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挙兵したものの、敗れ、配流の憂き目を見た崇徳上皇は、自らの行いを反省し、五部大乗経の写経を行い、これを反省の証として京に送りました。
しかし後白河天皇はこれをつき返します。
この朝廷の仕打ちに激怒した崇徳上皇は、天皇を後世までの敵と言い、生きていても無益であると歎いて、以降、髪は伸ばし放題、爪も切らず、顔つきは変わっていきました。
崇徳上皇は朝廷を激しく呪詛します。
「吾ふかき罪におこなわれ、愁鬱浅からず、すみやかにこの功力をもって、かのとがを救わんとおもう莫大の行業(写経のこと)を、しかしながら三悪逆になげこみ、その力をもって、日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん。」
そして自らの舌を噛み切って、流れる血で大乗経の奥に、呪詛の言葉を書きつけ、海の底に沈めたといいます。
これを聞きつけた朝廷は、崇徳上皇の様子を視察させるために、勅使を派遣します。勅使が見た崇徳上皇の姿は、大乗経を海に沈めた後は、爪も切らず、髪も剃らずに、悪念に沈んでいるという、恐ろしい姿でした。生きながら天狗の姿になっていたとも伝えられています。崇徳上皇はこの悪念に取り付かれたまま、配流後八年の一一六四年に崩御されました。
約七百年後の明治への改元の際まで、皇室を恐れさせたほどの崇徳上皇の祟りとは一体何だったのでしょうか。
それは経文の奥に、舌から滴り落ちる血で書き付けられた「皇を取って民となし、民を皇となさん」という呪いの言葉にありました。
もちろん平安時代とは怨霊信仰全盛の時代ですから、恨みを抱いて死んだ崇徳上皇が、この呪いの言葉を残したということだけで、朝廷を恐怖のどん底に陥れたであろうことは想像に難くありませんが、この乱で実力を示し始めた武家勢力が、朝廷の権威・権力を凌ぎ始めたことで、呪いの言葉は目の前で実現していきました。
そして崇徳上皇崩御後、驕れる平家の時代が到来し、次代はめまぐるしく展開して、二十八年後の鎌倉幕府の成立となります。しかし極め付きは、次の後鳥羽上皇の時代に起きた承久の変でしょう。
ここに至って、上皇・天皇が、まさに民である北条氏によって島流しにされるというショッキングな事件が起きたのです。
この事件は一二二一年の出来事ですから、崇徳上皇の死から五十七年後の出来事です。
崇徳上皇の呪いはまさに実現したのでした。
朝廷は五十七年もの歳月をかけて、じっくりと崇徳上皇の祟りの猛威を味わったことになります。それが皇室の脳裏に焼き付けられても不思議ではありません。
明治維新において、再び政治の中心に返り咲いた皇室が、この怨霊への挨拶を等閑にしなかったのもむべなるかなという気がします。
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