国体学のすゝめ

歴史の面白さ、日本の伝統の真髄に興味のある方はこちらへ

西郷南洲翁遺訓

[ リスト | 詳細 ]

記事検索
検索

全16ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]

amazonオンデマンドで、三月十九日より『西郷南洲翁遺訓と超近代的解説』の販売を開始しています。

 最低価格はページ数で決まるので、低く抑えるために文字をできるだけ詰め込んで編集したので、読みにくくなっていないか心配でしたが、実物を手にとってページをめくってみると、文字が詰まっている割には特に読みにくいということはなさそうです。新書よりやや大きめのサイズで、ペーパーバックなので、重すぎず、持ち運びに不便ということもなさそうです。

『西郷南洲翁遺訓と超近代的解説』(MyISBN-デザインエッグ社)

税込価格3499円

画像




「明治維新より一五〇年。今も読み継がれる維新最大の功臣である南洲こと西郷隆盛の遺訓。 
 その偉大な人格を陶冶した伝統を明らかにし、西郷自身の言葉と行動を様々な証言や史実に照らして、遺訓の意義を徹底解説。 
 王政復古討幕事業から、廃藩置県を経て、征韓論政変から西南戦争に至るまで、百五十年の歳月を経てようやく明らかになる西郷隆盛の真実! 復古でもあり、御一新でもある超近代的思想。 
 近代というニヒリズムを超克し、現在日本が直面している困難を乗り越えるヒントはここにある!! 」

  
 さて、今年は明治維新百五十周年ということで、明治維新に対する再評価も盛んに行われていることでしょう。近代日本文明の根幹が明治維新というものによく現れていることで、愛日家はこれを肯定的な目で捉えようとするでしょうし、反日家はこれを否定しようと躍起になっていることでしょう。  
 筆者は愛日家ですから、当然肯定的に捉えてきましたが、長年考えて来たので、称賛するだけではなく、批判的な目も持ち合わせています。
 この批判的な目とは、反日家が行っている理解を目的としない、否定的な、「批判」と称する、その実、非建設的な「非難」とは異なり、理解するために、理解を深めるために、いろんな角度から、色んな尺度から、立体的に捉えてみるということです。

 『西郷南洲翁遺訓と超近代的解説』のあとがきでも書きましたが、葛飾北斎が富士山を描いて、まず三十六景、後に、まだ描き足らなかったのか、さらに百景を描いたようなもので、維新の群像の中で群を抜いて大きな存在であった南洲翁に限っても、あれだけ書いても、その実像を言葉で表し尽くせぬわけですから、群像のそれぞれ、各党、各藩、幕府、朝廷、外国人、それぞれの目線に立って明治維新を表現するとなると、それはひとりの人間としてできる範囲の仕事ではありえません。
 しかも自分が描こうが描くまいが、明治維新という歴史はそれとは関係なく、苔生して古色蒼然となっても、われわれの手が届かないところ、すなわち過去に事実として厳然と存在し続けるのです。未来にその真実を見つけ出す者が現れるのを待ちながら。
 いや待ってさえいないかもしれませんが、少なくとも翁に関しては、万古の心胸を開拓すべく、跡を継ぐ者が現れることを期待しながら一つ条理に斃れたわけで、そういった精神が明治維新をなす上で大きな要因となったことは確かなことであります。

 ですから、筆者は明治維新という大きな運動を、西郷南洲翁とその背景となった伝統という視点から見て、こうは言えるという、謙虚な姿勢を忘れないようにしたいと思っています。
 そういった立場から見ると、明治維新を否定的に捉えて、その内容の豊富さから目を背けている、世に氾濫している維新像にはうんざりとさせられてきました。
 そういった軽薄短小の歴史像を得意気に開陳して、恬として恥ずるところのない、大衆化したインテリたち(西部邁氏が絶望した人々です)が次々と再生産されていくのが近現代社会というものなのです。

 かつて荻生徂徠が「一定の権衡を懸げて、以て百世を歴詆するはまた易々たるのみ。これ己を直として世を問わざるなり。すなわち何ぞ史を以て為さん」と言ったことを思い出します。
 これは一定の基準・価値規範(権はおもり、衡はさおで、あわせて秤)を以て、それぞれの歴史をそしるのは簡単なことだ。これは己を正しいとして現実の世を問うてはいない、ということになります。
 小林秀雄はそういった態度について「なるほど、歴史について論ずる事には違いなく、当人達もこれを疑っていないが、実は、真の歴史は、彼らの手から脱落している、と徂徠は言うのである。百世を、敢えて歴詆(れきてい)せず、ただ百世を歴訪すると称しても、一定の史観を自負するものには、歴史は見えて来ない。彼の史観の内に、同時的に配置された歴史事件の一系列を、彼の意識が歴訪するに過ぎないからだ。」と批判しています。
 これはマルクス史観を中心とする近代における歴史学を批判したものですが、一つの基準・価値規範を定規のように押し当てて、歴史事実を批判との名のもとに非難断罪するのは実に容易な事なのです。
 かつてはマルクス主義に由来する「天皇制」「ファシズム」、最近で言えば、「テロ」とか、「インテリジェンス」という基準で、安易に非難するケースが増えているように見受けられます。一方で、陰謀史観とか、歴史修正主義の名の非難も、異なる権衡による歴詆という点では同じことです。

 筆者もまた、一定の歴史観を提示しているわけですが、以上のことを弁えた上で、豊潤な過去の遺産である歴史から、現代の日本あるいは日本人にとって重要な何か、根幹となる何かを酌み出すつもりで提示したものですので、歴史に向かう態度そのものが根本的に異なっているのです。過去の遺産を破壊しようとの情熱からは何も創造されません。

 歴史は一定の権衡に収まるものではありませんし、それで描き切れるものでもありません。どうしてもそれにこぼれるものが沢山あって、全力で取り組んだとしても、描いた後には必ず描き切れぬもどかしさがどこかに残るものです。

 しかし、描き方はいろいろあって、内容が豊富であればあるほど、工夫次第でいろいろなものが書けるでしょう。絵画における富士山が画材として好まれるように、明治維新、そしてその中心人物であった南洲翁は日本の歴史において最も優れた画材の一つでしょう。

 奇しくも、徂徠に大きな影響を与えた伊藤仁斎は「六経は画の如く、語孟(『論語』『孟子』)は画法の如し」と述べていますが、これは日本の歴史を画材にした時も応用できます。これは言わば「語孟」という画法によって明治維新を、西郷南洲翁を描くという試みです。

 筆者は三十代の時、この画法によって『(新)西郷南洲伝(上・下)』(高城書房)という史伝を上梓しましたが、上巻においてはまだこの画法に習熟していなかったこともあって、意余って、満足にこの画題を描き切ることが出来ませんでした。上巻のAmazonのレビューに誰かが「西郷隆盛がどうやって西郷隆盛になったかをよく考察されています。難点は語句が難しくとても読みにくいことです。出来ればもう少し読みやすく書き直してほしい」と記してくださっていましたが、そうなったについては筆者の未熟さの致す所であり、わかりやすく書き直して問い直すことも考えていますが、遺訓解説のように、また別の切口で描くべきかとも思案しています。
 というのは、現代はインターネットやスマホの時代で、短文しか読み慣れていない、西部邁氏を絶望せしめた軽薄短小の時代に、史伝という古い文学形式で一人の偉人の人生を描き切ってもだれも読まないのではないか、そんな気がするのです。現に、先の画法に多少習熟して書いた下巻は、それまでの征韓論や西南戦争に関する論文や文芸作品に比べて画期的な内容であるにもかかわらず(もちろん描き切れたと満足しているわけではありませんが)、ほとんど人々に取り上げられることもありませんでした。

 鹿児島の南洲翁顕彰館にも置いてもらっていましたが、大きく分厚い本であったこともあって、現在の館長から「重いから撤去してくれ」と言われたと聞かされた時には、大いに失望したものです。
 
 そう言えば、かの頭山満翁が西南戦争後数年後の鹿児島を訪問した際、西郷家の後を取り仕切る川口雪峯に会い、西郷のような大木は何百年に一本、何千年に一本出るか出ないか分からぬ、鹿児島には随分有用の材も茂っていたが、残らず切り倒されて禿山になってしまった、と告げられたことを思い出しました。
 その慨嘆の当否はわかりませんが、この一件は翁を顕彰しようとの趣旨で設立された組織とのささやかな出来事であり、本の反響があまりなかったこともあって、川口雪峯の発言を少し実感させられる経験でもありました。
 筆者はまだまだ未熟で感傷的であったのです。

 そういった反省がありますので現代には描き方にも工夫が要ります。
 今回出版した『西郷南洲翁遺訓と超近代的解説』もそうですが、今執筆している『十人の侍』にもそういった面がありますが、また新たな描き方も考えているところです。
amazonのオンデマンドサービスで紙の書籍としての『西郷南洲翁遺訓と超近代的解説』の予約販売を開始しました。
 発売日は三月十九日です。
 南洲翁の遺訓を座右の銘として手元に置いておきたい方は是非ご購入下さい。

画像



「明治維新より一五〇年。今も読み継がれる維新最大の功臣である南洲こと西郷隆盛の遺訓。 
 その偉大な人格を陶冶した伝統を明らかにし、西郷自身の言葉と行動を様々な証言や史実に照らして、遺訓の意義を徹底解説。 
 王政復古討幕事業から、廃藩置県を経て、征韓論政変から西南戦争に至るまで、百五十年の歳月を経てようやく明らかになる西郷隆盛の真実! 復古でもあり、御一新でもある超近代的思想。 
 近代というニヒリズムを超克し、現在日本が直面している困難を乗り越えるヒントはここにある!! 」

  
 解説は本文を解釈する上での言わば付け足しですから、Kindle版の電子書籍のように値段を抑えたかったのですが、オンデマンド出版の技術的な問題で税込みで3,499円と高価になってしまいました。
 それでも最低限度価格にしておきましたのでご了承いただければと思います。
amazonの電子書籍 Kindle版『西郷南洲翁遺訓と超近代的解説』を出版しましたのでお知らせいたします。

 当ブログで掲載した「西郷南洲翁遺訓解説」に加筆修正してまとめたものです。

画像


内容紹介は次の通りです。

「明治維新より一五〇年。今も読み継がれる維新最大の功臣である南洲こと西郷隆盛の遺訓。
 その偉大な人格を陶冶した伝統を明らかにし、西郷自身の言葉と行動を様々な証言や史実に照らして、遺訓の意義を徹底解説。
 王政復古討幕事業から、廃藩置県を経て、征韓論政変から西南戦争に至るまで、百五十年の歳月を経てようやく明らかになる西郷隆盛の真実!
 復古でもあり、御一新でもある超近代的思想。
 近代というニヒリズムを超克し、現在日本が直面している困難を乗り越えるヒントはここにある!!」


 題名に挿入した「超近代的」とは、近代文明の根底に横たわり、現在世界的に猛威を振るっているグローバリズムという名のニヒリズムを超克するための教訓を、翁の遺訓の理解を通じて得ようという意図を込めてのネーミングです。
 大東亜戦争中の座談会「近代の超克」と同じ趣旨です。

 その問題は明治維新後、近代化を猛烈な勢いで進めた明治四年の廃藩置県から征韓論政変を経て、西南戦争に終わる期間における国内的な混乱と葛藤、とりわけ南洲翁と大久保甲東の協調から対立へと至る関係の変化の中にすでに胚胎していたのです。
「西郷南洲翁遺訓」四十一条をようやく書き終えた。
まだ追加・補遺、その他和歌・漢詩・文書類など、日本人が遺訓とするに値するものは沢山あるが、一段落としておきたい。


 筆者は解説を書きながら、なんとなく葛飾北斎の代表作「富嶽三十六景」をイメージしていた。北斎のあの芸術的完成度に比すべくもなく、何だこりゃ、むしろ漫画じゃねえのか、と言われるかもしれないが、翁が遺したり影響を受けたりした「言の葉」と「事の端(事跡)」を頼りに西郷隆盛という日本的な歴史的人物の素描として書いたつもりである。
 ならば「富嶽百景」も書かなければならないことになるが、それは筆者に老熟した老年というものがあったら、ということにしておこう。


 解説は、一種の國體論である『日本人と論語』「草莽編」の執筆と並行しながら進めていたので、そちらで描いた武家政治の伝統が背後の景色、あるいは麓の景色となっている。こちらも先日草稿を書き終えたので、なるべく早く完成させ、出版したいと思っているが、翁は例えば、そういった背景に浮かび上がる、あるいは土壌に隆起して、巍巍と聳える富士、あるいは鹿児島市街を見下ろす桜島のような活火山と筆者はイメージしている。

 奇しくも来年は明治維新百五十周年、再来年には今上陛下の御譲位が控えている。宮内庁に巣くった外務省出身者を中心に、女性宮家創設、ひいては女系天皇誕生の陰謀はますます活発で、政治は因循に陥り、外を見れば北朝鮮、背後に控える中国の脅威は増す一方である。
 そういった危機を抱えながら、日本は二〇二〇年東京にオリンピックを迎えることになる。
 そのような内憂外患の時代にあって、日本はますます革命、すなわち國體の危機に直面していて憂慮に堪えないが、まずはわが国本来の在り方である國體を明らかにすることこそが、再生のための前提作業となるはずである。
身を修し、己れを正して、君子の体を具うるとも、処分の出来ぬ人ならば、木偶人も同然なり。たとえば数十人の客不意に入り来たらんに、たとえ何程饗応したく思うとも、兼ねて器具調度の備えなければ、ただ心配するのみにて、取り賄うべき様あるまじきぞ。常に備えあれば、幾人なりとも、数に応じて賄わるるなり。それ故平日の用意は肝腎ぞとて、古語を書いて賜りき。

「文は鉛槧に非ざるなり。必ず事を処するの才あり。武は剣楯に非ざるなり。必ず敵を料(はか)るの智あり。才智の在るところ一のみ。」


(大意)身を修め、己れを正しくして、君子の体面を具えても、事に出遭って対処が出来ぬようなら、役立たずで木偶も同然である。たとえば予期せぬ数十人の客があって、何とか饗応したいと思ってみても、予てから器具や調度類が調っていなければ、ただおろおろするばかりで、もてなしようがない。常に備えあれば、何人客が来ようとも、それに応じて十分食事を用意することが出来るものだ。だからこそ、平常からの用意は肝腎なのだ、と言って古語を書いて授けられた。

「文と言えば必ずしも文筆の事のみを言うのではない。必ず物事を処理する才を伴うものだ。武と言えば、必ずしも剣や楯を扱う技術の巧拙を言うのではない。必ず敵を知って、これを謀る智を伴うものだ。才智の在るところは一つだけである。」

【解説】前半部は読んだ通りで何の解説の必要もないだろう。
 ここでは翁が書いて授けた古語について触れることにする。

 おそらく翁が程朱以降の儒学者で、最も大きな影響を受けたのがこの古語の著者である陳龍川であっただろう。中でも彼の「酌古論」は座右の銘であったようだ。すでに触れた「理に当たって後進み、勢を審らかにして後動く」もここからの引用であるが、『酌古論』の序文を見ていこう。ここに翁が書いて授けた古語も出てくる。

「文武の道は一つなり。後世始めて岐(わか)れて二となる。文士は鉛槧(えんざん、筆記用具のことで、文筆を指す)を専らにし、武夫は劒楯を事とし、彼此相笑い、以って相勝つを求む。天下事無ければ文士勝ち、事有れば武夫勝つ。各々長ずる所あり、時に用いる所あり。あに二者ついに合すべからざらんや。
われおもえらく、文は鉛槧に非ざるなり、必ず事に処するの才あり。武は劒楯に非ざるなり。必ず敵を料(はか)るの智あり。才智の在る所一つのみ。およそ後世のいわゆる文武なる者は、ただその名のみなり。」

 文官武官、あるいは文人武人は反目対立しがちだが、本来は一つの物であったことを説いている。要は、本来は一つの物であった文武の道が分岐し、専門化したことを言っているのだ。
 文官武官の対立は、日本の歴史においても、常に内政の混乱を招いてきた。建武の中興の挫折、豊臣秀吉の死から関ヶ原への過程、昭和の大戦への道程などで、その要素は大きかった。確かにこれら文武がうまく統合されたときに政治は揚がるのである。
 君子とはその統合者であり、専門的知性を超えた総合智が求められる。
 もっと穿って言えば、文武の道とは、古の文王武王の政治に象徴される条理と力の統合をいい、古来から「先王の道」と言われてきた、本来一つの物であった大道を指すのである。
 日本においてはそれが皇祖皇宗の道と習合し、わが國體と考えられて皇道と呼ばれた。第八条の解説で述べたように、頼山陽もまた有名な『日本外史』で文武は本来一つの物であったという同様の國體観を述べ、それが大日本帝国憲法の統帥権の規定を基礎づけていた。
 明治維新においては当初建武の中興が模範とされたが、やがて規模を大きくして初代神武天皇の創業に則るということが謳われたが、そこには文武の道が一つということが含まれていたとみるべきであろう。
 いずれにしてもわが国における「先王(皇)の道」である。

 ちなみに陳龍川の論文の題名になっている「酌古」とは、古事から善き何かを酌み出すことの意で、温故知新と言い換えてもよいだろう。
 陳は論文の後半部で自己のプロフィールを次のように書いている。

「われは鄙人なり。劒楯の事はその習う所に非ず。鉛槧の業はまた長ずる所に非ず。独り伯王の大畧(覇王の大きなはかりごと)兵機の利害を好み、頗る心に自得する者あるがごとし。
故によく前史において、ままひそかに英雄の未だ及ばざる所と、その既にこれに及ぶも、前人の未だよく別白せざる者を窺い、すなわち従ってこれを論著し、得失をして較然として以って観るべく、以て法(のっと)るべく、以て戒しむべからしむ。大にしてはすなわち王を興し、小にしてはすなわち敵に臨む。皆以て此に酌むべきなり。これに命じて酌古論という。」

 すなわち、歴史上の英雄がなし得なかったこと、なし得たとしても、後世の識者が見逃してきたことを明らかにし、これらの得失を比較して、そのことによって、現状を分析し、良きは学び、悪しきは戒めとなす。
 そして、大きくは王を興し、小さくは敵に臨むために、古の事から酌むから「酌古論」と名づけたというのである。
 これを翁に当てはめれば、大は王政復古であり、小は討幕ということになる。そして、それを成すために歴史から学ぼうというのである。

 これを踏まえてだろう、翁は岸良真二郎への訓戒で、より身に引き付けて述べている。

「(英雄の)剛胆なるところを学ばんと欲せば、先ず英雄の為すところのあとを観察し、かつその事業を玩味し、必ず身を以てその事に処し、安心の地を得るべし。然らざれば只英雄の資のみありて、為す所を知らざれば、真の英雄というべからず。是故に英雄のその事に処する時、如何なる胆略かある、又、我の事に処するところ如何なる胆略ありと試較し、その及ばざるもの、足らざる所を研究精励すべし。」

 このように、大は王を興し、小は朝敵に臨むための翁の学習は、英雄の内面にまで及んでいく。そして、それをなす上での、心の工夫へと話を進めるのである。

「思い設けざる事に当りて一点動揺せず、安然としてその事を断ずるところにおいて、平日養う所の胆力を長ずべし。常に夢寐(むび)の間において我が胆を探討すべきなり、夢は念(おも)いの発動する所なれば、聖人も深く心を用うるなり、周公の徳を慕う一念旦暮(たんぼ)止まず、夢に発する程に厚からんことを希(ねが)うなるべし。寤寐(ごび、寝ても覚めても)の中、我が胆動揺せざれば、必ず驚懼の夢を発すべからず。これを以て試み、かつ明らむべし。」

 遺訓中の聖人とは孔子のことだ。

 『論語』(述而)には次のようにある。

「子曰く、甚だしいかな、吾が衰えたるや。久し、吾れ復た夢に周公を見ず。」

 翁はこれを踏まえている。
 孔子は周の礼楽文化の創始者である周公旦をその理想としたが、それは夢に現れるほどであり、そのことが、挫折し漂泊の身であった孔子の救世の情熱を支え続けた。あるいはその情熱の強さが、その夢を見させ続けた。
 古英雄の胆略を学ぶたとえに孔子が出てくるのは意外かもしれないが、遺訓二十一・二十三・二十八条に出てきたように、孔子は道を行う上での教師とすべき存在であった。翁によれば、古の聖人堯舜でさえ、その本職とする所は教師なのである。人民の教師ということだろう。
 孔子は生前その理想を達成することが出来なかったが、自ら道を行うことで、後世の者に大きな影響を与えた。つまり、孔子は陳龍川の言うところの「万古の心胸を開拓」した者であり、幕末の名ある志士は全て、その影響下にあるといっても過言ではない。
 その言行録である『論語』は、東アジアの思想史において最も重要な縦糸であった。翁が中心となって推し進められた明治維新は、この思想史を織り成す最も色鮮やかな横糸のひとつであり、そのことはまた、孔子の思想の普遍性の証しである。
 このような人物を英雄とするなら、東アジアの歴史において、孔子に勝る人物はいない。

 なお、翁は説明が不十分と思ったのか、岸良真二郎への訓戒を次のように締めくくっている。

「もし英雄を誤らんことを恐れ、古人の語を取りこれを証す。
『譎詐方無く、術略横出するは智者の能なり。詭詐を去りてこれに示すに大義を以てし、術略を置いてこれに臨むに正兵を以てするは、これ英雄の事にして、智者の為す能わざる所なり。』
英雄の事業かくの如し。あに奇妙不思議のものならんや。学んで而して至らざるべけんや。」

 翁としては、彼の言う英雄が、たとえば項羽や劉邦、あるいは日本で言えば豊臣秀吉のようなタイプの人物を指すのではないことを言いたかったのであろう。
「譎詐方無く」とは、いつわりやあざむきがほしいままなことを言う。ここにある引用文は陳龍川が『酌古論』において、『三国志』の英雄で、機略縦横の人物として人気が高い諸葛孔明を論じた文章である。もちろん諸葛孔明は智者ではなく、英雄として論じられている。すでに触れたが、翁自身の言葉としては、遺訓三十四条において、孔明の機略縦横の源泉が誠忠にあったことが述べられている。
 日本の歴史において、この諸葛孔明と同じ位置にいる人物が、楠木正成であり、翁が理想としたのも彼であった。

全16ページ

[1] [2] [3] [4] [5] [6] [7] [8] [9] [10] [11]

[ 次のページ ]


.
稲垣秀哉
稲垣秀哉
男性 / A型
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

検索 検索
友だち(2)
  • 丸子実業高いじめ殺人判決は大誤審
  • 日本の若者とママを守って
友だち一覧

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事