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坂本龍馬暗殺事件

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坂本竜馬と小松帯刀

 NHK大河ドラマ『篤姫』で今回坂本竜馬が暗殺されましたね。
 坂本竜馬と篤姫は大して近い関係にありませんでしたが、ドラマでは篤姫と薩摩の若き家老小松帯刀が近い関係に描かれていて、彼と竜馬が平和解決路線で共鳴関係にあるように描かれており、そのことがあって、竜馬の暗殺事件が大きく取り上げられているようでした。
 宮尾登美子の原作を読んだことがないので、これが原作に忠実な結果そうなったものか、それともやはり現代における明治維新最大のヒーローである竜馬を大きく取り上げない手はないという、視聴率を意識したNHKの意向が反映したものなのか、私は知りません。
 NHKの大河ドラマは、歴史小説を原作とする大衆向けのドラマですから、分かりやすく描かれているほうが視聴者にとってよく、その予定調和的な描かれ方にけちをつける気は毛頭ないのですが、過酷な政治的経験をし、政局を何とかそこまで推し進めてきた、実際の竜馬や小松は、そのような空想的な立場に立っていたわけではありません。

 今回のドラマと同じような描かれ方をしている司馬遼太郎の『竜馬がゆく』から、そこに描かれている竜馬像にほれ込み、そして日本の歴史の面白さに目覚めた私としては、未だに坂本竜馬という人物に好意を持っていて、また高く評価もしており、敬意を抱きこそすれ、その人物を非難するいわれはないのですが、でも、戦後主流であった維新像に則った、ドラマにおける描かれ方には、少し言っておきたいことがあります。
 というのは、今回のドラマで、かつての私と同じように、坂本竜馬に好意を抱き、興味を持った方には、やはり竜馬の真の姿を知っていただき、戦後の反戦平和思想を投影した虚像よりも、その実像が持つ真の価値に目覚めてほしいと思うからです。
 特に、大政奉還前後から暗殺されるまでの時期、岩倉と接近していた西郷・大久保ら武力討幕派と、小松・坂本ら平和解決派との間に意見の相違が生じていたとの説は、坂本竜馬を理解する上で誤解を生むものですし、そこにとどまらず、明治維新を理解する上でも大変な誤解を生むものです。
 以前テレビでも放映され、その後もまことしやかに言われ続けている、竜馬暗殺事件薩摩藩黒幕説の根拠となっている説でもあります。
 かつてこのブログでも、対立説を否定し、薩摩藩黒幕説を愚論として批判したことがあります。
 少なくとも、竜馬が単純な平和解決論者ではなかったことについては、今、飛鳥井雅道氏の『坂本龍馬』(講談社学術文庫)を読んでみるとちゃんと書かれています(ただこの本も薩摩藩の行動に関する記述については疎いところがあります)。
 ですから、そちらか当ブログの記事(「愚論!坂本竜馬暗殺事件、薩摩藩黒幕説」)の方をご覧いただくことにして、ここでは論証を省きますが、これらは小松帯刀に関しても言えることです。 その辺のことについては、拙著『(新)西郷南洲伝』の上巻で、その思想的背景から詳述したので、これまたそちらの方をご覧いただきたいと思います。
 ともかく小松と竜馬だけでなく、西郷・大久保・岩倉の言動が一つの価値規範で貫かれ、見事に意思統一が図られていることについては見事なほどです。ここには中岡慎太郎を加えてもいいでしょう。
 それを理解するには、士族必須の教養であり、当時の一般常識でもあった儒学をよく知った上で、史料を読み込む必要がありますが、現代の歴史家にはそういった姿勢が欠けているようで、恣意的な解釈が横行しているのが現状のようです。いわんや歴史小説においてをや、です。

 さて坂本龍馬暗殺事件についての2回目です。
 前回は龍馬と西郷の人間関係から、西郷が黒幕という事はありえないことを述べましたが、今回は政治的側面からこれを考えて見たいと思います。
 薩摩藩が暗殺事件の黒幕として考える場合、あげられる動機は次のようなものではないかと思います。西郷や大久保利通ら討幕派と称せられる人たちにとって、討幕運動を進める上で、平和解決運動を進める龍馬が邪魔になったのだ。
 この論の無理は、彼らを武闘派勢力か平和勢力か、どちらかに短絡的といおうか、あまりに大雑把に分類してしまおうというところにあります。西郷らの行動は、単純に討幕を目的とするものではありません。彼らの目的は日本の独立を守る事であり、王政に復古する事でした。討幕はその目的のための手段であって、目的そのものではないのです。それは慶応年間の、彼らが残した書簡や公文書という歴史学における一次史料にはっきりと表れています。要は幕府が反正悔悟しない(王政復古を受け入れない)なら、その正義を行うために武力行使も辞さないということです。逆に言えば、言論により幕府が反正し態度を改めるなら、一大名に下った徳川家を中心とした公議政体に移行しようという態度です。彼らの実際の行動も、そこに表れた言葉のとおりでした。それを実際にここで論証していく余裕はないので、それは近日刊行される『新西郷南洲伝』に譲りたいと思いますが、いくつかの事例で明らかになるかと思います。
 そもそも龍馬が進めた大政奉還というのは、王政復古運動に内包されるものであります。王政復古をするには、徳川家に委任されている事になっている大政を奉還することが前提条件となってくるからです。西郷の意図もそこにありました。慶応三年五月諸侯会議(雄藩連合)が、薩摩藩が中心となって開催されますが、これが儒教の正名論に基づき、言論によって、朝廷を正し、幕府も改悛させようという運動でした。この運動には、それでも幕府が改悛しない場合、武力行使に踏み切るという含みがありました。この運動の中で薩摩藩は、順序として先ず朝廷を正すよう働きかけ、それに行き詰ると次に幕府を正そうとします。その中で西郷は、慶喜に大政奉還を勧めるよう、久光に建言しています。これは五月十二日前後に提出された西郷自筆の建言書で、その巻き表には久光の自筆で「丁卯五月西郷大久保の大趣意書」と書かれています。久光も西郷・大久保らのこの建言に従って、慶喜の考えを正すよう、他の諸侯(越前福井、宇和島)と共に会見に臨みますが、長州問題、兵庫開港問題という個別問題にとらわれて、大政奉還を勧めるには至りませんでした。(『丁卯日記』)
 この諸侯会議において西郷が最大の目的にしていたのが、この大政奉還であったことは間違いなかったと思います。朝廷には王政復古を勧め、幕府には大政の返上を求める。要は相手によって説き方が違うだけで、目的は王政復古であったことは間違いありません。 ここで気をつけるべきことは、坂本龍馬が船中八策を後藤象二郎に授けて、土佐藩の藩論とすべく、急ぎ上京したのが、この諸侯会議に間に合わせるためであった事です。龍馬は、この会議における西郷の意図がここにあることを知っていたのです。それで土佐藩をその様に持っていこうとしたのでした。ですから当然のこと、西郷も後藤の申し入れを、ご尤もと、即受け入れます。これは後の行動からも裏付けられます。のち西郷・大久保は後藤の運動を見限り、挙兵の準備を進めます。そしてその打ち合わせのため大久保が長州を訪れます。これを下関で伊藤博文から聞いた龍馬は木戸孝允への書簡で、後藤を長崎か国許に引っ込ませ、討幕派の板垣退助を上京させるという考えを述べています。後藤が大政奉還の建白を提出する直前、九月二十日の書簡においてです。龍馬にしても、中岡慎太郎にしても、西郷の考えをよく理解し、それに協力すべく運動していたのであって、それを邪魔する運動をしていたわけではないのです。この両者を暗殺するなどありえないと言っていいでしょう。もし西郷らが彼らの運動を阻害するものを排除するとしても(それでも暗殺という卑劣な手段を取るとは考えられませんが)、それは後藤象二郎や土佐藩老公山内容堂でなければならないはずです。慶喜擁護の姿勢を持って、これらを推し進める実権を持っていたのは、明らかにこの両者なのですから。
 以上、坂本龍馬・中岡新太郎暗殺事件における、薩摩藩黒幕説を愚論とする所以でした。

 今回は坂本龍馬暗殺事件について触れたいと思います。
 この暗殺事件の犯人について薩摩藩黒幕説を唱える人がいます。しかもそれは結構根強く支持されているようです。私はこの論を主張する人の文を余り読んだことはないのですが、十年ほど前のNHKの番組で見たような記憶があります。それは確か、事件の黒幕として、西郷隆盛を匂わすような内容だったと記憶しています。これについては『新西郷南洲伝』を書いた当初触れていたのですが、維新史における薩摩藩の行動を理解するにつれて、愚論と思うようになり、削除してしまいました。なぜ愚論と思うかは『新西郷南洲伝』をお読みいただければ自然に理解してもらえると思いますが、ここでは番外編として特にこの件に触れてみたいと思います。
 先ず第一の点は、西郷隆盛と坂本龍馬の人間関係の観点から。二人の関係は、勝海舟の神戸海軍操練所が閉鎖されて、勝が龍馬ら浪士の身を案じて薩摩藩邸に匿ってくれるよう、西郷に依頼したときから本格化します。以後龍馬は西郷という人物に心服し、薩摩藩の運動に協力していく事になります。龍馬が初対面の時西郷を評して「小さく叩けば小さく鳴り、大きく叩けば大きく鳴る」と勝に語った事は有名です。龍馬のこの気持ちは暗殺される寸前まで変わりませんでした。彼は暗殺される三ケ月前(慶応三年八月下旬)、土佐藩士佐々木高行への書簡で次のように書いています。
「先、西郷、大久保越中(一翁)の事、戦争中にもかたほ(片頬)にかかり一向忘れ申さず、若しや戦死をとげ候とも、上許両人の自手にて唯一度の香花をたむけくれ候えば、必ず成仏致し候こと既に決論の処なり。」
 龍馬がいかにこの両者に心服していたかが窺えます。
 また西郷のほうもそんな龍馬を「お国の為に命を捨てようという人」と重んじ、その行動を援助しました。彼の亀山社中(後の海援隊)を後から支えたのは西郷と、その同志である薩摩藩家老の小松帯刀でした。慶応二年十二月四日付の兄権平宛の近況報告の手紙に次のようにあります。
「私唯今志延べて、西洋船を取り入たり、又は打破れたり致し候は、元より諸国より同志を集め水夫を集め候えども、仕合せには薩州にては小松帯刀、西郷吉之助などが如何程やるぞ、やりて見候えなど申しくれ候つれば、甚だ当時は面白き事にて候。どうぞどうぞ昔の鼻たれと御笑い遣られまじく候。」
 龍馬の活躍で薩長盟約成立後、彼が伏見の寺田屋で伏見奉行の襲撃を受けた際には、西郷は単独で救出に向おうとさえした。龍馬によれば「この時うれしきは、西郷吉之助(薩州政府第一の人、当時国中にては鬼神と云われる人なり)は伏見の屋敷よりの早使より大気遣にて、自ら短銃を玉込し立出んとせしを、一同押留て、とうとう京留守居吉井幸助、馬上にて士六拾(六十)人計り引連れ、むかいに参りたり」(権平宛同書簡)という有様であったという。
 このように西郷から見て龍馬は同志に近い関係だったのです。この関係の上に、薩長の盟約や、龍馬の亀山社中などの活躍があったのは間違いがありません。この個人的関係から見て西郷が暗殺を指示するということはありえるでしょうか。西郷が龍馬を同志と見、龍馬が西郷を同志というより指導者として仰いでいる以上、多少の意見が食い違ったところで、話し合えば済むのであり、これだけでも薩摩藩の指導者の黒幕説はナンセンスといってもいいでしょう。
 第二の観点は、薩摩藩の政治活動の観点から斬り込んでみたいと思いますが、これは次回のお楽しみという事にしておきましょう。

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