国体学のすゝめ

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和の原理

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前回、日本人の持つ和の性向が、保身に由来する事大主義、長い物には巻かれろ式の生き方と結びついて、平和憲法信仰、日中友好の幻想が、あるいは日米同盟絶対の幻想が、戦後六十年以上の長期にわたって、日本人をがんじがらめにしてき、そしてさらに民主党政権の誕生を迎え、現在の状況を生み出していることについて、舌足らずながらも言及したつもりである。
 この意味での和(やわらぎ)の精神が、日本を、シナ人が言うところの軟らかい土にしてしまっていることを言いたかったのである。

 戦後、日本人の心が劇的に変わったことについては、事情は複雑で、アメリカの占領政策が及ぼした影響が決定的だったのだが、敗戦時、すでに精神的な意味で成人として、当時の日本人が直面していた苦境と戦った人たちは、アメリカの意のままに洗脳されなかった。
 たとえば、戦艦「大和」の沖縄特攻時の乗組員で、敗戦直後に自身の体験を克明に綴った、『戦艦大和の最期』という戦記文学の傑作を残した吉田満氏は、後に『戦中派の死生観』(昭和54年、絶筆)という随筆の中で、次のように記している。

「ポツダム宣言受諾によって長い戦争が終わり、廃墟と困窮のなかで戦後生活の第一歩を踏み出そうとしたとき、男も女も老いも若きも、戦争にかかわる一切のもの、自分自身を戦争協力にかり立てた根源にある一切のものを、抹殺したいと願った。そう願うのが当然と思われるほど、、戦時下の経験は、いまわしい記憶に満ちていた。
 日本人は『戦争のなかの自分』を抹殺するこの作業を、見事にやりとげた、といっていい。戦後処理と平和への切り換えという難事業がスムーズに運ばれたのは、その一つの成果であった。
 しかし、戦争にかかわる一切のものを抹殺しようと焦るあまり、終戦の日を境に、抹殺されてはならないものまで、断ち切られることになったことも、事実である。断ち切られたのは、戦前から戦中、さらに戦後へと持続する、自分という人間の主体性、日本および日本人が、一貫して負うべき責任への自覚であった。要するに、日本人としてのアイデンティティーそのものが、抹殺されたのである。」



 では、その戦後日本人がアイデンティティーを失う中で、その断絶を見つめた戦中派は何をアイデンティティーとして戦後社会を生き、この社会をどう眺めたのであろうか。


「戦中派世代が戦後史の中で一貫してになってきた役割は、社会と経済の戦後の復興から発展、高度成長への過程で、常に第一線に立って働くことであった。黙々と働きながら、われわれはしかしそのことに満足していたわけではない。自由、平和、人権の尊重、民主主義、友好外交、そうした美名のかげにある実体はまやかしであり、戦後日本の出発には大きな欠落があることを、直感していた」と。


 吉田氏が見るところの戦後社会を動かしてきた輸入価値観は、その実体がまやかしであり、戦中派世代によって、その虚妄が暴かれ、根本が正されることは決してなかったのである。
 戦前戦中を知り、伝統の、歴史の継ぎ目の役割を果たさなければならないはずの戦中派世代は、廃墟からの復興でその精力を使い果たしてしまい、伝統精神の復興にまでは手が回らなかったのである。 
 ならば、それは戦後世代の果たすべき役割のはずである。
 しかし、それは十分なされたとはいいがたく、自由、平和、人権の尊重、民主主義、友好外交といったまやかしの価値観は、自明の真理として、いまだ日本社会にはびこっている。
 だから吉田氏が昭和54年に鳴らした次の警鐘は、そのまま、より深刻さを伴って、われわれの心に響いてくるだろう。


「・・・今、われわれの前にある現実は、戦後最大の危機といわれる、不況と円高の内憂外患の窮境である。外からわが国に注がれる眼の冷徹さは、政治や外交面の弾圧にとどまらず、深刻な経済的利害、国民感情の高まり、価値観の致命的な亀裂を母体に、根強い憎しみが存在することを警告している。これは太平洋戦争の悲惨な、しかし貴重な体験から、われわれが結局何ものも学びとらなかったことの証左ではないのか。もしそうでないというなら、今日本が何をなすべきかについて、戦争中のわれわれ日本人の行動を批判攻撃する論者の口から、適確な、かつ実現可能な対策が明らかにされなければならない。」


 吉田氏が指摘する問題は、現在、より致命的な問題となってわれわれの前に立ちはだかっている。なぜなら、不況と円高に加えて、中国の強大化による領土侵略の危機に瀕しているからである。
 尖閣における中国漁船の問題は、その始まりに過ぎない。
 未だ中国の真意を見誤っている、日中友好の夢覚めやらぬ、国家意識の低い知識人が多いのであるが、中国はこの軟らかい国土日本を虎視眈々と狙ってきたのである。

 しかも、われわれは、事もあろうに、戦中戦前のわれわれ日本人を他人事のように、自己の腐敗を棚上げにして、容赦なく指弾するだけでなく、日本解体を目指す、反日左翼集団を与党の地位に据えてしまった。
 そして、相変わらず、本質の変わらぬ、まやかしの内閣改造によって支持率が回復する愚民主主義状態を脱しえていない。

 これに対処していくためには、日本人は近代化の原点に立ち返って、歴史を直視し、しっかりとした国体観を持つと同時に、中国のことをよく知っておく必要がある。
 『孫子』に言うところの「彼を知りて、己を知れば、百戦して殆うからず」である。

 実は中国共産党は、日本人が日中友好、平和憲法信仰に現を抜かしている間に、40年の歳月を掛けて、この『孫子』の兵法に則って、日本併合の戦略を練って、それを着々と工作してきたのである。
 それが民主党政権の誕生に結びついてくるのだが、その前に、明日九月二十四日は、我が西郷南洲翁の命日である。
 まずは、聖徳太子の和の精神の延長線上にある、翁の精神について明らかにしておきたいと思う。
 それをまず知り、そして、それを生きることが、日本を単なる軟らかい国土ではなく、高貴な和(やわら)ぎの精神に基づく、柔よく剛を制す、の柔らかい国土への第一歩となるのである。

 保元の乱から承久の変にいたる一連の流れで、皇室が権力を喪失していくことになった最大の要因を、『逆説の日本史』の井沢元彦氏は、律令制度の根幹である公地公民制が当時の日本の実情に即さなくなっていたからだとしています。
 これは藤原氏の専横によって全国に蔓延した荘園が、公地公民制を有名無実化し、その結果として、土地支配の不安定化から、開拓武装農民である武士勢力の発生と台頭という事態を招いたということです。
 井沢氏はこのように土地制度の問題を皇室の権力喪失の最大の要因と見たわけですが、江戸時代の儒者が見たような、皇室の失徳行為が自らの権力喪失という事態を招いた、とする見解を否定しているわけではありません。どちらかといえば、土地制度の問題を重く見ているということです。
 私はここでどちらがより大きな問題であったかというようなことを論じるつもりはありません。
 大きな歴史事件の多くは、さまざまな要因が絡まりあって起きることが多い。
大事なのは、どの要因が大きかったかということはもちろんですが、これらの要因がどのように絡まりあって、大きく歴史を動かしたのか、ということではないでしょうか。
 そのほうが大きな運動体である人間社会の動態性、歴史のダイナミズムが、数世紀を隔てた現代のわれわれにも伝わってくるように思えるのです。

 さて、私はここで、保元の乱から承久の変にいたるまでの、皇室が権力喪失に至る一連の過程を、扇子にたとえてみようと思います。
 扇子の骨格は、骨と要(かなめ)の部分からなっています。
 要とは骨が重なって留められている部分です。この要を中心に骨は広がり、そして折りたたまれていた和紙の部分は、風を送るための扇を形成するのです。ちなみに「おうぎ」は、「あふぐ」(あおぐ)から派生した言葉です。

 日本社会をこの扇子にたとえるなら、折り目によって区分された和紙は社会各層が見せる諸相であり、骨は日本社会を構成する各共同体ということになりましょうか。各骨ごとに折りたたまれた和紙は、各共同体にまつわる事件であり、これらは密接につながっているとともに、すべてに表と裏があります。
 そして骨を柔軟に束ねる要の部分は皇室ということになるでしょう。
 われわれが扇子で舞ったり、風を送ったりするとき、力を入れて、しっかりつかんでいるのは、要の部分です。和紙が風圧を受けると、骨の部分を通じて要の部分にその圧力が集中してかかります。これを、しっかり力を入れて掴んで動かすのです。
 その要を掴んで動かす力とは、現実社会においては、その社会が持つ政治力といっていいものだと思いますが、独裁者を好まない日本の歴史においては、皇室がその役割を果たすことも時にはありますが、そういったケースはごくまれで、多くの場合は皇室を握っている権力者たちが日本という扇子を大きく動かしてきました。
 しかし、そもそも要の部分、それ自体が強くひとつにまとまっていないと、扇子をつかむ手に大きな負担がかかってくるのは当然なことです。これは、要が外れて、骨がばらばらになった扇子を振り回すことを想像してみればわかりやすいでしょう。

 さてここで、この扇子を保元の乱当時の日本の社会に当てはめて見ますと、井沢氏の指摘しておられるように、土地制度の矛盾によって、皇室の掲げる名と社会の実態の乖離は著しいものがありました。
 つまり日本という扇子は、非常に骨の撓んでいる状態にあったわけです。
 通常、この骨は竹などでできていますから、強くてしなやかな弾力と復元力を持っています。この弾力と復元力を担っていたのが、当時、地方(すなわち土地)に密着して、政治的実力を蓄えつつあった武士ということになるでしょう。当時藤原氏は、後三条天皇以来の院政の強化により、勢力を衰えさせていました。
 こういった状況にありましたから、自然、当時の復元力は、新興勢力であった武家が担っていたこともあって、その復元力が強く、これを束ねておくには要の部分である皇室がより強くまとまっていなければならないはずでしたが、皇室自身の乱倫が有力な原因となって、自ら分裂してしまいました。
 日本社会が勢いよく弾け散ったのは、当然のことだったといえるでしょう。
 
 このように見たとき、骨が撓んでいたことに象徴される社会制度の矛盾が極限にまで達し、内乱の大きな要因となったのはもちろんのことですが、要の部分がしっかりしていれば、また違ったかたちで復元の方向に向かうことも可能だったでしょう。
 にもかかわらず、後白河天皇はさらに失徳を重ね、戦後処理において残忍な処置を行い、さらにはその非寛容の精神から崇徳上皇の怨霊まで発生させてしまいました。当時の価値観から言っても不徳の極みです
 この要の部分を最終的に壊したのが、数代にわたる皇室自体の失徳行為であったことは、やはり歴史の教訓として押さえておかなければならないことだと思います。

 五回に亘って、井沢元彦氏の『逆説の日本史』(小学館)に基づいて、崇徳上皇怨霊化の過程を追ってきました。

 私が、西郷隆盛に一見関係のない崇徳上皇に関心を持ち、数回にわたって書いてきたのは、そのことが、西郷隆盛という歴史上の巨人の文明史的意義を考える上で、非常に重要な観点を提示しているからです。これまで西郷隆盛を顕彰する史家や知識人は多くありましたが、これらの主張にはどちらかといえば主観的、直感的なものが多く、西郷という人物が背負っている日本の伝統や文明性について客観的なものがあまりなかったように思えます。
 私はそれを西郷論としてまとめたいと考えて、ある程度まとめているのですが、少なくとも『(新)西郷南洲伝』では、紙幅の都合上、その触りぐらいしか書くことができませんでした。しかも、南洲伝を調べながら書くうちに、自分の西郷像を完成させるには、まだまだ掘り下げて考えないといけないことが多くあることに気づき、それについても、今、少しずつ調べているところです。
 寺子屋の準備をしながらですので、なかなか捗っていないのが現状ですが。

 前述の井沢元彦氏は、日本人を動かしている原理を抽出し、これを力説しておられる作家で、その論の組み立てには非常に説得力があり、私の日本人観は氏の立論に、その多くを負っています。
 その井沢氏によると、日本人の和の原理を裏から支えているのが、怨霊信仰であるとのことです。日本人には潜在的に怨霊信仰があるから、怨霊の発生を防ぐには、和を重んじざるを得ない。つまり、多くの日本人にとって自明である、日本人の特性「和の原理」は、根底に、この怨霊の発生を恐れる心理が横たわっているということです。
 確かに、日本人のもうひとつの特性をなしている、よく言えば大らかで寛容、悪く言えばいい加減で適当、熱しやすく冷めやすいと評される、その行動規範の無原理・無原則さは、この強固な和の原理の存在と相反するものです。
 原理主義的でない日本民族が、この原理を、その歴史を遡るのが困難なほどの昔から堅持してきたことについては、やはりその根底にこれを支える感情、それも宗教的なほどの強い感情がなければ、説明がつかないように思えます。
 そして、その井沢氏の説を裏付けるのが、この崇徳上皇の怨霊化の事件から、皇が実質的に民に取って代わられるという、上皇の呪詛の現実化である承久の変までの一連の出来事なのです。
 そしてさらに、その歴史経験が、同じ構造の逆作用によって、文明力の復元につながったのが明治維新でした。
 このことは日本文明の本質を理解する上で、非常に重要な視点を提示しています。そのためにも、西郷隆盛という常人の理解の及びがたい歴史上の巨人の謎は、解明されなければならなかったのです。南洲伝を書く意義のひとつはそこにありました。

 挙兵したものの、敗れ、配流の憂き目を見た崇徳上皇は、自らの行いを反省し、五部大乗経の写経を行い、これを反省の証として京に送りました。
 しかし後白河天皇はこれをつき返します。
 この朝廷の仕打ちに激怒した崇徳上皇は、天皇を後世までの敵と言い、生きていても無益であると歎いて、以降、髪は伸ばし放題、爪も切らず、顔つきは変わっていきました。
 崇徳上皇は朝廷を激しく呪詛します。
「吾ふかき罪におこなわれ、愁鬱浅からず、すみやかにこの功力をもって、かのとがを救わんとおもう莫大の行業(写経のこと)を、しかしながら三悪逆になげこみ、その力をもって、日本国の大魔縁となり、皇を取って民となし、民を皇となさん。」
 そして自らの舌を噛み切って、流れる血で大乗経の奥に、呪詛の言葉を書きつけ、海の底に沈めたといいます。
 これを聞きつけた朝廷は、崇徳上皇の様子を視察させるために、勅使を派遣します。勅使が見た崇徳上皇の姿は、大乗経を海に沈めた後は、爪も切らず、髪も剃らずに、悪念に沈んでいるという、恐ろしい姿でした。生きながら天狗の姿になっていたとも伝えられています。崇徳上皇はこの悪念に取り付かれたまま、配流後八年の一一六四年に崩御されました。

 約七百年後の明治への改元の際まで、皇室を恐れさせたほどの崇徳上皇の祟りとは一体何だったのでしょうか。
 それは経文の奥に、舌から滴り落ちる血で書き付けられた「皇を取って民となし、民を皇となさん」という呪いの言葉にありました。
 もちろん平安時代とは怨霊信仰全盛の時代ですから、恨みを抱いて死んだ崇徳上皇が、この呪いの言葉を残したということだけで、朝廷を恐怖のどん底に陥れたであろうことは想像に難くありませんが、この乱で実力を示し始めた武家勢力が、朝廷の権威・権力を凌ぎ始めたことで、呪いの言葉は目の前で実現していきました。
 そして崇徳上皇崩御後、驕れる平家の時代が到来し、次代はめまぐるしく展開して、二十八年後の鎌倉幕府の成立となります。しかし極め付きは、次の後鳥羽上皇の時代に起きた承久の変でしょう。
 ここに至って、上皇・天皇が、まさに民である北条氏によって島流しにされるというショッキングな事件が起きたのです。
 この事件は一二二一年の出来事ですから、崇徳上皇の死から五十七年後の出来事です。
 崇徳上皇の呪いはまさに実現したのでした。
 朝廷は五十七年もの歳月をかけて、じっくりと崇徳上皇の祟りの猛威を味わったことになります。それが皇室の脳裏に焼き付けられても不思議ではありません。
 明治維新において、再び政治の中心に返り咲いた皇室が、この怨霊への挨拶を等閑にしなかったのもむべなるかなという気がします。

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 さて、保元の乱です。
 一一五六年七月、鳥羽上皇が崩御されると、崇徳上皇は、皇統の奪還に向け、早速行動を起こします。
 桓武天皇が正規軍の基本機構を廃止して以来、平安時代の三百年間の間、朝廷には正規の軍隊が存在しませんでしたから、崇徳上皇が頼ったのは新興勢力であった武士です。
 崇徳上皇は、あり余る才能を持ちながら、藤原家の主流にはなれず、不満の鬱積していた藤原頼長を味方につけ、また平家や源氏の武将を配下に収めて、戦備を整えます。
 しかし生前の鳥羽上皇は、自分の死後、内乱に至るであろうことを見越して、後に残されることになる後白河天皇のために、備えを怠りませんでした。もちろん正規軍というものが存在しない以上、信頼できそうな武士に頼るのです。その辺の事情は、崇徳上皇側と同じです。
 崇徳上皇側はひそかに兵を集めますが、これを探知した後白河天皇側は先手を打ち、夜明けとともに攻撃を仕掛けました。不意をつかれた崇徳上皇側はなすところなく敗れ去りました。
  崇徳上皇は仁和寺に逃げることが出来ましたが、頼長は死に、武家の棟梁たちは捕えられました。

 
 この乱は、親兄弟が敵味方に分かれて戦った戦いでした。
 崇徳上皇は後白河天皇の兄ですし、関白の藤原忠通は戦死した頼長の兄です。また崇徳上皇側についた、平忠正と源為義は、それぞれ、後白河天皇側についた平清盛の叔父、源義朝の父でした。
それにしても後白河天皇の敗者に対する処罰は過酷でした。
 戦死した頼長はともかく、反逆罪で、しかも武家ですから、平忠正と源為義が斬罪に処されたのは無理もないのですが、後白河法皇はあろうことか、その処刑を、甥の清盛と実子の義朝に執行させたのです。
 つまり五倫五常の一つ、孝に反する厳命を下したわけで、皇室の不徳もここに極れりという感じです。
 肝心の崇徳上皇は讃岐への流罪となります。
 そう、崇徳上皇が怨霊と化す、あの讃岐の白峰です。

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