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五條秀麿の祖父の世代の明治人として渋沢栄一を例に挙げてみよう。
幕末、家を飛び出し、志士として活動した渋沢は晩年の『論語講義』の中で、一般の風潮を意識してだろうが、西尾氏も引用している「子、怪力乱神を語らず」の一節の解説において、いくつかの例を挙げて、実用主義的に鬼神に対する孔子の態度を解説している。 「余の交際せし維新前後の志士や、維新の元勲には、神仏に祈願するという迷信は決してなかった。ただし維新の際は世の中が物騒で、ややもすれば天誅と称して、反対派を暗殺するに至った。されど力自慢や技倆自慢をした者は、たいてい学問の素養に乏しき撃剣家ぐらいに過ぎなかったのだ。いやしくも漢学を修め、武士道を弁えたる者は、慎重の態度を持し、容易に刀の鞘を払うようなことをしなかった。」 ここでは皇政復古運動を推し進めた維新の指導者達が漢学を修め、それに則って行動したことが述べられている。 彼らの多くが神仏に祈願するという迷信を持っておらず、『かのやうに』の父のように、鬼神を祭るが、それの実在を必ずしも信じているわけではなく、在すが如く祭らねばならない、と考えて、祭を行ってきた、というのである。 そして、渋沢は孔子の考えを次のように敷衍している。 「孔子は神を語らずといっても、神に対する敬虔の念は十分にあったのである。論語八佾篇には『祭るには在すがごとくにし、神を祭るには神在すがごとくにす』とあり、また『大廟に入っては事毎に問う』とあり、これらによってこれを証明し得べし。しかれどもこれは孔夫子が心を正しうしてご自分の務めを疎かにせざらんことを心懸けられた、正心誠意の発露に外ならず、神に祈ってどうしようのこうしようのという精神からではないのである。余のごときも、自ら顧みて正しいと思う所を行い、自己の義務責任を果すのが、これ孔夫子のいわゆる天に対する道であって、かくさえしておれば、祈らずとても神や守らんと固く信じておる。」(『論語講義(三)』講談社学術文庫版;70〜79ページ) 要は人事を尽して天命を俟つ、という信念が述べられているわけだが、窺知しやすいことに対して、民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざける、知というべし、という孔子の言葉にも適っていて、当時の志士の儒学のプラグマティックな活用が窺えよう。 これが天皇を中心とする政事への態度と繋がっていた。 既に岩倉具視の王政復古の奏聞書は紹介した。 この柱となる部分で、重要な論拠を与えていたのが、『論語』の有名な「必ずや名を正さんや」(正名論ともいう)と、これまた有名な「礼楽征伐天子より出ず」云々の天子のあり方に関する条であったのは、すでに見たとおりである。 これは国学者・玉松操が起草した文書であるとされている。 西郷南洲翁が一貫して『論語』や『孟子』を規範として、王政復古を推し進めたことは拙著でくどいほどに説いたことであるが、余りしつこいと、また西郷信者が言っている、くらいで流されてしまうので、ここでは別の例を挙げよう。 南洲翁の事跡によって説くのは、維新の精神をもっともよく体現し、象徴する人物として、語るに値すると強く信じるからである。 「鬼神」に対する「敬遠」という武士のプラグマティズムの視点からの維新ということであれば、次の例を挙げることができよう。 王政復古が行われて、慶応四年三月十四日、『五箇条の御誓文』が発布され、同時に、御誓文の趣旨を敷衍するものとして、明治天皇の御宸翰が下された。書き出しはこうなっている。 「朕、幼弱を以て俄かに大統を紹(つ)ぎ、爾来、何を以て万国に対立し、列祖に事(つか)へ奉らんやと朝夕恐懼に堪えざるなり。」 列祖とは皇室の代々の先祖、すなわち「鬼」にして、さらに溯れば「神」となる。つまり皇統を継いだ明治天皇に課せられたものは、万国に対立し、皇室の「鬼神」、延いてはわが国の「鬼神」に事えることだとの認識である。 次いで、幕末までの長きに亘る武家による政治を振り返って次のように表現されている。 「竊(ひそか)に考うるに、中葉朝政衰へてより、武家権を専らにし、表は朝廷を推尊して、実は敬して是を遠ざけ、億兆の父母として、絶えて赤子の情を知ること能はざるやふ計りなし。遂に億兆の君たるも唯名のみに成り果て、そが為に今日朝廷の尊重は古へに倍せしが如くにて、朝威は倍(ますます)衰へ、上下相離るること、霄壤の如し。かかる形勢にて、何を以て天下に君臨せんや。…」 皇室は、さながら「鬼神」の如く、武家に敬して遠ざけられてきた。 「禁中並びに公家諸法度」は徳川家康およびそのブレーンであった金地院崇伝の創作に掛るものというよりは、皇室を敬して遠ざけるプラグマティックな武家政治の伝統を明文化したものであろう。 しかし、天皇は「鬼神」を祭り、事える存在であって、「鬼神」そのものではない。このことは諸法度の第一条に暗示されているところである。 当時の困難な国際情勢の中にあって、自主独立の国として万国に対峙し、億兆の父母として君臨するには、これまでの「敬して遠ざく」武家政治のプラグマティズムは克服されなければならない。 この理解がこじつけではないのは、御宸翰の結びが次のようであることからも明らかだ。 「汝億兆、能々(よくよく)朕が志を体認し、相率いて私見を去り、公義を採り、朕が業を助て、神州を保全し、列聖の神霊を慰し奉らしめば、生前の幸甚ならん。」 「神州」、すなわち神の国でのことであるから、漢語である「鬼神」は避けられて「神霊」が用いられているが、そこに流れている精神は、孔子のそれと同じで、君主親らによる政(まつりごと)としての政治の復古復活こそ、日本の精神的秩序の復活であり、国体の再興であるとの認識であったのだ。 この御宸翰の起草者は木戸孝允であるとされている。 御誓文の起草に携わった土佐藩士・福岡孝弟の談話に、御宸翰の起草につき、木戸が「国家を泰山の安に置く」とかいう支那流の文句を「富嶽の安に置く」と改めさせた、との趣旨の発言があるからである。 実際の文句は「天下を富嶽の安きに置かんことを欲す」となっているが、要は同じことだ。「鬼神」という支那流の表現が避けられて、「神霊」とされたのも同じ趣旨からだろう。 水戸学の影響が見られるが、『論語』の言葉を論拠とする朱子学的プラグマティズムをより深化させて、克服し、国体をより根源に立ち返らせて強靭化しようとの志が見えるだろう。 福沢諭吉が指摘したように日本文明は二元素文明である。 西尾氏は神道と仏教の二元素がわが国を豊かにしたとしているが、戦国時代を経て、仏教の役割は後退して、むしろ神道と儒教の二元素を主流とする文明への道を歩み始めた。しかし、この二元素とは、党を成して、対立するばかりではなく、協調、調和するものでもある。その梃子となるのが皇室の存在であり、「和」の伝統であった。 対立は遠心力を生じて、文明を進転させる。「転石苔を生さず」の伝統である。 調和は向心力を生じて、文明の統一性を保ち、円心を安定させる。「細石の巌となりて苔を生すまで」の伝統である。 これらの運動の思想的な背骨(バックボーン)となったのが、皇室の御存在であり、また、いわゆる孔孟の教えによって培われてきたものであった。 その日本の文明体の背筋を正してきた価値規範、教養は、明治の開化によって見失われて今日までの大勢を作ってきた。 戦前まではまだその影響が残っていたが、戦後はどうだろう。 俗諺に、背に腹は代えられぬ、と言う。 しかし、それは緊急避難的対処の話であって、通常、わが国の大事なもの、言わば和(やわ)らかい腹を守るには背筋を正すことが求められるだろう。 何と言っても、背がちゃんと立っていなければ腹は自ずと立たないものだ。 このことは国際社会の不条理に直面したときのわが国の世論の動向に現れているといえるのではないだろうか。不条理は世の常とは言いながら、これに馴れ親しんで、本気で腹を立てることを忘れてしまっては、条理は喪われるばかりではないか。 それでは、より高度な文明への道のりは遠のくどころか、逆行である。 これは周辺諸国が推し進めている野蛮への道のりと同じではないのか。 |
論語
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紀貫之は「仮名序」で、和歌の作用の一つに、鬼神をあはれと思わせる、つまり鬼神を感動せしむる、と述べたわけだが、『論語』にはこの鬼神について孔子が論じた数条がある。
ある弟子が孔子に知を問うた。 子曰く、民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざく、知と謂うべし。 「義務」「敬遠」の出典である。 また、高弟・子路が鬼神に事(つか)えることを問うた事があった。 孔子の答えはこうである。 子曰く、未だ人に事うる能わずんば、いずくんぞ能く鬼に事えん。 子路はならばとばかりに、敢えて死を問うた。 孔子がこれに答える。 曰く、未だ生を知らずんば、いずくんぞ死を知らんや、と。 ここで孔子は鬼神を窺知し難いものとして、言葉にするのを慎んでいる。かといって否定しているわけではなく、むしろ「敬して」と言っていることから、上位の存在と見ていたことは明らかだろう。 ここで西尾氏の『皇太子さまへのご忠言』に戻る。 その第二部第二章は「『かのようにの哲学』が示す知恵」となっていて、現代人が皇室と向き合って行く手がかりとして、森鷗外が近代知識人として天皇をどう理解したらいいかに悩むテーマの『かのやうに』という作品を挙げておられる。 小説「かのやうに」は明治四十五年一月発表の作品で、一年前に判決が下った大逆事件の影響を受けて書かれたものだとされている。幸徳秋水の法廷での発言が外部へもれて、南北朝正閏論がジャーナリズムを賑わし始めた時代であった。 既に鷗外の『帝諡考』を参考図書としてあげておいた。諡号の由来を調べた研究である。 『かのやうに』全文;http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/678_22884.html 西尾氏は『かのやうに』の内容を要約し、引用している。 「息子秀麿をドイツに留学させた五條子爵は、ドイツの大学で神話と歴史の相剋するテーマに取り組み始めた息子からの手紙を前に、自分の信仰心を心の中で次のように問い質してみる。 (以下『かのやうに』からの引用、読みやすく改変) 『自分の家には昔から菩提所に定まっている寺があった。それを維新の時、先代が殆ど縁を切ったようにして、家の葬祭を神官に任せてしまった。それからは佛と云うものとも、全く没交渉になって、今は祖先の神霊と云うものより外、認めていない。現に邸内にも祖先を祭った神社だけはあって、鄭重な祭をしている。ところが、その祖先の神霊が存在していると、自分は信じているだろうか。祭をする度に、祭るに在すが如くすと云う論語の句が頭に浮ぶ。しかしそれは祖先が存在していられるように思って、お祭をしなくてはならないと云う意味で、自分を顧みて見るに、実際存在していられると思うのではないらしい。いられるように思うのでもないかもしれない。いられるように思おうと努力するに過ぎない位ではあるまいか。そうして見ると、倅の謂う、信仰がなくて、宗教の必要だけを認めると云う人の部類に、自分は入っているものと見える。』 …(中略)… 五條秀麿はドイツから帰国し、父の子爵の前で神話が歴史でないことを言明するのは良心の命ずる所だと思うが、余りにも微妙な問題なので親子は対話を回避しつづける。すべての実在は存在しない。先祖の霊も存在しない。しかし、あたかもそれが存在するかのような振りをしてお祭をしている。そこに生きんとするものの必然性がある、と秀麿は当時の近刊のハンス・ファインガー『かのようにの哲学』を援用して、神話は歴史ではないが、あたかも歴史であるかのように信じて生きる実用主義(プラグマティズム)を差し当りの解決として提示してみせるのである。」(『皇太子さまへのご忠言』) ここで表された秀麿の父の神霊に対する態度や心境は、維新を経験した多くの人に共通するものであって、維新によって皇室でさえ、菩提寺である泉涌寺との関係を絶っている。というより、天皇親政を謳った明治維新によって、皇室は神の子孫、祭祀を行う者として、親(みずか)ら菩提寺との関係を絶ったと言った方がいいだろう。 維新まで日本では神仏習合といって神社と仏教寺院は一体となっていて、死者は仏として葬られてきた。仏壇に祭られているのはご先祖様や亡くなった家族の位牌であったりする。 この習俗は正統な仏教から見て異端である。 というのは、仏教は本来悟りの宗教であって、死者の霊の存在を認めないからだ。つまり、江戸時代の寺請制度によって仏教が葬式仏教となって以来、世俗一般の日本人にとって神社や寺院とは「鬼神」を祭る空間であったのだ。 当時の知識階級であり、支配階級であった武士は概ね、『論語』を聖典として、これを学び、時にこれを習い、個人の生き方や帰属する社会の生活に、また天下の政道にプラグマティックに活かしてきた。 例えば、幕末維新の英雄の一人、勝海舟は仏教を念頭において徳川家の宗教政策を「鬼神を敬して遠ける」と『論語』の先の言葉で表現している。 「従来徳川では、宗教は敬して遠ざける方針を執って、各派の僧侶には、高位高職に相当する位階を与へ、また寺には御朱印地を付けて、いっさい彼らの自治に任せたのだ。治めざるをもって、治めるのが、幕府の宗教に対する政略であった。」(『氷川清話』) これは仏教という「鬼神」問題に対する幕府のプラグマティックな態度を表現しているが、朱子学を官学として採用した幕府の当然の帰結であっただろう。そして、その政策の起源は、おそらく『論語』を好んだ徳川家康に求めることができると思われる。 このプラグマティズムはおそらく神に繋がる血統を持つ皇室に対する態度にも応用されていたように思われる。 確証はないが、明文化された「禁中並びに公家諸法度」にそれを読み込むことはできそうであるが、少なくとも、後世、儒学や国学などの学問によってそのように反省されたことは事実である。 孔子によれば、民の義務を行い、鬼神を敬遠すれば、そこに知は生ずる。 その知が異文明との接触を経て、これに応じた。それが幕末維新期の騒乱となった。 その結果、江戸社会が崩壊し、新たな文明、新たな価値規範を取り入れざるを得なくなった時、五條秀麿の父のように、それまで当然とされてきたこの生き方に、懐疑の眼差しを向けるようになったのも、ある意味自然な流れだったであろう。 一方、父の世代までの生き方、またそのバックボーンとなっていた古典を知らぬ、欧化時代の青年・秀麿は、西洋の哲学を学び、神話、すなわち鬼神の話を、存在しないが存在するかのように、また、神話を過去の事実の集積である歴史ではないが歴史であるかのように、信じてともに歩んでいく、というプラグマティックな生き方を差し当たりの解決策として提示してみせたのである。 しかし、それはあくまでも差し当たっての解決策であって、我々日本人にとっての本質的な解決策ではないだろう。 鷗外はこの短編について、後に娘婿になる人物に宛てた書簡の中で、「…小生の一長者に対する心理状態が根調となり居り、そこに多少の性命はこれあり候ものと信じて書きたる次第」と書いていて、この書簡中の一長者とは山県有朋か乃木希典ではないかと言われている。 小堀桂一郎氏によれば後者ではないかという。 ちなみに乃木大将が青年時代、自ら択んだ学問の師は、親戚の玉木文之進で、彼は吉田松陰の叔父にして学問の師でもあった。そもそも松下村塾とは彼が開いた寺子屋の名である。 彼は前原一誠のいわゆる「萩の乱」に関与していたらしく、責任を取って、先祖の墓前、すなわち先祖の「鬼」の前で切腹した。維新の精神の何ものかを体現する人物であった。 当然、長州閥の中にあって、彼の教えは乃木大将の精神に沈殿していったはずで、西南戦争における有名な連隊旗喪失事件も、この沈殿物を攪拌し、純度を高める事件となったであろう。 短編「かのやうに」が発表された明治四十五年の七月三十日、明治天皇が崩御された。 改元されて大正元年九月十三日、青山斎場で御大葬が挙行され、鷗外もこれに参列したが、その帰路、乃木大将夫妻が殉死したとの噂を耳にする。半信半疑であったが、やがてそれが事実であったことを知る。 乃木大将の葬儀は十八日、同じ青山斎場で行われ、鷗外もこれに参列したが、大将の殉死に対する思いを投影させた『興津弥五右衛門の遺書』をこの日一気に書き上げて、中央公論に寄稿している。 殉死は君主に対する態度の問題であり、明治人の君主とはすなわち天皇である。以後鷗外は、江戸時代の殉死の問題、すなわち明治の基礎を成した武士道の問題に創作動機を見出していくことになる。 親交のあった乃木大将の殉死は、鷗外に突きつけられた動かぬ事実であって、五條秀麿に託された鷗外のプラグマティズムは反省されざるを得なかっただろう。 西尾氏が言うように、確かにここには我々現代人が皇室という存在と向き合っていく上でのヒントが隠されているといえよう。 西尾氏が引用する森鷗外の『かのやうに』は明治期の自我喪失という思想的混乱を表す話であって、実は明治を創った人々においてこの問題は既に解決済みの問題であった。乃木大将が殉死に躊躇した様子はないし、天皇親政の理想に命をかけてきた山県有朋も死処は違うにしてもこれは同じだったであろう。 教養主義で人は死ぬことはできない。 近代的知識人である鴎外に突きつけられた問題はこれであったと思われる。 死の問題に直面し、これに対し自覚的に取り組む契機とならないような教養など何の意味があろう。維新の元勲に教養主義はなかったが、わが国の伝統の中に育まれてきた教養は身につけていた。鷗外は、明治天皇の崩御と乃木大将の殉死に直面して、「かのやうに」振舞う西欧的近代合理主義の軽薄さを乗り越えるきっかけを得たのではないだろうか。 |
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西尾幹二氏を中心とする現代史研究会メンバーによる討論を見て、興味深いことが語られていたので紹介したい。
西尾氏自身、歴史は未来から来るものであり、我々が動けば歴史は動く、というだけあって、現在の国際政治を意識しながら、歴史を深く掘り下げた内容の濃い討論となっている。 1/3【現代史研究会SP】「反日の米中連携」その実態と行方[桜H25/4/27] http://www.youtube.com/watch?v=zctOVmDSkN0&feature=youtube_gdata 2/3【現代史研究会SP】「反日の米中連携」その実態と行方[桜H25/4/27] http://www.youtube.com/watch?v=okJ-Cyukgc0&feature=youtube_gdata 3/3【現代史研究会SP】「反日の米中連携」その実態と行方[桜H25/4/27] http://www.youtube.com/watch?v=M9Si4KveAPc&feature=youtube_gdata ここで取り上げたいのは、3/3の動画の九分頃からの西尾氏の日本文明観、国体観である。 大雑把にまとめると次のようになろうか。 〔日本人は天皇を超える神を必要としている。 日本の文化は二重性があって、神仏信仰で、神と仏の両方があった。天皇を超える仏教という超越原理を持つ文化、言わば形而上の世界があって、この二重性が日本を豊かにしてきた。 これによって西欧文化を理解することができたが、支那やアメリカには形而上の世界がない。〕 これをそのまま受け取ることはできない。 確かに、表面的な観察では支那やアメリカにはそういったところは見出せないかもしれないが、西尾氏自身、アメリカはキリスト教原理主義の国であって、日米戦争は宗教戦争であった、という卓見を示しておられる。 また、支那の場合も現代社会はそうかもしれないが、古典文学の世界では必ずしもそうではなく、政治の場においても、天命思想にもとづく皇帝による専制支配と天を祭る儀式や臣下との関係を規制する儀礼は、それがフィクションであるにせよ、密接不可分の関係にあった。そもそも形而上・形而下という言葉自体、支那の古典『易経』を出典としている。 日本文化の持つ二重性がこの国を精神的に豊かにしてきたというのは見識ある知識人が夙に指摘してきたところであって、福沢諭吉も『文明論之概略』「西洋の文明を目的とする事」で、別の含意ながら、支那の元素は一、日本の元素は二であるとして、そのことが西洋文明を理解しやすいものにしたという趣旨のことを述べている。 福沢の言う二つの元素を今の言葉に翻訳すれば、権威と権力で、日本は言わば権々二分の国であるということだ。 支那は周末期諸子百家による多事争論の社会だったが、秦の始皇帝による統一以来、権威と権力が一体となって、一元素の国になった。 日本はよく知られているように、中古以来、武家による権威と権力の分離が行われて、二元素となった。 これは日本にとっての僥倖で、元素が一であれば、思想の向かうところは必ず一方に偏し、胸中に余地を残さない。しかし、日本は元素が二で、元素が二つあれば、その自由な運動を許すことになって、その間に一片の道理を雑(まじ)えざるを得なくなる。このように人心活発は自由の気風を生じ、逆に道理を必要とする。 この精神が西洋文明の摂取という困難を、他文明よりは比較的容易にしてきたというのである。 大雑把に要約したが、ダイナミズムに富んだ文明理解である。 しかし、それは踏み込んでみれば、そもそも日本の神道文化の寛容性が土壌になっている、ともいえるだろう。 西尾氏の言う神仏信仰の二重性の継続的発展は、この二元素文明が生じさせたものともいえるだろうし、また別種の二重性をも生じさせてきた。 しかし、仏教の教えが育んだ形而上世界の追及は鎌倉時代に最盛期を迎えて、以後停滞、そして沈滞に至ったような印象を持っているがどうだろう。 仏教のことは詳しくないので断言はできないが、戦国時代、殺生を禁じられているはずの仏教勢力は、いわゆる僧兵を養って、自ら殺生を行うほど頽廃していたのであって、この勢力を殺ぐべく起ち上がったのが織田信長であった。 織田信長は狂気のみの英雄ではない。理性の英雄でもある。 この二つは言わば英雄の中に生ずる二元素である。 彼は大名に比肩する城塞を構えた仏教勢力を乱世の一要因と見、根源的に正そうとした。その結果、根切りが必要であるとの結論に達したまでである。 彼は、仏教の純粋な信仰そのものまで根絶しようとしたわけではなかったのだ。 彼以後の支配者は天下統治の見地から、仏教を「敬して遠ざく」政策を採って、幕末に至った。信長を非難するばかりで、そういった自己の頽廃を直視できない仏教が再興して、日本文明の再興進展に大きく寄与することはないのではないだろうか。 仏教は確かに庶民の生活にまだ生きているかもしれないが、それが大きなエネルギーとなって、日本の文明を動かすことはもはやないだろう。 最近も、仏僧が北朝鮮のエージェントのような行動を為して話題になったが、これを非難する大きなエネルギーは、仏教界から湧き出てこない。 先ほどの「敬して遠ざく」とは『論語』の言葉だが、戦国時代の混乱から信長・秀吉・家康の三代を経て、日本は一応の統一を見、これを継承発展した江戸期を経て、幕末維新を迎える過程で、この思想は二元素を維持したままの統合に重要な作用を働くことになるが、そのことは「皇室と『論語』」の次回で触れたい。 だが、これが西尾氏と自分の見解の違いになるが、日本人が今後必要とする超越的存在は、少なくとも仏ではあるまい。 もちろん聖書の「神」でもなかろう。 むしろ、それはおそらく、我々が文字との出合い以来、育み、戦国期のキリスト教との邂逅を経て磨き、発展継承してきた、我々の言葉の蓄積の中に潜在的に眠って、未だ体系化のなされていないし、またなされるべきでもない潜在的信仰であろう。 それは価値規範の危機に直面して初めて自覚される信仰である。 それは西郷南洲翁や中村敬宇流に「敬天愛人」と言ってもいいし、夏目漱石流に「則天去私」と言ってもいいし、福沢流に天道と言ってもいい、天を超越的存在とし、天に仮託されるなにかである。 |
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西尾幹二氏の一言に端を発して書き始めた「皇室と『論語』」はようやく核心に入ろうとしているが、文章がなかなかまとまらない。
この内容は『西郷南州伝』を書いているうちに、すなわち明治維新という故き事を温めるうちに心の中に醸成されてきた日本の国体観、文明観であって、いずれ書かなければならないと思ってはいたものの、まだまだ先のつもりであった。まだまだ調べなければならないことは多いし、どう書いていいかわからなかったからである。これは今でも変わらない。 西尾氏は支那における『論語』は嘘の固まりと言ったのであって、これに異議を唱えるつもりはない。その通りだからだ。昨今世界中に設立されている孔子学院の例を挙げれば十分であろう。あれは情報工作機関である。 私が西尾氏に言いたかったのは、日本には支那とは違う『論語』解釈の歴史、受容の歴史があるのであり、これは文明の根幹に関わることであるから、「『論語』は嘘の固まり」との言い切りは、支那嫌いが高じて、『論語』読まずの『論語』嫌いが多い保守論壇の誤解を増長させる恐れがある、ということであった。 保守論壇に横行している儒学批判、ひいては『論語』批判は程度が低いものが多い。 孔子もまた食人の習慣があったとか、論外である。 儒教体制が東アジアに停滞をもたらしたとかも皮相の見解であって、そのような面が確かにあるにしても、どのような社会規範・社会体制も、文明が衰退期に入って、人が精神の溌剌さを失って、これに屈従すれば、社会は停滞するのであって、これは古今東西変わらぬ現象だろう。 要は衰勢の中にあって、人がもがき苦しんで、これに違和感を感じ、抗おうとする中から、文明再興の萌芽は生まれるのであるが、外的要因がその芽を摘んでしまうことが多いのだ。 その意味で、無関心とか、諦観こそがわが内なる敵といっていいかもしれない。 自分の問いかけと、氏の返答は食い違っていて、私は古くから生きる規範として日本人に読まれてきた『論語』の、日本人なりの通釈の歴史があり、それに則って行動することで日本の歴史が動かされてきた面があり、それはどこまでも歴史である、と言いたかったのだが、西尾氏は『論語』も含めて聖典の動かぬ真実を求めてもそれは原典が今に伝わらない以上、不可能であり、求めても無駄である、と答えたのである。 私も西尾氏の著作『江戸のダイナミズム』でそれは勉強しており、趣旨は了解しているつもりである。 しかし、人間の知性や認識能力は完全どころか欠陥だらけであり、誤解も含めて思想を形成し、歴史を動かしていく。例えば、中国や韓国の主張する近現代史は捏造だらけで、稚拙な政治的デマゴーグに満ちているが、我々日本人の側が、自己主張の強い意志を持たず、それどころか向こうの言い分を無気力に受け入れてしまったりすれば、言ったもの勝ちで、そのように歴史は動いてしまうのである。 古来『論語』は日本人に大きな智慧をもたらしてきた。 先人の重要なバックボーンとなってわが国の発展に寄与してきた思想の一つである。 確かによく指摘されるように儒教には実学の軽視という欠陥がある。 それは、この『論語』に既に現れているわけだが、孔子自身は苦労人で自ら「吾れ少(わか)くして賤し、故に鄙事に多能なり」というだけあって、農事に携わった経験も言葉ににじみ出ているし、司馬遷の『史記』によれば役人をしていたこともある。下層民としての実生活の上に、これらの思想を築き上げていたのだ。孔子が世に知られ、人生経験も蓄積して思想らしい言葉を語るようになったのは、ようやく四十という不惑の齢を過ぎてからのことである。 だから、実務に従事する日本人にこそ、『論語』を読んで欲しい。 そう考えて、『論語』の復権に取り組んでいる。 『論語と算盤』の著者で経済人の渋沢栄一も同じ趣旨で『論語』を称揚した。私はまた別の側面から光を当てようとしているだけだが、あまりラジカルだと、人はついて来れないらしい。 ラジカルは過激とか、急進的な様を表す言葉だが、本来は、根本的とか根源的という意味合いの言葉である。根源的言動は一般の眼には、時には過激、時には急進的に映るが、本当の意味で時代を動かすのはこういった人々であろう。 今回、ひょんなことから準備不足のまま書き始めたが、思わぬ収穫は、これまでただ『論語』をわが国にもたらした人物ぐらいにしか思っていなかった王仁という人物が、平安時代まで公家社会において、非常に尊敬されるべき重要な人物として記憶されていたことを知ったことにあった。 我々の先人が文字を学ぼうと決意したのは、賢人王仁を通じて、賢者の言葉を学ぼうとの動機を強く持ったのがきっかけであり、それは朝廷において『論語』の名を以て記憶された。『古事記』や『日本書紀』の記述はそのように読める。 この出会いは、日本人の言葉や文字に対する感性を決定付けたように思える。 一方で、王仁もまた日本の文化を理解しようと努めたようで、難波津の歌は、和歌の父のような存在である、とは紀貫之が『古今和歌集』「仮名序」で論ずるところである。そして、おそらくは書き言葉としての日本語の父とも伝承されていた。 だが、いつの頃からか、それらの記憶は忘れられた。 時の経過もさることながら、日本語としての文字の使用に習熟し、日本語として確立されたことが、文字の父としての王仁の存在を忘れさせたのであろう。 このようなことは、支那嫌い、『論語』嫌いの保守には大した意味のないことかもしれない。しかし、保守は国を愛すとか、歴史を大事にとか、伝統を重んずるとか、常々言っているはずだ。ここに好き嫌いという私を差し挟んではならないのではあるまいか。 中国の脅威が差し迫っているからと言って、敵性言語として、敵性思想として、この伝統を抹殺しなければならないとすれば、それこそが支那流だろう。 支那人は言語を、『論語』を、嘘の固まりにしてしまった人々。 日本人は言語を、『論語』を、まこととしてきた民族である。 そこをこそ直視すべきなのではあるまいか。 これは信仰の話ではない。 どこまでも歴史の話として書いているつもりである。 こういった話は迂遠なようで、読者の関心も薄いようだが、このことの重要性をちゃんと指摘する知識人がいないようなので、書き続けなければならない。 よく日本文明は融通無碍といわれる。古くは支那文明、新しくは西洋文明を貪欲に学び、時にこれに習って、近代化を成し遂げてきた。 "Rolling stone gathers no moss." 「転石、苔を生さず」という。 日本文明の持つ国際性にはこういった側面を見ることが出来よう。 しかし、国体は変化を本質とするものではあるまい。むしろ国体を守るために変化を余儀なくされるものだろう。 日本の国体には、転石苔を生さずと観察される面があるものの、一方で、これら転石を飲み込んで、皇室を中心とする「細石の巌となりて苔の生すまで」の伝統が、その球体の中心に、重心になっている。 転石たる民を中心にプラグマティックに歴史を見ていけばなかなかわからぬが、皇室を中心にすえて歴史を見ていけば、自ずとそういう歴史観、国体観が拓けて来るだろう。 「ウィキぺディア」の解説によれば、「さざれ石(細石、さざれいし)は、もともと小さな石の意味であるが、長い年月をかけて小石の欠片の隙間を炭酸カルシウム(CaCO3)や水酸化鉄が埋めることによって、1つの大きな岩の塊に変化したものも指す。学術的には『石灰質角礫岩』などとよばれる。石灰岩が雨水で溶解して生じた、粘着力の強い乳状液が少しずつ小石を凝結していき、石灰質の作用によってコンクリート状に固まってできる。」となっている。 要は、この、長い年月をかけて小石を凝結させる作用を果してきた重要な要素の一つが『論語』であったことを言いたいのである。 それは聖徳太子の「十七条憲法」以来の、皇室の下での、君子相和し、小人同ず、の「和」の伝統であった。 『論語』は、石ころを切り上げ、磋(みが)き上げ、琢(う)ち上げ、磨(と)ぎ上げて、玉となす事も日本人に説いてきたのである。 最近は余り聞かなくなったが、好きなロックバンド「レッド・ツェッペリン」に「天国への階段」という邦題の名曲がある。 かのカラヤンがこの曲を聴いて完璧なコード進行だと言ったとか。 ともかく神秘的なムードを漂わせた名曲で、彼らにしては珍しく、音楽への確信を謳った、その謎めいた歌詞をリスナーに聴かせたかったようで、アルバムジャケットに独特の字体の歌詞が手書きで書き込んである。 Led Zeppelin−STAIRWAY TO HEAVEN [http://www.youtube.com/watch?v=kBPVlTibs0o] 最後の一節は次のようになっている。 And as we wind on down the road Our shadows taller than our soul. There walks a lady we all know Who shines white light and wants to show How everything still turns to gold. And if you listen very hard The tune will come to you at last When all is one and one is all To be a rock and not to roll. And she's buying the stairway to heaven 拙いながらも訳せば次のようになろうか。 「我々が道をくねくね下り歩いていくにつれて、 我々の影は我々の魂より大きくなっていく。 ほら、あそこに我々みんなが知っている女が歩いている。 彼女は白い光を輝かせ、見せたがっている。 いかに全ての物が今でも黄金に変わりうるかを。 もし君が一所懸命に聴くなら、その音はついには君に聴こえて来るだろう。 一つが全てとなり、全てが一つとなるとき、 それは岩となって、決して転がらなくなる。 そして、彼女は今も天国への階段を買い求めている。」 我々は 「転石」"Rolling stone "であることをやめて、天国への階段を求めて、信じるものを音にする、だから一所懸命聴け、というのである。 この決意表明の通り、彼らの音楽は音の核を取り出して、それを固まりにしてぶつけてくるような、ダイナミズムと音像によって聴かせるサウンドになっていく。 「天国への階段」が収められているのは4枚目のアルバムだが、6枚目の「フィジカル・グラフィティ」におさめられた「カシミール」はその代表的な曲だろう。アルバムでいえば7枚目の「プレゼンス」は、無駄をそぎ落として、音の核だけで作られたような音の構築物のようなサウンドである。 これらはいまや不動のロック・クラシックとなっているが、後期のサウンドは、彼らが『天国への階段』に詠い込んだように、これを信じて、これをハードに聴かなければその本当の凄さは理解できないだろう。 彼らの音楽を不動のロック・クラシックにしたのは、この「天国への階段」以降の創作活動であった。 同じようなことが私がこれまで書き、またこれから書こうとしていることにも当てはまる。 諸君、一度読んだ位で理解できると思わないでくれたまえ。 私は一歩一歩踏みしめながら、確信を言葉にしている。 言わば、天国ならぬ、天への階を求める者である。 それを手にする資格が自分にあるかどうかわからない。だが、天を敬い、人を愛して、それを手にした人がかつてはこの国にいた。 いや、今もいるだろう。 それは決して一人ではない。 その尊敬すべき人物たちについて語ることぐらいは自分にも何とかできるだろう。 そこに何かあると信じ、一所懸命読んでくれたまえ。 |
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また、皇室の重んじることの一つに和歌がある。
今でも歌会始は重要な皇室行事の一つであるが、この詠歌にも同様の作用が認められる。 紀貫之撰の『古今和歌集』「仮名序」は和歌について次のような説明がなされている 「和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事・業しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聴くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはづ声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力を入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼_をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは、歌なり。」(『古今和歌集』岩波文庫) 漢文で書かれた「真名序」では下線部は「動天地、感鬼神、化人倫、和夫婦、莫宜於和歌」となっている。 和歌の作用の一つに、鬼神をあはれと思わせる、つまり感動せしむる、というのがあるのである。 日本最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が編纂されたのは、後世、天皇親政の理想時代とされ、維新の一つの源流となった「延喜・天暦の治」の前者で、醍醐天皇の時代である。和魂漢才の忠臣・菅原道真が活躍し、失脚したのも、この延喜帝の時代である。醍醐天皇の崩御は菅公の怨霊の仕業ではないかと都では恐れられた。 この時代は、戦後の歴史家によって、律令政治の最終段階であるとともに、王朝国家体制への移行期とされ、その理想視に水を差されたが、挫折したとは言え、いや挫折したからこそ、天皇親らの復古的改革への意欲が、後世、非上流貴族の理想とされ、継承された、と理解すべきではないかと思う。 前回触れたように、この時代、「道」という自覚的な生き方を日本人に教えた『論語』の価値が非常に高まった時代であった。 「仮名序」によると、当時は漢学が隆盛を極めた時代で、和歌は「色好みの家に埋れ木の人知れぬ事となりて、まめなる所には、花すすき穂にいだすべき事にもあらず」という有様だったという。 これを救おうとしたのが、醍醐天皇の御心だった。 醍醐天皇の勅命は、「仮名序」では「いにしへの事をも忘れじ、古(ふ)りにし事をも興したまふ」「今もみそなはし、後の世にも伝はれ」となっていて、「真名序」の同じくだりを書き下すと「既に絶えたる風を継がしむことを思ほし、久しく廃れたる道を興さむことを欲す」と表され、明確に「道」という漢語で表現されている。 大和言葉では「道」という漢語の使用が避けられたということだろうか。ということは「道」という観念は当時、まだ外国から渡来したものと明確に意識されていた、ということだ。 この大御心を受けた紀貫之はこの「仮名序」、『土佐日記』の作者でもあることからもわかるように、仮名による大和言葉の表記に対する思い入れの強かった人物だ。 実は紀貫之の「貫之」の名は『論語』「里仁」篇の「一以て之を貫く」に由来している。 孔子は若い弟子の曾子(参)に言った。 「参よ、吾が道は一以て之を貫く。」 参「はい」とのみ答えた。 やがて、孔子は出て行った。 すると参の弟子が「どういうことですか」と尋ねた。 参が答えて言うに、「夫子の道は忠恕のみ」と。 つまり、今上陛下が感銘を受けた一節は、孔子の言葉ではなく、「吾が道は一以て之を貫く」という孔子の言葉に対する曾子の解釈なのである。 孔子は吾が道は一以て之を貫くと言ったが、何を以て貫くとは言っていない。 荻生徂徠は、言わなかったのではなく、言えなかったのだと解釈している。 もちろん、紀貫之にとって、一以て之を貫く吾が道とは、和歌を起点とする一つの道であっただろう。 それが『古今和歌集』編纂および「仮名序」の執筆、そして副産物として『土佐日記』を生んだ。そして、見事に和歌を自覚的な歌の道として再生せしめた、と言っていいだろう。 その「仮名序」の中で貫之は、『論語』をわが国にもたらした和邇の難波津の歌と『万葉集』に収められた、不機嫌だった葛城王(橘諸兄)をなだめるために采女が詠んだ和歌を挙げ、「この二歌は、歌の父母のやうにてぞ、手習う人のはじめにもしける」としている。つまり、和邇の難波津の歌は和歌の父のようなもので、母である采女の詠歌とともに、手習いの始めに習うものであったという。古代において『論語』をもたらした和邇は、文字や和歌の世界においても特別な存在に位置づけられて記憶されていたのである。 貫之はこの難波津の歌は「帝(みかど)の御初(おほむはじ)めなり」としていて、『詩経』六義の「風」に当る「そえ歌」であるとしている。 『詩経』は孔子が学問の初歩として最も重んじた書物だ。 このように、『論語』は和歌の自覚化、歌の道としての再生に密接に絡み合っているのである。 以上、『論語』がいかに我国の文化の土壌に深く根を下ろし、からみついて、ともに支えながら生長してきたものであるかを念頭に置きながら書いてきた。 西洋由来の「保守」思想から見て、これらは本来、支那と日本を起源とする別のものであるべきはずで、癒着ということになるのかもしれない。 だが、外科手術でこれを無理に引き剥がそうとすれば大変な出血をともなうことになる。現に戦前のいわゆる皇国史観によって、前面に押し出された惟神の道は大きな傷を被ったのではなかっただろうか。 |



