国体学のすゝめ

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 ここからは大東亜戦争における日本軍の闘いを鳥瞰しての、直観的な話になります。
 筆者は大東亜戦争における日本人の闘いに、西郷隆盛を中心に見た王政復古討幕運動と西南戦争、さらにさかのぼって、討幕に成功しながらも朝敵に滅ぼされて万古の心胸を開拓した楠木正成の闘いを連想してしまうのです。
 日本軍はドイツとの同盟もあったとはいえ、東アジアにおいてはほぼ孤立した戦いで(なんと言っても、独立国家はわが国と当時シャムと言ったタイ王国しかなく、近代化に成功した国家としてはわが国しか存在しなかったのですから)、戦いとその結果において西南戦争を彷彿とさせます。
 共通点は、敵の悪意に追い詰められて、準備不足のまま、受け身の状態で起ち上がらざるを得なくなった戦であったこと。道義において人民の支持を得、兵の士気も旺盛で、当初は勢いがあって、敵を圧倒したこと。大東亜戦争はミッドウェー海戦を機に、西南戦争は田原坂撤退を機に、形勢が逆転しますが、敢闘精神により愚直に抗戦を続けました。
 大東亜戦争は西欧の植民地支配からのアジア諸国の解放と新秩序建設を戦略的目標とし、西南戦争は政府への不満勢力の一斉蜂起による粛正を期待していました。
 両戦争ともその戦略目的を達成できなかったわけですが、戦後になってそれが芽を出す事になります。大東亜戦争後、一度日本軍によって独立を経験した被植民地は再び支配のために戻ってきた西欧国家と独立をかけて戦い、これを勝ち取るのです。内戦である西南戦争は国民の政府に対する不満に火を点け損ねましたが、明治天皇の大御心を覚醒させ、維新回天、王政復古の原点への回帰を促したことはすでに見たところです。それが天皇親政、教育勅語に繋がり、伝統に深く根ざした国民道徳を確立しました。
 これらの敢闘を一貫して支えた精神、それこそ楠木正成の忠義にほかなりません。

 この精神に基づく戦争は仕掛ける側に回った時、小勢で大きな成果を発揮しますが、道義にこだわる分、先手を打たれたときには後手に回らざるを得ず、ギリギリまで追い詰められることになります。そこでイチかバチか、興廃を懸けた乾坤一擲の勝負になるのです。

 主敵となるアメリカに対しては海軍による真珠湾の奇襲攻撃が敢行されましたが、南方作戦においては陸軍が、当初主敵と考えられてきたアジア侵略の盟主たるイギリスが東アジア経営の根拠地としていた、マレー半島の先端に位置する難攻不落の要塞シンガポールを攻略するためにマレー半島作戦を敢行します。日本軍は十二月八日、タイ・マレーシア国境にあるコタバルに上陸し、一気に南下する作戦でした。翌日にはマレー沖海戦が行われ、日本の第一航空部隊が、イギリスが誇る戦艦二隻、最新型戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈しました。これは航空機だけで航行中の戦艦を沈めた史上初の快挙であったといいます。特に前者は開戦に先立つ八月にチャーチルとルーズベルトの大西洋会談が行われ、大西洋憲章を結ぶ舞台となった艦です。大西洋憲章は民族自決を謳いながら、英国の植民地を例外とする彼らの欺瞞と独善を象徴する憲章でした。チャーチルは就役当時、不沈艦と言われたこの船を世界最強と称賛し、日本ごときに対してはこの二隻を派遣しておけば十分、と高を括っていたチャーチルは、東洋艦隊の主力を瞬時に撃沈されたとの報告を受けて、大戦中最もショックな出来事だった、と後に回想しています。このようにイギリスには日本軍の実力を侮り、油断がありました。それがマレー沖海戦の戦果と合わせて、マレー半島作戦の結果に繋がってくるのです。
 続々上陸した日本軍は快進撃を続け、翌二月十五日にはシンガポールの攻略を完了しました。
 開戦と同時に、多少の戦闘はあったものの独立国であったシャム政府と交渉してタイに進駐していた日本軍は、五月にはタイ北西にある英領ビルマ(現ミャンマー)を占領します。
 日本軍はイギリスの東アジア経営のもう一つの拠点である香港も十二月八日の開戦と同時に攻略に着手し、十三日には要塞のある九龍半島を制圧すると、二十五日のクリスマスには香港島内のイギリス軍を降伏に追い込み、以降昭和二十年八月の終戦まで軍政を布きました。日本の降伏後は、イギリスが統治を再開し、一九九七年(平成九年)に中華人民共和国に変換されるまで続きました。

 南方作戦の緒戦で重視されたのは、イギリス支配下のマレー半島・香港と並んで、アメリカ支配下にあるフィリピンの攻略でした。十二月八日、台湾を出撃した航空部隊がクラーク・イバの両飛行場を爆撃して、アメリカはフィリピンの航空戦力の過半を失いました。さらに日本軍は十日にはマニラ湾内の軍艦を爆撃して大損害を与え、制海権・制空権を手にした上で、続々上陸。翌年一月二日には早くも首都マニラを陥落させ、オレンジ計画に基づいて堅固に防御線が築かれていたバターン半島を苦戦の上攻略、降服させ(四月九日)、次いで半島の沖合にあるコレヒドール島の要塞に籠る米・フィリピン軍を攻め、五月六日にはこれを降伏させました。司令官のマッカーサーは、大統領の指示ですでに三月十一日、兵を置き去りにして、オーストラリアに向け脱出していました。日本軍は当初フィリピンを四十五日間で制圧する予定でしたが百五十日間かかってしまいました。
 フィリピンは一九三四年、アメリカ議会がすでに十年後の独立を約束していたので、また彼らの多くがキリスト教徒化していたこともあって、日本軍の占領はあまり歓迎されず、ゲリラを組織して日本軍を苦しめることになります。もちろん、背後にはアメリカの指示と支援がありました。日本は一九四三年十月に独立政府を設立しましたが、大勢は変わりませんでした。マッカーサー率いる連合軍は昭和十九年十月二十日、レイテ島に上陸し、以後反攻に転じ、日本も戦力を投入して防禦したので、壊滅的打撃を受けた日本軍のみならず、フィリピン人にも莫大な被害を与える結果となりました。大国の角逐の犠牲となったわけですが、それ以前にアメリカがフィリピンで為してきたことを考慮すれば、日本の軍政がひとりよがり、傲慢で、フィリピンの民心を掌握することに失敗したのは確かですが、だからと言って日本が悪いと一方的に断罪するのもどうかと思われます。

 石油資源確保という日本にとって重要な意味を持つ蘭印(オランダ領東インド)作戦は一月十一日に開始され、三月にはジャワ島の占領を以て完了しています。その後、三年にわたる日本軍の占領期間中、独立の準備は進められ、日本の降伏二日後の昭和二十年八月十七日、スカルノら民族主義的指導者は独立を宣言し、植民地経営を再開しようとしたオランダとの独立戦争に突入していくことになります。その際、居残った旧日本兵三千名が独立戦争を支援しました。長い戦いの後、昭和二十五年八月十五日、インドネシア共和国が誕生しました。

 タイに進駐した日本軍は昭和十七年、イギリス領として援蒋ルート(英米による重慶の國民党政府に対する物資を支援するためのルート)があった隣のビルマ(現ミャンマー)に侵攻します。アウンサン率いる独立義勇軍と協力して、イギリス軍を駆逐して三月には首都ラングーンを占領し、五月には米中連合軍を破ってマンダレーを占領、援荘ルート遮断に成功しました。当初日本は大東亜戦争勝利後の独立を約束していましたが、大局的勝利の覚束ない状況にあって、翌十八年にはバー・モウを元首とするビルマ政府を承認し、独立政府は早速連合国へ宣戦布告しました。十一月にはビルマ代表として東京で開催されたアジア各国の提携である大東亜会議に出席しています。
 イギリスは東アジア再支配への橋頭保としてビルマ奪還を重視していました。十九年、日本軍は連合軍の反攻の機先を制するために、チャンドラ・ボース率いるインド国民軍とインド北東部のイギリス軍反攻拠点となっていた都市インパールを攻略することを目的とするインパール作戦を実施します。この作戦にはインド独立運動を刺激する上での橋頭保となることが期待されていましたが、惨憺たる結果に終わります。この失敗により日本の敗色が濃厚となると、軍とビルマ政府との関係は悪化し、国防大臣を務めていたアウンサンは日本の軍制を暗に批判。二十年一月に連合軍が援荘ルートを回復すると、三月にはイギリスと結んでクーデターを敢行しました。日本が敗戦するとバー・モウは日本に亡命、イギリスは植民地支配を再開しました。しかし、日本の軍政下における指導と支援、そして統治の経験により、政府や軍は力をつけていて、もはやイギリスの言いなりになるような存在ではなくなっていました。紆余曲折を経て、彼らが英連邦を離脱したのは昭和二十三年の事です。

 次にフランス領インドシナ連邦(仏印…現在のベトナム・カンボジア・ラオス)に関してです。大東亜戦争開戦前年である昭和十五年に、フランス本国がドイツと開戦し、瞬く間にパリを占領され、傀儡政権であるヴィシー政権が誕生しました。そのため、日本は仏印援蒋ルートを閉鎖させるとともに、これと協定を結んで、北部仏印に日本軍を進駐しました。その後、タイとフランス軍の間で国境紛争が勃発しましたが、日本が調停役を務めて、カンボジアとラオスの一部を割譲するというタイにとって有利な東京条約を締結させています。英米の経済的締め付けに対抗して、日本が資源を求めて南部仏印に進駐すると、アメリカは追加制裁として石油の禁輸と日本資産の凍結という最後の一手に出たため、戦争は不可避となったのです。
 大東亜戦争開戦後も、日本は人種間戦争回避という立場から植民地政府を承認し、協力関係を継続しましたが、昭和十九年八月に連合国の反攻に伴い、本国でヴィシー政権が倒れ、ドゴール率いる自由フランスが政権を取ると、二十年三月、フィリピンを失い、仏印インドシナに米軍が迫る中で、日本は阮朝最後の皇帝バオ・ダイを担ぎ上げてベトナム帝国、他にカンボジア王国、ラオス王国の独立を宣言しました。日本降伏直後の八月十七日、コミンテルン影響下にあるホー・チ・ミンやヴォー・グエン・ザップらが指導するベトミン(ベトナム独立同盟会)による八月革命が勃発し、日本の降伏文書調印の日である九月二日にベトナム民主共和国が樹立しました。翌年、フランス政府はベトナムの再植民地化に乗り出しますが、ベトミンとの間で独立戦争(第一次インドシナ戦争)が勃発し、一九五四年まで続きます。ディエンビエンフーの闘いで敗れたフランス軍は撤退し、結果的に北緯一七度線を境に国土が分断され、北にソ連・中国が承認するベトナム民主共和国、南にはフランスが一九四七年に名目的に独立を承認した、アメリカを後ろ盾とする、バオ・ダイを王とするベトナム共和国が対立する事になります。フランスからの独立を大東亜戦争の目的達成とするなら、一九五四年のフランスの撤退がベトナム・カンボジア・ラオスの独立の時ということになります。
 しかし、米ソ冷戦の中で、インドシナの混乱は続きました。
 一九六二年、両政府の後ろ盾となっていた米ソの対立により、代理戦争であるベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)が勃発し、一九六四年のアメリカの本格的な介入により、戦争は泥沼化します。一九七五年四月、サイゴンが陥落し、ベトナム共和国が崩壊、大国が介入しての長い内乱の時代はようやく終焉を迎えました。米軍の撤退により、カンボジア・ラオスともに共産化しています。特にカンボジアは毛沢東の弟子ともいえるポル・ポト率いるクメール・ルージュにより、人口の10〜30%に当たる人間が虐殺されるという苦難を味わっています。
この事からも日本が何と戦ったか、何と戦わざるを得なかったか、わかると思います。
 アメリカは大日本帝国を潰したことで、朝鮮戦争に続いて、インドシナにおいても共産主義勢力との泥沼の戦争を戦わざるを得なくなったのです。

 最後はイギリスにとって最も重要な植民地であったインドです。
 日本の降伏によって脅威は去り、十一月、イギリスは日本軍と連携してインパール作戦を実行したインド国民軍の将兵三人をレッド・フォートで裁判にかけ、死刑にしようとしました。これが広く知れ渡ると、これに抗議する国民がインド各地で暴動を起こし、これまでの植民地統治に対する不満、ヒンドゥー(ネルーやガンジー率いる国民会議派)やムスリム(ジンナー率いるムスリム連盟)の独立運動と相まって、抗議運動はどんどん拡大していきました。手に負えなくなった政府はインドとパキスタンの分離独立を承認します。日本の降伏からちょうど二年目の昭和二十二年(一九四七)八月十五日の事で、これにより一層、日印連合軍がインド奪還を目指したインパール作戦がインド独立の一つの起源として意識されるようになったのです。

 日本側の開戦の動機は「開戦の詔」や「帝国政府声明文」にあるように、あくまでも帝国の自存自衛にありましたが、これもまた、文書にあるように、それを達成するためにも「東亜の安定の確保」と密接不可分の関係にありました。これは維新回天以来の国是であり、国民間の暗黙の了解事項と言ってよく、大東亜の解放、大東亜共栄圏の理想は戦争目的に内包するものであったのです。ただ必要に迫られての開戦であったため、緊急避難的に東亜の列強勢力を駆逐するのみで、壮大な大東亜の安定確保のための具体的戦略や政策を欠いていました。これは裏返せば、日本の開戦が、いわゆる窮鼠猫を噛むというやつで、追いつめられてのやむを得ない一挙に出たものであったことを証拠立てています。ただ日本は鼠ではなく、西欧列強も猫ではなかったため、本腰を入れた戦いに発展していったのです。
 日本が大東亜共栄圏の構想に本腰を入れ出したのは、戦況が暗転し出したことを国民が意識し始めた昭和十八年の事でした。それが同年十一月の大東亜会議の開催です。
 深田祐介著『大東亜会議の真実』により経緯を見ていきましょう。
 大東亜会議の開催は、昭和十七年初めに駐中華民国大使に就任した重光葵の発案によるものです。
 重光の中華民国政府に対する基本方針は、両政府が対等な関係を結び、内政干渉をおこなわず、中国の自主的な立て直しを援助するというもので、そのために南京の汪兆銘政府とよく話し合い、信頼関係に基づいて、日華新協定、日華同盟条約を締結して、重慶に立てこもる蒋介石率いる国民党に対抗するため、中華民国政府を強化しようとしたのです。泥沼状態の中国戦線から六十万のシナ派遣軍を南方に転用できるということで、陸軍もこの政策を支持しました。
 汪は日本留学中に、孫文と知り合って中国革命同盟会に入り、日露戦争中の日本を経験し、維新の英雄、とりわけ西郷隆盛と勝海舟に傾倒した人物でしたが、シナ事変勃発後の昭和十三年末、国民党の要職にありながら、日本政府の和平工作に応じて、重慶を脱出し、「反共和平」を訴えたものの、意思の統一が欠けた日本政府内の「上下不貫徹」「前後不接連」「左右不連携」に政治的苦境に立たされ、辛酸を舐め続けた人物です。行政組織の肥大化と硬直化、人物の小物化により行きづまった日本政府も起死回生の試みである対米英開戦を英断し、事ここに及んでようやく一致一和して、大政策を打ち立てる条件が整いつつあったのです。汪はこれに賭けることにしました。
 重光はこれを大東亜全般の外交政策に拡大し、米英が開戦前の一九四一年(昭和十五年)八月、大西洋上に浮かべたプリンス・オブ・ウェールズの艦上で結んだ大西洋憲章に対抗すべく、日本の戦争の大義名分を世界に闡明するための大東亜会議開催案を構想し、東條首相に提案したのです。首相は大いに賛同し、重光に外務大臣への就任を要請し、自身もまた会議の実現に精力的に取り組みました。
 昭和十八年三月、首相は南京を訪問し、汪兆銘と会談。東京に戻ってからバー・モウと会談し、ビルマ独立承認を内示、四月には満州国を訪問し、張景恵総理と会談。五月にはフィリピンのマニラを訪問し、ラウレルに独立を示唆。六月には来日したチャンドラ・ボースと会談し、インド独立闘争支援を約束。七月には唯一の独立国であるタイを訪問し、味方に引き入れるべく外交交渉を行い、当時「昭南」と言われたシンガポールに飛んで、再びバー・モウと会談。ここで再びボースとも会談し、創設されたばかりのインド国民軍を閲兵しました。さらにジャワを訪問し、スカルノとも会談していますが、彼だけは大東亜会議には招待されませんでした。石油資源ほか天然資源の豊富なインドネシアだけは軍部が独立をどうしても認めなかったためで、スカルノは会議の閉幕直後に来日して、東條首相自ら歓待しましたが、極め付きは昭和天皇が親ら礼遇したことで、独立を許されなかったスカルノは大いに慰められたのです。
 これらのアジア各国の指導者のほとんどがやはり日露戦争の勝利に勇気づけられ、独立の志を育んできた人々でした。会議の開催は昭和天皇の大御心に沿うことを常に意識していた東條によって、天皇の大いなる支持のもと行われました。
 会議は十一月三日の明治節、すなわち明治大帝の天長節の首相主催の茶会から始まりました。これは明治天皇の大御心であるという含意をわれわれ日本人としては感受しなければならないでしょう。
 開戦直前の御前会議で、昭和天皇は、模範としてこられた明治大帝の御製「よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ」を詠まれ、再考を促されましたが、戦争回避の努力の果てに決断された戦争に突入したこの時点でも、この大御心は生き続けていたのです。なぜ(など)波風が立ち騒いだのかについては、英米の日本に対する悪意の背後にユダヤ人を中心とする国際金融資本勢力がいたらしいことは、このエッセイの冒頭で触れました。
 さて、当時すでに東京への旅は命懸けになっており、ビルマのバー・モウなどはまさに飛行機墜落事故により、九死に一生を得る思いで東京に到着したものですから、会議の和やかな雰囲気にはなおさら感激したようで、次のような回想を残しています。

「広いアジアそのものを一つのものとしてとらえる思いに満たされていた」

「われわれは、へだてられた人間としてではなく、すべての国民を包含した単一の歴史的家族として寄り集まっていた。こんなことはかつてなかったことだ」(『ビルマの夜明け』)

 チャンドラ・ボースは十一月五日付「朝日新聞」のインタビューに次のように答えています。

「私は東條首相はじめタイ国のワンワイタヤコーン殿下、ビルマ国のバー・モウ首相とは旧知の間柄だが、中国代表の汪院長、満州国の張総理、フィリピン国代表ラウレル大統領とは、はじめての会見だった。しかし茶会はまったく家庭的な雰囲気で行われ、これら三代表とも直ちに打ちとけることができた。しかもこの茶会が五日の本会議を控えて行われ、その友好的な空気がそのまま本会議にも反映されたことは、極めて有意義であった」

 まさに国是であった「八紘一宇」の理想の具現化がこの会議であったわけですが、それはいかに有効な政治理念であるかを物語っていたと言えるでしょう。
それは決して政治的演出というようなものではなく、東條首相が示したきめ細かな配慮を見れば明らかで、首相は自ら、彼らの滞在先となる宿舎を訪れて、照明や南方からの賓客のための暖房設備に至るまで、一々きめ細かな指示をしたのです。まさにおもてなしの精神でしょう。四日は各代表が宮中参内し、昭和天皇に拝謁、午餐陪席の後、牡丹の間でお茶が振る舞われましたが、午餐の際、皇居に保存されている、徳川慶喜がナポレオン三世から贈られたワインが供され、出席者を感激させています。
 会議での発言の順序、通訳の段取りなど、事務レベルでの些細なもめごとはあったものの、こうして生まれた、西洋列強が主宰する国際会議とは著しいコントラストをなす、和やかな空気の下で、五日、六日の両日、バー・モウが「歴史を創造した」と評し、ボースが「大東亜における新しき諸国家間の秩序建設の諸原則を確立した」と評した本会議は行われたのです。
 議長は東條首相が務めることになりました。
 会議冒頭、首相は「開戦の詔」や「帝國政府声明」に示されたと同じ、開戦の経緯を述べた上で、大東亜における共栄共存の秩序は、自己の繁栄のためには不正・欺瞞・搾取をも敢えて辞さない米英本位の旧秩序とは根本的に異なり、大東亜各国はまさに自主独立を互いに尊重し、他の繁栄によって自らも繁栄し、自他ともにその本来の面目を発揮せしめることで、全体として親和の関係を確立すべきである、という趣旨の演説を行いました。まさに聖徳太子以来の「和を以て貴しとなす」の精神ですが、小林秀雄が『論語』を引用して指摘したように「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」の困難を伴うものでもありました。
その後、各国代表の演説を経て、六日午後、「大東亜共同宣言」が満場一致で採択されました。
 この中で、これまでの経緯から見て、日本が指導的役割を果たすのは当然でしたが、戦時体制から生まれた国家社会主義に基づく統制派が主流の日本軍部の軍政が、満州建国発展の成功体験から、内面指導と称する干渉を行って、独立政府指導者の対面を傷つけ、日本の戦争の動機に猜疑心を惹起せしめる結果を招き、フィリピンに象徴されるように、国民の反感を買い、民心を離反せしめることも多々あったのは確かです。近衛文麿がこれより一年数カ月後に、右翼は国体の衣を着けたる共産主義なり、と喝破したことを思い出して下さい。
 軍部のやり方は、動機はともかく、名目的独立と内面指導の併用という、独立政策としては不徹底なもので、政治的形跡としては各国政府の傀儡化を意図しているととられかねない面がありました。ボースが、日本という国が偉いことは認める、良い兵隊がいるし、良い技術者もいる、しかし「グッド・ステイツマン」、すなわち良き政治家がいない、と漏らしたことが正鵠を得ているでしょう。それは東條首相とて所詮は優れた官僚であって、例外ではありませんでした。ただ、彼は昭和天皇の大御心を忖度して事に当たることで、大東亜会議の意義を理解することが出来たのです。
 戦後、明治の元勲たちをよく知る徳富蘇峰が顧みて、人物が小物化していた、という趣旨のことを言ったのともよく符合しています。筆者は征韓論破裂以来の日本固有の政治文化・政治思想の衰退という問題意識を以てこの稿を書き進めてきたつもりです。共産主義を含む西欧文明の必然性から生まれた政治思想を移入し、日本人の和の心でこれを行なおうとしても、本場である西欧文明がそれを行う以上の成果を発揮できるはずがありません。日本文明固有の動機から発した大東亜共栄圏の大政策も、それが速やかにして大胆な実行の手かせ足かせとなった面は否めません。
 仏領インドシナにおいて、これまで日仏共同防衛協定を結んできた仏印総督府および軍に対する武力処理を行って全仏印を軍政下に置いたのは、フィリピンを奪還したアメリカ軍が到来することが恐れられるようになった昭和二十年も三月になってからの事でした。それにより、ベトナムに次いで、カンボジア、ラオスが独立を宣言しました。外務大臣の重光が大本営連絡会議においてこれを主張したのは大東亜会議と重なる時期であったといいますが、これに反対していたのが、開戦当初からの「自存自衛」の発想から抜けきれないでいた軍部であったのです。サイパンの守備隊が玉砕し、絶対国防圏が破られた責任を取って、東條内閣が総辞職したのは昭和十九年七月の事で、これが破られたことにより、本土はB29戦略爆撃機の空襲圏内に入り、年が明けてから主要都市への本格的な爆撃が開始されていましたから、せっかくの大戦略も、常に後手に回らざるを得ませんでした。
 インドシナ各国が独立を宣言し、日本軍による武力行使を恐れたタイ王国総理大臣アパイウォンが訪日を申し入れてきたことをきっかけに、二十年四月、今度はインドネシアと独立したばかりのインドシナの三つの王国も含めての第二回大東亜会議開催が決定しますが、制空権を失っていて余りに危険、かつ航空機を回す余裕がないということで開催は延期、代わりに大東亜大使会議が開催されますが、絶望的な戦局を反映して、静寂が支配したといいます。
 大東亜共栄圏構想の中で、速やかに実行されたのは、インド独立の志士チャンドラ・ボースのカリスマ的指導力によって、年明け早々にビルマに進出したインド仮政府でした。軍部は作戦行動が出来なくなる六月の雨季を前にして、三月には大胆に過ぎる作戦を補給の手当てを十分にせぬままに、むしろ拙速にいわゆるインパール作戦を発動し、惨憺たる結果に終わってしまいますが、この理想に向けての自己犠牲的な作戦が、戦後、インドにおける独立運動に火を点けるきっかけとなるのです。

 その昔、楠木正成は少ない手勢で千早赤阪に築いた小城に立てこもり、雲霞のごとき大軍で押し寄せてきた幕府軍を、縦横無尽の策略奇術で翻弄し、幽閉されていた後醍醐天皇の再決起を促し、幕府に不満を抱く勢力の蜂起を誘いました。これがきっかけとなって、倒幕は実現します。
 その後、この闘いは維新回天の模範となり、倒幕は再度実現します。
 それが維新回天の第一段階でした。
 その結果生まれた大日本帝国においては、指導層の大半が西欧かぶれを起こし、昭和期という三世代目になると、共産主義や国家社会主義が世界の新潮流となっていた影響もあって、行政機構は硬直化を来し、情勢や戦局の変化に柔軟に対応できなくなっていましたが、庶民や若者たちの士気は、伝統的な道義性によって支えられていました。緒戦における士気の高さや玉砕や特攻などの自己犠牲にそれは象徴的に表れていますが、銃後においても国民はこの精神に則って献身的に闘いを支えたのでした。明治天皇の大御心により下された教育勅語の精神が、国民教育により、彼らの心の中に沈殿してきたからと言えます。大東亜共栄圏構想を最後に支えたのはこの精神であったと言っても過言ではありません。日本は国家として、楠木正成の手勢のように、戦略的統一性を以て十分に戦えたわけではありませんでしたが、少なくとも同じ理想を持って戦い、連合国を最後までてこずらせました。
 結局、日本は矢尽き、刀折れ、斃れましたが、国民が示した智仁勇は、アジアの有志を振るい起こし、彼らを起ち上がらせ、ついには念願であった独立、シナ及び朝鮮半島を除く大東亜の解放を達成したのです。
 遡って慶応三年、諸侯会議を主宰し、幕府の反正に失敗した薩摩藩は、西郷が中心になって、楠木正成の闘いを模範として、義挙を画策しました。これは大政奉還前の話ですから、義挙は不意に京都・大坂・江戸で一斉に蜂起するという内容で、行き詰まった現状打破を目的とするものでした。一斉蜂起をした上で、討幕派の堂上を通じて討幕の綸旨を奏聞する。この義挙を長州藩士に告げた際、西郷は「もとより勝敗は予期すべきではない、我が藩が斃れた時はまた道を受継ぐ藩もあるはずと、それを目あてに一挙を起こすつもりであります」と覚悟を述べました。
 大東亜戦争という日本の義挙もまた同じ精神性を内包するもので、大東亜解放の夢を受継いだ諸国によって、独立は達成したのでした。
 その成果はさらに広く波及していき、六〇年代になると独立の機運が世界的に高まり、アフリカ諸国を中心に次々と西欧の宗主国からの独立を果たしていきました。
 日露戦争の勝利以来、有色人種希望の星であった日本の文明力を賭した渾身の闘いが、彼らを覚醒させ、植民地解放の闘いの導火線に火を点けたのでした。
 斃れた日本自身は戦後に復興、高度経済成長を果たしましたが、それは耐え難きを耐え、忍び難きを忍んで、復興に取り組んだ日本人の底力があったのは確かですが、これらの旧植民地諸国から資源の自由な調達が可能になったおかげでもあり、戦前の英米による経済封鎖(これはアメリカのホーリー―スムート法制定以来の超高率関税障壁とこれに倣った大英帝国連邦間における経済ブロック化に端を発する)を考えれば、これを打ち破る意味を持つ大東亜共栄圏構想に命懸けで取り組んだ結果でもあるのです。

 大東亜戦争、それは大楠公の忠孝、中興の精神を受け継いだ戦いであり、大和民族が戦国以来の秩序再興事業の中で長い年月をかけて育んできた精神伝統に則ったものでした。明治維新はこの精神の偉大な発現であり、その結果生まれた大日本帝国は、その偉大な精神を武士階級のみならず、一般庶民にまで、すなわち国民レベルで普及せしめました。明治大帝が全国民に下された教育勅語はその結晶であります。多くの国民の心に宿った精神は、昭和大帝の開戦の詔勅に再び結晶化し、大東亜戦争の闘いに結実して、西欧白色人種による世界制覇の野望をその完成一歩手前で阻むという大成果を成し遂げました。
 日本の敗戦後、ソ連の援助で対英独立闘争を継続しようと決断していたチャンドラ・ボースは、ソ連行きを控えた仏領ツーラン飛行場で、陸軍中尉荒井渓吉に熱弁を振るったといいます。
 日本の今次の戦争は考えようによっては昔の十字軍同様で、日本が占領した全東南アジア全民族の解放運動だということになる、日本国民はアジア諸民族の自覚を促した救世主であるとさえ激賞したといいます。
 日本の政治的動機とその結果においてこれはまさに正鵠を得た歴史認識といえます。
 翌日、ボースは飛行機事故に遭難し、八月十八日、その時の大やけどが原因で還らぬ人になりますから貴重な歴史的遺言というべきでしょう。
 筆者ここで思い浮かべるのはニーチェが『アンチクリスト』で述べていた次の言葉です。

「人間の向上発展の成功例は、個別的にはこれまでもたえず、地上のきわめてさまざまな地点でさまざまな文化の内部から現われているが、それは近代的な進歩の観念とは違った意味においてである。それはより高いタイプの人間が――全人類と比較して一種の超人のようなものが、実際に現われ出る場合である。天与の幸運とでもいうべきこのような偉大な成功例は、これまでもしばしばあり得たし、おそらくこれからもつねに起りうることだろう。単に個人ではなく、世代、種族、民族の全体でさえもが、事情いかんによってはそのような紛れ当りを見せるかもしれない。」

 ニーチェの有名な「超人」の思想ですが、それは個人だけでなく、世代・種族・民族の全体においても事情いかんによっては起こりうる、というのです。大東亜戦争における英霊たちの闘いというのはまさにそれでしたが、それは決して紛れ当たりと言えるようなものではありませんでした。それは歴史的必然であり、日本人があの時代に直面した運命と言え、英霊たちはその運命に伝統的感情、道義心を以て敢然と立ち向かって、偉大な悲劇を演じたのです。
 英霊たちは昭和大帝の大御心に則り、身を殺して以て仁を為した。
 そして、大和民族滅亡の危機にあって、昭和大帝もまた、身を殺して以て仁を為そうとお応えになられた。
 天の声ならぬ声は聞こえるものには聞こえるはずです。

 もし戦没者を犠牲というなら、この國の指導者や軍部の間違った指導による犠牲者というのではなく、この崇高な使命に捧げられた生贄としなければなりません。
 われわれはその壮大な歴史を取り戻し、その背後にいた真の敵と今、もう一度戦わなければならないのではないでしょうか。
 それは必ずしも、戦争を必要とする、ということではなく、『孫子』に言うところの、「彼れを知り、己れを知れば百戦して危殆うからず」というものでしょう。
 少なくとも、われわれは「今だけ、金だけ、自分だけ」という、彼らにとって都合のよい、奴隷のニヒリズムは克服しておく必要があるでしょう。


 グローバリズムとは現実離れしたイデオロギーであり、言わば架空の理論上の存在であるホワイトホールのようなもので、ブラックホールとは裏腹の存在であり、異常な現象であることにかわりはありません。自由・平等・人権といった美名や金という人工の光に目が眩んだ連中は歓喜しながら吸い込まれていく。こういった歴史の異常現象に対して、すでに反グローバリズムの動きは世界各国で起こりつつあります。

「さし出づる この日本の 光より 高麗唐土も 春を知るらむ」

 「よき和」を意味する「令和」の新しい御代は、本居宣長がかつて詠んだように、我々自身が心に光を取り戻すことで、本来の日本を取り戻し、日本自身が日の光という天地自然の光を発することによって、怨望のブラックホールである中国・朝鮮を照らし、世界を覆おうとしているホワイトホールを雲散霧消してしまわなければなりません。
 それは最後の国民国家にして、道義心の最後の砦であるわれわれ日本人、すなわち大和民族にしかできない事なのです。

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