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『皇室と論語』を完結させて、数カ月たちましたが、新たな知見も得たので少し捕捉しておきます。

第1回目の記事「パンドラの筐―ヒトラーの予言」では、ヒトラーの遺言の存在と日本に関する予言について触れ、そこから飛び出した災厄が今や、世界唯一の国民国家としての日本を解体し尽くそうとしていることを指摘しました。

 その後、ユダヤ人というものを少しでも理解したいと思い、勉強したのですが、いくつかの驚愕の事実を知ったので、紹介します。

 まずは「ホロコースト」について。

 「ヒトラーの遺言」を読んで、ひょっとしたら「ホロコースト」はあくまでもプロパガンダであって、なかったかもしれないと思うようになりましたが、ホロコースト論争を検証した動画の存在を知り、じっくり視聴してみました。

【戦後最大のタブー!「ホロコースト論争」完全解説】で検索すれば出てきます。

本編20、番外編いくつかの、優に本一冊分以上の、これまでの学術的論争を整理した内容ですが、本編20を通観して、「ホロコースト」自体が捏造であったことが考証されています。
冒頭で最初に知って驚かされるのは、有名なアウシュビッツ収容所のガス室が戦後に作られたものであったことです。また、ナチスの絶滅政策に関する一次史料が存在しないことも驚きで、この時点で「南京大虐殺」「従軍慰安婦」「徴用工」と同じ構造を持つ問題であると直観しました。

読者の皆さんには実際に動画を見て判断していただきたいのですが、筆者は史料の扱いも論理も堅実な「なかった」派の主張に軍配を上げます。今後、確実な一次史料を提示できなければ、「あった」派の主張は学術論争における不利を覆すことはできないでしょう。
ところが、今のところは「勝てば官軍」で、勝者であるユダヤ人の一握りの権力者グループが政治とマスコミを通じての宣伝戦で勝利を収めているのが現状で、「ホロコーストなかった」派の研究は発表を法律で禁じられているということがすべてを物語っているように感じられます。
ドイツ人は精神的に二度と起ち上がることが出来ないように、政治的に完膚なまでに叩きのめされているのが現状なのでしょうが、敗戦国日本も他人事ではありません。まだまだ「南京大虐殺」「従軍慰安婦」などの問題で、よくは知らないが、何となく火のないところに煙は立たない、日本軍は悪いことをしたのだろう、と思っている人は多いでしょう。
被害者であるはずのユダヤ人が勝者であるというのは意外かもしれませんが、第一次、第二次世界大戦を経て、金融による世界支配を達成し、マスコミにおけるユダヤ人批判を完全に封印し、イスラエルを建国したユダヤ人は、二十世紀を通じて最も成功した民族といえるでしょう。もちろんユダヤ人といっても一枚岩ではなく、いろいろな勢力、階層があるので、彼らをよく知る必要があります。

 その点、保守思想家として有名なギルバート・チェスタトンの盟友ヒレア・ベロックが西欧におけるユダヤ人問題解決のために書いた『ユダヤ人 なぜ、摩擦が生まれるのか』という本は参考になります。
 この本は、ユダヤ人と近い関係にあり、どちらかと言えば親ユダヤ傾向のあるフランス人である彼が問題解決のため、公正な視点で真摯に取り組んだ著作で、そこでは問題の本質が深く洞察されています。書かれたのはロシアで革命の結果ソ連政府が成立した一九二二年で、この著では早くも、西欧ではこの革命が「ユダヤ人革命」と呼ばれていたことも、革命後、ロンドンやパリのユダヤ人の店でロマノフ王家の宝物が売りに出されていたことも指摘されています。 
 ベロックは西欧の有力者がユダヤ人の持つ財力に媚びるという態度の問題点も指摘していますが、ユダヤ人側の問題点としては、彼らの西欧キリスト文明に対する優越意識、そしてその秘密主義を挙げています。

共産主義革命とされるロシア革命は当時西欧のマスコミでは「ユダヤ革命」と報じられるほど、これを指導した層はユダヤ人で占められていました。マルクスも、レーニンも、トロツキーもみなユダヤ人でした。ロシア革命成立時、ボルシェビキの80%以上がユダヤ人で占められていました。
国際共産主義運動とは、世界規模でのユダヤ人解放運動だったわけです。

遡って、フランス革命もユダヤ人解放のための革命だったとしているのが、ユダヤ人のモルデカイ・モーゼという人物です。この人が書いた『あるユダヤ人の懺悔 日本人に謝りたい』という書籍が最近復刻されましたが、このロシア革命やアメリカによる日本占領政策の裏も表も知る人物が懺悔として告白していることは驚く事ばかりです。
フランス革命の理論的主柱となったルソーはユダヤ人であったこと、アメリカ大統領ウィルソンが提唱した国際連盟がユダヤ人の世界政府を意図するものであったこと、ノーベル賞もまたユダヤ人のためのものであったことが語られています。戦前の憲法学者・美濃部達吉の「天皇機関説」がユダヤ人憲法学者ゲオルグ・イエネリックの影響を受けたものであったことも明らかにされています。
もちろんマルクスがユダヤ人で、ロシア革命がユダヤ解放運動であったことも、彼は参加者としての立場で語っています。彼は非ユダヤ人であるスターリンと反ユダヤであるヒトラーが結んだ独ソ不可侵条約を、ユダヤ人抑圧政策であると看破して、ソ連を見限り、やがてアメリカに亡命してニューディール派として活躍、戦時中から日本の戦後処理の立案に加わり、戦後数十回来日して、日本を深く知るに及んでユダヤ人の日本に対して為した行為を反省するに至った、という人物です。
日本国憲法は、彼らが作ったワイマール憲法の引き写しで、彼らが作ったということまで書いています。
彼は戦後、日本文化を研究し、そこで日本の皇室が国民と利害が対立しない世界でも唯一無二の王家であり、ユダヤ民族が理想としてきたものであることを深く理解し、それを破壊しようとした彼らの行為をいたく恥じた、というのです。

この原著が出版されたのは1979年で、戦後の日本人論流行の嚆矢となったベスト・セラー『ユダヤ人と日本人』(イザヤ・ベンダサン著、1970年【昭和45年】出版。山本七平がユダヤ人とのディスカッションを経て執筆したとされる)を浅薄であると批判しています。
ある意味、偽装ユダヤ人が書いて、一世を風靡した「ユダヤ人と日本人」を、本物のユダヤ知識人が批判したのがこの書である、ということになります。あまりに浅薄な議論が偽善とまやかしに満ちた戦後日本社会に横行して、戦前の日本の本当の凄さをよく知るようになったモーゼ氏は見るに見かねた、という面があったにちがいありません。
現にモーゼ氏はベンダサンへの批判で、この衝撃の書を締めくくっています。

この書がほとんど黙殺に等しい扱いを受けた、ということ自体が、戦後日本社会における日本人論が浅薄なままで終わったということを表しているのです。
現在、ユダヤ人問題に詳しい日本史家の田中英道氏や元外交官の馬渕睦夫氏はこの書を早くから知っていて、今回の復刊にも関わられたようで、彼らの研究にはそれらの見識が生かされています。

この書は『皇室と論語』を書き終えてから出合いましたが、概ね筆者が二十年以上かけての知識と思考の積み重ねでおぼろげながらわかってきたことが、当事者の言葉で語られ、内幕を暴露されているということで、筆者にとっては単なる陰謀論でかたづけられる内容ではありません。

世界的規模、つまり、あまりにグローバルな話で、今一つ理解しづらいかもしれませんが、筆者の理解を大まかに述べておきます。
ローマ帝国時代のディアスポラ以来、祖国を持たず、各国で差別迫害を受けながらも、世界規模で金融と資源と情報を支配する力をつけたユダヤ人は、律法(いわゆる旧約聖書)の教えにあるように、自分たちが神から選ばれた選民であり、世界中の土地と富は不当に収奪された、本来なら自分たちのものであるとの考えに基づき、それを取り戻すことに対し、何ら良心の呵責を感じることなく、反撃に出た。西欧社会におけるマイノリティであるユダヤ人は自由・平等・同胞愛をスローガンに、被抑圧者の横の連帯を訴えて、君主制という縦の関係を覆し、君主と貴族の財産を奪った。それがフランス革命です。
自由と平等は本来矛盾をはらんだ概念で、それを調整するのが民主主義という制度で、そこに彼らが金融と司法とマスコミという持てる力を活用して干渉する余地が生ずるのです。一方で、自由を抑圧することでそれを達成しようとしたのが、無神論のユダヤ人が主導した国際共産主義運動です。彼らは君主制国家では内部では階級間の対立を煽り、外国との戦争を通じて体制を揺るがし、革命を成就しようと画策しました。
彼らは英国やアメリカの金融街、すなわちシティとウォール・ストリートを策源地とし、彼らにとって有能だが下等な民族を使役して、自らの手を汚さずに目的を達成していきます。
特に有用だったのが民主主義を採用している西洋国家で、同じ聖書(旧約聖書)を基盤とするキリスト教徒たちでした。
彼らは西洋社会においては出自を隠し、溶け込むことが出来るので、そこに浸透することが出来ましたが、最後の国民国家である日本だけはそれが通用しません。そこで彼らは容姿の似ている民族を使嗾することで、目的を達成しようと考え、白羽の矢を立てたのが辛亥革命以来、内乱状態にあったシナ人であり、日本の敗戦後は朝鮮民族だったのです。
彼らはシナにおいて蒋介石率いる国民党と毛沢東の共産党の双方に援助し、巧みに操ることで日本を泥沼の戦争に引きずり込んでいきました。アメリカはユダヤの出自を持つエージェントと呼ばれるキリスト教徒、フランクリン・ルーズベルト大統領がユダヤ人スタッフを重用して日本を戦争に追い込んでいきました。
西欧で反ユダヤを掲げるナチスに対し同じ役割を担ったのが、シティとの関係が深いチャーチルでした。
彼らは第一次、第二次の世界大戦に勝利し、壮大な世界制覇の野望を達成しました。
国連常任理事国が、英米の民主制国家に加えて、ソ連と中華人民共和国という非民主制国家であったことの謎は、この視点からでしか解けません。
その後、ドイツ人と日本人は勝者である彼らにとって都合のよい歴史観に洗脳されたまま、現在に至っています。

終戦の淵源として、七十四回目の終戦の日に、以上のことを明らかにしておきたいと思います。
本稿は日本の至宝である皇室の伝統が、『論語』という、「賢者の石」ならぬ、言わば「賢者の杖」に支えられて、これまでの困難にして高尚な長い道のりを歩んできたことを明らかにしてきました。國體はこの賢者の杖によって成長を遂げてきたのです。
 現代的思考になじまぬ内容で、読者にとって難解であったであろうことは承知していますが、今明らかにしておかなければ、いずれこの道は失われてしまうのではないか、その危惧の念が筆者にこのエッセイを書かせてきました。

 「令和」という新時代を迎えて、われわれ日本人は恐らく重大な岐路に立たされているであろうことを多くの人々は感じておられるでしょう。
 この稿を書き始めた平成三十年末ごろから、筆者の日本の未来に関する危機感は高じる一方でした。とりわけ、皇室の伝統存続に対する危機感は大変深刻で、これまで百二十六代にわたり受け継がれてきた男系皇統断絶を意味する女系天皇誕生に向けた動きが、御代替わりに際して、政官財およびマスコミにおいて活発化していることが原因でした。
 今でも「週刊文春」や「週刊新潮」における秋篠宮家バッシングは常軌を逸した形で行われていますが、これは愛子内親王への直系継承、すなわち女性天皇の誕生と次代における女系継承に向けての布石となる世論工作なのです。当然その背後には、プロローグで述べた勢力の暗躍があると思われるのです。

 今回の御譲位のきっかけとなったのは上皇陛下が平成二十八年八月八日、国民に向けて発表されたビデオメッセージでした。内容は、ビデオメッセージというような軽いものではなく、われわれ国民にとって伝統的な詔(みことのり)に匹敵する重みを持つと言ってもよいものでした。
 視聴当時、筆者が妙に引っかかったのは、メッセージを、「個人として」の考えと前置きした上で、お話になられたことでした。公(おおやけ)の存在として無私であることを宿命づけられてきたのが皇室であると受け止めてきた筆者としては、天皇陛下御自身が「個人として」という御言葉を使用されること自体が異様に映ったのです。
 そして、皇室の方々の公式の御発言と、皇室にまつわる不確かな情報を耳にするうち、畏れ多いことながら、陛下は長年にわたる御務めの中で、日本国憲法に魂を吸いとられておいでではないか、そんな疑念が鎌首をもたげるようになったのです。
 しかし、「令和」への御代替わりに前後して、「和」の伝統について考えていた時、ふと「個人として」という御言葉は、天皇の国政に関する発言を禁止している日本国憲法に抵触せぬように配慮することで、敗戦以来、左右に分裂したままの国民世論の分断を防ぐためという「和」の大御心から出た御言葉ではなかったか、と思われたのです。そして、大嘗祭という秘儀の意義を考えた時、御即位の始めに大嘗祭を厳粛に執り行われ、毎年の新嘗祭を斎行して来られた陛下が、天津日嗣として天照大神の神霊を引き継がれ、全身全霊、無私でこれに取り組んでこられたはずの陛下が、本居宣長が「知ろしめす」の注釈で示した伝統的精神を受け継いでおられないはずがない、との確信に変わりました。すなわち、物を見るが如く、聞くが如く、食(を)すが如く、御身に受け入れ有(たも)つように、国を治め有つ、という伝統です。この君民同体という考えにおける君主とは、その人体を統一するところの心であり、精神であり、頭脳であり、首脳部ということになります。頭部はその人の本質、存在を象徴する最も重要な部位と言えるでしょう。
 この確信は最近、江崎道朗氏の近著『天皇家 百五十年の戦い 日本分裂を防いだ象徴の力』を読んでさらに確固たるものとなりました。

 公に奉仕し、無私であることを心がける人物の言葉を片言隻句で理解することが難しいのは、西郷隆盛を研究した時つくづく実感したものです。こういった公に一生を捧げた人物を理解するには、言葉だけでなく、行動も含めた思想全体を受け止めてみなければ理解できませんが、器のちっぽけなもの、イデオロギーにとらわれた偏狭にして小さな視野しか持たないものは、片言隻句と行動の一部を取り上げて、自己の立場に都合のいいように解釈し、プロパガンダとして利用します。
 皇室の方々の御言葉も同様で、御言葉のみならず、御行動も含めた思想全体を受け止めなければ、その御真意を、御深意を理解することはできません。
 先の「個人として」という言葉も、前後をよく読めば、われわれ私欲にまみれた一般人が「個人として」という言葉を使うのとは違って、公の規範である憲法に抵触せぬよう配慮しつつ、それをさらに超えた公としての伝統を背負われ、天皇という職分、言わば天職を宿命づけられた一人の人間として、という意味合いであることは明らかです。
 この天下を「知ろしめす」という御立場から忖度して次のことが言えるのではないでしょうか。憲法の誤った解釈から宮中祭祀の縮小を行ってきた宮内庁が、ゲスな週刊誌の悪辣な秋篠宮家バッシング報道にいかに不作為で、皇統断絶を意味する女系天皇誕生への道を開くことにいかに意欲的であっても、天皇御自身が、正統な皇位継承者である秋篠宮家を差し置いて、女性天皇誕生(愛子内親王の即位)に肯定的であるはずがない、と。ただ国論の分断を避けるため、決して口になさらないだけではないか、と。
 問題はこの国家国民の象徴たる皇室を支える日本の政治文化の著しい劣化衰退であって、今やほとんどの政治家と称される人々が、政事家ふぜいになりさがり、政治の本義「まつりごと」の重要性を理解し得なくなっているのが深刻な問題なのです。そもそも政治家とはそんなものなのだ、という大人ぶった常識は、認識の病が膏肓に入っている証拠です。

 メッセージを、一言一句削ることのできない金科玉条として、じっくりお読みいただければ、その大御心はおぼろげながらも理解できるようになるでしょう。繰り返し読むうち、それは、四海万国、天地の表裏をくまなく照らす日の光のように感じられる人もいるのではないでしょうか。その光は、日本国憲法という、国民を覆う灰色の雲を照らし出してさえいます。
 長く大きな歴史の視座に立つ筆者にとって、日本国憲法は西の空に沸き起こる白い入道雲のように映りますが、そうでない人にとっては頭上を覆う灰色の重苦しい雲のようなものです。メッセージは雲の合間から差し込んだ日光で、その光によって縁どられた雲はその輪郭を露わにするのです。
 そして、その光である大御心は新たに即位される今上陛下にも、「皇嗣殿下」(本来ならば皇太弟殿下)にも受け継がれているであろうことを筆者は疑いません。

 メッセージ全文を宮内庁ホームページより転載します。

「戦後70年という大きな節目を過ぎ,2年後には,平成30年を迎えます。
私も80を越え,体力の面などから様々な制約を覚えることもあり,ここ数年,天皇としての自らの歩みを振り返るとともに,この先の自分の在り方や務めにつき,思いを致すようになりました。
本日は,社会の高齢化が進む中,天皇もまた高齢となった場合,どのような在り方が望ましいか,天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,私が個人として,これまでに考えて来たことを話したいと思います。

即位以来,私は国事行為を行うと共に,日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を,日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として,これを守り続ける責任に深く思いを致し,更に日々新たになる日本と世界の中にあって,日本の皇室が,いかに伝統を現代に生かし,いきいきとして社会に内在し,人々の期待に応えていくかを考えつつ,今日に至っています。

そのような中,何年か前のことになりますが,2度の外科手術を受け,加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から,これから先,従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合,どのように身を処していくことが,国にとり,国民にとり,また,私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき,考えるようになりました。既に80を越え,幸いに健康であるとは申せ,次第に進む身体の衰えを考慮する時,これまでのように,全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが,難しくなるのではないかと案じています。

私が天皇の位についてから,ほぼ28年,この間(かん)私は,我が国における多くの喜びの時,また悲しみの時を,人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして,何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが,同時に事にあたっては,時として人々の傍らに立ち,その声に耳を傾け,思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に,国民統合の象徴としての役割を果たすためには,天皇が国民に,天皇という象徴の立場への理解を求めると共に,天皇もまた,自らのありように深く心し,国民に対する理解を深め,常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において,日本の各地,とりわけ遠隔の地や島々への旅も,私は天皇の象徴的行為として,大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め,これまで私が皇后と共に行(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は,国内のどこにおいても,その地域を愛し,その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ,私がこの認識をもって,天皇として大切な,国民を思い,国民のために祈るという務めを,人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは,幸せなことでした。

天皇の高齢化に伴う対処の仕方が,国事行為や,その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには,無理があろうと思われます。また,天皇が未成年であったり,重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には,天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし,この場合も,天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま,生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。
天皇が健康を損ない,深刻な状態に立ち至った場合,これまでにも見られたように,社会が停滞し,国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして,天皇の終焉に当たっては,重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き,その後喪儀(そうぎ)に関連する行事が,1年間続きます。その様々な行事と,新時代に関わる諸行事が同時に進行することから,行事に関わる人々,とりわけ残される家族は,非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが,胸に去来することもあります。

始めにも述べましたように,憲法の下(もと),天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で,このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ,これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり,相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう,そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく,安定的に続いていくことをひとえに念じ,ここに私の気持ちをお話しいたしました。
国民の理解を得られることを,切に願っています。」


 問題は国民がこの理解を怠り、大御心をそのまま受け止められなくなっていることではないでしょうか。本稿では、陛下の御言葉にあるように、天皇が象徴であり、国民統合の象徴であることの意味を、根源にまで遡って自分なりに考えてみました。賢者の杖を失った現代日本人のどれぐらいに人びとの理解と共感を得ることが出来たか、心許ありませんが、一国民として数年にわたって考えてきたことをまとめ、さらに突き詰めてみたつもりです。

 そして、そこまで象徴というものの意味を考えた時、皇室が英国流立憲君主というものを御手本にされるということを是とするなら、憲法改正を論議するに際して、いっそのこと、単一の憲法典というものを持たない英国の國體に倣って、成立の経緯から見て無効な日本国憲法を破棄し、國體を象徴する歴代天皇の詔勅の集成を以て憲法と為す、あるいはこれらを以て憲法前文と規定する、それくらいの根源的な態度を持って臨んでもいいのではないか。つまり、王政復古であり、維新としての改憲ということです。
 なぜ、歴代天皇の詔勅を憲法に定めるべきだと考えたかは、それらが、國體が自ずと顕現している金科玉条であるからにほかなりません。思い出していただきたいのは、成文憲法である大日本帝国憲法は、制定された明治からの世代交代により國體が見失われたことによって解釈、そしてそれに基づく運用を誤った結果、国運の衰退を招来してしまったことです。現在の日本もまた、大変出自の怪しい憲法の、國體観を見失ったエリートたちによる、さらに誤った解釈、誤った運用により、国運の衰退を招いて今日に至っていますが、今や更なる困難に直面して、取り返しのつかない過ちを再び犯そうとしているのではないでしょうか。


【『皇室と論語』 終わり】

「からごころ」による大嘗祭の考察は、要するに、これを創始し、伝統として保持してきた人々の中に、「からごころ」に引かれ、天子の大祭である「郊社」「禘嘗」の祭を誠実に執り行うことによって、その本義を明らかにして、掌を示(み)るように国を治めることが期待されたように、代始めの大嘗祭には、新たに即位された天皇が天津御神、なかんづく天照大神を祭る秘儀を、誠意を以て執り行うことによって、掌を示るように天下を治めることが期待されたのではなかったか、それを問題提議したかったからにほかなりません。
 だとすれば、毎年行われる新嘗祭はその実践的意義を持つことになります。
 この視点に立てば、大嘗祭及び新嘗祭は天皇が天下を治めるための秘儀ということになります。この秘儀が、「からごころ」の影響が特に強く、律令制を整備し、歴史編纂事業に意欲的であった天武王朝時代に整備された、というのはその事を傍証しているように思われるのです。

 ここで大嘗祭及び新嘗祭の主祭神である天照大神について考えてみたいと思います。
 本居宣長は『古事記伝』で、この大神に対する儒典及び仏典による解釈を排して、高天原とは天(アメ)を指して言い、天照大神は、今も目の当り天の虚空(ソラ)に仰ぎ見奉っている日こそそれである、と断言しています。
 「ビ(日・比・毘・霊)」は凡て物の霊異(クシビ)なるを言い、「ムスビ(産霊)」「クシビ(久志毘)」「ナオビ(直毘)」「マガツビ(禍津日)」などの「ビ」は皆これだと言います。
 そして、天地間で最も霊異(クシビ)なる存在こそ天照大神です。

 「高天の原にまします天照大御神を、此の地(クニ)より瞻望(ミサケ)奉りて、日(ヒ)と申すも、天地の間に比類(タグヒ)もなく、最も霊異(クシビ)にますが故の御名なり。比古(ヒコ)比賣(ヒメ)などの比(ヒ)も、霊異(クシビ)なるよしの美称(タタヘナ)なり。」

 ここで現代の生活常識に立ち返って考えてみたいと思います。
 信仰を失ったわれわれ現代人がいかに否定しようと、古代、神代の人びとがそう名付けたように、日が天および天下を照らす尊い存在であることに変わりないし、日の徳(めぐみ)なしで一日とて生命の維持ができないことに変わりはありません。自然の順行が調和を乱せば、往々にして、この神は、容赦なく照りつけて旱魃となり、あるいは雲に隠れがちになって冷害となり、動植物の成長を阻害して、人間の生活に甚大な影響を及ぼしてきました。徳(めぐみ)への感謝は、否応なしに、その背後に畏怖の情を伴わざるを得ませんでした。これらは最新の科学でも否定しようがない厳然たる事実であるし、地球に人類が存続する限り、未来永劫、これを否定することは出来ないでしょう。
 自分の生活にしか関心のない一般庶民でも、朝起きればいつものようにこの神が昇っていることを信じきっているし、この神の顔色を中心とする天気を窺いながら活動しているのです。天気予報はまさに日とこれを隠す雲と天(あめ)から落ちてくる雨の表象で表現され、通常なら、この神が照れば、われわれの気分も晴れやかになるし、逆に照らなければ気分は沈みがちです。そして、夕方になって、山の彼方に、あるいは海の彼方に、あるいは建物の間に、この神が去れば、われわれは休息に向かい、また明日の準備に取り掛かる。われわれの日常生活はこの事の繰り返しです。
 天を照らす大神が去れば天空は深い闇に覆われる。雲がなければこの闇には幾千万の星々が瞬くが、地上を照らし出すほどの明るさではありません。この闇夜を照らすのは月神で、すなわち冷めた月の光ですが、これは日の反射光であり、いわば天照大神の余光であり、残照です。
 夜が明ければ「明日」がやってくる。「明日」という言葉自体、「明くる日」すなわち「次の太陽」「次の日照」という意味です。「明」という漢字自体が「日」と「月」から成っている。暦は明治五年の改暦までは、太陰太陽暦といって、月と太陽の運行で表されました。その名残が何月何日という表現ですが、現在の暦は太陽と地球の公転運動を表す「年」と自転運動を表す「日」で表されています。われわれの四季折々の生活習慣、日々の生活のリズムは日輪の動きを中心に形作られているのです。
 考えてみれば、これ以上、普遍的で確実、自然な信仰があるでしょうか。

 日神の徳を自覚し、その徳に感謝を奉げるために、一年に一度、新穀をこの神に供して生活する人々がおもに九州地方に在住していた。そこは日向と呼ばれる地で、彼らは実際に、日の出る方向に向かって勢力を拡張し、その稲作を中心とする生活文化を携えて、本州に根拠を移していきました。これが神話に反映されています。
 この日神の信仰を持つ人々は「ひこ(日子・彦・毘古など)」、女性は特に「ひめ(日女・姫・比売・毘売・媛など)」と呼ばれました。「邪馬台国」の「卑弥呼」だって、直感的には「やまと」の国の「日の御子(巫女)」と見てまず間違いないでしょう。
 これらの人々の内で、実際に日に向かって冒険的な事業に乗り出す英雄が現われました。「何地(いづこ)に坐(ま)さば、平(たい)らけく天の下の政を聞(き)こしめさむ。なほ東に行かむ。」と勅した神武天皇がそれです。東は「ひむがし」は「ひむかし」で、「日向処」「日向風(し)」の転訛した、日の方角を意味する古語です。
 以下は『古事記』の物語です。
 日出ずる方向への進出である神武天皇の東征事業は困難を極めましたが、この困難は信仰が解決しました。
 「吾は日の神の御子として、日に向かひて戦ふこと良からず。…今者(いま)より背に日を負ひて撃たむ。」
 軍勢は紀伊半島の最南端を廻って、熊野より日を背にして進軍し、現在の奈良の橿原の地に入り、宮を建設して、東征を成功裏に終えたのです。これが記紀に伝えられるところの大和朝廷の起源です。
 ちなみに日に向かって戦って手痛い敗北を喫したのが、大東亜戦争、なかんづく太平洋戦争と呼ばれる対米戦争でした。真珠湾攻撃など愚の骨頂で、日本は日を背に、北西に進んでソ連を討つか、南西に進んで大英帝国を討つことに集中すべきでした。そうすればアメリカは手の出しようがなかったのです。
 話を戻しましょう。

 われわれ現代人は、日の下を意味する「日本」の国号、太陽を表す日章旗「日の丸」を掲げ、太陽の存在を信じ、その徳(めぐみ)を受けながら生きている。この意味で、いまだにわれわれ日本人は潜在的に「ひこ」であり、「ひめ」なのです。

 初代神武天皇以来、現在に至るまで、歴代天皇は天照大神の神勅を守り、この日神の霊力を畏れ、敬い、これを「まつる」ことで、この国を治めてきました。大嘗祭はその神霊を受け継ぐ儀式とされています。
 折口信夫の説は既に紹介しましたが、所功氏によれば、神嘗祭は新穀を供することによって天照大神に神威を盛り返していただく祭であり、新嘗祭は、その神威を盛り返した天照大神の霊力がこの皇祖の子孫である天皇の体内に伝えられ、「皇御孫命(すめみまのみこと)」としての生命力を盛り返される祭である、との解釈を示しておられます。特に大嘗祭については、「その本質は前述の新嘗祭と通ずることであって、神話にみえる天照大神が天孫ニニギノミコトに『斎庭の穂』を授けられたごとくに、天照大神の霊威を皇御孫命たる歴代天皇が受け継がれ、天つヒツギ(日嗣=霊継)のスメラミコトとしての霊力を獲得されるものと考えられる」としています(所功『「国民の祝日」の由来がわかる小事典』)。
 しかし、もう少し整理しておくと、即位直後に行われる一代一度の大嘗祭によって、天照大神の神霊を受け継いで天津日嗣として完成した天皇が、毎年行われる新嘗祭において、交霊を継続し、その霊力の維持に努めている、ということになります。

 いつの頃からかわかりませんが、大嘗祭において、神座に足を踏み入れることはなくなったようです。古式ではそうではなかったという説もありますが、よく分りません。最初から足を踏み入れることがなかったのかもしれません。
 だから布団が「真床追衾」を意味するものなのかどうか分りませんが、少なくとも、神が降臨する神代(かみしろ)として、寝具その他が用意されるのは間違いないでしょう。本儀は日没から日の出までの間に執り行われるのであり、天および天下を照らす大仕事を終え、地上にあるわれわれの視界から姿を消した大神に降臨して頂き、寝具と食事を用意して、これをもてなし、鶏鳴までに天空に御帰りいただく。そして、日の出を迎えるというのは、日本人としての生活感覚から容易に想像できます。日の出、日の入りというのは、一日の中で唯一、われわれがこの神の姿を直視し、拝むことが出来る時間帯です。日が完全に昇れば、われわれはこの神の霊力を温熱として体感は出来ても、その姿を直視することは叶いません。直視すれば、網膜は焼かれ、眼は眩むのです。天日に長くさらされれば、われわれの肌はじりじりと焼かれてしまいます。このように、この神がわれわれに直視を許さない存在であることが、鏡を下げ渡しての「吾が前を拝くが如く拝き奉れ」となったに違いありません。以来、この大神への拝礼は基本的に神代・形代を通してのものとなりました。
 こういった日神認識の痕跡を示しているのが、すでに紹介した『古事記』の雄略天皇の段に採録されている天語歌です。

 「纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮は、朝日の日照る宮、夕日の日がける宮、竹の根の根垂る宮、木の根の根蔓(ば)ふ宮、八百土(やほに)よし い築(きづ)きの宮、真木さく 檜の御門。
新嘗屋(にいなへや)に生い立てる 百足(ももだ)る槻(つき)が枝(え)は、上枝(ほつえ)は天(あめ)を覆へり、中つ枝は東を覆へり、下枝(しづえ)は鄙を覆へり、…」

 「纏向の日代の宮」とは景行天皇の宮のことで、この宮を「日代の宮」といい、朝日が照り、夕日が陰る宮だというのです。「しろ(代)」は宣長によると「それと定めて区(かぎ)れる処を云」い、「城」に通じるようですが、「代」という漢字は「代替」「代わり」を意味しています。「日代の宮」とはおそらく、日すなわち日神の依り代、日の神が光臨される宮、から来た名でしょう。
 『古事記』が伝えるところによると、雄略天皇の御代に長谷(はつせ)の百枝槻(ももえつき)の下で、豊楽(とよのあかり)の宴会が行われました。豊楽とは後の豊明節会のことで、新嘗祭の翌日に行われる直会(なおらい)の宴会です。その宴会の中で、伊勢の国、三重の采女が盃を献上しましたが、槻の葉が盃に落ちて、気づかぬままに大御酒を勧めることになった。これに気づいた天皇は怒り、采女を打ち伏せ、刀を頸に差し当てて今にも斬らんとしたそのとき、采女が謡い始めた歌が先の歌です。
 歌は次のように続きます。

 「…上枝の枝の末葉(うらば)は中つ枝に落ち触らばへ、中つ枝の枝の末葉は下つ枝に落ち触らばへ、下枝の枝の末葉は、あり衣の三重の子が指挙(さきが)せる瑞玉盞(みづたまうき)に浮きし脂、落ちなづさひ、水こをろこをろに 是(こ)しもあやに恐(かしこ)し、高光る日の御子、事の語言(かたりごと)も是(こ)をば」

 これを聞いた天皇はその罪を赦し、誉めて数多の禄を下賜しました。采女の歌の後、皇后が謡った歌と続けて天皇が謡った歌、三歌を併せて「天語歌(あまがたりうた)」といい、天語連などが歌い伝えてきた物語風の歌なのだといいます。
紀貫之が『古今和歌集』の「仮名序」で言ったように、歌が雄略天皇の心を和らげたのです。雄略天皇は采女の言霊によって、新嘗の祭りを始めたと伝えられてきた景行天皇を想起し、自身が継いだ高光る日の御子としての天皇霊を呼び起こされたのでしょう。

 古代の人々にとって、天照大神が「まつり」に応じて降臨するとすれば、それはこの神が天上天下を照らすという大仕事を終え、休息するはずの、日の入りから日の出までの時間帯しかありませんでした。
 これは神嘗祭、新嘗祭でも同様です。

 平安時代後期の官僚・大江匡房が著した有職故実書『江家次第』によると、新嘗祭神饌の儀の配置は、新儀式においては、中央に南北三行に敷いた神座としての八重畳、その東方に御座畳、その更に東に短畳を設け、主上は神座を背にして、短畳の神座と東向きに相対することになるといいます。大江匡房より少し後の平安時代後期の公家・平信範の日記『兵範記』では、御座と神座を東南に連ねるように斜めに置き、中央神座には神衾を置く、と記録されているといいます。
 これが大嘗祭となると、『江家次第』によれば、中央の神座の東に、御座を半ば重なるように置き、神座中央に神衾と枕を置くといいます。
 このあたりにこれらの秘儀における天照大神に対する認識の混乱、あるいは変化が見られるように思われます。東は当然、旭日を拝む形でしょうし、東南はおそらく伊勢神宮の方角でしょう。大嘗祭で神座と御座を半ば重ねるのは、降臨した天照大神と天皇の交霊の場であることを表すのでしょう。

 これらの大祭は、日中に行われる日常の祭、例えば、天皇が毎日、明け方に行う神拝や伊勢神宮で毎朝夕に行われている大御饌とは異なります。神代に対して「吾が前を拝くが如く拝き奉れ」との『古事記』の神勅に忠実なのがこれら日常の祭儀だとすれば、大祭は夜になって天から御隠れになられた天照大神そのものをその場に招き、わざわざ御越しいただいて、直に言霊による霊の交感が行われる祭として位置づけられているように思われるのです。
 それもこれも、天照大神とは日のことなのだ、との前提に立たなければ腑には落ちないのです。

 こういった日神信仰を核心とする天皇の統治のあり方について、再び本居宣長が『古事記伝』において説くところに耳を傾けてみましょう。
 天照大神は天(雨)を指す高天原にましまして、「汝(な)が命(みこと)は高天原を知らせ」と事依(ことよ)さし賜える伊邪那岐命に随いて、天地(あめつち)とともに無窮(とこしえ;常)に高天原を所知看(しろしめ)して、四海(よものうみ)万國(よろずくに)、天地の表裏をくまなく御照らしましまして、この御霊(みたま)を蒙(かかう)らずということなければ、天地の限りの大君主(おおきみ)にましまして、世に無上至尊(かみなくとふと)きはこの大御神になむましましける。
 君が御国を治め有(たも)ちましますを、「知(しらす)」「食(をす)」「聞看(きこしめす)」とも言う。「所知看(しろしめす)」は文字通り、知り見るということで同じ意。物を見るも、聞くも、知るも、食う(をす)も、皆他の物を身に受け入れるという同じ意であり、君が御国を治め有(たも)ちますは、物を見るが如く、聞くが如く、食(をす)が如く、御身に受け入れ有つ意である。

 これは大日本帝国憲法制定のところでも出てきましたが、これに対比される統治のあり方が「うしはく」です。出雲の国譲りの段で、天照大神は大国主神に問わしめた「汝(な)がうしはける葦原の中つ国は我(あ)が御子の所知(知らさむ)國」という言依(ことよさし)の中に出てくる言葉です。
 「うし」は「主(うし)」、「はく」は「刀を佩(は)く」、「沓を着(は)く」の「はく」で、「身に着けて持つ」を意味し、主(うし)としてその処を我が物と領居(しりを)ることを言う、というのが宣長の解釈です。
 つまり、「うしはく」とは領有支配するということですが、「しらす」というのは高所からのより大きな概念に基づく言葉であることが分かります。
 「しらす」が、宣長の言うように、物を見るが如く、聞くが如く、食すが如く、眼耳口などを通じて、わが身に受け入れるようにして、知覚し、血肉と化す、というなら、一心同体の物として有つことになります。もちろん、君とはその人体を統一するところの心であり、精神であり、頭脳であり、首脳部ということになるでしょう。

 「しらす」は『日本書紀』では「おさめる」と訓ぜられることになる「治」という漢字で表現されています。「治」は治水に由来する漢字で、祓い清めること。「まつりごと」とも訓ぜられます。

 ここで、孔子が「禘」の祭りの本義について、「知らざるなり。其の説を知る者の天下に於けるや、其れ諸(こ)れを斯(ここ)に示(み)るが如きか。」と言って、その掌(たなごころ、手のひら)を指された、といい、天子・聖人の大徳を述べた『中庸』の第六章で「禘嘗」について、次のように言っていたことを思い出して下さい。

「郊社の礼は上帝に事うる所以なり。宗廟の礼は、その先を祀る所以なり。郊社の礼、禘嘗の義に明らかなれば、国を治ることそれこれを掌に示(み)るが如きか。」

 天下を治める究極の統治のあり方、先王の道とは、天子のみが成し得るところの、天を祀り、その祖先の霊を祀ることによって体得した意義によって、掌の上に示(み)るように天下を治めることなのです。
 この孔子の理想を日本において受容、応用し、窮めたと思われるのが大嘗祭で、だとすれば、皇孫としての日御子のみが成し得る皇祖皇宗の道は、高天原から天下をしろしめす天照大神を祀り、天皇霊を体得して、掌の上、あるいは高天原から鳥瞰するように物事を見、かつ聞き、かつ食すように、治める(しらす)ことになります。
 それが天下を表裏くまなく照らすように、ということはわが身に受動的に受け入れるのみならず、能動的にしらすということでもあります。祭祀を中心とする象徴的行為によって、禍事(まがこと;凶悪事)、穢れを祓い清め直して、吉善事(よごと)に立ち復らせる。明治維新で唱えられた天皇親政とは、象徴的行為を祭祀以外にもさらに拡大したものですが、概ねそのような意味合いを含んでいると言えるでしょう。
 それは立憲君主として政治的発言をしないという態度とは異なります。
 昭和天皇以来の英国王室流の立憲君主を模範とする統治のあり方はわが国本来の國體とはこの点で大いに異なるのです。

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ここまで紹介した、神道および皇室祭祀に精通しておられる諸氏の説はそれぞれ強い説得力があります。まさに「心、誠に之を求むれば、中らずと雖も遠からず」(『詩経』『大学』)と言ったところでしょう。しかし、古い起源を持つ祭儀の意義には、本来、理による解釈を拒むようなところがあるのではないでしょうか。

 本居宣長によれば「かんがえる」、すなわち「かんがふ」とは、「かむかふ」の音便で、「かれとこれとを比校(アヒムカ)へて思ひめぐらす意」だといいます。これは今で言う「比較考量」の意ですが、小林秀雄はこれをたたき台に、「むかう」を「身(む)」「交(か)う」と解していいなら、自分が物事を考えるということは、物事をむかえ、これと親身に交わることだ、ということを言っています。物事を親身に感じて、思いをめぐらしながら生きることで、その経験によりようやく啓ける認識が知であって、宣長はこういった経験を持たない、すなわち考えるということをまるでしない「世の物しり」と言われる人々、今ならさしずめ知識人やインテリと呼ばれる人々を大変嫌悪しました。

 荻生徂徠もまた、シナ儒教の伝統についてですが、同様の思考をめぐらした人物です。徂徠は朱子学の「格物窮理」あるいは「格物致知」の説を批判して、『大学』のいわゆる「格物」というものについて、先王の教えに遵ってその事に久しく習ううちに自然に得る所があり、その後にはじめて知る所は明らかになるものだが、宋儒の説くところの「格物窮理」とは、これらを経ずして、是を是とし、非を非とする類の世俗の知にすぎない、と。
 徂徠学において「格(いたる)」は古文辞により「きたる」と訓ぜられ、「物格(きた)りてしかるのち知至る」と解釈されることになります。久しく習熟する内に真理は向こうからやってき、知はそこから啓ける、というのです。
 朱子学の重んずる所の「理」というものは、事物に自然にあるもので、我が心を以てこれを推度し、その必ずまさにかくのごとくなるべきと、必ずかくのごとくなるべからざるとを見ることである、と徂徠は言います。人の見るところは各々その性を以て異なるもので、だから「理」というものはどこにでもあり、何にでも引っ付く、定準なきものとなる。この「理」を一定するには窮め尽くす必要があるが、天下の理のような大なるものは、聖人だけがその性を尽し、また人の性を能く尽し、物の性を能く尽し、天地とその徳を合することでようやく窮め尽くすことが出来るのである。そして、その結果、聖人が立てた窮極の定準こそ、「礼」と「義」に他ならない、というのが徂徠の主張です。だから、学者は須らく聖人が創作したところの詩書礼楽を習熟し、聖人の礼儀を立てし所以の理を得なければならない。
 これが徂徠の「知」や「理」に関する考えです。
 徂徠が批判したのは主に朱子学者ですが、宣長の「かんがふ」に近い態度であることが分かると思いますが、それもそのはず、宣長は徂徠の著作の愛読者だったのです。

 理はその性質上、言葉によって表現されるほかありませんが、古来「言の葉」は所詮「事の端」であり、事の本体そのものではありません。
 「理」という漢字そのものにしてからがそうで、「王(玉)」と「里」から成りますが、その「里」は「田」と「社」の初文である「土」から成り、農地を意味し、その条理整然たる様を表すようになり、これが「王(玉)」と結びついて、「理」は「玉」の文(あや)を指すようになったのです。『説文解字』に「玉を治むるなり」とあり、『韓非子』には「王、すなわち玉人をして玉を理(をさ)めしむ」とあるそうです(白川静『字通』)。そこで、原石としての璞(あらたま)を磨いて、その美しい文・理を明らかにすることを意味するようになったのです。
 われわれ現代人は玉の文理、すなわち「理」をその実体と勘違いし、それで理解したつもりになりがちですが、そうなれば「理」は玉そのものから離れていくばかりです。名あっての物ではなく、物あっての名である。つまり、玉あっての「理」であり、「理」は玉の一面を表すに過ぎない、ということを忘れてはならないのです。
 日本人はこれまでこの「理」という漢字を「おさめる・ただす・みがく・ととのえる」あるいは「あや・すじ・きめ」「みち・のり・まつりごと・ことわり」などと訓じてきました。
 「理」という多様な意義を持つ漢字を、深く理解してきたことが窺えますが、中でも「ことわり」という訓は、古人の思惟の深さを示していて興味深い。
 「ことわり」とは「言・割り」あるいは「事・割り」であり、物事を割ってその内部まで分け入ることです。そのことによって物事をより深く、よりよく知る。しかし、それで割り切ってしまえば、見えるのはその断面のみで、かけがえない実体そのものは失われてしまいかねません。「ことわり」という訓は「理」というものの性質の一端を見事に表現しているのです。

 このことは皇室の祭祀についても言えそうです。
 大嘗祭に関する先賢の解釈は玉を大事に磨き上げた、意を尽くしたものですが、それで割り切ってしまえるようなものでもありません。もちろん、これは「理」として述べた先賢への批判ではなく、それを読んで「理」を得ようとするわれわれの側の態度を問題にしています。

 ここで本居宣長がいうところの「からごころ」で大嘗祭を考察してみましょう。
 というのは、古代の精神を伝えるもっとも有力な史料は文字記録であり、それは漢字、すなわち「からごころ」を満載した文字で記されているからです。これを潜り抜けなければ、そこにたどりつくことは難しい。
 「令和」の新元号発表から間もなく、新札発行が発表されましたが、これまで明治のオピニオン・リーダーで文明開化の精神の象徴的存在であった福沢諭吉が務めてきた一万円札の新たな肖像は渋沢栄一となりました。現在の世界の潮流は道徳を欠いた拝金主義であるグローバリズムですが、渋沢栄一はこれとは反対に、『論語と算盤』でよく知られるように、道徳と経済活動を結びつけることを説き、人生をかけて実践した人物です。「令和」にしても、新札の肖像に渋沢が選ばれたことにしても、要するに、そこには安倍内閣のアンチ・グローバリズムの希望が込められているのです。渋沢の説く道徳は『論語』に集約されますが、そもそも「経済」という言葉も漢語の「経世済民」に由来し、同じ根を持つものです。これまで書いてきた筆者の主張、すなわち「からごころ」を潜り抜けた上での「やまとごころ」による考察が、復古思想という極端なアナクロニズム(時代錯誤)に見えて、実は時代を先取りしたものであったことを表しています。ニーチェが『反時代的考察』で示したテーゼが実は時代を先取りしたものであったことと同様です。新思潮の便乗者は勘違いしているかもしれませんが、実はグローバリズムこそ、現れ方は違っても、ユダヤ思想に深い根を持つ古い古い思想にほかならないのです。

 「からごころ」を満載した漢字の書物として日本に最初にもたらされたのはすでに触れたように『論語』ですが、孔子の祭に対する態度はすでに紹介しました。

 「祭ること在すが如くし、神を祭ること神在すが如くす。」

 これは古言の引用という説もありますが、孔子が祭において実践してきたのは確かです。そして、続けて次のような感想を漏らしています。

 「吾れ、祭に与らざれば、祭らざるが如し。」

 これは『論語』巻第二「八佾」篇の一条ですが、この篇は「礼」に関する問答が中心となっていて、その前条で孔子は次のように言っています。

 ある人が天子の大祭である「禘(てい)」の祭の意義を孔子に尋ねた。
 孔子答えて曰く、

 「知らざるなり。其の説を知る者の天下に於けるや、其れ諸(こ)れを斯(ここ)に示(み)るが如きか。」

 そう言って、その掌(たなごころ、手のひら)を指された、といいます。

 白川静『字通』によれば、「禘」という漢字は、「五歳一禘の祭祀は王者にのみ許されるものとされ、卜辞では上帝や祖先神、また金文では直系の先王を祀るときに禘という」とのことです。
 『礼記』の一部をなす『中庸』の一節には「禘嘗」という言葉が出てきますが、これはまさに「宗廟の大祭と秋の時祭」を意味しています。
 「嘗」という漢字は、「供薦して神を迎え、神の詣(いた)ること」を意味します。これに「新」を加えた「新嘗(しんじょう)」という漢語は「新穀を以て祀る」ことを意味し、『礼記』「月令」篇に「農乃ち穀を登(すす)む。天子、新を嘗(な)む」とあって古い漢語です。わが国での用例と同じですが、折口信夫も述べたように、俗に言う「なめる」という意味ではありません。物忌みして贄を奉り、神を迎えることです。
 「神嘗」という漢語のほうは出典を明らかにしませんが、神が供饌を食すことです。
 「宗廟の大祭と秋の時祭」という意味だけなら、わが国の大嘗祭・新嘗祭は「禘嘗」と同義になってしまいますが、この漢語は使われません。
 
 「禘嘗」という言葉が出てくる『中庸』の第六章は天子・聖人の大徳を述べたもので、次のようになっています。

 「子曰く、武王・周公は、それ達孝なるかな。それ孝とは善く人の志を継ぎ、善く人の事を述ぶる者なり。
春秋にはその祖廟を脩(おさ)め、その宗器を陳(つら)ね、その裳衣(しょうい)を設け、その時食を薦む。…(中略)…その位を践み、その礼を行い、その楽を奏し、その尊ぶ所を敬し、その親しむ所を愛し、死に事うること生に事うるが如くし、亡に事うること存に事うるが如くするは、孝の至りなり。
郊社(こうしゃ)の礼は上帝に事うる所以なり。宗廟の礼は、その先を祀る所以なり。郊社の礼、禘嘗の義に明らかなれば、国を治ることそれこれを掌に示(み)るが如きか。」

 天子というシナの概念を受容してもいる皇室は天(上帝)と地(土地神)を祀る「郊社」と同義の「郊祀」の祭も行ったことがあります。史料上確認できるのは、平安京を開いた桓武天皇の御代に二度、七十余年後の文徳天皇の御代に一度だけで、これで全てなのか、それともまだ他に行われたことがあったのかはっきりしません。しかし、修辞上のことなら、『日本書紀』によれば、「郊祀」は初代神武天皇が即位して四年目に行われています。

 「四年の春二月の壬戌(みづのえいぬ)の朔(ついたち)、甲申(きのえさるのひ)に、詔(ことよさ)して曰く『我が皇祖(みおや)の霊(みたま)、天(あめ)より降り鑒(み)て、朕が躬(み)を光(てら)し助けたまへり。今諸(もろもろ)の虜(あたども)已(すで)に平けて、海内(あめのした)事無し。以て天神を郊祀(まつ)りて、用(も)て大孝(おやにしたがふこと)を申(の)べたまふべし』とのたまふ。乃(すなわ)ち霊畤(まつりのには)を鳥見山(とみのやま)の中に立てて、…(中略)…用(も)て皇祖天神(みおやのあまつかみ)を祭りたまふ。」

 『日本書紀』は漢語表現、すなわち「からごころ」の引力に引かれた書物ですから、編纂時、高天原に在す皇祖神を以て、天帝に擬えて「郊祀」との漢語を用いたのかもしれませんが、その祭祀の内容は、あくまでも「やまとごころ」であり、斎場を設けて、神勅を享けての事業の報告と神の加護に感謝の意を奉げることです。つまり、折口の見解に従えば、天津神の命令「またし」の執行復奏である「まつり」です。
 この神武天皇が即位後初めて行った大祭祀「郊祀」の内容は、新穀の供進さえ行われていないものの、祝詞の内容を考えると大嘗祭・新嘗祭にも継承されているとみていいのではないでしょうか。すなわち神勅継承の儀式と毎年の事業の報告と、神の徳(めぐみ)への感謝の儀式としての側面です。それはすでに紹介した元文三年の桜町天皇の祝詞にも継承されていますし、今もなお継承されているとみていいでしょう。
 以後、「禘」はもちろん、一部例外を除いて「郊祀」「郊社」の祭は、宮中祭祀として行われなくなったについては、漢語についての理解が深まって、古典の世界においてはともかく、周王朝以降のシナにおけるこれらの語の用例が、皇室の始原と必ずしも一致しないことが強く意識されるようになったからでしょう。「禘嘗」にしても、天命をその正統性の根拠とする周王朝の成立以来、先祖の始原として天(上帝)を祀るようになったシナ歴代王朝の「禘」とは区別して、「嘗」の文字のみが用いられたのでしょう。大嘗祭・新嘗祭は皇室の祖先神を祭る儀式であり、日本において、天(高天原)は場、あるいは空間であって、皇祖神ではないのです。

 一方、天を信仰し、天命の実践に人生を奉げた仁(ひと)である孔子を祭る「釈奠」が取り入れられたのは大宝律令の規定に基づき、国学および大学寮で毎年二月と八月(春秋二仲)に行うことが定められてからです。大宝元年(七〇一年)二月四日大学寮において初めての「釈奠」が行われ、翌二年に学令は施行されましたが、その中で、『論語』『孝経』の学習は必須とされています。「釈奠」は後れて国学においても行われるようになったようです。天平七年(七三五年)には遣唐使・吉備真備が唐礼百三十巻を持ち帰り、彼が祭器と儀礼を整備したとされます。彼の右大臣在任中、記録上確認できる唯一の天皇親臨の「釈奠」が行われています。神護景雲元年(七六七年)二月七日、シナかぶれの傾向が強かった称徳天皇の御代のことです。これが唯一の例で、紆余曲折を経て、女帝のシナかぶれは昂じ、ついには禅譲(放伐抜きの自発的易姓革命)に行き着いてしまうのです。有名な僧道鏡への譲位がそれですが、和気清麻呂が持ち帰った「我が国は開闢以来、君臣の分定まれり。臣を以て君と為すこと未だあらざるなり、天津日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし」との宇佐八幡宮の神託によって阻止され、やがて称徳女帝は病に罹り崩御しました。「釈奠」の祭に親臨してから三年後の、神護景雲四年のことです。
 宇佐神宮は全国に四万六百社以上ある八幡宮の総本宮で、皇室にとって伊勢神宮に継ぐ第二の宗廟と言われています。主祭神は『論語』と縁の深い応神天皇で、第二の祭神が謎の神・比売大神、第三の祭神が応神天皇の生母・神功皇后です。
 比売大神は『日本書紀』に神代に宇佐嶋に降臨されたとあり、その正体は謎に包まれていて、「卑弥呼」説など諸説ありますが、皇室にとって非常に重要な神であることは間違いありません。ちなみに参拝の作法は通常の二礼二拍手一礼と異なり、国譲りの神話で幽事(かくりごと)の神となった大国主神を祭る出雲大社同様、二礼四拍手一礼です。
 さて、道鏡事件のその後ですが、称徳女帝の崩御により天武天皇の男系継承は途切れ、奇跡的に天智天皇の男系子孫であることに正統性を置く王朝が復活を遂げます。光仁天皇の即位がそれですが、この天皇は天武天皇の女系の血も排除し、すでに触れたように、次代の桓武天皇は公然と、天を祀る「郊祀」の祭りを行ったのです。桓武天皇は父光仁天皇を併せて祀り、「是天上帝に告ぐ」と祭文に述べていることから、天武王朝からの皇位回復を易姓革命ととらえて、あるいは準えていた可能性があります。
 そもそも壬申の乱で、天智男系王朝から天武男系王朝への大転換を遂げた天武天皇自身が易姓革命を意識していた形跡があることはすでに触れました。
つまり、天智王朝の奇跡的な復活は、復古であり、もっと言えば維新だったのです。

 ともかく孔子を祭る釈奠の祭は以後も継続していきますが、親臨は称徳天皇の一回きりで、皇太子に限っても、仁明天皇の御代に皇太子・恒貞親王が親臨したのが唯一の例です。つまり、朝廷の祭祀としては受容されたものの、皇室の祭祀としては受容されなかったことになります。天への信仰と祭祀が皇室の本質と必ずしも相容れないことが判明してきたことが要因ではなかったでしょうか。

 
 先の問答に話を戻しましょう。
 孔子はある人から、天子がその先祖の始原として天を祀る「禘」の祭の意義について問われ、「わからない、それがわかるほどの者ならば天下のものごとについても、ほら、このように手のひらの上で物を見るようなものだろうね」と答えました。孔子はこの天子の祭である「禘」に与る立場の者ではありませんでしたから、祀ったこともなく、「祭らざるが如し」どころか、その意義さえわからない。それを知る者がいるとすれば、祭に与ることができる天子しかいない。当時、これは周王朝の血を引く者に限られます。
 孔子が生きた時代、すでに周王朝は東西に分裂して、西周は滅亡しており、東周は第二十六代敬王の時代でしたが、王朝は衰微の極みにありました。
しかし、孔子は確かに「禘」の祭を間近に観たことがあったのです。
 そのさらに前条には次のようなことが書かれています。

 「子曰く、禘は既に灌(かん)してより往(のち)は、吾れ、これを観るを欲せず。」

 禘の祭で、きびの酒を地に注いで神の降臨を招く灌の儀式が済んでから後は、私はもう観たくない。
 これはいろいろな説があり、孔子の故郷である魯国では、灌から後の礼式が乱れていたからとも、祭に誠意がなくなるからとも言われていますが、皇室の『論語』の先生であった宇野哲人は『論語新釈』の中で、「禘」の祭を行う資格に注目して、次のような解釈を述べています。

 「この章は孔子が魯の祭の誠意を失っているのを傷んだのである。
 禘は天子の大祭である。天子が己の先祖の出た所の帝を、己の先祖の廟で祭って、己の先祖をあわせて祭るのである。魯では周公が王室に大功があったので、成王から天子の礼楽を賜ったから、周公の廟で禘の祭をし、文王を先祖の出た所の帝とし、周公をこれに配して祭ったのである
 禘の祭を魯ですることが、既に礼に外れているのに禘の祭を行う魯の君臣が誠意をもってこれを行わないとすれば、これは礼に外れたことを礼に外れた仕方で行っているのだから、孔子が見ていられなくなったのは当然である。」

 周公旦は文王の子で、武王の同母弟。武王亡き後、この成王を補佐して大功がありました。周王朝成立後、旦は曲阜に封ぜられて魯公となりますが、天子を補佐して首都を去ることができず、子の伯禽を封地に下らせて治めさせました。つまり、魯公とは周公直系の子孫なのです。
 周公旦は周王朝の礼楽を定めた人物とされ、孔子はそんな彼を聖人として理想視しました。
 こういった歴史を踏まえれば、確かに魯公は天子ではなく、一王の立場に過ぎない以上、禘の祭を行う適任者とはいえない。しかし、当時禘の祭を行うべき周は混乱続きで、落ち着いて祭を行う余裕はなかったかもしれません。東周の内情は、魯国を活動の拠点としている孔子の知るところではありませんが、天下が乱れている以上、まつりごとは誠意を以て行われてはいない、ということになります。なぜなら孔子の考えによれば、天子に最も近い資格を持つ敬王が、禘の祭を誠意を以て斎行し、その奥義を窮めていたなら、天下のことは掌の上のものを見るように、うまく治まっているはずだからです。
 一方、魯公は一応、文王の子孫ですから、この祖先の霊を祭る資格はあると言えます。だから魯公が禘の祭を行ったとしてもそれは全否定すべきものではなかったでしょう。だから、一応は祖先の神霊の降臨を招く灌の儀式までは安心して観ていられたものと思われます。後世の儒教において「禘」の催行資格は天子に限られるようになりましたが、孔子においては、まだそこまで厳格に規定されておらず、上帝のみならず、祖先神や先王を祭ることも、金文や甲骨文の用例に倣って「禘」という名が用いられたものと思われます。
 だから魯公が「禘」を行ったとしてもそれは問題ではなかったはずです。
 しかし、灌から先の儀式は観られたものではなかった。孔子の遺した数少ない言葉から拝察するに、神を祭るには神在すが如くす、という祭の基本が守られていなかったからではなかったでしょうか。あるいは、魯の君臣に、禘の祭を行うことに関して疑義があり、誠意を以て行う自信がなかったせいかもしれません。少なくとも、魯公の「禘」の祭での挙措は、祭の意義を体得しているようにはとても見えなかったのでしょう。
 とすると、穿ち過ぎた見方になるかもしれませんが、「禘」の催行を魯公に献言したのは、礼の大家として知られるようになっていた孔子であったかもしれません。『論語』のこれらの数条後には、孔子が魯の大廟、すなわち周公の廟に入って事毎に問うた、という話がありますから、一応は重要な祭儀に参列出来る立場にはあったのです。

 孔子は易姓革命で成立した周王朝の時代の人間として、王朝文化の再興を考えた人物であり、易姓革命そのものを理想視はしていなかったとしても、これを否定する思想的立場にはありませんでした。しかし、周王朝成立の過程において、周公と並ぶ功臣でありながら、これと血縁関係になかった太公望呂尚の子孫が治める斉の国に関して、「斉一変せば、魯に至らん。魯一変せば道に至らん」と言っているように、姓は異なっても天子となる道は拓けていましたし、同姓ならばより道(先王の道)は拓けていました。道が人を弘むるのではない。人が道を弘むるのです。
 おそらく孔子が言う「一変」とは周公の創作した礼楽秩序への現状からの一変(変革)ということでしょう。その点、魯は周公旦の子孫が治める国ですから、既にその礼楽秩序の中の一部であり、そこに組み込まれているのです。孔子が魯の政治改革に失敗して失脚し、まず政治亡命したのは衛という国であり、孔子はこの国にこだわった形跡がありますが、ここは周公の弟・康淑の子孫が治めていました。孔子の「魯・衛の政(まつりごと)は兄弟なり」(「子路」)との言葉は、この意味での礼楽秩序内の親近性を踏まえているのです。
 しかし、これは周の礼楽秩序内の話です。
 孔子は周の礼楽文化を礼賛して、次のように言っています。

 「周は二代に監(かんが)みて、郁郁乎として文なるかな。吾れは周に従わん。」

 二代とは伝説的な夏王朝と殷王朝のことであり、孔子によれば、殷の礼楽制度は夏のそれを受け継いで、これを改善したものであり、周の礼楽制度は殷のそれを受け継いで、これを改善したもので、現時点では最も洗練されたものです。だからこれに従おう。しかし、天下が乱れている現状では、礼楽は政治的に有効性を失っているのは否定しようのないことであり、もし仮に周を継ぐものがあれば、その延長線上で百世先までも知ることができる。つまり、孔子にとって周の礼楽制度を受け継いで、これを改善して、世を治めるものが現われればそれはそれで可なのであり、周王朝がいよいよだめならば、太公望の子孫が易姓革命を起こして天子となり(一変)、礼楽制度を継承・改善して天下にこれを布いて治めれば(二変)、それは望ましいことなのです。
 周王朝を第三代とすれば、シナの混乱は結局、秦の始皇帝によって収められました。しかしこの四代目は、残念ながら、周の礼楽制度を改善したものではなく、その批判から生まれた韓非子に代表される法家の思想を採用し、天下を治めたのです。秦は一代で滅び、五代目の漢は皇帝の威儀を整えるために儒学を採用し、これが後世のシナ王朝の模範とされるようになった。

 孔子の思想が時代の制約もあって、易姓革命を肯定せざるを得なかったのは無理もありませんが、潜在的に、王朝の始祖の直系子孫による統治を理想としていたことはご理解いただけるかと思います。渋沢栄一は別の根拠から、孔子の易姓革命に関する批判を嗅ぎ取り「不幸にして孔子は、日本のような万世一系の国体を見もせず、知りもしなかったからであるが、もし日本に生まれ、または日本に来て万世一系のわが国体を見聞したならば、どのくらい讃歎したかもしれない」(『論語と算盤』)と喝破しました。
 その根拠とは「八佾」篇にある次の短い文章です。

 子、韶(しょう)を謂(のたまわ)く、美を尽くせり、又善を尽くせり。武を謂く、美を尽くせり、未だ善を尽くさず。

 「韶」は禅譲を行ったとされる伝説上の聖天子・舜を讃えた音楽、「武」は放伐を行った武王の音楽です。ともに易姓革命を行った伝説的人物ですが、舜は、後世の儒者の聖人としての改変を受け、創作されるまでは、そもそも殷王朝の祖先神でした。『春秋左史伝』の外伝的要素を持つ非儒教的な『国語』に「商人(殷人)、舜に禘して契を祖とし、冥に郊して、湯を宗とす」(「魯語上」)とあり、漢初に成立した『礼記』には「殷人、嚳に禘して冥に郊し、契を祖として湯を宗とす」(「祭法」)となっていて、嚳(こく)は舜の別の属性による名です。同様に、俊(しゅん)も神としての舜の別名であり、この複数の名を持つ神は、太陽神としての性質を持ち、『山海経』「大荒西経」によれば、妻の羲和(ぎか)に十の日と十二の月を生ませています。十の日を一単位として旬とするのはここから来ています(白川静『中国の神話』)。
 この太陽神としての性格を持つ舜を祖先神として禘の祭を行う殷王朝は天照大神を祖神として大祭を行う皇室に似ているところがあります。
 白川博士が紹介している、殷の対立部族であった苗族の伝説に、面白いものがあります。
 十の太陽が一時に現れたとき、賢者たちは合議して、弓の名手にこれを射ち落とさせることにした。しかし、一個の太陽がそれを逃れて、西山に入ったまま昇ることをやめ、長い暗黒の時が続いた。そこで、獅子や黄牛が太陽を呼んだが声が凶悪なので太陽は姿を現さなかった。最後に雄鶏が呼ぶと、その美しい声に誘われて太陽が再び姿を現し、世界は光を取り戻した。
 わが国の天の岩戸を少し連想させる話です。
 以上のように、舜が神であったとすると、孔子は後世の儒者が創作した聖人としての舜ではなく、神としての舜を讃えた音楽を、美を尽くし、善を尽くしている、と評価したことになります。一方、武王の音楽は美を尽くしたものではありましたが、善を尽くしたものではないと孔子には感じられた。渋沢はこれを易姓革命への暗喩とみたのです。実はこれは渋沢の『論語』の先生でもあり、皇室の先生でもあった宇野哲人の見解でもありました。『論語新釈』の中で、この条に関して同様の見解を示しています。
 孔子は斉の国で「韶」の音楽が演奏されているのを聞いて感動のあまり、三月にわたって、肉の味を知らず、との異常な経験をしたことがありましたから、この評価は十分体温のこもったものです。そこに孔子の深い思惟の跡をたどることは許されるでしょう。

 『中庸』は孔子の鬼神観を「鬼神の徳たる、それ盛んなるかな。これを視れども見えず、これを聴けども聞こえず、物を体して遺すべからず。天下の人をして、斎明盛服して、以て祭祀を承(う)けしむ。洋洋乎としてその上に在るが如く、その左右に在るが如し」と表現し、『詩経』から引用して「神の格(きた)るは度(はか)るべからず、いわんや射(いと)うべけんや」と書いていますが、鬼神・舜の盛んなる徳は、音楽を通して、いきなり孔子に格(きた)ったのであり、本来なら、物を体して遺すことがなく、感じ取る事の出来ないはずの鬼神の徳は、天下の人をして斎明盛服して執り行わせている祭祀の中でのみ、楽によって聞き、礼によって見ることができる。
 おそらく孔子は舜の音楽を聞いて、そのことを悟ったのです。その経験は一種の衝撃を伴っていて、三月の間、肉を食べてもその味が分からなくなるような、異常な精神状態が続いた。
 これは恐らく孔子が仁という徳の端緒をつかんだ経験で、後に高弟の顔回を評した言葉に「回やその心、三月仁に違わず、その余はすなわち日月に至るのみ」とあって、自身の経験から、三月の間、仁の徳の端緒をつかんで離さないでいる顔回が、このままいけば日月、すなわち天空に輝いて人々に道を照らし出す存在になるだろう、との言葉を生むことになるのです。
 その点、この「仁」の一文字を授けられて育ち、やがて即位して天神地祇や皇祖皇宗を祀ることになる天皇は、まさに天地に満ち満ちている神霊の徳を最も感得しうる、最も神霊に近い人であるはずです。現御神、現人神との表現は本来そういう意味を込めたものでしょう。

 孔子は聖天子の出現を渇望し、失望の内に世を終えましたが、その聖天子が天、および鬼神と繋がりうる「禘」の祭儀を体得したときに始めて、内に天命は聞こえ、秘儀はその奥深い意味が解き明かされる。その時初めて、聖天子は天下を掌の上の物を自在に扱うようにして治めることができる。孔子はそのように考えました。
 そして、その極意は、最も優秀で、孔子が唯一仁を以て許した弟子、顔回の仁の問いに対する師の解答を引用すれば「中らずといえども遠からず」でしょう。

 「己れを克(せ)めて礼に復りて仁を為す。一日、己れを克めて仁に復れば天下仁に帰す。仁を為すこと己れに由る。而して人に由らんや。」

 顔回はさらにその眼目を乞いました。
 老師は答えます。

 「礼に非ざれば視ることなかれ、礼に非ざれば聴くことなかれ、礼に非ざれば言うことなかれ、礼に非ざれば動くことなかれ。」

 仁とは社会的、民族的伝統のことです。それは礼によって自己を厳しく律することによって、行為化される。だから礼は日々の厳しい実践が求められます。そのことによって、一日、すなわちある歴史的瞬間において、仁を体現する者の、何らかの象徴的行為である礼の一挙手一投足の中に、われわれはその仁を感取するのです。
 礼は何も祭の時にのみ、必要とされる行為ではありません。日常、非日常、人間生活のあらゆる領域で、ある種の規範として、玄妙な働きをしています。それは社会的、ということはつまり歴史的動物である人間の精神様式を表すものです。それがより広く普遍的・多元的でありながら民族的合意を有するには、その起源をより深く、古いところに持つ必要があります。
 孔子はこれを「一以てこれを貫く」とか「道」と表現しました。農本的な儒教に対して批判的な工匠階層から生まれた墨家でさえ、孔子の説く「先王の道」自体は正しいと言い、儒教への批判から生まれた『韓非子』でさえ、孔子は天下の聖人である、と認めざるを得ませんでした。党派を成し、非難・対立する集団においてでさえ、否定しえない要素が現れる時、そこに民族的合意を見ることは十分可能でしょう。
 孔子はその意味での、古代シナ文明の伝統の集約者であり、以後のシナの伝統の樹立者でした。そして、それは二千年以上にわたる東アジアの伝統ともなりました。
 それは「学びて時にこれを習う」というように、慣習を日常・非日常の各場面において実習し、追体験することで、個に内在するものとなったとき、はじめて伝統となるのです。それを窮めることで完成された傑出した個性は、個性というものを超克しており、一見するところ、自己主張は後退し、逆説的に個性は希薄化する。それは礼楽秩序という、全体との調和の中に個性を発現することです。そして、主体としての言動の中に、全を、公を体現することになる。これが君子であり、聖人です。孔子が七十にして達したと告白した「心の欲する所に従って、矩(のり)を踰(こ)えず」とはそういった境地でしょう。
 孔子の私淑者たることを公言してはばからなかった孟子は、孔子没後二百年後に活躍した遊説家でしたが、孔子の事業を「集大成」と表現しました。伝統を集めて、大成したのです。彼はこれをさらに、音楽の始まりと終わりにたとえ、「金聲して玉振す」としました。鬼神の徳を讃えた音楽への感動によって仁に目覚めた孔子の生涯の事業を表現するにふさわしい譬えといえるでしょう。音楽の基礎となる楽曲、個々の楽器の演奏と調和。そして、それを受け止める聴き手の感性。
 言わば、聖人とは指揮者であり、君子とは奏者でしょう。あるいは徂徠風に解釈すれば、作曲家と指揮者の関係かもしれません。 
 孔子のいう礼と楽による政(まつりごと)とは、言わば、オーケストラによる演奏を伴った、神話や古典を題材とした伝統歌劇であり、ここに集まった聴衆あるいは観衆が民です。

 日本文明は儒教を取り入れなかったとされます。
 しかし、伝統の集約者、あるいは樹立者の模範として、孔子の思想は十分取り入れられているのです。孔子は異文明が生んだ偉人でありながら、すでに見てきたように、その思想は、われわれ日本人の伝統の核心部分と非常に相性が良く、深いところで習合を遂げているのです。
 「からごころ」を排撃し、「やまとごころ」の闡明に生涯を懸けた本居宣長でさえ、その晩年に「聖人は しこのしこ人 いつはりて よき人さびす しこのしこ人」と後世のさかしらな「からごころ」によって作られた虚像である聖人を否定しつつ、「聖人と 人はいへども 聖人の たぐひならめや 孔子はよき人」と、孔子だけは「しこ人(醜人)」から除外し、善人として認める歌を詠んでいるのです。これはもちろん「やまとごころ」から見て「よき人」との含意です。この歌には学問に志した二十代の若い頃に、荻生徂徠の『論語徴』を初めとする著作に触れて以来温めてきた、彼の十分な実感が込められています。
 これはキリスト教を憎悪しつつ、イエスをある面においては認めざるをえなかったニーチェを髣髴とさせます。
 すでに孔子の思想が日本の伝統の一部となっているのは、日本において『論語』に関する本が、『聖書』におけるキリスト教団のような巨大な宣教組織という背景を持たなくとも、また中国共産党が梃入れし、宣伝工作機関の看板としてのみ名を利用し世界中に設置している「孔子学院」のように、政府がその政策的意図からこれを推奨しなくとも、いまだに書店に溢れて、読まれ続けていることからも明らかでしょう。

 日本文化の最古層、最深層より、現在まで伝えられてきた伝統、特にここでは大嘗祭・新嘗祭を取り上げてきましたが、この秘儀を継承し、おそらくその深い意義を理解する上でも、孔子の思想は欠かせません。皇室はこの秘儀の意味が見失われながらもこれを守り抜く上で、この東アジアの普遍思想を潜り抜けなければなりませんでした。おそらく皇室自体が神勅を頑なに守るだけでなく、伝統と向き合う中で『論語』を座右の銘と位置づけてきたのです。

 以上が「禘嘗」に関する「からごころ」からの考察です。
 わが国固有の伝統にして、その本質に迫るものと言える大嘗祭に関しても、「やまとごころ」のみならず、「からごころ」からの考察を加えた方が、その本質はより理解されることがお分かりいただけたかと思います。
 代初めの大嘗祭に始まり、毎歳行われる新嘗祭を行う資格を有するのは、天皇御一人です。そして、その秘儀を体得し、その意義を感得できる人がいるとすれば、それは天皇その人を措いて他に存在しないのです。ましてや民主的な選挙で選ばれただけの成り上がりの政事家ふぜいに、天下を好き勝手に扱えるわけがありません。
 政事家は須らく自戒すべきでしょう。
大嘗祭という、この広大にして神秘的な儀式の歴史・伝統を山に譬えるなら、日本というものを表象する山である富士山がもっともふさわしい。その秀麗にして神秘的な姿は山頂部のみで成立しているわけではなく、その広大な裾野を含む、総体的なイメージが万峰に屹立した霊峰としての美しさを際立たせているのです。もちろん清楚で美しい山頂部を支えているのは、広大な中腹から山麓にかけての部分で、高森氏の『民と天皇の大嘗祭』は概ねこの部分をスケッチしたものです。古代より現代までの膨大な数の民との関係が、あるいは、その歴史が、天皇という存在を下から支えています。大嘗祭という祭儀にもそれは十分象徴されています。高森氏がそれを改めて世に問うたことは非常に重要なことだと思われます。
 高森氏は昭和三十二年、戦後の生まれです。
 戦後の日本はその再出発点において精神的荒廃の芽を胚胎していました。戦勝国や共産主義者たちは日本の伝統の荒廃を目論んで、様々な策略を仕掛けてきたし、多くの日本人も自信を失って茫然自失となっていました。昭和天皇もまたそれを心配され、敗戦後初めて迎えた正月元旦の「新日本建設の詔書」(いわゆる人間宣言)で、すでにその心配を告白されています。
 それが次のくだりです。

 「惟(おも)ふに長きに亙れる戦争の敗北に終りたる結果、我国民は動(やや)もすれば焦燥に流れ、失意の淵に沈淪せんとするの傾きあり。詭激の風漸く長じて、道義の念頗る衰へ、為に思想混乱の兆あるは洵(まこと)に深憂に堪へず。」

 そこで天皇と国民の直接的な関係を取り戻そうと訴えられたのが、続く、いわゆる人間宣言とされるくだりなのです。

 「然れども朕は爾等国民と共に在り。常に利害を同じうし休戚を分たんと欲す。朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以て現御神とし、且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものにも非ず。」

 そういった天皇と国民の関係性の再確認を念頭に置いて、日本人が一丸となって新日本を建設すべき指針として御示しになられたのが、詔の冒頭に置かれた「五箇条の御誓文」であったのです。「五箇条の御誓文」は偉大なる祖父明治天皇が皇祖皇宗の神霊を招いて誓われた大御心であり、日本古来の現人神思想をまで否定するものではありませんでした。昭和天皇が否定したのは、引用の最後のくだり、いわば右翼的な思想でしょう。しかし、これは近衛文麿が指摘した如く、國體の衣を着けた共産主義なのです。
 しかし、戦後生まれ、戦後育ちの日本人にそんなことは理解できません。「人間宣言」という米占領軍の洗脳工作はじわりと効果を発揮し、戦前の日本人は皆、天皇を絶対神(ゴッド)と崇め、米占領軍のおかげで天皇の「人間宣言」が行われ、日本人の多くはその迷妄から醒めた、解放されたのだ、との新たな戦後神話が信ぜられるようになったのです。
 高森氏が『天皇と民の大嘗祭』を世に問うた数ヶ月後、平成の天皇の大嘗祭を前にして『鈴鹿家文書』の公開出版に携わった鳥越憲三郎氏が『大嘗祭 新史料で語る秘儀の全容』を上梓し、世に問うていますが、そこには次のようなくだりがあります。

 「ところが第二次世界大戦の敗戦の直後、昭和天皇は現人神であることを否定された。天皇が大嘗宮の八重畳の寝座に伏すことは早く廃れはしたが、それは死してのち現人神として甦ることを意味した。さらに正確にいえば、皇祖天照大神の直系の子孫として、天照大神の御霊を体現する生き身の神として再生し、宇宙の至高神である日の神のもつ絶対的権威のもとに君臨することを意味するものであった。しかし今ではその現人神の思想もなくなった。…もはや践祚大嘗会としての意味を失った大嘗会の儀礼は、ただ形式的なものにすぎなくなったといえよう。」

 古代史に関する多くの著作を持ち、大嘗祭に並々ならぬ関心を持って、新史料の発掘、学問的分析に携わった大正末年生まれの学者ですらこの程度の認識なのです。
 大嘗祭を、形骸化し、死んだ祭儀と見ている学者に、この大祭の本義がわかるはずもありません。現に氏の当該著作は、祭儀に関する事実は豊富に記述されていますが、その意味するところの考察はあまり豊富とも、深いとも言えず、その全容を捉え切れていない印象をぬぐえないのです。
 このような戦後の思想状況を考えれば、昭和天皇がお考えになられ、そう実践されたように、また平成の陛下がその大御心を継いで現在の皇室の在り方をお考えになられてきたように、高森氏が民と天皇の関係から大嘗祭を捉えなおそうとしたのは大変重要な意義があります。
 しかし、天皇という存在の尊貴さとその天皇が民とともに在る事の実感は、戦前の大半の人々にとっては自明のことであり、戦前の思想家や学者がそういった実感を前提に、祭儀における天皇の儀礼的行為に注視し、その本義を究めようとしたのは当然であったといえるでしょう。
 全体に占める割合はわずかであっても、山頂部はその山の全容を、本質を象徴する部分です。山頂部によって、山を象徴させることは出来ても、たとえ大部分であっても、それを欠いた残りの部分で山の特質を象徴的に描き出すことは非常に困難なことでしょう。

 富士山は日本最高峰の霊山にして活火山です。普段は端整で物静かな姿を見せていますが、そこには秘めた激しさがあり、側面からの観察ではわかりにくいですが、山頂部には火山口があり、その奥深いところにマグマが通じています
 それは万世一系の皇統をさかのぼると古代史に通じ、神話の世界に溶け込んでいくわが国の特質を思わせます。
 このマグマは、時代の転換期に、大地を震わせ、激しく噴き出す。
 神武天皇の創業の精神に立ち返ることが謳われた、幕末から明治初期に掛けての王政復古維新運動はまさにこれですし、昭和の激動期に、国史・国学を柱とする國體論が盛行し、神武天皇の言葉に由来する「八紘一宇」の精神が高々と掲げられ、西洋列強のアジア侵略に立ち向かった起死回生の偉業・大東亜戦争はその一つのピークでした。それが楠木正成の精神伝統に則った戦いであったという新たな見方をすでに提示しておきました。
 「小日本人」はこの歴史を振り返ったとき、満州事変以来の「十五年戦争」での大日本帝国軍閥の行った罪悪として捉えますが、これは、満州事変以来、アジア完全制覇を目前にしていた西洋列強、そして、その背後にいてこれを敵視した特定のユダヤ人勢力が、唯一、この大勢への抵抗勢力として反抗を続ける大日本帝国の勢威をいよいよ許せなくなった歴史の裏返しであり、敗戦による自信喪失から歴史否定という自虐に走った大部分の日本人が、閉ざされた言語空間にあって、非常に狡猾に行われた勝者の洗脳工作を受け入れてしまったからです。利口なものほど、敵の洗脳工作を、反省と称して、自ら心地良く受け入れてしまったのです。
 今や希少な存在となった「大日本人」は須らく、一連の事件を、幕末明治以来の東亜百年戦争の一環と捉える視点を持つべきです。今では戦国時代のキリスト教との邂逅以来のキリスト文明との対決の位相も提示されています。すなわち西洋文明との出会い以来の歴史は、日本の神々とキリスト教文明の絶対神との相克の歴史であった、というのです。
 この歴史認識はこの論考のテーマに深く関わってくるものです。先に挙げた「新日本建設の詔書」を「人間宣言」と見るか否か、という問題です。キリスト教徒であるマッカーサーは天皇を絶対神とする見方(一部の日本人に限られたイデオロギーでしたが)を許せなかったから「人間宣言」を強制したのです。昭和天皇もそういった、伝統に反する見方を許容できなかったから、「人間宣言」を取り入れて、ごく新しかった絶対神としての現人神思想を否定し、一方で、「五箇条の御誓文」を闡明することで、わが国の伝統的な現人神思想を、国民にそれとなく知らしめようとされました。
 それが詔書冒頭の高らかとした宣言となったのです。
 詔書は次のように始まります。

「茲に新年を迎ふ。顧みれば明治天皇明治の初、国是として五箇条の御誓文を下し給へり。
 曰く、

 一、広く会議を興し万機公論に決すべし
 一、上下心を一にして盛に経綸を行ふべし
 一、官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す
 一、旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし
 一、智識を世界に求め大に皇基を振起すべし

 叡旨公明正大、又何をか加へん。朕は茲に誓を新にして国運を開かんと欲す。須らく此の御趣旨に則り、旧来の陋習を去り、民意を暢達し、官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、以て民生の向上を図り、新日本を建設すべし。」

 ここにおいて昭和天皇は「茲に誓を新にして」とさり気なく言っておられますが、これはもちろんわれわれ国民に対してではありません。皇祖皇宗に誓った明治天皇を含む、皇祖皇宗の神霊に対してであり、伝統的な現人神思想を表現したものとなっているのです。
 この深い大御心を理解できなくなって、マッカーサーの偏見を唯々諾々と受け入れている日本人の何と多いことでしょう。この相克は今も続いていて、歴史認識問題や経済問題に顕著な、グローバリズムと名を変えた国際主義(インターナショナリズム、かつての国際共産主義運動もその一種です)との相克軋轢は、その背後にある旧約聖書的世界観との相克軋轢なのです。ヒトラーが指摘していたのはまさにこれです。
 筆者が大嘗祭を論じる背景にはこの問題意識があります。

 ともかくわれわれ日本人は普段は理性的でおとなしいですが、いざとなると原点に立ち返って、熱情的に、大胆に行動することがあります。しかし、それは発する直前まで、理性によって抑制されたものとなっていますから、それに則った行動となります。それをここでは均整の取れた富士の姿に象徴させているのです。
 その山頂付近、噴火口「大内院」を取り囲むように聳える八神峰(最高峰は剣が峰)を祭儀に譬えるなら、その内の最重要の一つが大嘗祭なのです。そこに立ってみないと、その本義を覗くことは出来ない。
 戦後の社会にあって、皇室を敬愛する者として、畏れ多いことながら、山の全容のみならず、この「大内院」を覗き込んでみたいとの思いに駆られるのは、筆者だけではないでしょう。
 そういった近代的な問題意識を持った先駆的な思想家が大嘗祭の本義に関する代表的な見解を述べた民俗学者にして国学者の折口信夫です。
 彼は「大嘗祭の本義」と題された昭和三年の講演筆記の冒頭部分で、次のようことわっています。

 「…ここで申しておかねばならぬのは、私の話が、あるいは不謹慎のように受け取られる部分があるかも知れない、ということである。だが、話は明白にせぬと何もわからぬ。話を明白にするのが、かえってそれを慕うことにもなり、ほんとうの愛情が表れることにもなる。あるいは、吾々祖先の生活上の陰事(かくれごと)、ひいては、古代の宮廷の陰事をも外へ出すようになるかも知れぬが、それがかえって、国の古さ・家の古さをしのぶことになる。単なる末梢的なことで、憤慨するようなことのないようにして頂きたい。国家を愛し、宮廷を敬う熱情においては、私は人にまけぬつもりである。」

 そんな折口が、戦争が苛烈さを増していた昭和十八年春に、国学院の新入生を前に、現在は国学という学問にとって幸福な時代である、と不謹慎にも聞こえかねない発言をしています。その真意は、国学者が昔から抱いてきた理想を世の中全体が持つようになったからだ、というのです。歴史的にみると、国学が認められるときには世の中の不幸なときが多い。その不幸なときにあって、心の底からの悲しさや激しい憤りをわれわれが共有した時にはじめて、国学は国民に共通の理解を得る。国学という存在はそういった逆説を含んでいる。これは国史にも言えることでしょう。
 大東亜戦争というのはマグマが噴出し、大山鳴動した時代でした。その成果は、世界史的意義を持つもので、西洋列強の植民地支配による世界制覇の達成を食い止めた、という点だけを見ても、「鼠一匹」という矮小化しうるものではありませんでした。
 終戦の詔を拝した折口は箱根仙石原の家にひとりこもって四十日ほどを過ごしたといいます。そして、既に取り上げた「神 敗れたまふ」という歌を詠んだのです。

神こゝに 敗れたまひぬ─。
すさのをも おほくにぬしも
青垣の内つ御庭(ミニハ)の
宮出でゝ さすらひたまふ─。

くそ 嘔吐(タグリ) ゆまり流れて
蛆 蠅(ハヘ)の、集(タカ)り 群起(ムラダ)つ
直土(ヒタツチ)に─人は臥(コ)ひ伏し
青人草(アヲヒトグサ) すべて色なし─。

村も 野も 山も 一色(ヒトイロ)─
ひたすらに青みわたれど
たゞ虚し。青の一色
海 空もおなじ 青いろ─。


 敗戦を神々の敗北と受け止めた彼は、われわれ日本人の神学、世界宗教としての神学を打ち立てる必要性を痛感しました。
 しかし、その志と努力は挫折しました。
 その志を継ぐべき最愛の弟子にして養子でもあった藤井春洋を硫黄島の激戦で失ったことに対する悲しみが大きかったようです。
 これは、仁を以て唯一許した愛弟子・顔回を失った晩年の孔子が「噫(ああ)、天、予(われ)を喪(ほろ)ぼせり、天、予を喪ぼせり」と失意のどん底に突き落とされたエピソードを連想させます。それは自らの志の挫折でもあったのでしょう。

 いまや末梢的なことをあげつらって、皇室に関するもろもろを否定しようという輩が跳梁跋扈している今日では、ますます話を明白にしておく必要があるでしょう。山の全容を明らかにする必要がるのはもちろんのことながら、それを土台に、さらに一歩進めて、剣が峰に登って、「大内院」のそのさらに奥を明らかにする努力が必要でしょう。

 さて、その先駆者、折口信夫の大嘗祭の本義に関する見解です。彼の国学や民俗学の知識を駆使しての考察は容易に要約できるものではありませんが、アウトラインを押さえておきましょう。
 折口は「まつり」について大体次のように述べています。
 
 「まつり」「まつりごと」とは「政」ということではなく、朝廷の公事全体を指して言い、昔から為来(しきた)りある行事の意味である。「まつる」「まつらふ」という語には服従の意味があり、上の者の命令通りに執り行うことが「まつる」、人をして命令通り執り行わせることを「またす」と言った。
 日本の太古の考えでは、この国の為事(しごと)は、すべて天つ国の為事を、天つ神の命令通りにそのまま行っているのであって、神事以外には何もない。本来は、この、天つ神の命令を伝え、命令通り執り行うことを「まつる」というのである。これが後に、意味が少し変化して、天つ神の命令通り執り行ったことを神に復奏することも「まつる」というようになった。これが古典に言うところの「祭り」の本質である。

 次に古代の天皇の仕事とは「食国(をすくに)」の「まつりごと」だとされている。天皇は天孫として天つ神の命「またし」によって降臨し、この国の田の生り物を作り、秋になると「祭り」をして天つ神に奉げる。ちなみに「食(を)す」とは「食う」の敬語で、「食国」とは、召し上がりなされる物を作る国、という意味である。この「をす」から「をさめる(治める)」という言葉が生まれた。

 この一年の終わりの天つ神への報告祭を「おおむべまつり(大嘗祭)」といったのである。「おおむべ」あるいは「おほんべ」のまつりは、各地で行われていた「にひなめ(新嘗)」の大きな祭りという意味で、あるいは壮大・神秘を意味する「おお」を加えて、「おおにひなめ」といって、それから転じたものらしい。

 「にひなめ」とは、新穀を「なめる」という意味ではなく、民間の同類の行事を他に「にはなひ」「にふなみ」「にへなみ」などと言った例から考えて、神に奉げるための調理された食物を意味する「にへ(贄)」(調理されない生のものが生け贄である)と助詞の「の」、「いみ(忌み)」が一体化した言葉であり、新穀を神に奉るときの物忌み生活を表す。「嘗」の字は、支那に似たような行事があって、そこから当てられた。

 これらがいつの頃からか忘れられて、天皇の代初めに行われる新嘗を「大嘗祭」、毎年行われる祭りを新嘗祭と使い分けるようになった。

 ところで、天皇陛下のことを「皇御孫命」と書いて「すめみまのみこと」と呼ぶことがある。尊い御子孫、という意味だが、古代においては、「すめ」は神聖、「みま」は肉体・身体を表す言葉で、神聖なる御体のことを「すめみまのみこと」とよんだのである。当時の人々にとって肉体とは魂の容れ物であった。
 天皇としての霊威の根元となる魂のことを「天皇霊」という。この魂は唯一つしか存在しない。天皇が崩御され、この魂が崩御された先帝の「すめみま」を離れ、「みこのみこと」の「すめみま」、すなわち皇太子の尊い御体に入り、これを満たした時に、新たな肉体において「天皇霊」は復活する。つまり、天皇霊は常に同じ一つの魂であり、肉体の違う新たな天皇が誕生しても、霊的にはまったく同じ天皇なのである。「皇御孫命」の「孫」という字は、子孫という意味ではなく、歴代天皇が、天孫瓊瓊杵尊と同様に、天照大神の孫で在らせられる、という意味なのである。

 この魂の継承は、先帝が崩御されてからの物忌みの期間である「喪」中に行われる。
 この「喪」中、天日は物忌みの対象となる。天日に御体をさらすと魂が駄目になると信じられていたからである。

 折口はこの物忌みと天皇霊の継承こそ、「大嘗祭」の本義と考え、「八重畳」の寝具を、神話に出てくる「真床追衾(まとこおうふすま)」と解釈して、次のように述べています。「真床追衾」とは、天孫瓊瓊杵尊が降臨する際、包まれていたとされる夜具です。

 「これは日の御子となられる御方が、資格完成のために、この御寝所に引き籠って、深い物忌みをなされる場所である。実に、重大なる鎮魂の行事である。ここに設けてある衾は、魂が身体に這入るまで、引き籠っている為のものである。」

 皇位継承資格を持つ人の事を「日つぎのみこ」と言い、中でも皇太子のことは特に「みこのみこと」とよんだ。この儀式を通じて、皇祖皇宗の神霊「天皇霊」を継いだ新天皇は「天津日嗣(あまつひつぎ)」となり、現御神あるいは現人神として完成する。その完成された御方が、御立ちになって祝詞を申される場所が「高御座(たかみくら)」である。
 皇位のことを「天津日嗣の高御座」というのはここから来ている。
 この「天津日嗣の高御座」に在す現人神の発せられる祝詞「天ッ祝詞ノ太祝詞」は天津神の御言葉の伝達であり、神の御言葉も同じである。この天神の言葉が発せられる高御座とそれを「まつる」場において地上は天上になる。祝詞が効力を及ぼす地域は天と重なる。高天原の地名と同じものが各地に点在するのもそのためである。

 天皇が高御座に立たれて仰せ言を下されると、今度は群臣が寿言(よごと)を申し上げる。これは魂を献上し、服従を誓うことを意味する。この魂の献上により天皇霊は補強される。
 毎年の新嘗祭をはじめとする稲穂献上の祭りも同様で、諸国から稲穂を奉るのは相手への服従の誓いを意味する。日本では稲穂は神であり、国々の魂がついている。この魂を献上することで、献上を受ける天皇や更に上位の神の霊威は更に力を増す。夏を過ぎてかげりを見せる天照大神の霊力は盛り返し、これと一体の「皇御孫命」の霊力もまた盛り返す。
 このことは同時に、これに服従を誓うものたちの霊力の復活をも意味した。
 この意味で、天皇霊を受け継ぐ大嘗祭は皇室にとって、最も重要な「まつり」なのである。

 以上が大雑把に把握したところの折口の「大嘗祭の本義」に関する見解です。
 この現人神を通じての神と人臣との相互性、自然との循環性が、江戸期の水戸学を代表とする日本化した儒教によって再確認され、国学の成果も採り入れられ、國體の核心となった、というのが筆者の見解です。この観点から言えば、明治維新によって造られた大日本帝國とは、海外から多くのものを取り入れながらも、芯の部分ではどこまでも神武の創業の精神に立ち返るという、王政復古であったのです。それが日本の急進的な近代化の低い重心となった。
 この日本の歴史の重厚さが見えない浅はかな知ったかぶり知識人がなんと多い事でしょう。

 皇位の正統性は天照大神のいわゆる天壌無窮の神勅に由来します。折口が言うところの天津神の命令「またし」がこれです。
 天壌無窮の神勅とは『日本書紀』本文ではなく、異伝承の採録「一書曰(あるふみにいわく)」の第一書にある、天照大神が瓊瓊杵尊に授けた神勅

「葦原(あしはら)の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂(みずほ)の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾(いまし)皇孫(すめみま)、就(い)でまして治(し)らせ。行矣(いきくませ)。宝祚(あまのひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当に天壌(あめつち)と窮り無けむ」

が有名ですが、このほかに、第二書にある、天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと;瓊瓊杵尊の父)に宝鏡を授けた際の神勅

「吾が児、此の宝鏡(たからのかがみ)を視(み)まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。与(とも)に床(ゆか)を同くし殿(おほとの)を共(ひとつ)にして、斎鏡(いはひのかがみ)とすべし」

「吾が高天原に所御(きこしめ)す斎庭(ゆには)の穂(いなのほ)を以て、亦吾が児に御(まか)せまつるべし」

この二つを併せていいます。

 ここに皇統の正統性の根源が示されています。
 宝鏡とは天照大神が天岩戸に御隠れになられた際、石凝姥命(いしこりどめ)が作成した八咫鏡(やたのかがみ)のことで、三種の神器の一つです。『古事記』では天照大神が、この鏡については特に「これの鏡は、専ら我が御魂として、吾が前を拝(いつ)くが如く拝(いつ)き奉れ」と宣しています。神代(かみしろ)、すなわち神の化身として、吾を祭るが如く祭れ、というのです。この内容は『日本書紀』の宝鏡に関する上記神勅と同じで、天照大神が下したと伝えられる金科玉条は、代々の天皇が幼少期に学ばれた『論語』の「在すが如くす」という祭祀の基本態度と期せずして符合しています。

 鏡の他、二つの神器は、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と草薙剣で、天皇践祚に際して皇位とともに継承されるものです。
 これらの神器の内、八尺瓊勾玉は本体が、鏡と剣は形代(かたしろ)が継承され、玉の本体と剣の形代は皇居吹上御所「剣璽の間」に、鏡の形代は宮中三殿の賢所に安置されている。鏡の本体は伊勢神宮に、剣の本体は熱田神宮に祭られています。形代とは神霊の依り代のことですが、皇居に安置されているこれらでさえ、歴代天皇は実見されたことはないといわれています。
要するにこれまで誰も見たことがないのです。
 江戸時代の学者・富永仲基は「神道のくせは、神秘・秘法・伝授にて、只物をかくすがそのくせなり」と喝破しましたが、ここまで徹底している以上、ただの「くせ」で済ませておくわけには行かないでしょう。神道では、この「くせ」のために、近代合理主義精神からは膨大な無駄としか思えない、費用を含む大変な労力が費やされているのです。ちなみに、下世話な話になりますが、平成の御代の即位の礼及び大嘗祭には約八十一億円の国家予算が計上されました。その上、この大祭の為に当事者が掛ける時間と労力は大変なもので、半年以上掛けて綿密な準備を経て行われる、一日だけの行事ではないのです。皇室が頑なに守り続けるこの「くせ」には、当事者の立場に立ってみないとわからない、存在の根源に関わる奥深い事情があるのです。それはこの国の、延いては日本国民の根源に関わる奥深い事情ということです。
 おそらく、その本義を精確につかんでいる者は存在しません。
 何しろ、神道の宗家とも言える皇室でさえ、神代からの長い歳月を毎日、見たこともない神代(かみしろ)を拝(いつ)き奉ってきたのですから…。
 形代も含めて、三種の神器の保有が皇位継承の絶対条件といえないのは、既に見たように、これなしで皇位を継承した天皇がいたことでも明らかですが、皇室が天照大神の金科玉条を頑なに守り抜き、一方で、目を世界に見開いて後、『論語』という、近代以前の東アジアの普遍思想を援用して、祭を「在す如く」自覚的に斎行してきたことで現在までその本質を継続することができたと理解しておくのが妥当でしょう。
 神代、形代は、あくまで神霊そのものではなく、神と人の媒介をなすものであり、神との繋がりを存在の根拠とする歴代の天皇にとって、神霊とは、『中庸』の中の孔子の表現を再び借りるなら、まさに次のようなものであったに違いありません。

 「子曰く、鬼神(神霊)の徳たる、それ盛んなるかな。これを視れども見えず、これを聴けども聞こえず、物を体して遺すべからず。天下の人をして、斎明盛服して、以て祭祀を承(う)けしむ。洋洋乎としてその上に在るが如く、その左右に在るが如し、と。詩に曰く、神の格(きた)るは度(はか)るべからず、いわんや射(いと)うべけんや、と。」

 歴代天皇もまた、神霊(鬼神)の盛んなる徳を肌身に感じながら、日常、非日常の祭祀を継承してきたであろうことを筆者は疑いません。
 祭祀に用いられる神器をたとえ見たことがなかったとしても、どうせ神霊(鬼神)は、これを視れども見えず、聴けども聞こえず、物を体して遺すべからず、なのであり、神の依り代に過ぎない形代の形状など見たことがなくとも究極的には何のこともなかったでしょう。
 ちなみに孔子は『論語』においても「礼と云い礼と云うも、玉帛を云わんや。楽と云い楽と云うも、鐘鼓を云わんや」(「陽貨」)と言って、礼や楽にとって重要なのはそれに用いる器、すなわち儀礼に用いる玉や帛(はく;絹)といった祭器や、音楽に用いる鐘や太鼓といった楽器が重要なのではない、ということを説いています。
 その点、伊勢神宮に安置されている至宝、八咫鏡も究極的には同じことで、神代の伝承以来、天照大神として様々な神話と共に語り継がれてきた神霊の本体は、神社に、ましてや神器や祭器などに在すのではありません。今もわれわれの頭上に在って、燦然と輝いている日輪こそ、古代人が仰いだ天照大神そのものに他ならないのです。これは本居宣長が喝破したことです。
 われわれの知には限界があり、自らの知を恃む人ほど、理に走って本来の意義を見失いがちです。何事も隠す「神道のくせ」は物本来の姿で保存することで、偏知により見失われた物本来の姿を取り戻す上で、重要なきっかけを与えてくれます。認識の扉は知に囚われていては見えませんが、このベールの向こうのどこかに隠されていて、それを見つけることができるかどうかは、われわれのこれに近づく態度如何にかかっているのです。

 折口信夫は、公家社会において古代からの祭儀や慣習、言葉の意義が失われて、新たな価値観による合理化が行われ、これらの改変を余儀なくされたのは、漢字の受容により「からごころ」が公家社会を席巻しつつあった平安時代と考えていたようです。
 「大嘗祭の本義」の締めくくり部分で次のように述べています。

 「ともかくも、大嘗祭は、平安朝に固定して、今日に及んだものゆえ、神代そのまま、そっくりのものとは考えられない。吾々は、その変化のうちに、隠れているところを見たいものである。」

 おそらく、古代からの伝承や伝統の意味が失われたのは公家社会において、漢学が重んじられるようになった奈良時代から平安時代に掛けてのことでしょう。仏教もまたシナ経由であり、広義の「からごころ」に含めてのことです。その大きな流れを作ったのは、やはり『日本書紀』『古事記』といった、古伝承や古記録の整理と文字化を命じた天武天皇といっていいように思われます。文字化は生き生きとした伝承世界の固定化を生む。それは伝承世界の一部死を意味するのです。
 天武天皇の時代すでに、各家・各地方の伝承は混乱し、その意味は見失われていました。記紀はその編纂方針を見ると、出来るだけ、その保存に努めたことが窺われますが、それでも当時の合理的価値規範による誤解曲解や改変を免れていません。
 その記紀によって伝統を受け継ごうとする公家社会の知識階級は、当時、最も漢字を通じて「からごころ」を自ら進んで学んだ秀才たちであり、当然ながら「からごころ」による合理的解釈に傾いて、誤解に誤解を重ね、伝統を改変することになるのです。それを彼らは善意で行っているのです。
 これはいつの時代でも変わりなく、もっとわかりやすい例を挙げれば、大東亜戦争の敗戦後、公職追放により学会がマルクス主義や唯物論に席巻されたとき、記紀は、当時の支配者の政治的意図による捏造、とのイデオロギーで解体されようとしました。もっとも記紀の編纂に政治的意図による捏造がまったくなかったとはいいません。ですが、それですべてを解釈するのは行き過ぎであり、イデオロギーですべてを割り切ってしまえば、その豊かな内容は死んでしまいます。それは彼らの政治的意図、すなわち天皇制の廃滅をそこに読み込んでいるに過ぎないのです。これは現在のグローバリストも同じことです。
 これは記紀編纂者たちの意図とは正反対の、皇室伝統への悪意の例と言っていいでしょう。 
 物事をありのままに見つめ、これを理解しようと努めることがいかに難しいことか。これは伝統に常につきまとって離れない問題であり、おのが知を恃む人間ほど、俗耳に入りやすい、安易な、時代精神迎合の合理的解釈に陥るものなのです。
 この難しさを認識していれば、伝統の核心と目される部分を、隠し、これを古くからのありのままで保存に努めるという態度が、人間の知性の限界をわきまえた、いかに賢明な態度であるかわかるでしょう。
 それは「鬼神を敬して遠ざく」という、孔子が言うところの知的態度でもあるわけですが、西洋の知識人の言葉に敏感に反応する人にはゲーテの次の言葉を引用しておきましょう。

 「考える人間の最も美しい幸福は、窮め得るものを究めて、窮め得ないものを静かに崇めることである」

 静かに崇め、これをそのままに保存することで、いつかその意義を闡明にする者が現れるかもしれませんが、合理主義的に無駄と浅はかに判断して、これを廃してしまえば、その可能性もなくなってしまいます。

 孔子は悧巧で知られる弟子の子貢が、ある形骸化していた宗廟での祭祀で供えられている生贄の羊を無くそうとした際、なんじはその羊を愛しむが、われはその礼を愛しむ、と言ってたしなめたことがありました。形骸化していても慣習として存続していれば、伝統として礼の精神が復活することもあろう、との含意ですが、これは大嘗祭を始めとする皇室の祭祀全般に言えることでしょう。
 皇室伝統の破壊を目論む唯物論者やグローバリストが無意味や無駄を理由に巧妙に付け込むのはそこです。
 慣習として存続していれば、その意味を洞察して闡明する者、そして、これを新たな時代に復活させようと決意し、その精神で自らを律する人物が現れるかもしれません。そうした時、その偉大な精神、言霊は、そして神霊は、新たな時代にも生き続けていると言えるのではないでしょうか。
 また、それが多くの人の共感を呼び、行動をともにする人が現れたとするなら、神霊の姿は見えずとも、その徳はこの世に何事かを及ぼし続けていると言えるのではないでしょうか。

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