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「敬天愛人」

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西郷隆盛の命日

 今日、九月二十四日は西南戦争の終局である城山陥落の日、すなわち西郷隆盛の命日です。
 今から百三十一年前のこの日、西郷隆盛を中心とする明治政府への最大の批判者達は、半年間南九州を激戦しながら転戦し、その挙句、鹿児島に追い詰められて、玉となって砕けたのでした。
 近代日本の礎となった英霊達の冥福を祈りたいと思いますが、彼らが今日の日本のていたらくを見たらどう思うでしょうか。

 ところで西郷隆盛の命日を意識してのことでしょうが、一昨日のNHK番組『知るを楽しむ』の「この人この世界・神になった日本人」では、西郷隆盛が取り上げられていました。題は「思慕と敬愛の「記憶装置」−西郷隆盛−」。解説者は民俗学者の小松和彦氏でした。

 内容は、西郷隆盛の生涯を大まかに紹介し、西南戦争における西郷隆盛の立場を、小松氏の征韓論争および西南戦争に関する解釈を交えて、いかに民衆の心の中に、西郷隆盛に対する敬愛と追慕の念が刻み込まれていったのかが語られていました。
 小松氏のことはよく知りませんが、民俗学者ですから、その立場から見た西郷隆盛像としては良識的なものですが、その像には幾らかの誤謬が含まれていることを指摘しておかなければなりません。
 もちろん小松氏の西郷像は、歴史学者の解釈に則ったものでしょうから無理もないのですが、確実なところで、西郷隆盛が負けるのを承知で挙兵に踏み切ったことと、武士の時代の終わりを見据え、自己の歴史的役割を悟った上で、政府に対する不平勢力に身を委ねたとする見解は誤りであり、これについては証拠も挙げることが出来ます。

 西郷隆盛が少なくとも熊本城をめぐる攻防の段階で、意欲満々、政府軍を破るつもりであり、また勝てる見通しを持っていたことは、戦争勃発二週間後の三月五日付けで、鹿児島県令大山綱良に対し、「この上ながら宮(征討将軍である皇族有栖川宮)を押し立て来り候わば、打ちすえ罷り通り申すべく候に付き」云々と書き送っていることでもわかりますし、十二日付同人宛書簡では、「我が兵を一向此処に力を尽くし候処、既に戦いも峠を切り通し、六七分の所に打ち付け申し候。」と述べています。これでどうして勝つ気がなかったと言えるのでしょう。
 
 熊本城攻略は薩軍最大の失策であり、愚策であったと断ずる人がほとんどですが、これは一を知って二を知らぬ論で、薩軍、延いては西郷隆盛の戦略構想は、実は、必ずしも熊本城攻略にあったのではなく、政府軍の動員力と比較して、自軍の不利を踏まえた上で、天下の大勢を見極めた上で選択した戦略であり、道義的に見ても、私はむしろ天才的な戦略であったと感じています。おそらく薩軍がこの戦争に終局的に勝利する可能性があったとすれば、この選択しかなかったのではないかとさえ思います。
 喉元過ぎれば熱さを忘れるで、熊本攻防戦を制した政府軍が勝利したことで、西南戦争を始めから結果のわかっている戦争のように言う人もありますが、この熊本攻防戦に参加した人の証言を読む限り、これがこの戦の天王山であると信じて、両軍とも全力を尽くして戦ったということがわかります。
 薩軍の幹部クラスはほとんど戦死しており、証言少なく、またこの戦争が西郷大将の暗殺疑惑から端を発していることもあって、薩軍は戦争中、大将の所在地を秘匿し続けたこともあって、戦争中の西郷隆盛の動静を窺うことの出来る証言は少ないのですが、彼が軍略の教科書として尊重していた「孫子」を右手に、薩軍の行動を追っていくと、彼らが、熊本攻防戦敗退後の圧倒的に不利な状況下で、最善を尽くして挽回を図ろうとしていたことが見えてきます。
 詳しいことは、『(新)西郷南洲伝』の下巻で追究していますので、そちらに譲りたいと思いますが、私が見る限り、西郷隆盛は維新政府の持つ本質的欠陥に気づいて、これを正そうとしていましたし、また武士の時代の終わりを考えていたというよりも、士族を活用することで、その武士精神を、階級的なものに限定するのではなく、日本国民全般に押し広げていこうとしていたと考えて間違いないと思います。
 そして彼が、この士族を最も活用しようとしていたのが、ロシアの南下政策に対する防波堤としてでした。征韓論ないし遣韓大使論も、その構想の一部としてみていく必要があります。

 政府は征韓論争から西南戦争への一連の事件で、自らの首を絞め、結果的に日露戦争を招き寄せてしまったようなところがあります。あの戦争は勝ったから良かったようなものの、世界に与えた衝撃的な印象(海軍は特に完勝であった)とは裏腹に、中身は意外と際どい勝利でありましたし、そもそもが、征韓論政変勝ち組が、大陸政策の着手に誤まった結果として起こった戦争という一面は否定できないと思います。政治家として、国運を賭しての、一か八かの戦いは、できるだけ避けないように政治を運営していかなければならないのは自明のことでしょう。
 であるにもかかわらず、ロシア問題の積極的な解決に乗り出した貴重な人材を、国内の内戦で消耗し、大陸政策の混乱を招いた政府、なかんづく大久保利通を高く評価する人は、一を知って二を知らぬ者ということが出来るかと思います。
 大久保が当時の人材の中で傑物であったことは、万人が認めるところであり、私も異論はありませんが、西洋視察後の彼はむしろ政治家として迷走しており、征韓論政変で自ら引き寄せた政治的危機から逃げずに、これと向き合い、最終的に勝者になったことで、政治家として高く評価されているわけですが、彼がなした政治の功罪について、日本の近代史を鳥瞰して、全体像を知って論じている人は、意外と少ないのではないかと思います。

 西郷隆盛が城山で斃れたとの報を聞いた頭山満は「千年も二千年も年を経た神木が根元から折れて、どしんと大音響のした感じがした」と告白していますが、小松和彦氏が述べておられた、日本人特有の判官びいき以上の、大きくて深い意義が、日本人の西郷隆盛に対する敬愛と思慕の中には含まれていると私は感じています。
 西郷隆盛没後百三十年以上を経て、日本はまさに枯死しかかっていると感じているのは私だけではないはずです。日常に埋没している人もせめて、西郷隆盛の命日である今日だけは、このことに真剣に思いを馳せて頂きたいものです。

敬天愛人 (五)

「敬天愛人」の5回目です。
 前回は「敬天愛人」という言葉で表される思想の意味するところについて触れました。今回は、その思想がどのように幕末の政治状況に適用されていったのかを見ていきたいと思います。でもあくまでも大雑把にです。私はこれを『新西郷南洲伝』の第三部で250ページ程度かけて叙述したくらいですから。
 今回は王政復古までに限定して、かなり端折って述べたいと思います。
 翁は元治元年、沖永良部島から召還されて京の政界に復帰します。翁は状況を見極めながら、朝廷と公論を蔑ろにしている幕府を反正させ、なんとか朝廷の権威を取り戻そうと働きかけますが、幕府の強硬な姿勢は激しくなるばかりでした。しかも朝廷は佐幕勢力に牛耳られて、手も足もでない状態になります。そこで翁は慶応二年1月幕府と対立している長州藩と錯綜した経緯を経て盟約を結び、情勢を見極めながら、着々と幕府を正す準備を進めて行きます。
 そしてこの年の十二月、徳川慶喜が将軍職に就任し、直後に孝明天皇が崩御されました。
ここで翁は天命が革まったことを感じ、積極的に幕政を正し、王政復古することを決断します。それは武力の発動を視野に入れてのものでした。
 なぜ、この慶応二年の十二月に翁が新たな天命が下った感じたと言えるかといえば、次の文書が明らかにしてくれます。慶応三年十月八日、翁は、大久保利通と小松帯刀との連名で、討幕の宣旨降下の願書を討幕派の公卿中山忠能他二名に提出しますが、そこに添付された討幕の趣意書には次のくだりがあります。
「大樹公御継業(慶喜の将軍職就任を指す)、御維新の時に当りなされ・・・」
 つまり翁は慶応二年の十二月に維新の時が来たとしているのです。「維新」という言葉は詩経にある言葉で、天命が革まったことを指す言葉です。このくだりからだけでは、慶喜の将軍職就任を天命が革まるサインとしたのか、それとも孝明天皇の崩御をそのサインとしたのか分明ではありませんが、『孟子』の天命思想を素直に適用するなら、天皇の崩御をそのサインとしたと解釈すべきでしょう。
 それでは天意を民意の中に見るという『孟子』の天命思想が適用されていないではないかと思われるかもしれませんが、翁はすでに当時の政治が民意に見放されていることを感じていました。薩摩藩の朝廷への建白書などには、しきりに一揆の頻発のことが述べられています。一揆の頻発とは民意が離れていることの現われです。しかし当時の為政者は幕府であって、孝明天皇ではなかったではないかと言われるかもしれません。確かにそのとおりです。しかしそれは現代の合理主義的判断というべきものであって、当時の官学である儒学ではそうではありません。
 甚だ形式論理ではありますが、征夷大将軍というものは天子である天皇が任命するものであり、そうである以上論理的にその責任は当然任命者に帰されるべきということになります。そもそも討幕派というのは誤解を招くので、王政復古派としておきますが、王政復古派が王政復古を主張するのは、この論理に則って、天皇を日本の潜在的主権者とするからこそです。これに儒教の正名論が絡まって、名を正して王政復古を行おうとなるのです。後の展開を見ても翁を中心とする王政復古派の動きは、政治的に見て拙策に感じるくらいこの方針を徹底したものでした。幕末の彼らの動きを見て、非常に狡猾に感じるようなら、その人の政治的センスはかなり疑わしいとみていいと思います。
 話を元に戻します。
 天皇が征夷大将軍を任命するといっても、幕府の提示した人事を容認するだけであって儀式的なものに過ぎませんが、孝明天皇がかたくなに幕府を支持してきたことは確かです。つまり『孟子』の天命思想に拠れば、民意に見放された幕政を支持してきた孝明天皇は不徳の天子ということになるのです。天人相関の考えから言えば、気候ですら天子の不徳に帰されるのですから、失政と社会の混乱の原因が天子に帰されるのは当然といえば当然です。
 そしてその天皇が崩御され、新たな天皇が立ち、それと同時に新しい将軍が就任するということは、幕政を正し、王政復古を行えという天命が下ったということになります。だからこそ、翁はこの時を維新の時と考えたのでしょう。
 そこで翁は、勝海舟から授けられていた、かねてからの腹案である雄藩連合(諸侯会議)の公論を通じて、朝廷の人事を正して、一方で幕府には政権を奉還させようとします。慶応三年五月のことです。しかし結局これは失敗に帰します。そこで翁たちは、もはや言論で幕政を正していくことは不可能であると見極め、挙兵を決意します。
 しかし土佐藩の大政奉還運動があって、慶喜が大政奉還を決意し、強権の発動を見ずして王政復古の大号令まで至ったことは、皆さんよくご存知のことと思います。

敬天愛人 (四)

 さて、今回は『敬天愛人』の4回目。西郷南洲翁の思想の中身を、『孟子』を援用しながら見て行きたいと思います。
 翁は前回触れたように「万民の心が即ち天の心なれば、民心を一ようにそろえ立つれば、天意に随うと申すもの」といいましたが、なぜ万民の心が天の心なのでしょうか。本来民心は民心、天の心というものがあるとすれば、天の心は天の心で別のはずです。この謎を解く鍵が実は『孟子』なのです。
『孟子』によれば天意は民意を媒介して現れるということになっています。天は別にものを言って、言葉でその意志を示すわけではありません。キリスト教なら預言者と奇跡によって示されることになるのでしょうが、『孟子』の場合、行為とそこから生じた事象によって示すとされています。それが天変地異や天候不順といった自然現象や、民意の動向といったものを指すことになるのです。
 天変地異や天候不順が起きた際、天子の対処如何で、民は、一揆を起こすか否かはともかく、離れていってしまいますから、これも結局は民意で判断されることになります。
 このような自然現象を為政者の欠陥に結び付ける考え方(例えば王が呪力を失ったことに求めたりするなど)は、古代社会一般に見られる考え方でしたが、『孟子』では一歩進めて、為政者の徳の欠陥、つまり不徳に結びつけることにしたのです。これを天人相関といいます。
 しかしこれは、『孟子』の独創というわけではなく、古代支那の王朝周の統治の論理を敷衍したものでした。なぜそれがわかるかというと、周時代の金文にすでにこの思想が表れているからです。周の武王自身が、この論理で、民意を失った前王朝殷を滅ぼしたのでした。
 翁も『与人役大体』で、この天人相関の考え方を踏襲しています。前回紹介しました「人心調和いたし候えば、気候順環いたし候儀は的然なる事」という言葉がそれです。常識的に考えて、民心がそろい立つことと、気候の循環は何の因果関係もありません。翁の思想の背景に天人相関の考えがあることは明らかでしょう。
 さて翁は民心を一様にそろえ立てれば天意に随っているといえると言っていますが、それはもちろん役人が私欲を去り、道理に基づいて民心を一つにするという意味であって、現在の政治家が行う選挙の票集めのための大衆迎合政治ではありません。道理に基づいて民を一つにする以上、民に厳しい条件を突きつけることがあっても、無私に勤めてこれを心服させるような政治のことです。ですから翁は『与人役大体』の中で「一体頭役は人心を得候が第一にて、その心を得候は、我が身を勤めて私欲を絶ち去り候事に候」と言っています。これもまた『孟子』で説かれていることです。
 『孟子』は天意は民意に現れるとしましたが、翁はこれを積極的・主体的にとらえて、義に基づいて民意を一つにしたら、それは天意に適うとしたのでした。
 ここから「敬天愛人」の哲学は容易に導き出せると思います。天を敬うということは、もちろん天の道を行うことでなされることであって、天の道を行うには天の意を知る必要があり、天の意を知るにはそれが現れるという民心を注視せざるを得ず、そのためには民を愛さなければならなくなるからです。「民を愛す」を一般化すれば人を愛すということになります。この場合の愛すとは思いやるぐらいに理解しておけばいいでしょう。
 ここから「敬天愛人」ということは『孟子』に基づいて天道を実践するための、日々の戒めということになります。ですから「敬天愛人」という言葉は、南洲翁の到達した天命思想の実践における心の工夫、あるいは極意を端的に表した言葉であって、思想そのものではないと言っていいかと思います。「敬天愛人」という言葉よりも、その思想の中身のほうが大事と言った意味はそこにあります。何といっても明治維新は、この遠島中に翁の中に宿った天命思想に則ってなされた革命なのですから。

敬天愛人 (三)

「敬天愛人」に関する話題の3回目です。
 今回は南洲翁が二度の島流しで目覚めた天命思想の中身について述べたいと思います。
 翁が島で行った学問について、その手がかりとなる史料はいくつかありますが、最も重要な文書が「与人役大体」です。
 この文書は、翁が沖永良部島へ罪人として島流しされた際、そこで翁に感化されて義兄弟の契りを結んだ島の役人土持政照の求めに応じて認めたもので、いわば翁の考える役人としての心得です。ちなみに与人とは沖永良部島での高級役人です。
 この文書で翁は、彼の役人観だけでなく、その天下観まで語っています。彼は、天が直に万民を安んずることができないので天子を立て、その天子だけでは民を安んずることができないので、各領域ごとに諸侯を立て、それだけでは行き届かないので諸有司を立てた、という趣旨のことを言った上で、役人の心得を次のように言っています。
「日々天意を欺かず、その本に報い奉る処のあるをば良役人と申すことに候。若しこの天意に背き候ては、即ち天の明罰のがるる処なく候えば、深く心を用うべきことなり。」
 要は天意に背かないのが、良役人であるというのです。
 では天意に背かないためにはどうすればよいのでしょうか。
 翁は次のように言っています。
「万人の心が即ち天の心なれば、民心を一ようにそろえ立つれば、天意に随うと申すものに御座候。人心調和いたし候えば、気候順環いたし候儀は的然なる事に御座候ゆえ、頭役第一心を用うべき所に候。」
 ここのところ、『西郷隆盛全集』(大和書房)の注では、「万民の心が天の心。封建的考え方を超越している。」と書いてありますが、この全集はやたらと封建的か否かというところにこだわった解説を附していて、人民史観・唯物史観の影響が垣間見えるのですが、翁の思想が封建的か否かはともかく、この思想の背景にあるのが実は『孟子』です。
 翁が遠島中『孟子』の影響を受けたらしいことは、いくつかの傍証を挙げることができます。島の子供に『孟子』を講じ、それを文書にしたものが残されているのです。また翁にとっての神であった先君島津斉彬その人が『孟子』の影響を強く受けた人でした。おそらくその影響と思われますが、斉彬の弟で、彼亡き後、藩の実権を握った島津久光もまた『孟子』の影響を強く受けています。翁は斉彬の薫陶を直に受けた人ですから、その思想的影響は強いとみるのが自然でしょう。
 そして何よりもこの「与人役大体」という文書そのものが、『孟子』の影響を受けたことの明らかな証拠であるいっていいでしょう。
 実は、その『孟子』の思想こそ、翁の後に『敬天愛人』という言葉で表される思想を明らかにする鍵を握っているのです。(続く)

敬天愛人 (二)

 『敬天愛人』という思想についての二回目です。
 前回、この言葉の出典について述べました。中村敬宇の著作からの借用ではないかという事です。しかし『敬天愛人』という言葉が他人からの借用であっても、南洲翁という人物が『敬天愛人』の思想の厳しき実践者であり、体現者であったことは、儒教思想についてよく知らない人でも感じることができるのではないかと思います。私の知る限りにおいても、南洲翁の言行というのは、この言葉のとおりでした。
 さて翁がこの思想に目覚めたのは何時頃のことでしょうか。衆目の一致するところでは、やはり二度にわたる遠島の最中のことではなかったかということです。私も同感です。
 その転機になった重要な出来事が、かの有名な勤皇僧月照との投海事件でした。
 翁は英君で神のように崇めた薩摩藩主島津斉彬の死と時勢の暗転に絶望し、鹿児島に避難していた月照和尚と共に鹿児島湾に投身自殺しました。和尚は亡き人になりましたが、翁は同志に助けられて蘇生します。そして生き残ったことを恥じました。そんな失意の彼を藩は、幕府への配慮と彼への好意で、奄美大島へ匿うことにします。これは島流しではなく、扶持もつきました。
 大久保ら同志は翁に脱藩を勧めますが、翁は藩命に従うことを選択しました。翁は自分が生き残った意味を考えたのでしょう。そこで様々な儒書を漁ることになります。この選択は結果的に維新史のあり方を左右することになりますから、非常に重大な選択であったということができるでしょう。実は、これは維新史だけでなく、思想史的にも、また文明史的にも重大な意味を持っていますが、ここではそれに触れません。
 島に下って三年半の後、翁は召還を受けますが、忠義を行おうとしたところ却って、藩父(藩主忠義の父)として藩の実権を握っていた島津久光の怒りを買う羽目になって、再び島送りとなります。今度は罪人としての島流しです。しかも切腹に次ぐ重罪とされる沖永良部島への島流しで、さらに檻に入れろというものでした。
 しかしすでに自らの生を天から与えられたものと悟っていた翁は、逆らおうとしませんでした。たとえ切腹であっても、藩命を受け入れようとしたのです。ところが前述のように、久光が翁の罪は切腹に値すると、家老喜入摂津への手紙にぶちまけたにもかかわらず、やはり天命であるからか、切腹には到りませんでした。翁はこの命を受け入れ、檻の中で学問に専念することになります。 
 さて翁がこの事件によって天命思想に目覚めたであろうことは、遠島中に次のような漢詩を残していることからも明らかです。

「朝に恩遇を蒙り、夕に焚抗せる
人世浮沈、晦明(かいめい・・・夜と昼)に似たり
たとえ光を回さるも、葵日に向う
もし運を開くこと無きも、意誠を推す
洛陽の知己、皆鬼と為る
南嶼の俘囚、独生をぬすむ
生死何ぞ疑わん天の附輿
願くは魂魄を留て、皇城を護らん」

 勝海舟が碑に刻んだ有名な詩です。
 翁の意識では、彼が生きながらえているのは、天の命なのです。「生死何ぞ疑わん天の附輿」のくだりにそれは表れています。もちろん天が生を附与するのは、命を行わせるためです。
間違いなく翁は二度の遠島を通じて天命思想に目覚めたのでした。
 ではその天命思想の内容とはどのようなものだったのでしょうか。それが、後に『敬天愛人』という言葉で表されることになる天命思想であり、維新史を転換させる重要な思想なのですが、 その中身については次回触れることにしましょう。

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