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Amazonオンデマンド版『織田信長とニーチェと論語』(MyISBN - デザインエッグ社)が発売されましたのでお知らせいたします。税込価格1760円です。 モチーフという点で根底でつながっている『織田信長「超人」伝』と『ニーチェと論語』をまとめて紙の書籍化したものです。 内容紹介 第一部『織田信長「超人」伝』 …今なお、日本の歴史上、最も個性的な光を強烈に発し続ける英雄、織田信長。筆者はこの人物について思いを巡らすとき、とりわけ天正年間の信長に関して、十九世紀の哲学者ニーチェの次の言葉を想起します。「人間の向上発展の成功例は、個別的にはこれまでもたえず、地上のきわめてさまざまな地点でさまざまな文化の内部から現われているが、それは近代的な進歩の観念とは違った意味においてである。それはより高いタイプの人間が――全人類と比較して一種の超人のようなものが、実際に現われ出る場合である。天与の幸運とでもいうべきこのような偉大な成功例は、これまでもしばしばあり得たし、おそらくこれからもつねに起りうることだろう。単に個人ではなく、世代、種族、民族の全体でさえもが、事情いかんによってはそのような紛れ当りを見せるかもしれない。」 いわゆる超人の概念がここに語られています。 ニーチェは新たな価値の創造者である「超人」へ至る道のりを「らくだ」「ライオン」「子供」の比喩を用いて表現しました。 信長の生涯を俯瞰すると、「天下布武」「天下一統」という重荷を担う「らくだ」に始まり、この障害となるあらゆる権威・権力と戦う「ライオン」となり、やがて、礼楽政教、規範、技術を無邪気に創造する「子供」へと徐々に変貌を遂げていることが分かります。 信長とは一体何者で、どのような天下国家観、世界観を持ち、生きたのか。 ニーチェを突き動かしたものが、彼が処女作『悲劇の誕生』で再発見した古代ギリシャの陶酔の神「ディオニュソス」であったとするなら、信長を突き動かしたものは一体何だったのでしょう。 第一次史料である書簡類、家臣太田牛一が書いた記録『信長公記』、キリスト教宣教師ルイス・フロイスが書いた『日本史』を参考にして、信長の本質を検証します。 信長の巨大な事業の本質を、東西、彼我の偉大な思想家の概念を借りながら、彼自身の思想や言動に沿って理解する画期的な論考です。 第二部『ニーチェと論語』 …狂人とは理性を失った人ではない。狂人とは理性以外のあらゆるものを失った人である。―ギルバート・K・チェスタトン―『ツァラトゥストラかく語りき』で示した「超人」「永劫回帰」思想の発明を経て、善悪の彼岸で、あらゆる価値の価値転換という大仕事の絶頂において精神錯乱に陥った「アンチ・クリスト」ニーチェ。 しかし、それは本当だろうか。 それは固定観念に過ぎないのではあるまいか。 ニーチェの「発狂」にはもっと大きな文明史的意義があるのではないか。 むしろ、必要なのはわれわれ現代人における「近代」という一つの価値の価値転換なのではあるまいか。 近代に突き刺さった棘であるニーチェの「発狂」に関する大きな普遍的価値の価値転換のための、日本の知識人の弱点を克服するための試論(エッセイ)。 |
織田信長
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Kindle版電子書籍 『織田信長「超人」伝』を出版しました。
発売日が終戦の日である八月十五日になったのはたまたま作業のすべてが完了したのが、その前日十四日だったからです。 内容は、『十人の侍』の信長論では國體論の立場から意図的に削り落とした本来のモチーフに立ち返って、加筆したものです。柱となる検証部分は基本的に変わっていません。 その柱となる本文は、信長の思想、天下国家観の検証と、皇室との関係、そして本能寺の変の検証です。 「超人」は19世紀の思想家フリードリッヒ・ニーチェの提唱した概念ですが、彼はこれを全くの無から創作したわけではありません。筆者は『ニーチェと論語』でも書きましたが、スイス・バーゼル大学の同僚教授であった歴史家ヤーコプ・ブルクハルトの「歴史的偉人」の講義から着想を得、それを哲学的に追究したものであったと解釈しています。 つまり、ブルクハルトが言うところの「世界史の真の神秘」から抽出した概念であったということです。 ニーチェは「超人」の例として、仏陀、古代ギリシャの神ディオニュソス、イエス・キリスト、アレキサンダー大王、古代ローマの英雄ユリウス・カエサル、信長より少し前のイタリア・ルネサンス期の英雄チェーザレ・ボルジア(チェーザレはカエサルを意味する)、ヴォルテール、ナポレオンを挙げましたが、歴史的に振り返って、新たな価値の創造者として世界を新たに方向づけた人物を指し、自分もまたそれになろうとしたのだと考えています。 筆者は、信長が包囲網の苦境を脱しようともがく中で、比叡山の焼き討ちに象徴されるように、常軌を逸した行動を取るようになった天正年間の彼を理解する上で、ニーチェの「超人」という概念がもっとも適しているだろうと感じたのです。 自己の理解を超えた存在に対する批判は自己の価値規範の主張にほかなりません。それは自己の価値規範の限界を公にすることでもあります。 知的謙虚さが求められるゆえんですが、知恵自慢である知識人に欠けがちな徳がこれでしょう。 最近、明智光秀に対する再評価が盛んで、それはそれで結構ですが、それらの論文のいくつかを読んでみると、光秀のヒール役である信長・秀吉の理解が全くなっていないため、取るに足らないものが多いのが現状です。 それでいながら、光秀の高評価に都合のいい史料は、後世抹殺されたり、改竄されたと主張しているのですから、何をかいわんやです。 筆者は、陰謀論の全てを否定するわけではありませんが(むしろ政治において陰謀は盛んであるとすら考えています)、史料批判も含めて、常識的に筋が通っているかどうかで判断するものです。 光秀の再評価もそれはそれで大事ですが、日本人全般にとっては信長の理解こそ重要です。混乱と荒廃を極めた戦国時代に秩序を再興した信長こそ、国体の観点から是非とも正しく理解しておかなくてはならない人物だからです。 たまたま終戦の日と出版が重なりましたが、現在の日本は終戦が大きなきっかけとなって、七十三年経っても、未だに世論が左と右に分断されたままの国家です。「大和」民族の名に、「和」の国の名に、相応しくない状態なわけで、この日本人の内面の分断状態、すなわち「不和」の状態を改善するには、歴史を遡って、もとから認識を正していく必要があります。 もとより日本が本当の「和」を達成していたことは、その理想から言えば、現実的にほとんどなかったといっても過言でありません。しかし、「和」を理想とする伝統は皇室を中心に連綿と受け継がれてきたのであり、それは神道を中心に、仏教・儒教・道教などの習合によって目指されてきたのです。 信長もまたその例外ではなく、彼が為そうとしたのは、それまでの主流であった神仏習合を柱とする国から神儒習合を柱とする国への大転換であり、そのためには強力な外科手術を必要とし、その中で彼の強靭な精神はそれらのすべてを超える存在に思想的飛躍を遂げざるを得なかった、ということです。 それもこれも天下一統を達成する上で、高度な「和」を達成する必要に迫られたからです。 その過程で、信長は常に、彼に好意的な正親町天皇との協調関係を重視していました。この関係性を検証する上で、今谷明氏の『信長と天皇』をテキストにしましたが、驚くべきことに、信長は常に天皇を抹殺したい衝動に駆られていたと主張する今谷氏が、同書で掲げている史料は、よく読むと、彼の主張を裏付けるものになっていない、という事実でした。 こういった研究書を読む人はおそらく自分が標準より頭がよいと思いこんでいる人々であって、一度読んだだけでわかった気になって、もう一度読み返してみるということをしないのかもしれません。しかし、通常良い内容の本は二度目三度目ほど認識において得るものは大きいのです。一度でわかった気になるのはある意味、モチーフが単純明快で、それに沿った史料が選択され、理屈で結びつけられているからです。 しかし、よく読めば今谷氏のモチーフは破綻しています。 その原因は、今谷氏がマルクス主義の一変種であるフランクフルト学派の階級闘争史観に立脚しているからだと推察されます。彼の一連のテーマである天皇と武家の対立関係というモチーフはここに起源しているようです。近代科学文明が生んだイデオロギーで、近代科学文明とは無縁の時代の人間をそのイデオロギーで理解しようとしているのです。その理解が正確なものになる訳がありません。 今谷氏本人はリベラルのつもりなのでしょうが、左に染まった戦後の歴史学会に向けて歴史を書いているからそうなるのでしょう。マルクス主義者にとって、歴史は、彼らの唯物史観、階級闘争史観などのイデオロギーを宣教するための道具でしかありませんから、決して歴史そのものと向き合っているわけではないのです。 「信長とは一体、何者であったのか」という記事でも書きましたが、信長が皇室に対する悪意から「馬揃え」という軍事パレードで朝廷を恫喝し、正親町天皇に譲位を迫った、というのもほとんど妄想の類です。 譲位のすゝめは、仙洞御所の造営、即位式、大嘗祭を行いたくても財政的に自力で成し得ない朝廷に対する好意ですし、「馬揃え」は主客共に派手に着飾った平和の祭典だったのです。 正親町天皇はこれを見て大喜びで、もう一度見たいと信長に甘え、信長もまた違う趣向でもう一度これを執り行っています。 信長が殺伐とした時代に、彼による天下一統、つまり平和の達成を目指していたことを忘れてはいいけません。 軍事パレードという解釈がいかに一面的で貧弱な発想であることか。 これは彼のほかの事業一般にも言えることです。 高慢な学歴秀才に、イデオロギーにとらわれ、過去を見下す進歩的文化人に、長く続いた戦乱を収拾しようと命懸けで取り組んだ英雄を理解することはできないのでしょう(もちろんちゃんとした人もいますが…)。 まあ、こういった一般の知識人の生態は、明治の文明開化以来の事で、大正デモクラシーで共産主義思想が流入してきて以来、ますます日本本来の発展的「和」達成努力の弊害となってきましたが(何と言っても彼らは基本的に反日自虐史観の徒ですから)、それらを踏まえて、彼らの歴史に関する見解を受け止めておく必要があるのです。 もちろんニーチェが唱えた「超人」という概念も、19世紀末に誕生したもので、極東の戦国時代にそのまま適用できるわけではありませんが、すでに触れたように、文明史家のブルクハルトが歴史の該博な知識の中から抽出した「歴史的偉人」という「世界史の真の神秘」を、ニーチェなりに追究した概念であり、歴史のヴェールに包まれて理解が難しい信長という不思議な人間を理解する上で、非常に有効な概念であろうと思ったまでです。 つまり、補助的な概念として応用したに過ぎず、他にも荻生徂徠の「聖人」概念など、信長理解を助ける上で、有用な概念は筆者が知る限り動員しています。 しかし、基本的には、例えば批評家の小林秀雄が『本居宣長』で十一年かけて実践したように、その謎めいた人物像を明らかにするために、様々な研究を参考にしつつ、出来るだけ本人の言葉に拠って、それに寄り添って、その事跡を解明することに徹したつもりです。 最後に西洋の保守思想家の言葉を引用しておきます。 20世紀初頭のアメリカで「プラグマティズム」という思想を普及させたウィリアム・ジェイムズはその主著『プラグマティズム』冒頭で、イギリスの保守思想家チェスタトンの次の言葉を引用して、賛意を表しています。 「およそ一個の人間に関して最も実際的で重要なことは、なんといってもその人の抱いている宇宙観である、という考えを持っているものが世間には幾人かいるが、私もその一人である。われわれの考えるところでは、下宿屋の女将が下宿人の品定めをする場合、下宿人の収入を知ることは重要なことではあるが、それにもまして重要なのは彼の哲学を知ることである。まさに敵と矛を交えようとする将軍にとって、敵の勢力を知ることは重要ではあるが、敵の哲学を知ることの方がよりいっそう重大な事であるとわれわれは考える。おもうに問題は、宇宙に関する理論がものごとに影響を与えるか否かということではなくて、つづまるところそれ以外にものごとに影響を及ぼすようなものが果たして存在するかどうかということなのである。」 あまりいい訳とは言えませんが、常識的な考えです。 筆者にしてみれば当然のことで、『西郷南洲伝』も、『十人の侍』も、今回の『織田信長「超人」伝』も、そのように、まず人物が抱いていた世界観を捉えることで、その言動の意義を明らかにするよう努めてきました。 少なくとも歴史家はそこまで把握した上で、批判を展開するのでなければ、その批判は的を外れた頓珍漢なものとなってしまうのです。 |
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最近、宮崎正弘氏のメルマガを読んでいて、呉座勇一氏の『陰謀の日本中世史』【KADOKAWA】という本の書評が載っていました。氏はこの本の中の白眉として、本能寺の変の真相をめぐる諸説の検証に言及する中で、氏自身の明智光秀論、信長論を語っています。
宮崎正弘の国際ニュース・早読み < <書評 呉座勇一『陰謀の日本中世史』 http://melma.com/backnumber_45206_6684233/ 宮崎氏のメルマガは最新の国際情勢を知る上で実に有益な情報を最速で伝えてくれる、読者の皆様にも是非お勧めしたい無料のメルマガです。 その最新の情報に付された氏のコメント、分析は非常に鋭く、大変参考になるものです。 非常に知的な分析で、インテリジェンスに疎い筆者は、その情報の恩恵を被っていて、どうこう批判できる立場にありませんが、そのインテリジェンスがわが国の歴史に向けられた時、何かその本質を見誤った結論を導き出していることが意外に多いのではないか、そんな気がするのです。 インテリジェンスとは一般的には「知性」という意味ですが、得られた個々の情報や事実に対する分析から総合的に相手の意図や真相を推理する「諜報」の意味で使われることもあります。「諜報」とは基本的に、自分とは利害の対立する相手に対して行われる行為で(もちろん味方の動向を知るために行われることもありますが)、それは利害の対立する相手ですから、とりわけ加熱する政治状況の中にあっては、彼の行為を陰謀論的に解釈しがちになります。 それを避けるためには相手の思想の根源や信仰にまでさかのぼってみるのでなければ、情報や事実の向こうに隠された、あるいは隠れている真相を精確に突き止めることはできません。つまり、真の「知性」とは言えない。 しかし、「諜報」という意味では、危機管理を前提としていますから、悪意を前提にそれを分析し、それに対し可能な限り備えをするのは正解ということになります。 たとえば中国共産党は、表向きはどうであれ、日本の侵略を狙っているから、それに対し万全の備えをする。中国人の日本への移民は年々増加の傾向にあるのは周知の事実で、彼らに対する中国共産党の統制力がどの程度のものか、表向きはわからないが、インテリジェンスの素人である筆者ですら、彼の国には「国防動員法」という有事の際の総動員法があり、各中国人が「档案」と呼ばれる名簿で統制されているのは知っているのであり、いざという時、彼らが暴動を起こし、都市機能をマヒさせ、日本人を襲うだろう、との想定の下に備えをしておくのが危機管理だ、ということになります。 宮崎氏もその論者の一人ですが、地政学的、あるいは経済学的視点から中国共産党はいずれ立ち行かなくなる、というのはかなり前から言われてきましたが、ところがどっこい、中国共産党は軍事費を毎年増加させ、今や世界中の脅威となっています。ある番組で、その事を指摘されたとき、宮崎氏は「常識的に考えればとっくの昔に崩壊しているはずなんですよ」という趣旨のことを言っていました。 それでも、アメリカのトランプ政権が反中姿勢を固めたことで、中国共産党政権は今や窮地に立たされていますが、狡猾な彼らはサバイバルに必死で、ここまでしたたかにやって来たのであり、今後も非常識な、すなわち我々の常識、発想を超えた手段にでて、したたかに生き残る可能性も無きにしも非ずです。少なくとも、危機管理においては、それを前提に備えをなすべきで、むしろ彼らの力を弱める方向で、あるいは崩壊させるための諜報活動を行うべきですが、日本の現状はその備えが全くできていないと言っていいでしょう。つまり、日本のインテリ階級の「インテリジェンス」はお粗末に過ぎるということです。 中国共産党にとって日本国憲法の改正は是非とも阻止しなければならないことで、安倍政権が倒れることによって最も喜ぶのは彼らです。つまり、日本の国内にあって安倍倒閣を推し進める勢力は、確信犯なら中国共産党のエージェントということになりますし、無自覚なら、自分がやっていることの本質が分からな い、彼らに利用されるだけの「ノー・インテリジェンス〈阿呆〉」ということになります。 日本はすでに中国製の「トロイの木馬」が中枢だけでなく各地にどんと据えられていて、反安倍を叫ぶ輩は、まるで平和の宴に酔いしれているトロイヤ市民のようです。気が付いた時には城壁は破られ、街は制圧されている、そんなことになりかねないのです。特に来年の今上陛下の御譲位から、再来年のオリンピック・イヤーにかけて、「トロイの木馬」は起動するかもしれないので注意が必要です。 現在中国共産党はウィグルやチベットでナチス・ドイツ以上の規模と質のホロコーストを行っていて、特にウィグルでは各家庭に漢人の監視員を置いて、また監視カメラを設置し、家の中においてもウィグル語の使用を禁じ、これに反すれば再教育が必要ということで、収容所に入れられて洗脳が施される、という最悪のところまで弾圧が進んでいるとの事です。これが完了した時、ウィグル語の死、すなわちウィグル人の絶滅という、人類史上最悪の事態は起きてしまうことになります。 これはこのまま抗日を党是とし、反日を国是とする中国共産党の日本侵略が進行した場合の日本人の将来の最悪の事態でもあります。 遠近法の魔法によって、一片の雲でさえ、太陽や月を隠すことはできます。雲ならともかく、人間の手になる遮蔽物によってでさえ、いや、それこそ手のひらによってでさえ、太陽や月を目から隠すことは可能なのです。太陽に手をかざして真っ赤に流れる僕の血潮が見えたところで、手をおろして見れば、そこには混乱と暴力の波が押し寄せている、そんな光景を目の当たりにするかもしれないのです。 国民にとっての目であり耳であるマスメディアによって、森友・加計、あるいは官僚のセクハラ問題などは、日本の存立にかかわる問題から日本国民の目を覆うために盛んに喧伝されているように感じられます。 さて、話を元に戻します。 日本人が「インテリジェンス」という言葉は知らなくとも、日本人全般が生き延びるための知恵、すなわち「インテリジェンス」を豊富に持っていた戦国時代の話です。 当時最高のインテリジェンスの持っていたことで衆目が一致するのが、信長であり、秀吉であり、家康であったでしょう。 戦国の三覇者にして、天下人です。 家康には「狸親爺」の異名もあって、おそらく大坂の陣で豊臣家を没落させたからでしょうが、何か腹黒い陰謀家のイメージがありますが、信長と秀吉には何か機略縦横の天才のイメージがあって、それは概ね、彼らの戦における戦法・戦術や戦略に対する解釈から導かれているように思われます。 この点について、宮崎氏は先のメルマガで、信長について、 「率直に言って織田信長への評価は著しく高い。 信長はそれほどの天才的軍略家でもなく、抜きんでた指導者としては、手ぬかり、判断の甘さが目立つ武将である。とくに信長への過大評価を生んだのはイエズス会の報告書が最近全訳されたことも大きい。」 としています。 やはり一言で言うなら、現代的な「インテリジェンス」という評価基準で、信長に失点を付けているのです。 一方で、氏が保守主義の立場から「本能寺の変」を義挙だとして、その人物を高く評価しているのが明智光秀で、その人物像は、同じ保守仲間の故・井尻千男氏の『明智光秀 正統を護った武将』に依拠しているようです。 近年、明智光秀の評価は急上昇しているようで、筆者はこの井尻氏が長年温めてきた構想を世に問うた労作を読み、また光秀の末裔である明智憲三郎氏が先祖の無念を晴らすために書いた『本能寺の変 431年目の真実』も読みましたが、前者は自己の保守思想、國體観を光秀に投影した、やはりこじつけ感の強い内容で、また後者も史実に対する解釈が現代的インテリジェンスによるこじつけ感が強く、特に光秀肯定願望の裏返しとしてのアンチ信長感が強く、筆者が知っている史実からだけでも容易に否定できる薄っぺらい信長観に終始していて、とても信用できる代物ではない、という読後感を持ちました。 ちなみに明智氏は当該著書の中で、情報システムの仕事に就いていた方で、その畑での経験を生かして「歴史捜査」に取り組んでいると紹介されています。 一言で言うなら、いくらインテリジェンス自慢の知識人であっても、現代のインテリジェンス、常識は、そのまま戦国時代のインテリジェンスに適用できない、ということになると思います。 特に信長は戦国の、いやそれだけでなく、当時衰微の極みにあった皇室に象徴されるように、混乱衰退の極みにあった國體を立て直した、言わばその強烈な個性によってパラダイムを大きく転換させる起動力になった人物であり、戦後日本のインテリジェンスの範疇に容易に収まる人物ではないのです。文明史的な視点がどうしても必要な人物です。 これらの所説は、狡猾にして酷薄な信長像が前提となっていて、何か実在の人物としての、あるいは偉大な人物としての信長像は見えてこないのですが、明智の「謀反」がかりに義挙であったとするなら、その前提として、信長の奸悪性もまたしっかりと検証される必要があるはずです。 信長の事跡を検証する上で土台となるのは一次史料、すなわち書簡の類ですが、信長の場合、太田牛一の『信長公記』、キリスト教宣教師フロイスの報告類もまた一級史料あるいはそれに準ずるものとされています。 宮崎氏は次のように書いておられます。 「俗説がおびただしくでたのは江戸時代である。第一級資料とはとても言えない、しかも事件から百年以上を経過しての歴史書から、適当な推量、妄想の拡大が、とんでもない説を大量に世に送り出した。 そもそも明智を「主殺し」の裏切り者と決めつける印象操作を行ったのは秀吉である。そのほうが横から信長政権を簒奪した、極悪人として評価されることを恐れた秀吉が真実をぼやかし、嘘でゆがめる効果があったからだ。 したがって後世の後時江(後知恵?)が多い『太閤記』に加えて、『信長紀』『信長公記』が生まれ、これらによって、じつは信長への過大評価も同時になされたのである。」 しかし、ここにもインテリジェンスの不精確さがあって、光秀の「義挙」は事件直後から主殺しの謀叛であることは明らかでしたし、『信長公記』は近習の太田牛一が自身の日記をもとに信長の死後まとめたものであって、『信長記』は、太田牛一を「愚にして直」と評した儒者小瀬 甫庵が、「愚にして直」なる記録である『信長公記』を元に、大いに脚色して書いたものです。つまり小瀬 甫庵の『信長記』に関してはともかく、太田牛一の『信長公記』に関しては後世の後知恵とは言えないのです。細かい間違いはあるようですが、一家臣の立場から見た率直な記録として十分信用に値するのです。 フロイスの書類も同時代史料であって、キリスト教的価値観を基準にした人物に対する評価はともかく、事実関係は大いに参考になるものです。フロイスの信長に対するインテリジェンス面での評価が高かったのは事実ですが、キリスト教的価値観からは晩年の信長を傲慢で盲目に陥った「悪魔」とさえ評しているのです。 筆者は氏の表現を借りれば、「それほどの天才的軍略家でもなく、抜きんでた指導者としては、手ぬかり、判断の甘さが目立つ武将」であった、その所以に関心があります。信長はわれわれの常識の枠にはまりきらないものを見据えていたからこそ、そのような手抜かり、判断の甘さが生じたのではなかったか。それが筆者の中に生まれてきた仮説です。 筆者は角川文庫版『信長公記』の校註を担当している奥野高広氏の『増訂 織田信長文書の研究』も購入して、『信長公記』『完訳 フロイス日本史』を読み込んで、信長の思想、天下国家観ついて考えたことがあり、その成果は『十人の侍(上)』にまとめました。詳しくはそちらをお読みいただきたいのですが、ここでは簡単に触れることにします。 宮崎氏も指摘しているように、安土城山腹の総見寺の御神体は信長自身であり(これはフロイスの記述にも信長自身が宣言した書いてあります)、天守閣が「天主」と呼ばれていたことに信長の野心が顕れているとして注意を喚起していますが、筆者の見解でも、信長は、自分こそ「天主」の影向したものである、と信じていたと思います。 ただ筆者は信長自身これを深く信じて疑わなかったことだと理解しています。 つまり、政治的演出としてではなく、自分自身が万物の主宰者であり、絶対神であると固く信じていた、ということです。「神なき合理主義がほとんどニヒリズム(虚無主義)と紙一重だ」との批判は信長には当たらないのです。 絶対神を中心に据えた合理主義であり、ニヒリズム(価値相対主義・虚無主義)ではないということです。考えてもみてください、若い時から天下一統を絶対的正義として、時に命懸けでこれに取り組んだ信長の精神がニヒリズムと紙一重な訳がないではありませんか。戦国時代の終焉、すなわち天下の平定を意味する天下一統を絶対正義とするがゆえに、それを邪魔した比叡山は憎悪され、徹底的に弾圧されたのです。 残酷を極めた比叡山焼き討ちもこの絶対的正義から割り出された事件で、氏も触れている東大寺正倉院所蔵の銘香「蘭奢待」の切り落としは正式な手続き、すなわち勅許を得た上で行われているのであり、この行為のどこが伝統と権威を蔑ろにした行為と言えるのでしょうか。 この時の信長の奈良行きは、大和国の國主と言える、比叡山延暦寺(北嶺)と並ぶ仏教勢力である奈良興福寺(南都)に対する威嚇のために実施されたもので、もしその目的を最優先するなら、無理を言って挑発することも可能だったでしょう。信長はこの時、同じ銘香の「紅沈」の切り取りも所望しましたが、寺側が先例なしとして頑強に抵抗したため、これを諦めたといいます。これは恐らく勅許を得ていなかったから、無理押ししなかったのでしょう。 このように宮崎氏の信長に対するインテリジェンスはあまり精確とは言えないのですが、ここでさらにメルマガで触れられている「馬揃え」と「譲位」の問題を取り上げてみたいと思います。 今谷明氏の『信長と天皇』以来、信長の天皇に対する態度を考える上で、常に挙げられる論点が、この「馬揃え」と「譲位」にくわえて「三職推任」の問題です。 「馬揃え」は 信長が安土次いで京で挙行した軍事パレード、「譲位」は信長が正親町天皇に譲位を勧めた事、「三職推任」は信長の官職推任問題です。 今谷氏は、信長が天皇という存在を抹殺したい衝動に常に駆られていた、とのモチーフで、この研究書を書いておられますが、一度読んだだけでは彼の仕込んだ偏見〈モチーフ〉とその判断基準によって選択引用された史料に騙されてしまいそうになりますが、もう一度読むと、彼の引用している史料や挙げている事実が、彼のモチーフと矛盾し破綻をきたしていることに気づきます。 彼は信長と天皇という存在を対立関係と見ていますが、たしかに一部意見が対立するところはあっても(対仏教政策とその裏返しとしての対キリスト教政策)、基本的協調関係が持続したことは疑いようがありません。 これは何度も信長が包囲網を形成され、窮地に立たされても変わりませんでした。朝廷は常に信長の側に立ち続けたのです。 信長が「天主」として「天子」である天皇より自己を上に位置づけていたのは思想的に間違いないと思いますが、少なくとも両者の関係は破綻することはなかったのです。 今谷氏が挙げた三つの論点は相互に絡み合っていて、ここで検証する余裕はありませんが、簡単なところで一つだけ指摘しておくと、「馬揃え」は朝廷を威嚇するための軍事パレードなどではありません。これは断言できます。 できれば『信長公記』の記述を一度実際に読んだいただきたいのですが、入手しやすい角川文庫版『信長公記』を挙げておくと、巻十四冒頭部分(337〜347頁)にその事情が詳細に述べられています。 この、信長の家臣である太田牛一が自ら体験し、記録したところの「馬揃え」を素直に読めば、馬にまたがった侍連中も、それを見た天皇をはじめとする公家たちも、趣向を凝らした衣装を着飾って、共に楽しむ、言わば平和の祭典として行われたのであり、それを見た群衆もこの珍しい催しを非常に楽しんだのでした。フロイスが記すところでは、七百人の武将が集合し、見物人は二十万に近かったといいます。 争いに倦んだ戦国時代の人々が、たかが威嚇目的の軍事パレードに、当時の人口から見てちょっと信じられないような数の群集が集まった、というのはにわかに信じがたいことではありませんか。 威嚇目的だとこじつける人は、実は、正親町天皇が「馬揃え」の後、信長のもとに勅使を遣わせて、謝意を伝え、何と、もう一度見たい、といい出したことをどう捉えているのでしょうか。信長はこの希望に応え、数日後、もう一度別の趣向で「馬揃え」を行わせて、京の人々を貴賤問わず楽しませています。 これは両者の良好な関係がなければあり得ないことで、京市民の信長に対する支持がなければこのような盛大な祭典を挙行することはできなかったでしょう。 だからでしょう、今谷氏によれば、正親町天皇は安土に戻った信長に上臈局を遣わせて、左大臣への推任を行ったのです。しかし、信長はいったんは謝絶しています。 筆者の結論を端折って述べれば、信長はこの新趣向の天覧の祭典を、いまだ彼の統制に服さぬ地域を含む、日本全国に対する平和の福音として行ったのであり、「譲位」もその延長線上で考えるべきだ、ということになります。 すなわち天正元年に始まった正親町天皇に対する「譲位」の勧めは、信長によって拓かれる新しい時代の福音となる、重要な祭典と位置付けられていた、ということです。 正親町天皇は天正元年の時点で五十七歳。人生五十年の時代としてはすでに高齢で、誠仁親王はjこの時二十二歳でしたから、「譲位」はこの時点で決して不自然ではありません。むしろ遅すぎるぐらいです。 「譲位」をするにはその前に、上皇となってからの御住居である仙洞御所の造営が必要です。当時の御所ですら信長によって数年かけて再興再建されたもので(足利将軍の居城は数か月の突貫工事だった)、仙洞御所の造営も信長の献金によってしか成し得ないのです。 もちろん、われわれも今上陛下の御譲位によって来年から目にすることになるであろう、「譲位」に伴う皇太子の天皇への即位式、そして大嘗祭は、信長の主催する所になります。これも絶えて久しかった平和の祭典として盛大に行われることになるのです。 そもそも人質にしたと言われる誠仁親王に、信長が自身の京滞在中の居城として造営した二条城を献上した時も、引っ越しは盛大な祭りとして行われたのです。 信長が天皇を利用することしか考えていなかったとする陳腐な見方は、おそらく彼の足利義昭に対する態度の延長線で考えているからでしょう。 信長は義昭を奉じて入京し、将軍家を再興しましたが、それは伝統的権威の復興こそ、天下復興への近道だと、彼が考えていたからでしょう。 しかし、義昭は私腹を肥やす事と権力の拡張にしか関心を持たない、ろくな人物ではなかったから、様々な確執の後、追放せざるを得なかった。そういうことではなかったかと思います。 これもまた、彼が天下一統を絶対正義と考えていたことから必然的にこうならざるを得なかったのだと思います。 一方、皇室はこの天下一統事業の障害どころか、精神的支持者であり、協力者であり続けたからこそ、信長も天下一統事業においてあだや疎かには出来なかったのでしょう。いや、むしろ大事に扱ったと言っていい。 彼は最晩年の天正十年になっても、伊勢神宮の請願により式年遷宮を実現させるべく、費用として、神宮からの千貫の求めに対して三千貫を寄進しています。 まあ簡単にですが、信長を陳腐な権力の亡者(ニヒリスト)と見ていてはこれらの、現代の常識を超え、インテリジェンスの枠に収まりきらない信長の行動の数々を決して理解することはできないのです。それは信長の人物像に対するモチーフがそもそもからして間違っているからです。また、当時は殺伐とした戦国時代であった、という時代背景を決して忘れてはならないでしょう。 彼はそういった当時の荒廃殺伐とした人心を「総見」し、「天主」という絶対神の下で一統を達成しようとしたのです。それに挑戦する宗教勢力が弾圧されたのも当然の成り行きであったでしょう。 一方の明智光秀の人物像、そして謀叛の動機ですが、確かな資料が少なく、断言はできませんが、おそらく光秀に信長に対する怨恨はあったでしょう。 謀叛を起こすほどの怨恨ではなかったでしょうが、供も連れず本能寺に宿泊していて、しかも新月の闇夜という千載一遇の機会に、腹心の斎藤利三に焚きつけられて、謀叛に踏み切った、というのが真相に近いように思われます。 確かに彼は、変の直後、京童に対し、信長は殷の紂王だから討った、と宣伝したといいますが、前日まで謀叛を企んでいたとは考えられない手紙が残されていることからも、義挙としてあらかじめ準備をしていたとは到底考えられず、大義名分は跡付けであったとされても仕方ないと思います。 何より、筆者は、彼が正統を護るために起ち上がったのだとするなら、なぜ盟友である細川幽斎のような人物に、その大義を説いて、義挙に加わることを勧めなかったのか、腑に落ちないのです。 光秀は幽斎への協力要請の手紙で、利で釣ろうとしかしていないのです。これはむしろ彼の発想をよく表わしていると言えないでしょうか。 光秀は以前、この幽斎に仕えて出頭した人物で、いち早く義昭を見限って、信長につき、その才能を愛された人物です。 幽斎が落剥の将軍義輝に仕えて朽木谷に滞在していた頃、神社の灯明の油を盗んでまで、夜学に励んでいたことはよく知られていますが、古今伝授を受けるなど、和漢の学問に通じていた人物です。 実母は朝廷における儒学の正統である明経博士清原家の中でも名儒の誉れ高い清原宣賢の娘で、幽斎は幼少の頃、この祖父に学び、長じてからは清原国賢(宣賢のひ孫)に学んだといいます。 宣賢は吉田神道の創始者である兼倶の三男で、幽斎は当時神道の主流をなしていた吉田神道の近くにもいたことになります。 筆者は幽斎の学問教養こそ本物であり、正統の保持者であって、光秀は教養はあっても、それはあくまでも教養主義にとどまり、その学問は本物ではなかったかと思っています。つまり、贋物ということです。 本能寺の変直後における両者のやり取りの中にそれは端無くも表れているのではないでしょうか。 まあ、以上のような事を拙著『十人の侍(上)』の織田信長の章でもっと詳細に検証したのですが、信長は、耳学問ではありましたが、戦陣の合間を縫って、当代一流の人物たちから学んだのであり、仏教を早くに潜り抜け、次いで禅宗から儒学、そして吉田神道、キリスト教と潜り抜け、信長包囲網の艱難を乗り越える過程で自己の「天主=総見絶対神」思想を確立していったのであり、これを陳腐な野心家と見るのは大きな間違いであると思います。 幽斎の学問教養は、最もよく知るはずの光秀ではなく、信長、そしてその継承者たる秀吉、家康を天下人として選びました。 光秀が何を想い、何をしたのか、その詮索は人に任せるとして、文明史的視点に立って、戦国という、皇室の衰微と地方における割拠によって特徴づけられる時代のパラダイムを大きく変えた人物を、善悪の彼岸に立って、正視し、その事業を捉え直す事こそ、安全保障に深くかかわる国際情勢に関する「インテリジェンス(諜報)」とは別趣の、自己の歴史に対する真の「インテリジェンス(知性)」と言えるのではないでしょうか。 その真の「インテリジェンス(知性)」をまず固めることこそ、「インテリジェンス(諜報)」を確固たるものにするのではないでしょうか。 その「インテリジェンス」によってはじめて、理解の上に立った、みのり豊かな批判も可能であり、歴史はわれわれの内部で躍動し、生動する記憶となりうる。 それはわれわれの現在を、そして、未来を活発なものにしてくれるはずです。 |
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事々しい解説は省くが、『中庸』を引用して「道」について尋ねた家康に、羅山は、要するに「中(中庸)」とは物事それぞれにあるもので、物事それぞれの「理」を得ることでそれは達することができる。放伐を行った湯武は「中」にして「権」(権道…臨機応変の道)であり、天下を私すためではなく、民を救うためにこの挙を行ったのであって、それは天下の人心が帰すか否か、すなわち天命か否かで判別される。
家康が大坂に対し道理に則った対応を心掛けてきたことは既に触れてきたところであるが、その結果、天下の人心はほぼ彼に帰服していった。 ここで歴史としての武王による放伐を、司馬遷の『史記』を紐解くことによって見てみよう。 文王の位を継いで九年、武王は天下に号令し、紂王討伐の軍を興した。孟津という土地に会した諸侯は八百に上ったという。諸侯は口々に、紂伐つべし、と言ったが、武王は「なんじ、未だ天命を知らず、未だ可ならざるなり」と言って、解散を命じた。 二年後、紂の暴虐はさらに甚だしくなり、これを見かねた武王は、再び討伐の軍を興す。武王は衆庶に告げて、曰く「今、殷王・紂、乃ち其の婦人の言を用い、自ら天に絶ち、…(中略)…故に今、予、発し、維(こ)れ共(つつし)みて天の罰を行う。勉めよや夫子。再びすべからず、三たびすべからず」と。 武王はここに至ってようやく紂王討伐を天命としたのである。 この歴史、というより伝説を大坂の陣に重ね合わせることも可能かと思う。 家康は冬の陣において、敵城塞の堅固さを見て、天命未だ知らず、可ならざるなり、と和睦を模索し、再度の逆心を見て、天罰を行った。それが夏の陣ということだ。 彼が豊臣家の滅亡を「天道応報の理」といったとき、豊臣家という存在の「理」は天下の簒奪者というところにあり、だからこそ、一代限りで亡びた。ならばその思想の背景には、簒奪者を滅ぼした自分は天道を執行したのであり、天命を受けているとの自負があった、ということだ。 もちろん繰返しになるが、これは彼が最初から豊臣家の滅亡を目指していたということではない。天下人としての豊臣家は否定したが、豊臣家の存続の為、天下の政道に差しさわりのない範囲で、最大限の努力をしてきたのである。それは、以上の文脈で言えば、豊臣家は一大名として存続し、秀頼は将軍秀忠の聟として、五倫の一つである父子親あり、を誠意を以て勉めよ。それが豊臣家に内在する理であり、秀頼の行うべき理である。道理である。家康が大蔵卿局との対面で、秀頼母子に伝えたかったことはそれである。 そもそも「中」(中庸・中行・中道)の徳を奨励したのは孔子である。 『孟子』もまたこれを受け継いでいだ。 『中庸』は五経の一つ『礼記』の中の一篇で、孔子の孫の子思の言葉とされているが、後世の誰かが彼に仮託して書いたものだ。 『論語』で孔子は「中」について次のような言葉を残している。 「子曰く、中庸の徳たるや、それ至れるかな。民鮮(すく)なきこと久し。」(「雍也」) 「中行を得てこれに与(くみ)せずんば、必ずや狂狷(きょうけん)か。狂者は進みて取り、狷者は為さざる所あり。」(「子路」) 「中庸」は至徳である。だが、至徳ゆえに中庸の君子は得がたい。ゆえにその次として、進取の気性に富む狂者、ついで堅固で守るところある狷者と共に事をなそう。孔子はこう言っている。 「中庸」「中道」という言葉は未だに使われることはあるが、その深長なる意味は失せてしまっていることがほとんどである。何か、間を取った無難な意見と勘違いされているのだ。原義を見失ったこれらの言葉の使われ方を見ていると、昔見た「一休さん」の頓智話を思い出してしまう。 このはし(橋)渡るべからず、とおふれ書きがしてある橋がある。 これ見た一休さんは堂々と真ん中を通る。 それを咎めた人に一休さんはこう答える。 このはし(端)渡るべからず、と書いてあるでしょう。だから真ん中を渡ったのです。 屁理屈をこねて、橋の真ん中を通りゃ、そりゃ安全だ。 自ら「中道」を宣言して、無難に世渡りしている輩を見ていると、子供向けアニメの頓智レベルで、子供だましですよ、と言いたくなる。保身の感覚が透けて見えるのだ。本来の「中道」とは厳しい実践を伴うものであり、狂気と理性の困難な平衡の上に成り立つものだ。そこには当然危険もある。いや、むしろ危機に直面してこそ、真価が問われるのである。 だからこそ、孔子は至徳とした。 彼らの言う「中道」とはむしろ、孔子が徳の賊とまで言って嫌った「郷原」の所業である。 もちろん、家康は「中」というものが困難な道であることは知っていたであろう。少なくとも、林羅山との対話によって、それを改めて自覚したはずである。 『駿府記』によれば、慶長十九年三月、家康は五山の僧を召して、『論語』の「政を為すに徳を以てすれば、たとえば北辰(北極星)のその所にいて衆星これにむかうが如し」の題を与えて、文章を書かせている。 その結末は『玉音抄』という書物に次のように記録されている。 (五山の僧が)いずれも、「只今天下静謐なること、北辰の如し、萬々年」などとの言書き申し候を、権現様(家康)ご覧なられ、これは面白からぬ文法なり。北辰の動かずして衆星これにむかうが如きに徳を以て天下を治める、その徳とは何様なることと言いたきかなと、御意なられ候。 つまり、家康の治世により天下が治まっていることを寿いだ、学問僧たちの毒にも薬にもならぬ文章に対し、家康はけちをつけたのだ。知りたいのは、どのような徳を言うのかということだ、と。 これは天下に太平をもたらすという、天下人の立場での実践が念頭に無ければ、出て来ない関心だろう。もっといえば、家康の中には、「中」こそそれではないか、という仮の回答が用意されていなかっただろうか。 晩年の彼の関心はどこまでも、いまだ日本各地でくすぶっている荒ぶる戦国の魂をいかに鎮めるかにあった。慶長十九年は大坂との緊張が高まって冬の陣が行なわれるまさにその年である。 彼は彼なりに、天下にある物事の「中」を求めて、それぞれの「理」を抽出し、それを行おうとした。それが、大坂城陥落後、彼が矢継ぎ早に発していったそれぞれの法度であったのだろう。 しかも、それは、道理に基づいて、天下の仕置きを行った頼朝、道理の推す所をまとめた貞永式目(関東御成敗式目)を発布した北条泰時以来の武家政治の伝統に則ったものでもあった。 大坂の陣は、それを行おうとして準備を進めている、まさにそのときに、鐘銘事件を契機として起きた突発的事件であった。だが彼はその事件にも、同様の態度、すなわち「中」の態度で臨んだのである。 その家康の「中」なる態度こそ、外的脅威の存在しない条件下で、二百五十年の安定政権を作り上げた基ではなかっただろうか。そして同じ精神の伝統は、外的脅威にさらされた幕末維新に再び、新たな精神秩序の基となるのである。 |
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既に慶長十七年頃、家康は林羅山(道春)と湯武放伐論について議論している。
林の記すところによれば、 (幕府…家康)道春に謂ひて曰く 「方今、大明(明国)もまた道あるか。卿は以て如何となす。」 曰く 「これあり。春(道春)、目未だこれを見ずといへども、書においてこれを知る。それ、道は窈窈冥冥(ようようめいめい・・・奥深いさま)にあらずして、君臣・父子・男女・長幼・交友の間にあり。今や大明、閭巷より郡県より州府に至るまで、処処に学校あらざることなし。皆、人倫を教ふる所以にして、人心を正し風俗を善くするを以て要となす。然れば則ち果して道あるか。」 ここにおいて幕下、色を変じて、他を言ふ。春もまた言さず。 (幕府)道春に謂ひて曰く 「道は古今行はれず。故に『中庸』に〔能くすべからず〕〔道はそれ行はれざらんか〕と。それ、卿、以て如何とす。」 春、対へて曰く 「道は行はるべし。『中庸』に云ふところは、蓋し孔子、時の君の暗うして道を行はれざるを嘆きて言ふものなり。道は実に行はるべからざるものの謂にあらず。六経に云ふところは、この類少なからず。独り『中庸』のみにあらず。」 (幕府)曰く 「中とは何ぞや。」 (道春)曰く 「中は把(とら)へ難し。一尺の中は一丈の中にあらず。一座の中は一家の中にあらず。一国の中は天下の中にあらず。物は各々中あり。その理を得る者は必ず中なり。故に初学の者は、中を知らんと欲せば、則ち理を知らずんば、必ず得ず。ここを以て〔中は理のみ〕とは古今の格言なり。」 (一説に)曰く 「中と権と皆善悪あり。湯武臣を以て君を伐つ。此れ悪と雖も善、所謂逆に取り順に守るなり。故に不善不悪は中の極なり。」 曰く 「春の意はこれに異なれり。願はくは辞を尽すことを得んや。春は以為(おも)へらく、中は善なり。一毫の悪なし。物各々理を得、事皆義に適ふは中なり。善を善としてこれを用ひ、悪を悪としてこれを去るもまた中なり。是非を知り、邪正を分つもまた中なり。湯武は天に順(したが)ひ人に応じ、未だ嘗て毛頭ばかりの私欲あらず。天下の人のために巨悪を除く。あに、悪といへども善なることあらんや。故に湯武は中なり、権なり。莽(王莽)・操(曹操)におけるがごときはすなわち賊なり。また逆に取り、順に守るは、すなわち譎奇権謀(けつきけんぼう)なり。聖人の共に権(はか)るべからざるの謂いにあらず。かつ、これを詳らかにせんと欲せば、すなわち布いて方冊(書物)にあり。他人の読むところと春の申すところとは、以て同じとなすか、以て異なりとなすか。古人は邪説の先ず入るを以て戒めとなす。良(まこと)に以(ゆえ)あるかな。ああ、千言万語は、元はただ理の一字に過ぎず。ここにおいてか、曰く、理理、遂に契(かな)はずと。」 …(中略)・・・ 幕府又曰く 「湯武の征伐は権か。」 春(道春)対えて曰く 「君、薬を好む。請う、薬を以て喩(たと)えん。温を以て寒を治し、寒を以て熱を治し、而してその疾已むはこれ常なり。熱を以て熱を治し、寒を以て寒を治す、これを反治という。これ要するに、人を活かすのみ。これ非常なり。これ先儒の権の譬えなり。湯武の挙は天下を私せず、ただ民を救うにあるのみ。」 幕府曰く 「良医にあらずんば、反治を如何せん。ただ、恐らくは、人を殺さんのみ。」 春、対へて曰く 「然り。上、桀・紂ならず、下、湯・武ならずんば、すなわち弑逆の大罪、天地も容るること能はず。世人、これを以て口実となす。いはゆる淫夫、柳下恵を学ぶ者なり。ただ天下の人心帰して君となり、帰さずして一夫となる。」 (『日本思想体系 藤原惺窩 林羅山』「羅山先生文集」) 朱子学者の面目躍如である。 曲学阿世の御用学者というのが林羅山のイメージだが、彼の主張を読むと決してそうではなかったことが分る。もちろんそれは彼の見識に不備・欠陥がなかったということではないが、家康が信頼を寄せるに値する学者だったことは確かだろう。家康の彼に対する信頼は確かなもので、大坂夏の陣を終えて、戦後処理、そして諸法度の発布を終えて、八月に駿府に帰還するに際して、次のようなエピソードがあったことでもわかるだろう。 羅山は記している。 「去歳(元和元年)八月四日、大相国(家康を指す)、二条の御所(二条城)を出御これあり、翌日此所(ここ・・・水口を指す)に著(つか)せ給ふ。其日より打続き、雨ふりければ、三日逗留ましましけるに、夜更(ふく)るまで御前に余もはべりし時、「学而」の篇(『論語』)を読めと仰ければ、跪きひらきはんべりしに、「能其力竭 能其身致(能く其の力を竭くし、能く其の身を致す)」とある所を自ら御読みこれあり、「能」という字に心を尽すべきなり。なをざりにては忠孝たちがたし。親には力をつくし、君には身を致すといつぱ、何れがまされるといふ評論あるべし、と仰せけるに、余もかの趙苞(後漢の忠臣)が故事を引て、答へ奉りしが、只今わすれがたく、坐(そぞ)ろに袂をしぼり侍る。」(『林道春丙辰紀行』) 彼はその記室の才を以て家康に仕えたのであって、決して阿諛追従によって仕えたのではなかったのだ。忠義心と阿諛追従は違う。 家康が羅山の師・藤原惺窩に出会ったのは、朝鮮の役の際、肥前名護屋に滞在していた時の事。これを機会に、文禄二年、彼を江戸に招いて、『大学』を講じさせ、『貞観政要』を読ませた。さらに慶長五年、家康の京都滞在中に再び召して、『漢書』(儒教的視点から書かれた漢の歴史書)『一七史』(南宋の儒者呂東莱の著、詳細不明)を読ませた。この時、惺窩は初めて道服というものを着て、公の場に出ている。それまで禅宗に付属する学問のような扱いであった儒学(宋学)の独立を示したのである。 同じ頃、京において、朱子集注『論語』を講じて、門人を集めた若者がいる。羅山である。 これに、朝廷の伝統の立場から、難癖をつけたのが、大外記・明経博士の清原秀賢であった。清原家は清少納言を輩出した明法家の名門である。代々儒道を以て家業としてきた。いわば朝廷の儒学の伝統を頑なに守り続けてきた家系であったわけだが、その反面、一子相伝の秘法としてきたために、儒学の一般への普及を妨げてきたことにもなる。 秀賢は羅山の才を忌み、朝廷に訴えた。 曰く、古より勅許がなければ、(朱子の)新注を講ずることはできない、朝廷でさえそうなのだから、地下においてはなおさらである、処罰して欲しい、と。 時の武家伝奏はこのことを家康に伝えた。 家康はこれを聞いて、笑い、講ずる者こそ奇特というべきである、訴えたものは小さきことをいうものかな、と言った。秀賢はこれを伝え聞いて、恥じ、再び訴えることはなかった。そして、慶長十年、家康は羅山を召した。(『武徳大成記』要約) 羅山を京より召し出し、駿府に屋敷を与えたのは慶長十三年の事。 その後の諮問の中で、先の『中庸』及び「湯武放伐」をめぐる問答はなされたのだ。 ここまでたどり着いて、ようやく、晩年の家康の政治がどのような思想に基づいて為されたか、得心がいったような気がする。後世の識者は、家康の行いに権道ばかりを見て、最も肝心な「中」道の心掛けを見落としてきたのだ。 |







