国体学のすゝめ

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「王道のすすめ」

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 孟子は覇道と王道について次のように言っている。
「力を以て仁を仮る者は覇たり。覇は必ず大国を有(たも)つ。徳を以て仁を行う者は王たり。王は大を待たず」
 「力を以て仁を仮る者」とはもちろんアメリカに当てはまるだろう。自由や民主主義といった仁政にかこつけながら、彼らが現実にしていることを見れば、国益に基づいた覇権主義でしかない。外交はもちろんのこと、国内に眼を向けても、その民主主義的・自由主義的社会とやらは、実質的に、富裕層と貧困層の格差と、白人によるアフリカ系を中心とする有色人種への差別を前提に成り立っている。その掲げている理念と実態は大きくかけ離れたものとなっているのである。
 孟子はまたこうも言っている。
「力を以て人を服する者は、心服せしむるに非ざるなり。力贍(た)らざればなり。徳を以て人を服せしむる者は、中心より悦びて誠に服せしむるなり。七十子の孔子に服せるが如し。詩に、『西より東より、南より北より、服せざる無し』と云えるは、此れこの謂いなり。」(共に「公孫丑章句上」)
 世界をいつまでも力で押さえつけることは出来ない。最近ではイラクでの失敗がそれを証明している。
 かつてアメリカの文明史家で国際政治学者のサミュエル・ハンチントンは、『文明の衝突』を書いて、アメリカの普遍主義的覇権外交と、国内の多文化主義に警鐘を鳴らした。世界が多文明で成り立っていることと、アメリカという国が西欧普遍主義的価値観で成り立っていることを認めよ、そうでなければ現在他文明に対し比較的優位を保っている西欧文明の優位性は早期に覆されることになるだろうと。これはアメリカの長期的国益に基づいた、透徹した洞察だったと言いうるだろう。その警鐘を無視したブッシュ政権の世界戦略により、アメリカの現在維持している覇権は意外と早く崩れることになるかも知れないのである。それがいつ来るのか分からないが、我々はその時に備えておく必要がある。
 孟子は言った。
「天下に道あるときは、小徳は大徳に役せられ、小賢は大賢に役せられる。天下に道なきときは、小は大に役せられ、弱は強に役せらる。この二者は天なり。天に順(したが)う者は存し、天に逆(さから)う者は亡ぶ。」(「離婁章句上」)
 現在の日本が置かれている状況がまさにこれだ。しかもこれは戦前の大日本帝国にも当てはまる。大東亜共栄圏という、近代国家日本の成立の過程と当時の安全保障上の見地から見て、正当かつ純粋な理想は、アメリカの覇権主義的かつ人種差別的非道の前に儚く敗れ去った。彼らアメリカ人はその目的を達し、その欲望を満たすために、日本の都市への無差別爆撃と原爆の投下という、民間人の大量虐殺という非道を敢えて行った。その非道行為はナチスの行ったそれとほとんど変わりないといえる。彼らアメリカ人の非人道性は、その後の戦争でも繰り返し行われ、現在イラクでも続けられている。
 今天下に道はなく、混沌と無秩序が世界を覆おうとしている。そんな中で我々日本がアメリカの意志に従わざるを得ないのは、『孟子』によれば天の意志なのである。
 ではそれでよいのか。この後孟子は次のような趣旨のことを言っている。
 今小国が大国の悪いところばかり見習いながら、その命令を受けるのを恥じるのは、弟子の身でありながら師匠の教えや指示を受けるのを恥じるようなものである。もしそれを恥じる心があるなら、文王を師とすべきである(つまり孟子の主張する王道・仁政を行うべきである)。文王を師とするなら大国は五年で、小国は七年で、必ず天下に政を為すことが出来るだろう。
 現実の国際政治は孟子が言うような、そんな単純なものではないだろう。しかしほとんどの日本人に覇権主義的な欲望や国家観がないのは確かだ。その点で孟子の描く世界像は、これからの日本が進むべき道を探求する上で、大きな参考になる。
 いずれアメリカはその力の衰えのために、世界への影響力を弱め、自信を失い、自らの理念に疑問を抱くに違いない。それがいつのことかは分からない。
 だが、その時が来たとき、我々は逆にアメリカに教えてやるのだ。歴史が浅く、未熟で独善的な彼らに本当の民主主義というものを。
 そのためにも我々は伝統的な王道的人民民主主義に今から目覚め、自らを正しておく必要があるのである。それを天下に行いうる高貴なる資格と責務を有するのは世界中で日本文明しかないことを、我々はもっと肝に銘じておくべきなのである。

西郷隆盛が実践し目指した、天皇を中心とする、道理に基づいた、人心の一致一和という思想。それは、天の意を受け、道理に基づき、民を安んずるために王道を布く天皇と、自然的秩序に基づく民の心を、結合し統合する思想でもあった。それは西郷の「万民の心が即ち天の心なれば、民心を一ようにそろえ立つれば、天意に随うと申すものに御座候」という言葉や、大久保利通の「天下万民御尤もと奉っての勅命であり、非義の勅命は勅命に非ず」といった言葉に表れている。
 それはこれまで述べてきたように日本の伝統思想と、「孔孟の教え」が結びついたものであった。故山本七平氏はかつてこれを「王道的人民民主主義」と言った(『日本人を動かす原理 日本的革命の哲学』)。
 日本が明治維新で速やかに議会制度を取り入れ、近代化を達成することが出来たのは、これらの伝統の積み重ねがあったからであった。しかし、明治の人間は、この伝統を育んできた日本の歴史を抹殺し、かつての日本は未開で野蛮であり、恥ずべきものであったとした。そして新しい日本の歴史はこれから始まるのだとうそぶいた。これはもっとひどい形で大東亜戦争後も起こった。この歴史観は近代日本の宿阿であったと言えるだろう。これはまた西欧文化に対するコンプレックスと背中合わせのものでもあった。
 この流れに、最大にして最後の抵抗を試みた大物が西郷隆盛であった。彼は遺訓の中で次のように言っている。
「広く各国の制度を採り開明に進まんと(する)ならば、先ず我国の本体を据え風教を張り、然して後徐(しず)かに彼の長所を斟酌するものぞ。否らずして猥りに彼に倣いなば、国体は衰頽し、風教は萎靡して匡救(ただし救う)すべからず。終に彼の制を受くるに至らんとす。」(『西郷南洲遺訓』第八条)
 現在の日本人にとって何と重い予言であろう。今や、アメリカの戦略による、アメリカの国益のための、アメリカ的価値観による日本改造計画は、着々と進められている。アメリカの日本大使館がホームページ上で公開している「年次改革要望書」に記されたその計画は、小泉改革によって、急ピッチで進められているのだ。恐らく日本の価値観や秩序の崩壊の真因は、アメリカによる内政干渉と、日本国内におけるアメリカニズムの感染患者の増殖にある。大東亜戦争後の米軍の占領以来六十年で日本の文明は瀕死の状況にあるといってよい。ならば日本文明を回復させるためには、日米の歴史を最初から見直していくことが最も近道のはずである。
 そもそも日米の交際はペリーの砲艦外交から始まった。その後彼らは独立戦争という内乱で、日本に対する干渉を後退させてしまうが、これは彼ら自身の事情によるものであり、別に日本に対し善意があったという訳ではない。むしろペリー来航の目的こそが問題視されるべきであった。彼の来航目的は、表向きは東アジアにおける捕鯨基地の確保のためとなっているが、ペリー個人の目的は別のところにあった。それはキリスト教文明の未開文明に対する宣教活動であった。彼はこれを神から与えられた「明白なる使命」(マニフェスト・デスティニー)と考えていたのである。キリスト教徒のこの考えほど恐ろしく野蛮なものはなかった。彼らはこの独善により、他文明・他教徒を迫害・虐殺し、植民地化して、それを正当化してきた。アメリカ自身に限っても、インディアンの虐殺の例を挙げれば十分であろう。彼らは北米東海岸からフロンティアを求めて、インディアンの土地と生命を奪いながら、西へと進み、西海岸に到達するや海を越えて、日本にまでやってきたのである。
 ペリーには明確に文明の野蛮への伝道と言う使命感があった。この精神は明らかにマッカーサーにも受け継がれている。
 そしてそのペリーの来航のショックをきっかけに起った日本国内の尊王攘夷運動の中から西郷が現れ、日本の伝統を、普遍性を獲得する所まで高めて、この運動を統合した。
 日米関係の根源を辿っていくと、明治維新とその中心人物である西郷隆盛に行き着かざるを得ないのである。初めてこの問題に鋭く反応したのが彼らだったのだ。日本文明における西洋文明の受容と排除という問題はすでに、いわゆる征韓論争から西南戦争にいたる西郷隆盛と大久保利通の対立の中に胚胎していた。
 先の西郷の言には、大久保が中心となって進めている明治政府の路線への批判が込められている。では西郷はどのような国家を目指すべきと考えていたのであろうか。西郷の目指すべき文明観は次の有名な言葉に表れているといえるだろう。
「文明とは道の普く行わるるを賛称せる言にして、宮室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言うには非ず。世人の唱うる所、何が文明やら、何が野蛮やらちっとも分からぬぞ。予嘗て或人と議論せしこと有り、西洋は野蛮じゃと云いしかば、否文明ぞと争う。否野蛮じゃと畳みかけしに、何とてそれ程に申すにやと推せしゆえ、実に文明ならば、未開の国に対しなば、慈愛を本とし、懇々説諭して開明に導くべきに、左は無くして未開蒙昧の国に対する程むごく残忍の事を致し己を利するは野蛮じゃと申せしかば、その人口を莟(つぼ)めて言無かりきとて笑われける。」(『西郷南洲遺訓』第十一条)
 ここに出てくる論争相手が大久保であることは、種々の理由から間違いないと思うが、仮にそうでなかったとしても、これが西郷下野後の明治政府を覆った主流の意見であったことは間違いない。彼は時期が来れば、それを正すつもりであったが、残念ながらそれは実現しなかった。明治日本が自尊心と西欧に対するコンプレックスの葛藤に悩まされながら、彼らと対峙せざるを得ないという宿命はこれで決定的となったのである。これは戦後もっとひどい形で、日本人の精神を苦しめたはずだが、病膏肓に入るで、すでに自覚症状も失われてしまったかもしれない。
 西郷が「文明とは道の普く行われるのを賛称せる言」と言った道とは、もちろん天道・王道のことであり、この稿で追求してきた日本の伝統と「孔孟の教え」が融合して出来た、「王道的人民民主主義」のことである。
 日本人が取り戻さねばならない、すでに失われた普遍的価値観として、武士道が取り上げられることが多いが、それは個人としての倫理規範としてだけではなく、この政治や国体にかかわる価値観までも、そこに含められなくては十分なものとはいえない。我々はここまでの伝統的価値観があったからこそ、近代化と国際化という時代の要請に短期間で対応することが出来たのである。西郷隆盛の思想には、その伝統的かつ普遍的な価値観が素晴らしい形で凝縮されていた。
 その彼の価値観からすれば、現在のアメリカは野蛮ということになるだろう。そのアメリカは日本のことを彼らの民主主義や自由や競争の理念から見て、未開で遅れたものと見ている。
 民主主義の目的を、政治に民意を反映させ、人民の幸福を図るためのものであるとするならば、日本のこの伝統こそ、世界で最も優れた民主主義的思想だといえるだろう。日本ほど、その目的に近い、高い実績を上げてきた国は世界に類例が無いのではないか。
 そこで私は西郷隆盛の思想に目覚めよと言いたい。そこに表れた日本の伝統的かつ普遍的な王道思想に目覚めよと。
 大東亜戦争の敗戦までの多くの日本人は、西郷隆盛の中に、日本人が理想とする何かを感じ、敬慕してきた。直感的にではあったが、日本人は西郷の言動の中に日本の伝統と普遍が交錯しているのを鋭く見抜いていたのだろう。戦後の日本人に較べ、戦前の日本人はこの伝統的情緒と言おうか、普遍的感覚と言おうか、そういったものを豊富に持っていたのに違いない。我々はこの直感を取り戻さなければならない。

 

 さて「五箇条の御誓文」には、もうひとつ抜け落ちてしまった核がある。実はそれが孔孟の教えである。正確に言えば、『大学』と『中庸』だが、これに『論語』『孟子』を加えたいわゆる四書の思想は孔孟の教えに由来しているわけだから、そのように四捨五入しても誤りではない。
 このことは三岡八郎の談話から明らかだ。
 まず彼の認めたという草稿から見ていこう。
 残念ながら、彼が最初に鉛筆で認めたという鼻紙は今日伝わっていないが、毛筆で巻紙に認めた草案が、由利家には保存されているという。
 その内容は次の通りである。
「議事の体大意
一 庶民志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしむるを欲す。
一 士民心を一つにし、盛んに経綸を行うを要す。
一 知識を世界に求め、広く皇基を振起すべし。
一 貢士期限を以って、賢才に譲るべし。
一 万機公論に決し、私に論ずるなかれ。
諸侯会盟の御趣意、右等の筋に仰せ出さるべく哉。」
 ここに記されたことはほとんど「五箇条の御誓文」にそのまま引き継がれているといってよいだろう。
 彼は彼の伝記の談話で、この第一条と二条について自ら解説している。
 まずは彼が為政の第一要目とした一項目「庶民志を遂げ、人心をして倦まざらしむる」について。
「庶民をして各志を遂げ、人心をして倦まざらしむべしとは、治国の要道であって、古今東西の善政は、悉くこの一言に帰着するのである。看よ立憲政治じゃというても、或いは明君の仁政じゃといっても、要はこれに他ならぬのである。然るに未だこの大道を学ばぬものは、専ら己の志を遂げようとして、為に人心を倦怠ならしむるか、或いはまた小慧を弄し、却って将に来たらんとする治平を妨碍(ぼうがい)するのである。」
 そしてさらに言う。
「而して庶民をして、各志を遂げしめるには、
一 明徳を明らかにすべし。
一 民を新たにすべし。
一 至善に止まるべし。
の三大原則があって、これは昔より既に明らかなことである。」
 この三大原則とは、『大学』の冒頭に置かれた「大学の道」の三綱領である。西郷もこの三綱領について島の子供に講じた文書を残している。
 次は第二条目「士民心を一にし、盛んに経綸を行うを要す」についてである。
「中庸に『中和を致して、天地位し、万物育す』とある。この道理は、御誓文の『上下心を一つにし、盛んに経綸を行うべし』と同一じゃ。上下心を一にして、国内の人心が一和し、盛んに経綸を行うに於いては、天地位し、万物育す、二十億、三十億の負債何かあらんやじゃ。」
 つまり人心を一致一和し、盛んに経綸を行うべし、ということである。ここに言う経綸を経済活動と解釈すると誤解を招くことになる。三岡の師友に当る横井小楠の思想では、経綸という言葉が、確かに富国の基となる物産や流通などの経済活動の意味でも使われるのであるが、それは手段としての用例であり、目的は経済という言葉の本来の字義である経世済民にあった。そもそも経綸という言葉は、天子が詔により天下を治めるという意味である。小楠はその融通無碍で掴み所のなさから誤解されがちだが、その号にあるように楠木正成の信望者であり、儒者が理想とする古の伝説的聖人堯舜の治を理想としていた人物である。つまり小楠が経綸の言葉に込めていたのは、天皇がその天職を全うするには民を安んじなければならず、その根本の目的を達成するために選択しうる手段全般という意味合いある。これらの手段は当然民を安んずるという根本の目的に沿ったものとなる。
 三岡が小楠のこの思想を受け継いでいるのは、彼が語った第二条の解説を読めば明らかだ。その根底に『中庸』の言葉があるのだから。経済活動は経綸のもつ意味の一つに過ぎないのである。
 西郷思想にあった、「条理名分に基づいて、朝廷を中心とする」というのは、第三条「知識を世界に求め、広く皇基を振起すべし」、第五条「万機公論に決し、私に論ずるなかれ」に表れていると見てよいだろう。つまり彼らの言う名分条理とは、伝統に基づくと同時に、世界の公論に基づいたものでなければならなかったのである。
 それは伝統思想のうち、普遍性を帯びるまでに昇華したものを抽出するということである。西郷らが命懸けで行った「理に当って後進み、勢を審らかにして後動く」とは、この普遍的伝統思想「理」を、内輪だけで通用する「勢」と峻別し、抽出する作業だったということになるだろう。そしてその理によって、日本社会を再構成し、動態化させるには、神武の創業に基づくという、一大スローガンが必要であった。
 「五箇条の御誓文」より「王政復古の大号令」のほうが明治維新の精神を表していることを言った。しかし、もしそれにも抜けているものがあったとすれば、西郷らの活動とそこに表れた思想こそ、それであったと言えるだろう。西郷隆盛こそは幕末の先覚的指導者たちに共有されていた維新の精神を、自ら体現し、統合して結実させた人物であったといえるのである。

 慶応三年十二月九日、王政復古のクーデターと共に発せられた「王政復古の大号令」は明治維新の精神を象徴した重要な宣言である。ここではそれに触れてみたい。
 まずは「王政復古の大号令」の本文を見ていくことにしよう。
「諸事神武創業の始めに原(もと)づき、縉紳(しんしん)・武弁・堂上・地下の別なく、至当の公議を竭(つく)し、天下と休戚を同じく遊ばるべく叡慮に付き、各勉励、旧来の驕惰の汚習を洗い、尽忠報国の誠を以って、奉公致すべく候事。」
 これが本文。次は「五箇条の御誓文」にも連なる部分を抜粋しよう。
「旧弊御一洗に付き、言語の道洞開され候間、見込みこれある向きは、貴賎に拘らず、忌憚無く献言致すべし、且つ人材登庸第一の御急務に候故、心当たりの仁これあり候わば、早々言上あるべく候事。」
もうひとつ。
「近年物価格別騰貴、如何ともすべからざる勢い、富者は益々富を累(かさ)ね、貧者は益々窘急(きんきゅう)に至り候趣、畢竟政令不正より致す所、民は王者の大寶(おおみたから、大宝)、百事御一新の折柄、旁(かたがた)宸衷(しんちゅう)悩まれ候。智謀遠識救弊の策これあり候者、誰彼無く申し出るべく候事。」 
 全く立派な宣言というほかない。「富者は益々富を累ね、貧者は益々窘急に至り候趣、畢竟政令不正より致す所」というくだりは、自由競争による格差社会を肯定する者によく読んでもらいたいものである。明治維新の精神からすれば、自由競争の礼賛による弱者切り捨ての改革は改悪・後退でしかないのだ。その行きつく先はアメリカ社会の貧困層の悲惨な現状を見れば十分であろう。日本の伝統に片足を置くのなら、そのような改革は政令不正というほかないのである。
 この「王政復古の大号令」中に、後の「五箇条の御誓文」の第一条から四条までの精神はすでに含まれている。
 ちなみに「五箇条の御誓文」の文言は次のようになっている。
「一 広く会議を興し、万機公論に決すべし。
一 上下心を一にして、盛んに経綸を行うべし。
一 官武一途、庶民に至る迄、各その志を遂げ、人心をして、倦まざらしめんことを要す。
一 旧来の陋習を破り、天地の公道に基づくべし。
一 智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。
我国未曾有の変革を為さんとし、朕躬を以って衆に先んじ、天地神明に誓い、大いにこの国是を定め、万民保全の道を立てんとす。衆またこの旨趣に基づき、協心努力せよ。」
 明治維新の精神を表したものといえば「五箇条の御誓文」の方が高く評価されている。御誓文の文言の開明的な響きが我々に近づきやすくさせているのだろうが、しかし実際は、むしろこの「王政復古の大号令」の方が維新の精神を表しているのだ。御誓文の精神は全く核が抜けてしまっているといっても過言ではない。その理由は次の通りである。 
 二つの宣言の起草者は同じではない。大号令の方は玉松操であり、御誓文の方は、横井小楠の弟子ともいえる三岡八郎(由利公正)である。二人に接点はないから、当時の先覚的指導者に同様の価値規範が存在していたことを意味している。これを行動で示していたのが、西郷を中心とする薩摩藩指導者であった。
 御誓文の起草者、越前福井藩の三岡八郎の後の談話によれば、彼が、新政府の方針を公示して、これを下々まで徹底させる必要を感じ、起草を思い立ったのは翌明治元年(改元前だから正確には慶応四年)正月八日のことである。この頃には正月三日に始まった鳥羽伏見の戦争が激戦の末、八幡と山崎の関門を奪取して、京都から東軍を撃退し、ほぼ勝利を確定したところであった。つまり朝廷の基礎が固まり、王政復古の基礎は揺るがなくなっていたのである。だから当然彼の起草した文章の文言は、王政復古、あるいは朝廷の遵奉という根本は当然の前提となってしまっており、示された文言には復古色が後退してしまっているのである。
 また彼は、王政復古の大号令時、国許で監禁状態に置かれていた。新政府の召命によって初めてこの状態を脱し、急ぎ上京した彼は当時の状況がよく飲み込めていなかった。当然王政復古の大号令のことはよく知らなかったはずである。また彼にしてみれば、鳥羽伏見の戦争は何やら突然始まり、戦争の大義や意味がよく分からない、という感じであったという。そう証言している。しかしこれは彼が小御所会議の議論と、その後の西郷らと平和解決派の鍔迫り合いに関与していなかったからであって、政争の渦中にいる者(岩倉や西郷や大久保、あるいは春嶽や容堂)にとっては起るべくして起った衝突であった。それが王政復古の大号令と、その当日にあった小御所会議での議論にあったのだが、幽囚の身の彼は知らなかった。
 こういった認識の下、起草は行われたのである。
 この三岡八郎の起草した文を受け継いで「五箇条の御誓文」まで持っていったのは、これも後になって出京して来た木戸孝允であった。彼の場合出京早々に、新政府の方針を攘夷と誤解した者による外国人襲撃事件が多発したため、方針の公示の必要性を痛感したからである。それならば「王政復古の大号令」の精神を徹底すればよかったが、彼らはそれを知らなかった。仮に知っていたとしても、攘夷家に訴えるために、より開明性を強調した文言で公示すべきと考えたのかもしれない。
 いずれにしても当然の前提となった復古的色彩は文言から後退した。「五箇条の御誓文」から核が抜けているということの一つは、その意味においてである。
 これは聖徳太子の十七条憲法の第一条と同じである。この憲法の第一条は、天皇の下での話し合いによる和を説いたものであることは既に述べた。しかし文言において、それは後退してしまっている。つまり当時の当然の前提となってしまったことは、強調する必要がない故に書かれないのである。こういった傾向も日本の一つの伝統といえるかもしれない。我々大和民族は強く原理を持しつつも、原理主義的ではない。だから残されている文書類には、本来なら原理原則から説き起こすべきところ、それは当然の前提、いわば当たり前の事として、触れないか、軽く触れられるのみである。
 日本人は、海に囲まれた島国という閉鎖的環境で、縄文からの長い年月をかけて独自の文化を築き上げてきた。同じ文化を共有している日本人同士のみで生活していける時代は、それでよかった。しかし我々はいまや近代という伝統破壊の時代に生きている。そうでなくとも外国の普遍文化に憧れがちな日本人が、明治の開国以後、開明性を匂わせるものにますます幻惑されるようになっている。アメリカが発信する自由・平等とか民主主義などといった言葉に弱いのはそのためである。我々の伝統に沿ったものだけでなく、そうでないものにまで痺れてしまうのである。それに関して日本人には軽薄としか言いようがない一面があるのであるが、これは歴史を見る眼にも、悪い影響を及ぼしている。現代人は、国内の過去の文書を見るときも、その開明的と感じる部分のみ取り上げ、それにそぐわない部分を未開・野蛮・恥ずべきものと切り捨てるか、そうでなくとも見落としがちなのである。これは過去の歴史を、現在の価値観で都合のよいように再構成することを意味する。それはここで扱っている明治維新観にも表れているし、大東亜戦争観にも表れている。
 歴史の真実を追究するためには、最も注意を要するところだといえるだろう。逆に言えば正確に歴史を理解しておけば、論者の立脚する立場や価値観がどこにあるか、判断できるようになるのである。歴史が鏡と呼ばれる所以である。歴史は、他者を映し出すとともに、自分の姿も客観的に映し出すのである。
 だからこの国の伝統的価値として「五箇条の御誓文」を持ち上げるなら、「皇室の遵奉」を第一条に置かなければならないし、箇条書き以外の部分にも注視すべきなのである。もう一度挙げておこう。そこにはこうある。
「我国未曾有の変革を為さんとし、朕躬を以って衆に先んじ、天地神明に誓い、大いにこの国是を定め、万民保全の道を立てんとす。衆またこの旨趣に基づき、協心努力せよ。」
 西欧国家においてこの種の宣言は、権力者の権力の濫用を抑える目的で、利害を有する側から突きつけられたものが大半である。つまり王権に代表される権力者は渋々これを飲まざるを得なかったのであった。しかし『五箇条の御誓文』は権力者の側から発せられた宣言であった。当初は天皇が列席の諸侯に対し宣誓する形で行うという意見があったが、この意見に対し公家側から、それは支那の皇帝流の覇道であるという意見が出て退けられ、天皇親ら神々に誓う礼式に改められたのであった。 この事情が文書に表れているのが、前掲の部分である。天皇が率先して、民と心を一つに和して、神の加護の下、民を安んずる。まさに日本の古代からの伝統思想と、幕末の思想が、一体化したものといえるだろう。これのない御誓文など、中身の抜け落ちた天ぷらである。
 恐らく戦後の皇室が、本来その本質と相容れないはずの民主主義的な振る舞いをせざるを得ないのも、西欧的価値にかぶれた大衆と和して協心努力していかなければならないとお考えだからではないかと思う。昭和天皇は明治天皇を模範とされ、この「五箇条の御誓文」を戦後の日本復興の指針として示された。昭和二十一年元旦の、俗に言う人間宣言の趣旨は明らかにこちらである。当然今上天皇は、この昭和天皇の意志を継いでおられるはずだ。今上天皇は歴代天皇の中でも、もっとも祭祀に力を入れておられるという。
 天皇の行う祭祀とは、この国の繁栄と国民の安寧を、祖神の前で祈ることである。この伝統と外来の自由・民主主義という非伝統的なものをつなぐもの、それが「五箇条の御誓文」に表された明治維新の精神ではないかと思うのである。そして民意と天皇をつなぐために必要とされたものが、天下の公論という概念であり、公議政体という装置だったのである。当然それに参加する者には無私が求められた。日本の戦後社会は伝統と非伝統を結ぶ、否、峻別する重要な精神の背骨を見失ってしまっているのである。(つづく)

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 西郷軍と谷干城率いる鎮台兵は熊本で開戦した。西郷軍は熊本城の包囲戦を選択する。
 板垣退助が「嗚呼西郷兵を知らず」と嘆いた、熊本城攻囲戦である。「孫子」の兵法によれば、城攻めは兵力が優位であっても避けるべきものであった。
 熊本城をめぐる攻防で西郷が勝てると踏んでいたのは、当時の彼の書簡を見れば明らかだ。
 ではなぜ彼は勝てると踏んでいたのだろうか。そのヒントは次の言葉にある。
「地の形と云い人気と云い其の所を得候に付き、我が兵を一向此処に力を尽くし候処、既に戦いも峠を切り通し(やり過ごし)六七分の所に討ち付け(打ち付け)申し候。」(三月十二日付大山綱良宛書簡)
 要は人の和(人気)だけでなく、地の利(地の形)も得ていたから勝てると踏んだのである。頼山陽の『日本政記』によれば、人の和だけでなく地の利も得れば、戦には勝てるはずであった。
 これが『孟子』の「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」という言葉に依拠した考えであることは既に述べた。この『孟子』「公孫丑章句下」の言葉の続きは次のようになっている。
「三里の城、七里の郭、環(かこ)みて之を攻むるも勝たず。それ環みて之を攻むれば、必ず天の時を得る者あるべし。然り而して勝たざる者は、これ天の時は地の利に如かざればなり。城高からざるに非ず、池深からざるに非ず、兵革堅利ならざるに非ず、米粟多からざるに非ざるも、委(す)てて之を去るは、これ地の利は人の和に如かざればなり。」
(三里四方の内城、七里四方の外郭を持つ城を攻めても勝たなかった。それを囲んで攻めていれば、天の時を得ることもあったはずだ。そうであるにもかかわらず勝てなかったのは、天の時は城という地の利に及ばなかったからである。城壁が高くなく、堀も浅くなく、武器も堅固で鋭利で、兵糧も少なくないにもかかわらず、城を捨てて逃げるのは、地の利が人の和に及ばないからである。)
 人の和さえあれば、城にも勝てるはずである、という結論になる。西郷が熊本城を囲んでどこに地の利があると判断したのか分からないが、ともかく人の和という点では明らかに薩軍は勝っており、この基準からいえば西郷軍は熊本城を落とせるはずであった。ただしこれは援軍が来なければということであり、それが来るまでに城を陥落させれば、各地で動揺が広がり、また違った展開になったかもしれない。しかし援軍の大挙上陸までに落とせなかったがゆえに、西郷軍は包囲され急激に不利な状況になったことは確かである。
 西郷軍は敗走を重ね、何とか西郷を含む生き残りが鹿児島に戻り、城山に籠城したものの、明治十年九月二十四日の政府軍の総攻撃の前に全滅した。天は西郷を滅ぼしたのである。西郷の理は、西洋化の勢に破れたのであった。これは明治維新の精神が、西洋化の勢に押し流されたことを意味した。
 西郷の意図が分からないと人は言う。確かに彼は守勢に立ったため、理も十分ではなかったし、準備も十分ではなかった。彼自身もそれは自覚していた。しかし彼が過去と同様の原理で、兵を率いて上京し、政府の不正を正そうとしていたことは明らかである。
 兵を携えての上京が国法を破るものだというなら、幕末の久光の兵を携えての上京もまた当時の国法を破るものであった。この久光の壮挙を指導し補佐したのもまた大久保ではなかったか。しかも当時の久光は無位無官で藩主ですらなかった。他ならぬ大久保が与えた陸軍大将の地位を持っていた西郷とは比較にもならない上京の根拠の脆弱さである。ほとんど無法の振る舞いといってよい。しかし中央政権の悪政を正すために必要だからこそ、大久保はこれを許される行為と考えたのであろう。ならば西郷の行為もまた肯定されなければならない。それどころか、私学校の沸騰を鎮撫してきたのは西郷であり、彼が止むを得ず取った行動は理に適ったものでもあった。
 こうして見ていくと西郷の重大な大陸政策を党派心で潰し、彼に政府への不平分子を押しやり、追い詰めた上で殺したのは、理を失った大久保の行動であったと言ってよいのではないかと思う。起きる必要のない凄惨な西南戦争を起こした責任は、その場限りの政治的合理主義に基づいて行動した彼にある。
 もちろん大久保がこれを意図していたとは思わない。彼は袂を分かったとはいえ、かつて盟友だった男の暗殺を企てるような卑しい人間ではなかった。只彼には目前の政治目的にとらわれてしまう所があった。彼の一度思い詰めたらとことんやりぬく強さは、そのことが及ぼす政治的影響に鈍感にさせた。後世に残すものに対する目を曇らせた。
 彼と西郷の対立は私情にとらわれたものではなく、公的な意見、国家観の対立であったとする見解がある。それは確かにその通りである。しかし西欧世界を実際に見た大久保は却ってその見解が、その器が小さくなった。彼は西欧を文明とし、それを目的としてしまったのである。彼らの試算でも高々四十年の相対的な近代化の格差であるにもかかわらず。彼の敷いた路線は確かに、伊藤博文や大隈重信などの後継者に受け継がれ、明治政府の主流となり、早くも三十年後には日露戦争の勝利という一大成果を挙げることが出来た。これは確かに偉業である。しかし大久保の路線は、その勝利で得た一等国としての立場で、西欧と渡り合わなければならない困難な次なるステージでは通用しなかった。
 一方西郷の思想は大久保の目指した富国強兵を内包しつつも、日本国家の根幹に関わる伝統的かつ普遍的価値を、行き過ぎた西欧心酔と腐敗を正すことで強化しようというものであった。それこそ次のステージで必要とされた強靭な日本の背骨であった。
 大久保が為したのは三十年の計であった。一方の西郷が為そうとしたのはこの日本という国家が存続する限り求められるべき、永遠のものであった。大久保が小さいとする所以である。

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