軍大将に攻撃を加えるという法理上の矛盾を犯す事になるのです。
西郷はそれでも道理に則って行動したのです。彼は、この問題には直接関係ない、久光党からも協力の申し出があったようですが(久光は関与していないようですが)、徒党を組むことになるからということで鄭重に断っています。
大久保は一体、無自覚のまま、どれほどの同胞を、どれほどの有用な人材を殺せば済むのでしょうか。
それをこれから見ていくことになります。

薩軍は二十一日に襲撃を受けて初めて先着諸隊長が評議を開いて戦争を決議しました。しかし、襲撃が政府全体の意志によるものなのか、何かの手違い(誤解)によるものなのか判断がつかず、戦いを始めながらも上京目的を征討総督に訴えようとしたりしています。

西郷がいよいよ本気で戦う覚悟を定めたのは、西南戦争最大の激戦である田原坂の闘いの火蓋が切って落とされた三月四日の事です。この日、陸軍少将篠原国幹が戦死し、政府がいよいよ彼らを攻め滅ぼすつもりであることがはっきりしたからです。彼は翌日の大山綱良宛の手紙で義憤を爆発させて「この上ながら宮を押し立て来たり候わば、打ち居え罷り通り申すべく候」と書いています。「この上」と言うのは、こちらの言い分、正義を宮に伝えた上で、ということで、彼が訴えようとした言い分が次の文書です。
文書は先ず、尋問のため上京しようとしたところ、鎮台から不当な攻撃を受けたという事実から始まります。

「今般陸軍大将西郷隆盛等、政府へ尋問の次第これあり出発いたし候処、熊本県は未前に庁下を焼き払い、剰(あまつさ)え川尻駅まで(鎮)台兵押し出し、砲撃に及び候故、終に戦端を開き候場合に立ち至り候。然る処、去る九日(二月十九日の誤り)には征討の厳令を下され候由。畢竟政府においては、隆盛等を暗殺すべき旨官吏の者に命じ、事成らざる内に発露に及び候。この上は人民激怒致すべきは理の当然にこれあるべく、只激怒の形勢を以て征討の名を設けられ候ては、全く征討をなさんため、暗殺を企て、人民を激怒なさしめて罪に陥れ候姦謀にて、ますます政府は罪を重ね候訳にてはこれあるまじくや。…」

福沢諭吉は彼を弁護する目的で書いた、暗殺など事を挙げる上での大趣意としては足りない、なぜ第一に「薩人たる人民の権利を述べ、したがって今の政府の圧制無状」を実例を以て咎めなかったのか、という『丁丑公論』の中での問いに対する西郷の答えは、「畢竟…」以下のくだりに書かれています。西郷ははちゃんと激怒の主体を人民と言い、この人民の側に理があると言っているのです。これが薩摩の人民の権利の主張でなくてなんでしょう。

暗殺事件の扱いについてもそうで、ここでは暗殺の企ては、政府が重ねている罪のひとつとして挙げられているに過ぎません。同書で福沢が書いたように「暗殺のごときはこれをいわずして可なり、もしこれをいわば他の実事を表するの証拠として持ち出すべきのみ」なのです。
このあたり西郷の思想と福沢の思想が期せずして一致しているのは奇妙なほどです。

ここまでの文中で、激怒の主体が私学校徒であったにもかかわらず、西郷が人民の激怒と表現していることに筆者は注目したいと思います。彼が鹿児島県の人民が激怒で一致一和したと見ていたことの証左として。

確かに鹿児島県民の大半が、この事件で政府に怒り、また西南役終了後、そのほとんどが戦争の遺族であり、あるいは戦災に喘ぎ苦しんだ人々であったにもかかわらず、後々までも大久保や川路を恨んでも西郷を恨むことがなかったのは事実でした。政府の征討令が出たことを知った鹿児島城下では、私学校党が出払っているにもかかわらず、老若男女の県民が大久保・黒田清隆・川路・奈良原繁の旧宅四軒を襲って打壊したといいます(『福沢諭吉と大久保利通の対立』坂元盛秋)。確かに鹿児島の人民は激怒したのです。

西郷はこの、激怒し、一つにまとまった民意の中にまさに天意を見ていたのでしょう。
 西郷の言い分を敷衍しておくと、薩軍は尋問ということで、陸軍大将の資格で兵を率いて上京するのであって、これは各政府機関に通知もしてあることである。しかし、九日(これは誤聞)には征討令が発せられていたと聞いたので、遡って二十一日に鎮台兵が攻撃を仕掛けたのは、政府の征討令に従ってのものであったということになる(これは発令が十九日であっても同じ)。しかも九日に発令したということは、私学校徒が激怒して、武器弾薬の掠奪に及んだ時点で、征討令を発したということであり、それでは全く征討するために、暗殺の企てを行い、私学校を挑発せしめて、罪に陥れようという姦謀ということになるのではあるまいか(発令が十九日であっても政府側では暗殺事件を黙殺しているから同じことが言える)。その上に征討令を発して政府軍が上京を阻むのは、さらに罪を重ねることになるのではないのか。

確かに薩軍側に立って形跡から判断すれば、政府の行為はこのように断ずるしかありません。

政府にそのような意図がなかったにせよ、私学校が暗殺に対する尋問を主張している以上、真相を究明する努力はなされなければならなかったはずです。しかし、政府は私学校激怒の形勢を見て、これを制圧することしか頭にはありませんでした。そこに理があることなど思いもよらなかったのです。

ここからさらに西郷の政府に対する批判は、激しさを増し、根源的なものになっていきます。

「…恐れながら天子征討を私するものに陥り、千載の遺憾この事と存じ奉り候。…」

天子を云々するこの批判は、西郷が陥っていた傲慢さの証として、幾分の驚きとともに取沙汰されるくだりです。
 維新史に詳しい勝部真長氏などはその著『西郷隆盛』で、この発言に対し「後鳥羽上皇を島流しにした北条義時といえども、こんなことは言っていない」と言い、また「西郷にとって、今や三条・岩倉・大久保などは問題ではない、天子を相手にして物を言っているのである。おそらくわが国歴史上、空前絶後のこれは朝敵・逆賊の出現であった。」とまで言っています。

しかし、これはいくら何でも大げさで、しかも誤読です。
これまでの文脈から見て、西郷の批判の対象が、三条・岩倉・大久保を中心とする政府であることは明らかです。現にこの前文では、政府がますます罪を重ねていると述べており、それに続けて、恐れながら天子征討を私するものに陥り、千載の遺憾である、と言っているのですから、これは、天子が征討を私物化していると天皇を非難しているのではなく、本来なら公正なものであるべき天子の征討が、政府の私物化するところとなっている、という批判なのです。

かつて参議として閣議に列席していた西郷は、この征討令がどのような経緯を経て発せられたのかを熟知しています。それは明らかに天皇の聖断という鶴の一声によって為されるのではなく、閣議という、優柔不断な三条を筆頭に、違法行為を為してとんと省みることのない岩倉と、「腐り芋連」の筆頭大久保及びこれと同類の参議連らによって決定されている。天皇が維新の元勲らの合議の結果成った決定を自発的に拒否するということはまずありえない。だから天子の征討とはいっても、実質は政府の征討なのです。征韓論破裂で、現政権の顔ぶれの為すことを嫌というほど見せつけられた西郷がこう考えるのは当然です。

こういった経緯でなされる天子の征討が、権力によって私物化されていないか否かは、偏に公正なる理に基づいて行われているか否かで判断するしかありません。だから西郷は公正なる理(道理)に基づいて行動を起こして、その触視するところの形跡から勢を見て、今回の件における政府の挙動に理がなく、人民の権利を侵害し、圧制を強いているだけだという判断を下したのです。これが、天子征討を私するもの、という言葉の真意です。

本来天子が道を誤らぬよう補佐しなければならないはずの重臣達が、公正さを失い、これを私して、道を踏み外させているとは何事かという怒りが言外に込められているのです。

西郷の批判は続きます。

「…殊に万国に対せられ何等の名義相立ち申すべきや。譬え政府において当県の人民は誅鋤(ちゅうじょ)し尽さるとも、必ず天地の罪人たるには疑いなく候えば、先ず政府首謀の罪根を相糺され、その上県下の人民暴激の挙動これあり候わば、如何様共厳罰在らせらるべき御事と存じ奉り候。…」

まったく理にかなった言い分と言えるでしょう。確かに天下に法を布くべき政府が自ら国憲を犯しておいて、人民にこれを強制し、破ったからといって(しかも政府の国憲を犯す行為が有力な要因となって)、すわ討伐じゃといっても人民は納得しないでしょう。政府が国憲を守ってこそ、人民の国憲違反を咎めることが正当化されるのです。その意味で、政とはまさに正なのです。本質的・原則的にそうでなければならないのは論ずるまでもないでしょう。

西郷は先のくだりに続けて言います。

「…この時に当り閣下(征討将軍有栖川宮)、天子の御親戚に在らせられながら御失徳に立ち至らざる様、御心力を尽くさるべき処、却って征討将軍として御発駕相成り候儀、何共意外千万の仕合いに御座候。就いては天に事(つか)うるの心を以て能く御熟慮在らせられ、御後悔これなき様偏に企望奉り候。よって口供相添え進献仕り候。誠恐頓首。」

征討総督として、政府の不正な行為に加担せんとしている皇族の有栖川宮熾仁親王に対する忠臣としての容赦ない諫言です。「新政厚徳」の旗を掲げていた薩軍にふさわしい大義名分で、要するに、天子の御親戚として、失徳に立ち至らぬよう、天に事えるの心を以て、天道を行って下さい、というのです。熾仁親王は、かつて戊辰戦争の際の東征軍総督であり、西郷は東征軍参謀としてこの宮の側にあって、江戸討伐が王道、すなわち天理・天道に則ったものになるよう補佐した関係がありました。この文書こそ、丁丑(明治十年)の公論であり、天下後世に伝えられるべき、西南戦争の大義名分なのです。

この大義名分は真正のものですから、当然のことながら、彼らの戦い方も規制することになります。彼らはいくら政府が天皇を私していると言っても、天皇に弓を引く形になることを嫌い、攻撃を受けた熊本で決着を付けようとします。彼らの脳裡にあったのは楠木正成の千早城の闘いです。楠木正成はこの弧城に籠城し、満天下の敵を引き付けてこれを翻弄することで、天下の一斉蜂起を誘引し、最終的に討幕に成功したのです。

西郷を始め、桐野利秋・篠原国幹・村田新八・永山弥一郎・池上四郎・別府晋介による最初の軍議において、篠原の献策により、征討軍が到着する前に大きな損害を被ってでも全軍で一気に熊本城を落とせば天下の大勢は薩軍に帰するであろう、ということでその策が採用されることになりました。しかし、この軍議には参加しなかった後続の隊長(西郷小兵衛・野村忍介ら)から異議が出ます。曰く、政府に対する不平が天下に充満している以上、形勢はこちらに有利であり、一部の部隊で熊本城を攻囲しておいて、中心となる精鋭部隊は征討軍を迎え撃って、北九州を制圧すべし、と献策しました。これは城攻めを下策とする『孫子』の一節をめぐる意見の対立です。私学校では『孫子』の学習は日課の一つであったのです。

最終的な判断は西郷に委ねられる事になりました。

西郷は人民の迷惑になることを嫌って戦地の拡大を望まなかったということもあって、四千の鎮台兵が籠る天下の名城熊本城に、私学校全兵力一万三千の内、四千名足らずを当て、陣地を構築して封鎖することとし、残りの精鋭で群がりくる政府軍を迎撃することにしたのです。実際に熊本城を力攻したのは、戦略的転換を遂げるまでの二十二・二十三の二日間だけで、後は突出した籠城兵との小競り合い程度の戦闘だけでした。

もっともそれは籠城兵との戦いだけで、政府軍の迎撃は熾烈を極めました。彼らは田原坂と言う熊本城防衛の戦略的要地を地の利とし、ここに堅塁を築いて、防衛に人事を尽くして戦い抜くことで政府軍を消耗させ、天下の一斉蜂起を期待して、政府の孤立化を目論んだことになりますから、熊本城攻略に固執して失敗した、という批判は、薩軍の採用した戦略を理解していないことから来る、ピントのずれた批判ということになります。

西郷が三月十二日付で大山に書くところの「…彼の策中に陥り、この籠城を餌に致し、四方の寄せ手を打ち破り候えば、ここにて勝敗決し申すべく、地の形と云い、人気と云い、その所を得候に付き、我が兵を一向此処に力を尽くし候処、既に戦いも峠を切り通し、六七分の所に打ち付け申し候」というのはこの事を指しています。西郷が崇敬する島津斉彬が重視した『孟子』の中には「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」とあり、人の和、地の利、双方得た薩軍が死力を尽くしている以上、あと一歩で勝てるという見込みを持っていたことが分かるのです。

これが客観的に見ても愚策ではなかったのは、古代ローマのユリウス・カエサルがガリア戦役の帰趨を決したアレシア攻防戦で見せた作戦がまさにこれであり、カエサルは難攻不落の聖地アレシアに籠城した八万のガリア人を五万弱の兵力で包囲しました。カエサル軍は、その包囲した彼らを丸ごと飲み込むかのように外から包囲した二十五万以上のガリア軍に内外から挟み撃ちにされますが、激戦の末、見事これを打ち破ったのですから、敵地ではなく内戦で、政府に不満を抱く天下の人心を引き寄せる可能性もあった薩軍の戦略は大胆略とでもいうべきものであったのです。

ローマの歴史事例が当時知られていたわけではありませんが、政府の指導者たちも江戸時代の同じ教養を身につけていましたから、熊本城をめぐる攻防が楠木正成の千早城における決起のような形でこの戦争の天王山になるであろうことを理解していて、全力でこれを阻もうとしたのです。各地では薩軍に呼応する動きが起きぬよう警察や鎮台が目を光らせていました。

地の利を得た薩軍は強く、弾薬が不足している彼らが行った薩摩示現流による抜刀隊の活躍は脅威で、日のまだ浅い徴兵では役に立ちませんでした。しかし、政府軍が後方任務に当たっていた警官の中から、城下士に恨みを持つ旧薩摩藩外城士を中心とする抜刀隊を組織したところから、戦は熾烈を極め、やがて薩軍は劣勢に陥っていきます。

薩軍が田原坂を放棄したのは三月二十日の事でした。
その後も薩軍は抵抗し、政府軍の方も武器弾薬の余裕はなくなりつつあり、籠城して久しい熊本城の食料も乏しくなり、いつ落ちるかわからない状況で、四月上旬まではまだ戦の帰趨はどちらに傾くかわからない状況でした。しかし、両軍勇戦の結果、薩軍は日を追うごとに劣勢になり、四月十四日、熊本城の攻囲を解き、撤退します。野村忍介の口供によれば、この時、西郷は「この地を去れば、人気も散乱せん。快く一戦して死を決すべし」と言ったといいます。

全国各地の反政府勢力の一斉蜂起は起きぬうちに、熊本籠城兵は五十余日ぶりに解放されました。

西郷の言葉にあったように、薩軍は肥後平野東方、木山の扇状台地に陣取って、熊本城に根拠を置いた政府軍と対峙。四月二十日、三万の政府軍と八千の薩軍は対決します。これを城東会戦と云いますが、西郷や桐野の念頭にあったのは楠木正成の湊川の戦で、彼らはここで一歩も退かず玉砕する覚悟でした。しかし、戦線が崩壊する中で、撤退し、残存兵力を集めた上で態勢を立て直すとの論が諸隊長の間で優勢であったため、やむなく西郷も撤退します。しかし西郷は軍議において「熊本に向かい、快戦すべし」と主張したといいます。一つ条理に斃れる、すなわち玉砕しようとしていたのです。しかし、彼の予想に反して薩軍の人気は散乱せず、これに従ったということでしょう。

政府にとって後は残賊掃討戦ということになりますが、相手はこれまでの内乱と違い、戊辰戦役の英雄でしたから、決して追撃の手を緩めることなく、薩軍は奮闘も虚しく敗走を重ね、延岡まで追い詰められました。和田峠における決戦に敗れると、長井村周辺の一里四方に追い詰められた薩軍は解散のやむなきに至ります。八月十六日の事です。西郷は陸軍大将の軍服や書類を焼却すると、いまだ戦意を捨てぬ同志とともに、背後に聳える峻険な可愛嶽を密かによじ登って五万人からなる政府軍の包囲網の虚を突いて脱出。西郷を頭とする三百名余りの薩摩隼人は一路鹿児島に向かいます。
有志を募って、再起を期すためです。

薩軍は政府軍が守る私学校舎を奇襲して奪還しますが、やがてここも政府軍に厳重に包囲されるに至ります。可愛嶽での失敗を繰り返さぬため、アリ一匹這い出る隙間もない警戒ぶりでした。

明治十年九月二十四日早朝、総攻撃の朝、私学校の背後にある城山の岩崎谷に籠っていた薩軍残党は最後の突撃を試みます。
勝つ見込みなど万に一つもありませんでしたが、一つ条理に斃れようとしたのです。

乱戦の中、西郷は太ももに弾を受け、傍らにいる別府晋介を顧みて、「晋どん、ここでよかろう」と言って、介錯を頼みました。彼が厳然襟を正し、遥かに東天を拝したところを、別府が一刀のもとに首を落しました。薩軍の戦死者百六十名、投降あるいは捕虜となったものは二百余名であったといいます。

以上が筆者なりに追究したところの西南戦争の概要ですが、大久保は紀尾井坂において征韓派の石川県旧士族によって暗殺されます。ここまでが一連の大事件の結末と言ってよいかもしれません。久光はさらに十年足らず生きますが、彼は余生を歴史の編纂に傾けたようです。

 明治維新というものを、島津久光・西郷隆盛・大久保利通を中心とする人心の一致一和という視点で要約してみました。違う視点からの維新論があるのは当然ですが、日本人として彼ら先人たちの言葉や考え、信仰に寄り添って、明治維新を把握ことが出来なくなっていること自体が、日本人自身の悲劇の結果なのですが、筆者はこれを結末とは言いたくありません。
 このように言葉にすることによって理解の端緒を残しておくことは日本文明復興の露払いとなりうるからです。薩摩三人男は英主島津斉彬の精神をよく受け継いで、一致一和したところで功業を挙げ、対立したところでこれを毀損しました。

西郷は斉彬の思想のエッセンスをよく継いでこれを実行したといえます。久光も彼の立場からこれをよく継いで、西郷の後ろ盾となりましたが、討幕に成功してからは病気がちで西郷・大久保とは意思の疎通を欠きがちになり、三人四脚の足並みを乱す役割となりましたが、精神面ではむしろ西郷に近い立場でした。西郷と外洋以前の大久保は、大久保が西郷に兄事していたこともあって、久しく離れていても足並みが揃っていましたが、外遊後、彼は廃藩置県が思いがけず、うまく行きすぎたからでしょうか、それまで成功体験に拠っかかって、薩長閥による文明開化・富国強兵路線に固執するあまり、西郷の大陸政策を潰し、余勢で西南戦争まで引き起こし、かつての師友を死に追いやってしまいました。まさに岩倉が評したところの、識なし、才なし、確乎として動かぬところが長所である大久保の特質が、政事家としての強みとして発揮する一方で、これが後世のいわゆる地政学的視点に立った外交戦略を封じることで、王政復古討幕、廃藩置県に続く維新の第三段階をうやむやにし、日本文明にとって大きな負の作用をもたらしました。

 内務卿になり、外部から見て天皇を私し、政事的対立者を次々葬っていった晩年の大久保を、人物には感服するが、内政に得意の色が見え、公正さを失っている、と批判したのは慧眼な木戸孝允でした。筆者もまた晩年の大久保の言動に独善性を看取している者の一人です。

 彼が創り上げた内務省を中心とする官僚機構は有能でしたが、その反面、日本独自の近代化を達成する上で、國體意識が薄く、思想的重心の高い、近代化路線を邁進しがちになり、それが次世代に受け継がれたとき、大正デモクラシーという欧米流民主制度の移入は、ユダヤ系国際金融資本勢力による間接支配の端緒となり、共産主義思想の浸潤によるロシア型ボルシェビズムというユダヤ系勢力による直接支配の先導者を内部に育成することとなり、國體の危機を東西から招くことになるのです。
 その歴史的責任を大久保に押し付けるのは無理がありますが、政治家として國體を守るという基本なり、原則なりを忘れ、征韓論破裂の陰謀の結果、一政見、一政権を守る政事家ふぜいになりさがった大久保の歴史的責任は、富国強兵を推し進めたマキャベリスト程度の評価で満足することなく、もっと大きな文明的視点から功罪含めて論ぜられるべきなのです。
 その大久保と対立する事になった西郷に私淑した庄内藩士に与えた教戒を集約した『西郷南洲翁遺訓』が現代の日本人にとって重要な意義を持つのはそのためですが、これもまた儒教的規範を補助線として用いなければなかなか理解できない内容です。
 秩序の乱れた時代を立て直してきた武家政治家の伝統、すなわち天道から導かれる「王道的人民民主主義」を背負った西郷の「孔夫子を教師とせよ」との言葉を現代のインテリ君たちは噛みしめる必要があるのではないでしょうか。

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