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若者に人気のフォークデュオ【ゆず】の新曲「ガイコクジンノトモダチ」がネット上で話題になっているらしい。

 実際聴いて見ると、右とか左とかいう以前の、日本人としての素朴な疑問、自然な感情を歌った内容で、変なイデオロギーに染まっていない限り、楽しめる明るい楽曲です。

 すぐ消去されるかもしれませんが…



ゆず「ガイコクジンノトモダチ」歌詞 【http://j-lyric.net/artist/a000614/l045c95.html

 筆者はまた少し違った経緯から、日本というものに、ひいては日本の歴史というものに興味を持ち、考えるようになりましたが、この曲に歌われている内容にも素直に共感できるところがあります。
 この曲を多くの若者が支持し、共感の和が広まるようなら、この素朴な疑問、自然な感情を種にして、正しい知識と愛情・信頼によって、それを大事に育てていくことで日本の未来に明るい展望が開けてくるでしょう。

 その前に、再来年のオリンピックに前後して活発化するであろう、ナチスドイツ以上に強力な反日ファシズム政党である中国共産党の日本侵略をどう切り抜けていくかが問題です。

 財務省の失態に過ぎないスキャンダルを何とか安倍内閣の倒閣に持ち込もうとしている政党政治家やマスメディアは、確信犯か、無意識かは別として、彼らの手先と見なしていいでしょう。確信犯はリベラルと称する無意識で無自覚な間抜けを利用するのです。
  その点、財務省の財政政策もそうですが、今上陛下の譲位をめぐる宮内庁の対応も、またマスメディアの対応も、中国共産党に利するものが多く、きな臭いものを感じます。
  中国共産党は「戦わずして敵の兵を屈する」を上策(『孫子』)として情報戦を仕掛けてきています。彼らに取り込まれている日本のマスメディアが発するフェイク・ニュースには十分気を付けなければなりません。
 
 安倍首相の政策に批判すべきところがあるとしても、ポスト阿部に色気を出している政治家の顔ぶれを見ると、皆、中国共産党が喜びそうな連中ばかりなのです。

 今日、安倍首相が訪米を終えたばかりですが、トランプ米大統領の東アジア政策における顧問のような関係性を築いている安倍首相の助言により、アメリカの東アジア政策は、オバマ時代とはうって変わり、日本にとって、アメリカにとって、しっかりとした方向に向かっていて、ひとまず挑発的で強硬だった北朝鮮の金正恩の姿勢は平昌五輪の頃を境に軟化しました。彼が近頃、北京に赴き、彼が大嫌いな中華皇帝習近平に屈従したのはその表れです。

 チベットやウィグルでナチスのホロコースト以上の弾圧をしてきた中国共産党。

 言論の自由もなく、年々増加していく軍事費以上のカネを、党への不満から毎年数十万件発生する暴動を抑え、国民を統制するための警察費につぎ込んでいる中国共産党。

 人権を敵視し、言論の自由を許さない中国共産党。

 それどころか、「档案」という個人情報リストと「国防動員法」という総動員法によって、国民を意のままに操ろうとする中国共産党。

 その中国共産党が五十年前から着々と進めてきた「日本人民解放」という名の日本侵略計画は今や、熟した果実が自然に落ちるその直前まで来ているように感じられて仕方ありません。

 国民をだまし日本の経済成長をここ20年間停滞させてきた、傲慢な低能エリート集団である財務省の不祥事はとことん追及され、出来ることなら権力を分散し、日本経済を立て直す必要がありますが、それは安倍首相の不祥事ではありませんし、そもそも森友・加計学園問題のような、そのような詰まらない問題と、中国による日本侵略問題を秤にかけることすら間違っています。
 これは憲法改正のことを言っています。
 これら官僚の不祥事追及は憲法改正審議阻止のための情報戦として利用されているに過ぎないのです。
 
 
 もちろん、中国共産党は反日にして、反靖国です。

 われわれは【ゆず】の歌にあるように、日本文化を愛し、靖国の桜を共に美しく眺め、共に祈ってくれる外国人とは友人としてうまくやっていけるでしょう。そういった友人は貴重です。

 そのためにはわれわれの側でも、靖国神社のみならず日本の事をよく知り(少なくとも外国人以上には)、これを大事に思える心性と、日本を表象する桜をこよなく愛せる感性を育てていくべきでしょう。

 平和な日本 チャチャチャ

 美しい日本 チャチャチャ

 レッド・ツェッペリンの音楽的リーダー、ジミー・ペイジに大きな影響を及ぼしたブラック・マジック(黒魔術)。
 彼はその影響を公には否定しており、その傾倒の度合いは推量の域を出ないのですが、傍証的にはかなり傾倒していたのではないかと思われます。
 その傍証とは、一つは彼がイギリスの代表的な黒魔術師アレイスター・クロウリーの邸宅を購入して、これを別荘あるいは住居に使っていたらしいこと。また3枚目のアルバムに、このクロウリーの言葉が刻まれていること。また4枚目のアルバム・ジャケットに、タロット・カードの絵柄が刷り込まれていることでしょうか。
 タロット・カードは、黒魔術に頻繁に使用され、先のクロウリーの製作したトート・タロットは、タロット・カードの名作として有名です。
 彼らのライブ・ドキュメンタリー映像である『永遠の詩』にもこれらのイメージを見ることは可能であり、少なくともジミー・ペイジに何らかのインスピレーションを与えていたことは間違いないように思えます。
 デビューして1枚目2枚目のハード・ロックサウンドで、商業的に大きな成功を収めた彼らでしたが、3枚目で彼らはより大きなカタルシスを求めるハード・ロックファンにそっぽを向かれかねない大きな冒険に乗り出します。牧歌的なアコースティックサウンドを大きく取り入れることになるのです。ジミー・ペイジはもともとこういったサウンドをこよなく愛していたといいます。
 あるいは自分の好きなサウンドを求められる地位を得るために、1枚目2枚目は思いっきり売れるアルバムを目指したのかもしれません。
 当然1枚目2枚目のサウンドにエレクトした多くのファンは、大きな不満を抱き、3枚目のアルバムセールスは最初の2枚に大きく及ばなかったといいます。この3枚目のアルバムにアレスター・クロウリーの言葉がまぎれるようにして刻まれたのは偶然ではないような気がします。(ビートルズの怪物アルバムといわれた『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のアルバムジャケットにはビートルズのメンバーと並んで、さまざまな有名人の肖像が使用されていますが、そのなかにアレイスター・クロウリーの肖像もあり、サイケデリック・ムーブメントやヒッピー文化と黒魔術というのはどこかでつながっていたのかもしれません。)
 黒魔術とは大雑把に言えば、呪術行為によって自らの欲望をかなえようというものらしいですが、すでに商業的成功を収めたレッド・ツェッペリンにそういった欲望があったとすれば、これは後の彼らの活動から遡ってみて、彼らの音楽を大成させるということだったでしょう。
 その転機になったのが3枚目のアルバムであり、その決意とその具体的な音楽像を示したのが、4枚目であったことを考えると、その背景に黒魔術の影を見ることは可能です。彼らの音楽にはオカルトに通ずる神秘主義的傾向が確かにあります。これは5枚目のアルバム『聖なる館』のアルバムジャケットを見ても明らかです。あるいは聖なる館とは、彼らに神秘的あるいは霊的エネルギーを与えるアレイスター・クロウリーの館の隠喩であったのかもしれません。これは深読みしすぎかもしれませんが。
 商業的配慮から、あるいはメディア戦略から、大々的に黒魔術の影響を語ることが憚られたにしても、ちょっとそのことを主張しておきたくなって出来上がったのが、3枚目から5枚目のアルバムジャケットではなかったでしょうか。
 黒魔術には、日本で言う藁人形的発想や動物の血を飲んだりするという、多分にいかがわしいイメージがついて回るので、そうせざるを得なかったのでしょう。
 黒魔術とは本質的に、キリスト教を正統とする西欧文化ではどこまでも異端であり、カウンターカルチャーであり、サブカルチャーの域を出ませんが、そもそもこれまたカウンターカルチャーであり、サブカルチャーであり、異端者の音楽であったロックとは結合しやすいものであったのかもしれません。
 その根底には、キリスト教渡来以前のヨーロッパにあった土俗信仰に通ずるものがあるのではないかと思われます。
 3枚目4枚目の頃のレッド・ツェッペリンも『移民の詩』や『終わりなき戦い』に象徴されるようにケルトの音楽や民謡を積極的に取り入れてますが、こういった非正統の文化に連なることで、自己の血や文化の起源を見つめなおそうとしたのかもしれません。それがルーツミュージックの探究へと彼らを駆り立てたのでしょう。
 ちなみにケルトとは、古来から現在のフランスからベルギーおよびイングランドの一部に住み続けてきた民族の総称で、金髪を特徴とする、古代ローマ人からはガリア人と呼ばれてきた人たちです。
 ある意味黒魔術というものそのものが、あとから渡来したキリスト教文化に押さえつけられてきた土俗文化の噴出したかたちなのかもしれません。イギリスはフランスとは違って、古来からの文化に後に渡来した文化が積み重なって重層構造をなしている文化なのです。正統の力が弱まった時、上から押さえつけられているそれは間欠泉のように噴出してくることがあるのです。
 第2次世界大戦で大きな文明的損傷を受けた戦後のイギリスでは、大英帝国時代の栄光が終わりを告げ、パックス・アメリカーナの時代へと移行し、正統の力が大きく損なわれました。そのとき黒人音楽に象徴されるアメリカのポップ・カルチャーと結び付いた若者達を通じて、そうした異端の文化的エネルギーが大きく噴出したのが、ブリティッシュロックというものだったのかもしれません。レッド・ツェッペリンもそういった潮流と無縁であったとはいえないでしょう。

 そういった彼らのアルバムの中でベストを選べといわれれば、なかなか一つを選ぶということは難しい。1枚目を挙げる人も、「天国への階段」の入った4枚目を挙げる人もいるでしょう。2枚目のアルバムも大変売れたアルバムです。
 好き嫌いでいえば、どのアルバムを選ぶかは個人の勝手であり、それぞれの好みに任せて置けばいいのですが、せっかくツェッペリン自身がそういった相対主義ではなく、天国への階段となるような絶対的な音楽を目指すと宣言しているわけですから、やはりその姿勢の行き着くところ、到達したところを以て、何が彼らのベストミュージックかを判断すべきでしょう。
 そうなるとやはり彼らが宣言を行った4枚目以降の作品に絞られてきます。
 ロッキングオン創刊者渋谷陽一ならば、それは7枚目のオリジナル・アルバム『プレゼンス』であると確信を持って答えるでしょう。彼の著作『ロックミュージック進化論』(新潮文庫)ではそのことがていねいに論じられています。
 私もかつて(20代の頃)これを読んで『プレゼンス』を何度も聞きましたが、ただ単にハードなリフ(あまりキャッチーでない)が繰り返されているだけのようにしか聞こえず、一ケ月ほど繰り返し聞いて、その凄さを体感することを諦めてしまった記憶があります。しかしそれからかなり経った或る時、何気なしに聞きなおしてみたときにはっとしたのです。これは凄い、と。
 やはり理解できないからと言って最初から諦めず、何とか理解しようと努力することは大切です。ツェッペリン自身が、『天国への階段』の中で、ハードに聞けば、やがて聞こえてくると言っていたのは本当だったのです。やはり優れたミュージシャンがそういっている以上、それは信ずべきことなのですね。ジミー・ペイジ自身も『プレゼンス』を最重要のアルバムであると、インタビューで答えています。相対主義者と言うのは信ずることのうすい人間と言い換えることも出来るかと思います。
 さて『プレゼンス』を理解した耳で、今度は初期の作品を聞くと、それはそれで味わいもあっていいのですが、なんか幼稚というか、深みがないというか、厚みがないというか、とにかく物足りないものに感じてくるのです。
 そんなツェッペリンサウンドの高みにある『プレゼンス』ですが、これは確かに一般のリスナーに理解されにくいものであることは間違いありません。このアルバム制作時の彼らの特殊事情が影響を及ぼしている面も否定できないでしょう。
 当時ボーカルのロバート・プラントは交通事故に遭って車椅子の生活を余儀なくされていて、いつ立てるようになるかも分からず、コンサート・ツアーを行える状況にありませんでした。彼らのなかにナンバー1バンドとしての危機感とフラストレーションが募っていたのです。そういった不安感と音楽に対する欲求不満をエネルギーとしてぶつけたのが、このアルバムだったのです。ですから録音も三週間ほどで終えたといいます。
 確かにこのアルバムの音は無駄をそぎ落とされていて(メロディさえも)、甘く流れていくいような部分がほとんどないのです。それぞれが持ち味を精一杯出しつつも、その主役はジョン・ボーナムのドラムと言っても過言ではありません。ここにおいてサウンドは一体化されています。当然ドラムサウンドに感情の入りこむ余地はほとんどありません。ジミー・ペイジのギターリフも、彼のドラムを聞かせるためにあるかのようです。これがツェッペリンサウンドの一つの到達点なのです。
 こういったサウンドが一般的リスナーに受け入れられるものでないのは当然でしょう。ですからツェッペリンサウンドの到達点を理解するには、一つ前のアルバム『フィジカル・グラフィティ』の方が適しているのではないかと思います。
 但しがつきます。
 このアルバムにも特殊事情があります。というのは彼らがこのアルバムの制作に際して作った楽曲が、当時のレコード1枚に入りきる分量ではなく、結局過去の未発表音源を合わせて2枚組みにして発表しようということになったからです。当然その密度は薄まったような感じがあります。ですから私がここで6枚目のアルバムという場合は、このアルバムのために録音された楽曲を指します。
 各曲のクレジットから録音された時期は分かりますので、それを頼りに、このアルバムのための楽曲を(ジミー・ペイジならこう並べるだろうと勝手に想像して)適当に並べて、6枚目本来のアルバムを再現すると、彼らの志向したものがはっきりと見えてきます。
 この時点で彼らの目指すサウンドが完成していたことは明らかです。それはテンションやパワーにおいて『プレゼンス』にはやや劣るものですが、それに近いものは間違いなくあり、それでいて壮大さと多様性、キャッチーさでは勝っているという一つのスタイルとして完成されたサウンドです。
 特に『カシミール』という楽曲は圧巻で、神秘さに加えて、壮大さ、力強さが融合しており、なおかつキャッチーなリフにホーンセクションが絶妙にマッチしており、ツェッペリンのメンバー自身、インタービューで、この曲に彼らの音楽性が表れていると答えているほどです。
 レニー・クラヴィッツのヒット曲『自由への疾走』『ロックンロール・イズ・デッド』などもこのアルバムのサウンドから影響を受けていることは間違いありません。ヒット曲『ビリーヴ』のギターソロなんかは『天国への階段』そのものです。
 ともかく埋もれた名アルバムだと思います(といっても非常に売れましたが)。このアルバムなら、彼らが目指したサウンドの高みが何であったかは見えてきやすいのではないかと思います。その上で『プレゼンス』へ挑戦してみるというのが順序ではないかと思います。(つづく)

 このバンドの音楽を象徴する楽曲が、この「天国への階段」なのですが、それは歌詞が優れているというだけではありません。音楽的な完成度も非常に高いものなのです。かのカラヤンがこの曲を聞いて、これ以外にありえない完璧なコード進行であると絶賛したという逸話もあります。ジミー・ペイジのギターのアルペジオ、背後に流れるオカリナの調べもこの曲を非常に神秘的なものにしています。
 その歌詞に歌われていることを簡単に言うのならば、全てが相対化されているこの世界では確かなものなど何もないが、我々は音楽こそが天国への階段であり、確かな音があると心から信じて力強く進んでいくから、聞く者たちもハードに聞け。そうすれば、聞こえてくるはずである。すべてが一つとなり、一つがすべてとなったとき、我々は転がらない石となる。つまり我々の音楽は普遍のものとなるということです。
 これはロックン・ロールが本質的に転がる石であり、これに対するアンチテーゼとして提出された考えです。
 そこには松尾芭蕉が言った「不易と流行の間で己を責める」という言葉に通ずるものがあります。確かに彼らの音楽は確乎とした普遍の地位を築いています。もちろん流行とは相対的なものであり(つまりあれもいいけど、これもいい、あるいは何かあっちよりこっちのほうがいい感じといった感じ)、ツエッペリンの場合、ポップ・シーンに氾濫している音ということになるでしょうか。そういった音と、その根底を掘り下げたものの中で厳しく自分を磨くことで、ようやく時代を超えるほどの確乎とした何かが生まれてくるのです。(つづく)

 今回は西郷隆盛に全然関係がないのですが、かたい話ばかりでもなんですので、たまの息抜きとして、音楽の話をしてみたいと思います。
 テーマは昨年末再結成コンサートをして話題となった英国の伝説的ロックバンド、レッド・ツェッペリンについてです。日本では一般に再結成で話題になったというよりも、あのお騒がせ女優沢尻エリカがその再結成コンサートを鑑賞するために、男とロンドンに飛んだことで話題になっていたように思えます。
 何でも沢尻エリカは前々からレッド・ツェッペリンのファンだったとの事。前に付き合っていた男の趣味だったのでしょうか。それとも一緒にロンドンに飛んだ男自身の趣味だったのかもしれません。
 そんなの「別にい・・・」ということで、どうでもいいことなのですが、レッド・ツエッペリンというバンドの本当の凄さは女子供にゃ分かるまい、というのが往年からのファンの率直な感想ではないでしょうか。レッド・ツェッペリンというバンドは凄いバンドで、活動していた70年代の末には解散してしまったのですが、解散後も各アルバムが売れ続けているという点で、まさに稀有の存在となっています。一時はツェッペリン的な音を出すバンドは、冒涜のように批判されたものです。
 どのようなサウンドがツェッペリン的かというと、簡単に説明することは難しいのですが、音の核を取り出して、それをエネルギーの固まりにして執拗にぶつけて来るような感じで、このパワーと、全体的な音の像で聞かせるような感じでしょうか。この前者をキャッチーなものにして商業的成功に結び付けたのが、一時期のレニー・クラヴィッツで、「自由への疾走」などがその典型的なものです。
 非常に重たいサウンドなのですが、決して暗いということはなく、そこには力強さと壮大なスケールの融合した非常に男性的な世界があります。
 ただ歌詞で聞かせるような曲はあまり多くありません。それはツェッペリンサウンドを中心となって構築していたのが、ギタリストのジミー・ペイジだったからでしょう。
 そんなツェッペリンの音楽に対する姿勢を象徴的に表しているのが、表題にも掲げた神秘的名曲『天国への階段』です。
 この曲はツェッペリンとしては珍しくヴォーカルのロバート・プラントが担当した歌詞を通して、ジミー・ページの音楽姿勢が語られています。彼らもこれがツェッペリンの音楽であるということを意識してでしょう、、これも彼らのアルバム中唯一のことですが、この曲の歌詞を丁寧に書き込んで、レコードの内装をうめてあります。この曲の入った4枚目のアルバムはタイトル名はなく、バンドメンバーの紹介もなく、それはルーン文字で表されているだけでした。非常にシンボリックな感じの神秘性が強調されているのです。アルバムジャケットも、おじいさんが柴を背負っているところを描いた絵が壁にかかっているという謎めいたものです。
 彼らがこのアルバムで表現したかった確かなものは、音そのものと、「天国への階段」の歌詞そのものだけだったといっても過言ではないと思います。(つづく)
 

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稲垣秀哉
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