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			<title>国体学のすゝめ</title>
			<description>　今、世界情勢は混迷の度合いを深めています。特に、日本を含む東アジアは冷戦状態にあり、いつ熱戦になってもおかしくない情勢です。
　そんな状況の中を、日本がサバイバルしていくには、戦わずして勝つための戦略的思考が必要であり、その前提として、『孫子』の「彼を知り、己を知らば、百戦してあやうからず」との金言に倣って、敵を知り、自国をよく知る必要があります。
　彼我をよく知るということは、いわばコインの表と裏で、他者をよく知らなければ己をよく知ることもなく、己をよく知らなければ他者をよく知ることができない。できなければ、互いの距離を測って、対外交際を全うこともかなわない、ということになります。
そこで比較文化論的な国体論が必要になってくるのです。
　
　難しい問題ですが、ここでは自分なりにその議論を深めていきたいと考えております。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hidemikishuu</link>
			<language>ja</language>
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			<title>国体学のすゝめ</title>
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			<description>　今、世界情勢は混迷の度合いを深めています。特に、日本を含む東アジアは冷戦状態にあり、いつ熱戦になってもおかしくない情勢です。
　そんな状況の中を、日本がサバイバルしていくには、戦わずして勝つための戦略的思考が必要であり、その前提として、『孫子』の「彼を知り、己を知らば、百戦してあやうからず」との金言に倣って、敵を知り、自国をよく知る必要があります。
　彼我をよく知るということは、いわばコインの表と裏で、他者をよく知らなければ己をよく知ることもなく、己をよく知らなければ他者をよく知ることができない。できなければ、互いの距離を測って、対外交際を全うこともかなわない、ということになります。
そこで比較文化論的な国体論が必要になってくるのです。
　
　難しい問題ですが、ここでは自分なりにその議論を深めていきたいと考えております。</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hidemikishuu</link>
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		<item>
			<title>読者の皆様へ</title>
			<description>&lt;div&gt;　&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;１２月１５日のＹahoo!ブログ閉鎖に伴い、本日８月３１日をもちまして、記事の新規投稿、コメントの投稿サービスなどが凍結されます。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　そもそも当ブログは筆者が『（新）西郷南洲伝（上）』（高城書房）を上梓した際、宣伝のために開設したブログで、２００６年の１月まで遡ります。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　１３年半継続したことになりますが、本の宣伝にあまり熱心になれなかったこともあって、「代表的日本人」あるいは「日本を象徴する人物」とされる西郷南洲翁の研究で踏み出した執筆活動をそのまま、日本及び日本人とは一体何なのか、日本の正気とは、古い言葉で言えば國體とは、・・・そういった深淵にして広大なテーマにまで推し広げていく過程で、気づいたこと、感じたことなどをエッセイとして記事にしていきました。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　それらについては、ｋｉｎｄｌｅの電子書籍やアマゾンのオンデマンド・サービスで紙の書籍としてまとめて読めるようにしていきます。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　すでに『十人の侍』上中巻（下は未刊）として出版しております。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　また『西郷南洲翁遺訓と超近代的解説』『織田信長とニーチェと論語』（電子書籍では『神になった悲劇人　最晩年のニーチェ』『織田信長伝』）もそれに付随する内容です。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　また、その日本的なるもの、日本人的なるものが、何に脅かされ、どのように解体されて今日に至っているか、その脅威についても書いてきましたが、最後に連載した『皇室と論語』でようやく、國體の敵の正体にたどりついた。そのように感じています。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　筆者は歴史において、あるいは国際情勢において、『孫子』の格言「彼を知り、己を知れば、百戦して殆うからず」を座右の銘の一つとしています。善悪の彼岸に立たなければ、歴史の真実の重い扉はなかなか開くことが出来ません。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　己を知る深い洞察が同時に、彼を知る深い洞察を生むのではないでしょうか。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　戦前の日本人が特攻という玉砕を選んでまで守ろうとした何か、それが國體ですが、何から守ろうとしたのか、敵の正体は一体何だったのか。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　ここにきてようやくその扉が開いたように思います。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　筆者の知識・認識はかなりその近くまで来ていました。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　しかし、本当の意味でこのパンドラの箱が開いたのは、そのエピローグで紹介したヒトラーの遺言、そして『わが闘争』におけるヒトラーの日本に対する予言でした。最近読んだモルデカイ・モーゼというユダヤ人が書いた『日本人に謝りたい』という書籍、そしてホロコーストに関する学術的論争は完全にこの扉を開け放った感じがいたします。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　絶対悪は絶対善の立場がなければ生まれません。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　ヒトラーが絶対悪とするならば、誰が絶対善の立場につくものであるか、絶対悪の唱道者をたどれば容易に想像がつくはずです。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　最近は勃発の経緯に謎が多い第一次世界大戦も、第二次世界大戦も、彼らの企画ではないか、そう思えるようになってきました。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　彼らは神に選ばれた民として絶対善の立場ですから罪悪感はないでしょう。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　ただ、この壮大な計画を実行に移せば、諸民族から悪の立場に立たされるということは、これまで彼らが歩んできた苦難の歴史から容易に想像することが出来たから、彼らが握るマスコミなどを通じて用意周到に事を運んだ。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　この件に関しては元ウクライナ大使馬淵睦夫氏や戦史研究家の林千勝氏が優れた研究を発表され、かなり広く知られるようになってきています。日本文化チャンネル桜その他のユウチュウブ動画で発言を簡単に知ることが出来るので、是非検索して見てください。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　簡単に言うなら、ディープ・ステイトと言われるアメリカのウォール・ストリートやイギリスのシティに巣くう、ロック・フェラーやロス・チャイルドなどに代表される、ユダヤ人を中心とする金融資本家たち。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　彼らは民間銀行であるＦＲＢ（連邦準備銀行）が発行する紙幣を通じて、世界をコントロールしています。民主制度下における政治家は金に弱い。日本の紙幣を発行する日本銀行も実は政府の一機関ではなく、株式の五五％は財務省が保有していますのが、残りは公表されていません。財務省自体が敗戦以来、ウォール・ストリートの支配下にありますから、日本銀行は彼らの支配下にあるも同然です。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　だからこそ緊縮財政路線、そしてデフレを堅持し、消費税増税などで日本国民の富を収奪するのです。この二十年間、経済成長率が世界最低の日本のＧＮＰはほぼ横ばい状態です。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　さて、現在の千円札の肖像である野口英世が、ロックフェラー財団の医学研究所に勤めていたのは有名ですが、妻はメアリーというユダヤ系の女性です。ちなみに前の紙幣の肖像であった新渡戸稲造も、妻はメアリーという同名のユダヤ系の女性でした。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　新札の肖像になる渋沢栄一は筆者の尊敬する人物ですが、彼が幕府使節団の一員として渡仏した際、一行の世話をし、会計係であった彼に財政や金融を教え、多大な影響を与えたポール・フリュリ=エラールはロスチャイルド系の銀行家でした。維新関連で言えば、長崎を拠点に討幕派に武器を調達したトーマス・グラバーもまたロスチャイルド系でした。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　さらに日露戦争の際、日本の戦費調達に協力したアメリカのクーン・ローブ商会のヤコブ・シフは、ロスチャイルドとの関係の深い人物で、ロンドンでの債券募集にロスチャイルド家は協力しました。もちろんユダヤ人を虐げるロシア皇帝をやっつけるためです。シフは日本を「神の杖」と称賛しましたが、もちろんこれは慈善ではなく貸付でしたから、この戦争で彼らは儲けてもいるのです。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　関東大震災後の復興を支援したのもロスチャイルド家でした。戦前の日本銀行の大株主に、皇室、三井財閥に並んで、ロスチャイルド家が名を連ねていたとも伝えられています。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　こういった歴史的経緯を考えれば、現在の日銀の非公開株主の一つはロスチャイルド系金融資本である可能性は高いでしょう。ちなみに令和最初のトランプ大統領訪日時の宮中晩餐会では、ロートシルト（ロスチャイルドのドイツ読み）銘柄の高級ワインが供されています。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　昭和天皇もまた、訪米時にロックフェラー家に数日間滞在されたことが、デイヴィッド・ロックフェラーの回顧録（新潮文庫）に出てきますが、彼もまたワン・ワールドを理想とする、いわばグローバリストとして活躍した人物です。彼は二〇一七年に死去しましたが、それと同時にイスラエルというナショナル・ユダヤとの関係が深いトランプ大統領という、アメリカン・ナショナリストが国際政治の舞台に登場し、国際金融資本勢力が反中国に転じ、議会はトランプ以上の対中強硬姿勢に転じた、というのは単なる偶然とも思えません。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　アメリカのＦＲＢが発行するドル紙幣の裏側には「プロヴィデンスの眼」と言われる、ピラミッドの頂上に目が描かれている、全能の神「ヤハウェ」を表象する図像がありますが、そこにはラテン語で「ニュー・ワールド・オーダー」すなわち「新世界秩序」と書かれています。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　前から言われてきたことですが、アメリカの紙幣にユダヤの表象「ダヴィデの星」が隠されているとの噂がまことしやかに囁かれてきたように、日本銀行発行の紙幣にもさまざまな都市伝説があり、現在の千円札の野口英世の肖像を透かしてみると、左目が富士山の頂上にくる（三角形の頂上にくる）ように見えることはともかく、富士山の絵は湖に映る影が別の山であることは一目瞭然です。ひっくり返してみると、モーゼが十戒を授けられたと伝えられるシナイ山に似ているという説もありますが、ノアの箱舟が漂着したとされるトルコのアララト山だという説もあります。雪が富士山より多く積もっているところを見ると、雪が降らない赤道近くの前者よりも後者のように思えますが、確かなことはわかりません。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　荒唐無稽な話のようですが、金融制度の仕組みを知るにつれ、これらの都市伝説のいくつかは真を穿っていると思うようになりました。フリー・メイソンなども単なる陰謀説では片づけられなくなっているように思えます。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　新元号の「令和」もまた、イギリスの国営放送ＢＢＣやロイターが「令」の字を命令（オーダーあるいはコマンド）の意味で捉えて「オーダー・アンド・ハーモニー」との解釈を示していたことを、また、これにこだわった安倍首相の政治姿勢、また新札の肖像の一つに、文明開化の明治日本にユダヤ仕込みの資本主義制度を導入し、時代が進むにつれて荒廃した日本人の精神秩序を再興する為に『論語』の復権を唱えた渋沢栄一が選ばれたことを併せて考えると、この玉虫色の「令和」という元号が示唆する意味は深長に思えます。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　すでにシティとの協調関係にあるイギリス王朝は、現在女王ですから、次代のチャールズ皇太子が即位すると女系継承になり、ギリシャ系に王統が変わり、マウントバッテン王朝と呼ばれる事になります。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　現在の皇室が国際協調を掲げ、イギリスの立憲君主制を模範とすることは、おそらく国際金融資本勢力との協調の意思表示かとも思えますが、女系継承まで受け入れてしまうと取り返しのつかない事になります。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　例えば、畏れ多いことながら、愛子内親王が女性天皇として即位し、何らかの力が働いて、シナや朝鮮系の男性と結婚するような事態にでもなれば、次代で王朝は血統が変わり、皇統は途絶えることになるのです。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　彼らが狙っている日本解体の最終段階、皇室に対する王手から逃れるには、こう言った危機意識を日本国民が広く共有するしかありません。そして、それは行き着くところ、彼らが望む女系天皇の実現を阻止し、皇室の男系男子による継承を保守することによって辛うじて成されるのです。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　最近はペースが落ちてきていますが、今後は、同じ目的で当ブログと同じ時期に開設したウェブリブログ『西郷隆盛』（&lt;/font&gt;&lt;a href=&quot;https://saigou.at.webry.info/&quot; target=&quot;_blank&quot;&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;https://saigou.at.webry.info/&lt;/font&gt;&lt;/a&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;）の方で、発信を継続してまいりますので、そちらの方をお訪ねください。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　最後に長い間、本ブログを支えていただいた読者の皆様に厚くお礼を申し上げたいと思います。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　ありがとうございました。&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;
&lt;div&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;　&lt;/font&gt;&lt;/div&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hidemikishuu/66813123.html</link>
			<pubDate>Sat, 31 Aug 2019 18:44:34 +0900</pubDate>
			<category>その他国際情勢</category>
		</item>
		<item>
			<title>終戦の淵源…パンドラの筐　【『皇室と論語』追記】</title>
			<description>&lt;span style=&quot;font-size:13.5pt;&quot;&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;『皇室と論語』を完結させて、数カ月たちましたが、新たな知見も得たので少し捕捉しておきます。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
第1回目の記事「パンドラの筐―ヒトラーの予言」では、ヒトラーの遺言の存在と日本に関する予言について触れ、そこから飛び出した災厄が今や、世界唯一の国民国家としての日本を解体し尽くそうとしていることを指摘しました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　その後、ユダヤ人というものを少しでも理解したいと思い、勉強したのですが、いくつかの驚愕の事実を知ったので、紹介します。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　まずは「ホロコースト」について。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「ヒトラーの遺言」を読んで、ひょっとしたら「ホロコースト」はあくまでもプロパガンダであって、なかったかもしれないと思うようになりましたが、ホロコースト論争を検証した動画の存在を知り、じっくり視聴してみました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
【戦後最大のタブー！「ホロコースト論争」完全解説】で検索すれば出てきます。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
本編20、番外編いくつかの、優に本一冊分以上の、これまでの学術的論争を整理した内容ですが、本編20を通観して、「ホロコースト」自体が捏造であったことが考証されています。&lt;br&gt;
冒頭で最初に知って驚かされるのは、有名なアウシュビッツ収容所のガス室が戦後に作られたものであったことです。また、ナチスの絶滅政策に関する一次史料が存在しないことも驚きで、この時点で「南京大虐殺」「従軍慰安婦」「徴用工」と同じ構造を持つ問題であると直観しました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
読者の皆さんには実際に動画を見て判断していただきたいのですが、筆者は史料の扱いも論理も堅実な「なかった」派の主張に軍配を上げます。今後、確実な一次史料を提示できなければ、「あった」派の主張は学術論争における不利を覆すことはできないでしょう。&lt;br&gt;
ところが、今のところは「勝てば官軍」で、勝者であるユダヤ人の一握りの権力者グループが政治とマスコミを通じての宣伝戦で勝利を収めているのが現状で、「ホロコーストなかった」派の研究は発表を法律で禁じられているということがすべてを物語っているように感じられます。&lt;br&gt;
ドイツ人は精神的に二度と起ち上がることが出来ないように、政治的に完膚なまでに叩きのめされているのが現状なのでしょうが、敗戦国日本も他人事ではありません。まだまだ「南京大虐殺」「従軍慰安婦」などの問題で、よくは知らないが、何となく火のないところに煙は立たない、日本軍は悪いことをしたのだろう、と思っている人は多いでしょう。&lt;br&gt;
被害者であるはずのユダヤ人が勝者であるというのは意外かもしれませんが、第一次、第二次世界大戦を経て、金融による世界支配を達成し、マスコミにおけるユダヤ人批判を完全に封印し、イスラエルを建国したユダヤ人は、二十世紀を通じて最も成功した民族といえるでしょう。もちろんユダヤ人といっても一枚岩ではなく、いろいろな勢力、階層があるので、彼らをよく知る必要があります。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　その点、保守思想家として有名なギルバート・チェスタトンの盟友ヒレア・ベロックが西欧におけるユダヤ人問題解決のために書いた『ユダヤ人　なぜ、摩擦が生まれるのか』という本は参考になります。&lt;br&gt;
　この本は、ユダヤ人と近い関係にあり、どちらかと言えば親ユダヤ傾向のあるフランス人である彼が問題解決のため、公正な視点で真摯に取り組んだ著作で、そこでは問題の本質が深く洞察されています。書かれたのはロシアで革命の結果ソ連政府が成立した一九二二年で、この著では早くも、西欧ではこの革命が「ユダヤ人革命」と呼ばれていたことも、革命後、ロンドンやパリのユダヤ人の店でロマノフ王家の宝物が売りに出されていたことも指摘されています。　&lt;br&gt;
　ベロックは西欧の有力者がユダヤ人の持つ財力に媚びるという態度の問題点も指摘していますが、ユダヤ人側の問題点としては、彼らの西欧キリスト文明に対する優越意識、そしてその秘密主義を挙げています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
共産主義革命とされるロシア革命は当時西欧のマスコミでは「ユダヤ革命」と報じられるほど、これを指導した層はユダヤ人で占められていました。マルクスも、レーニンも、トロツキーもみなユダヤ人でした。ロシア革命成立時、ボルシェビキの80％以上がユダヤ人で占められていました。&lt;br&gt;
国際共産主義運動とは、世界規模でのユダヤ人解放運動だったわけです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
遡って、フランス革命もユダヤ人解放のための革命だったとしているのが、ユダヤ人のモルデカイ・モーゼという人物です。この人が書いた『あるユダヤ人の懺悔　日本人に謝りたい』という書籍が最近復刻されましたが、このロシア革命やアメリカによる日本占領政策の裏も表も知る人物が懺悔として告白していることは驚く事ばかりです。&lt;br&gt;
フランス革命の理論的主柱となったルソーはユダヤ人であったこと、アメリカ大統領ウィルソンが提唱した国際連盟がユダヤ人の世界政府を意図するものであったこと、ノーベル賞もまたユダヤ人のためのものであったことが語られています。戦前の憲法学者・美濃部達吉の「天皇機関説」がユダヤ人憲法学者ゲオルグ・イエネリックの影響を受けたものであったことも明らかにされています。&lt;br&gt;
もちろんマルクスがユダヤ人で、ロシア革命がユダヤ解放運動であったことも、彼は参加者としての立場で語っています。彼は非ユダヤ人であるスターリンと反ユダヤであるヒトラーが結んだ独ソ不可侵条約を、ユダヤ人抑圧政策であると看破して、ソ連を見限り、やがてアメリカに亡命してニューディール派として活躍、戦時中から日本の戦後処理の立案に加わり、戦後数十回来日して、日本を深く知るに及んでユダヤ人の日本に対して為した行為を反省するに至った、という人物です。&lt;br&gt;
日本国憲法は、彼らが作ったワイマール憲法の引き写しで、彼らが作ったということまで書いています。&lt;br&gt;
彼は戦後、日本文化を研究し、そこで日本の皇室が国民と利害が対立しない世界でも唯一無二の王家であり、ユダヤ民族が理想としてきたものであることを深く理解し、それを破壊しようとした彼らの行為をいたく恥じた、というのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
この原著が出版されたのは1979年で、戦後の日本人論流行の嚆矢となったベスト・セラー『ユダヤ人と日本人』（イザヤ・ベンダサン著、1970年【昭和45年】出版。山本七平がユダヤ人とのディスカッションを経て執筆したとされる）を浅薄であると批判しています。&lt;br&gt;
ある意味、偽装ユダヤ人が書いて、一世を風靡した「ユダヤ人と日本人」を、本物のユダヤ知識人が批判したのがこの書である、ということになります。あまりに浅薄な議論が偽善とまやかしに満ちた戦後日本社会に横行して、戦前の日本の本当の凄さをよく知るようになったモーゼ氏は見るに見かねた、という面があったにちがいありません。&lt;br&gt;
現にモーゼ氏はベンダサンへの批判で、この衝撃の書を締めくくっています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
この書がほとんど黙殺に等しい扱いを受けた、ということ自体が、戦後日本社会における日本人論が浅薄なままで終わったということを表しているのです。&lt;br&gt;
現在、ユダヤ人問題に詳しい日本史家の田中英道氏や元外交官の馬渕睦夫氏はこの書を早くから知っていて、今回の復刊にも関わられたようで、彼らの研究にはそれらの見識が生かされています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
この書は『皇室と論語』を書き終えてから出合いましたが、概ね筆者が二十年以上かけての知識と思考の積み重ねでおぼろげながらわかってきたことが、当事者の言葉で語られ、内幕を暴露されているということで、筆者にとっては単なる陰謀論でかたづけられる内容ではありません。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
世界的規模、つまり、あまりにグローバルな話で、今一つ理解しづらいかもしれませんが、筆者の理解を大まかに述べておきます。&lt;br&gt;
ローマ帝国時代のディアスポラ以来、祖国を持たず、各国で差別迫害を受けながらも、世界規模で金融と資源と情報を支配する力をつけたユダヤ人は、律法（いわゆる旧約聖書）の教えにあるように、自分たちが神から選ばれた選民であり、世界中の土地と富は不当に収奪された、本来なら自分たちのものであるとの考えに基づき、それを取り戻すことに対し、何ら良心の呵責を感じることなく、反撃に出た。西欧社会におけるマイノリティであるユダヤ人は自由・平等・同胞愛をスローガンに、被抑圧者の横の連帯を訴えて、君主制という縦の関係を覆し、君主と貴族の財産を奪った。それがフランス革命です。&lt;br&gt;
自由と平等は本来矛盾をはらんだ概念で、それを調整するのが民主主義という制度で、そこに彼らが金融と司法とマスコミという持てる力を活用して干渉する余地が生ずるのです。一方で、自由を抑圧することでそれを達成しようとしたのが、無神論のユダヤ人が主導した国際共産主義運動です。彼らは君主制国家では内部では階級間の対立を煽り、外国との戦争を通じて体制を揺るがし、革命を成就しようと画策しました。&lt;br&gt;
彼らは英国やアメリカの金融街、すなわちシティとウォール・ストリートを策源地とし、彼らにとって有能だが下等な民族を使役して、自らの手を汚さずに目的を達成していきます。&lt;br&gt;
特に有用だったのが民主主義を採用している西洋国家で、同じ聖書（旧約聖書）を基盤とするキリスト教徒たちでした。&lt;br&gt;
彼らは西洋社会においては出自を隠し、溶け込むことが出来るので、そこに浸透することが出来ましたが、最後の国民国家である日本だけはそれが通用しません。そこで彼らは容姿の似ている民族を使嗾することで、目的を達成しようと考え、白羽の矢を立てたのが辛亥革命以来、内乱状態にあったシナ人であり、日本の敗戦後は朝鮮民族だったのです。&lt;br&gt;
彼らはシナにおいて蒋介石率いる国民党と毛沢東の共産党の双方に援助し、巧みに操ることで日本を泥沼の戦争に引きずり込んでいきました。アメリカはユダヤの出自を持つエージェントと呼ばれるキリスト教徒、フランクリン・ルーズベルト大統領がユダヤ人スタッフを重用して日本を戦争に追い込んでいきました。&lt;br&gt;
西欧で反ユダヤを掲げるナチスに対し同じ役割を担ったのが、シティとの関係が深いチャーチルでした。&lt;br&gt;
彼らは第一次、第二次の世界大戦に勝利し、壮大な世界制覇の野望を達成しました。&lt;br&gt;
国連常任理事国が、英米の民主制国家に加えて、ソ連と中華人民共和国という非民主制国家であったことの謎は、この視点からでしか解けません。&lt;br&gt;
その後、ドイツ人と日本人は勝者である彼らにとって都合のよい歴史観に洗脳されたまま、現在に至っています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
終戦の淵源として、七十四回目の終戦の日に、以上のことを明らかにしておきたいと思います。&lt;/font&gt;&lt;/span&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hidemikishuu/66809162.html</link>
			<pubDate>Thu, 15 Aug 2019 20:17:55 +0900</pubDate>
			<category>その他国際情勢</category>
		</item>
		<item>
			<title>日本の至宝と賢者の杖　【『皇室と論語』　（二十七）】</title>
			<description>&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;本稿は日本の至宝である皇室の伝統が、『論語』という、「賢者の石」ならぬ、言わば「賢者の杖」に支えられて、これまでの困難にして高尚な長い道のりを歩んできたことを明らかにしてきました。國體はこの賢者の杖によって成長を遂げてきたのです。&lt;br&gt;
　現代的思考になじまぬ内容で、読者にとって難解であったであろうことは承知していますが、今明らかにしておかなければ、いずれこの道は失われてしまうのではないか、その危惧の念が筆者にこのエッセイを書かせてきました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「令和」という新時代を迎えて、われわれ日本人は恐らく重大な岐路に立たされているであろうことを多くの人々は感じておられるでしょう。&lt;br&gt;
　この稿を書き始めた平成三十年末ごろから、筆者の日本の未来に関する危機感は高じる一方でした。とりわけ、皇室の伝統存続に対する危機感は大変深刻で、これまで百二十六代にわたり受け継がれてきた男系皇統断絶を意味する女系天皇誕生に向けた動きが、御代替わりに際して、政官財およびマスコミにおいて活発化していることが原因でした。&lt;br&gt;
　今でも「週刊文春」や「週刊新潮」における秋篠宮家バッシングは常軌を逸した形で行われていますが、これは愛子内親王への直系継承、すなわち女性天皇の誕生と次代における女系継承に向けての布石となる世論工作なのです。当然その背後には、プロローグで述べた勢力の暗躍があると思われるのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　今回の御譲位のきっかけとなったのは上皇陛下が平成二十八年八月八日、国民に向けて発表されたビデオメッセージでした。内容は、ビデオメッセージというような軽いものではなく、われわれ国民にとって伝統的な詔（みことのり）に匹敵する重みを持つと言ってもよいものでした。&lt;br&gt;
　視聴当時、筆者が妙に引っかかったのは、メッセージを、「個人として」の考えと前置きした上で、お話になられたことでした。公（おおやけ）の存在として無私であることを宿命づけられてきたのが皇室であると受け止めてきた筆者としては、天皇陛下御自身が「個人として」という御言葉を使用されること自体が異様に映ったのです。&lt;br&gt;
　そして、皇室の方々の公式の御発言と、皇室にまつわる不確かな情報を耳にするうち、畏れ多いことながら、陛下は長年にわたる御務めの中で、日本国憲法に魂を吸いとられておいでではないか、そんな疑念が鎌首をもたげるようになったのです。&lt;br&gt;
　しかし、「令和」への御代替わりに前後して、「和」の伝統について考えていた時、ふと「個人として」という御言葉は、天皇の国政に関する発言を禁止している日本国憲法に抵触せぬように配慮することで、敗戦以来、左右に分裂したままの国民世論の分断を防ぐためという「和」の大御心から出た御言葉ではなかったか、と思われたのです。そして、大嘗祭という秘儀の意義を考えた時、御即位の始めに大嘗祭を厳粛に執り行われ、毎年の新嘗祭を斎行して来られた陛下が、天津日嗣として天照大神の神霊を引き継がれ、全身全霊、無私でこれに取り組んでこられたはずの陛下が、本居宣長が「知ろしめす」の注釈で示した伝統的精神を受け継いでおられないはずがない、との確信に変わりました。すなわち、物を見るが如く、聞くが如く、食（を）すが如く、御身に受け入れ有（たも）つように、国を治め有つ、という伝統です。この君民同体という考えにおける君主とは、その人体を統一するところの心であり、精神であり、頭脳であり、首脳部ということになります。頭部はその人の本質、存在を象徴する最も重要な部位と言えるでしょう。&lt;br&gt;
　この確信は最近、江崎道朗氏の近著『天皇家　百五十年の戦い　日本分裂を防いだ象徴の力』を読んでさらに確固たるものとなりました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　公に奉仕し、無私であることを心がける人物の言葉を片言隻句で理解することが難しいのは、西郷隆盛を研究した時つくづく実感したものです。こういった公に一生を捧げた人物を理解するには、言葉だけでなく、行動も含めた思想全体を受け止めてみなければ理解できませんが、器のちっぽけなもの、イデオロギーにとらわれた偏狭にして小さな視野しか持たないものは、片言隻句と行動の一部を取り上げて、自己の立場に都合のいいように解釈し、プロパガンダとして利用します。&lt;br&gt;
　皇室の方々の御言葉も同様で、御言葉のみならず、御行動も含めた思想全体を受け止めなければ、その御真意を、御深意を理解することはできません。&lt;br&gt;
　先の「個人として」という言葉も、前後をよく読めば、われわれ私欲にまみれた一般人が「個人として」という言葉を使うのとは違って、公の規範である憲法に抵触せぬよう配慮しつつ、それをさらに超えた公としての伝統を背負われ、天皇という職分、言わば天職を宿命づけられた一人の人間として、という意味合いであることは明らかです。&lt;br&gt;
　この天下を「知ろしめす」という御立場から忖度して次のことが言えるのではないでしょうか。憲法の誤った解釈から宮中祭祀の縮小を行ってきた宮内庁が、ゲスな週刊誌の悪辣な秋篠宮家バッシング報道にいかに不作為で、皇統断絶を意味する女系天皇誕生への道を開くことにいかに意欲的であっても、天皇御自身が、正統な皇位継承者である秋篠宮家を差し置いて、女性天皇誕生（愛子内親王の即位）に肯定的であるはずがない、と。ただ国論の分断を避けるため、決して口になさらないだけではないか、と。&lt;br&gt;
　問題はこの国家国民の象徴たる皇室を支える日本の政治文化の著しい劣化衰退であって、今やほとんどの政治家と称される人々が、政事家ふぜいになりさがり、政治の本義「まつりごと」の重要性を理解し得なくなっているのが深刻な問題なのです。そもそも政治家とはそんなものなのだ、という大人ぶった常識は、認識の病が膏肓に入っている証拠です。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　メッセージを、一言一句削ることのできない金科玉条として、じっくりお読みいただければ、その大御心はおぼろげながらも理解できるようになるでしょう。繰り返し読むうち、それは、四海万国、天地の表裏をくまなく照らす日の光のように感じられる人もいるのではないでしょうか。その光は、日本国憲法という、国民を覆う灰色の雲を照らし出してさえいます。&lt;br&gt;
　長く大きな歴史の視座に立つ筆者にとって、日本国憲法は西の空に沸き起こる白い入道雲のように映りますが、そうでない人にとっては頭上を覆う灰色の重苦しい雲のようなものです。メッセージは雲の合間から差し込んだ日光で、その光によって縁どられた雲はその輪郭を露わにするのです。&lt;br&gt;
　そして、その光である大御心は新たに即位される今上陛下にも、「皇嗣殿下」（本来ならば皇太弟殿下）にも受け継がれているであろうことを筆者は疑いません。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　メッセージ全文を宮内庁ホームページより転載します。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「戦後70年という大きな節目を過ぎ，2年後には，平成30年を迎えます。&lt;br&gt;
私も80を越え，体力の面などから様々な制約を覚えることもあり，ここ数年，天皇としての自らの歩みを振り返るとともに，この先の自分の在り方や務めにつき，思いを致すようになりました。&lt;br&gt;
本日は，社会の高齢化が進む中，天皇もまた高齢となった場合，どのような在り方が望ましいか，天皇という立場上，現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら，私が個人として，これまでに考えて来たことを話したいと思います。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
即位以来，私は国事行為を行うと共に，日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を，日々模索しつつ過ごして来ました。伝統の継承者として，これを守り続ける責任に深く思いを致し，更に日々新たになる日本と世界の中にあって，日本の皇室が，いかに伝統を現代に生かし，いきいきとして社会に内在し，人々の期待に応えていくかを考えつつ，今日に至っています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
そのような中，何年か前のことになりますが，2度の外科手術を受け，加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から，これから先，従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合，どのように身を処していくことが，国にとり，国民にとり，また，私のあとを歩む皇族にとり良いことであるかにつき，考えるようになりました。既に80を越え，幸いに健康であるとは申せ，次第に進む身体の衰えを考慮する時，これまでのように，全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが，難しくなるのではないかと案じています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
私が天皇の位についてから，ほぼ28年，この間(かん)私は，我が国における多くの喜びの時，また悲しみの時を，人々と共に過ごして来ました。私はこれまで天皇の務めとして，何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えて来ましたが，同時に事にあたっては，時として人々の傍らに立ち，その声に耳を傾け，思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました。天皇が象徴であると共に，国民統合の象徴としての役割を果たすためには，天皇が国民に，天皇という象徴の立場への理解を求めると共に，天皇もまた，自らのありように深く心し，国民に対する理解を深め，常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において，日本の各地，とりわけ遠隔の地や島々への旅も，私は天皇の象徴的行為として，大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め，これまで私が皇后と共に行(おこな)って来たほぼ全国に及ぶ旅は，国内のどこにおいても，その地域を愛し，その共同体を地道に支える市井(しせい)の人々のあることを私に認識させ，私がこの認識をもって，天皇として大切な，国民を思い，国民のために祈るという務めを，人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは，幸せなことでした。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
天皇の高齢化に伴う対処の仕方が，国事行為や，その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには，無理があろうと思われます。また，天皇が未成年であったり，重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には，天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし，この場合も，天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま，生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。&lt;br&gt;
天皇が健康を損ない，深刻な状態に立ち至った場合，これまでにも見られたように，社会が停滞し，国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして，天皇の終焉に当たっては，重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き，その後喪儀(そうぎ)に関連する行事が，1年間続きます。その様々な行事と，新時代に関わる諸行事が同時に進行することから，行事に関わる人々，とりわけ残される家族は，非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが，胸に去来することもあります。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
始めにも述べましたように，憲法の下(もと)，天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中で，このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ，これからも皇室がどのような時にも国民と共にあり，相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう，そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく，安定的に続いていくことをひとえに念じ，ここに私の気持ちをお話しいたしました。&lt;br&gt;
国民の理解を得られることを，切に願っています。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　問題は国民がこの理解を怠り、大御心をそのまま受け止められなくなっていることではないでしょうか。本稿では、陛下の御言葉にあるように、天皇が象徴であり、国民統合の象徴であることの意味を、根源にまで遡って自分なりに考えてみました。賢者の杖を失った現代日本人のどれぐらいに人びとの理解と共感を得ることが出来たか、心許ありませんが、一国民として数年にわたって考えてきたことをまとめ、さらに突き詰めてみたつもりです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　そして、そこまで象徴というものの意味を考えた時、皇室が英国流立憲君主というものを御手本にされるということを是とするなら、憲法改正を論議するに際して、いっそのこと、単一の憲法典というものを持たない英国の國體に倣って、成立の経緯から見て無効な日本国憲法を破棄し、國體を象徴する歴代天皇の詔勅の集成を以て憲法と為す、あるいはこれらを以て憲法前文と規定する、それくらいの根源的な態度を持って臨んでもいいのではないか。つまり、王政復古であり、維新としての改憲ということです。&lt;br&gt;
　なぜ、歴代天皇の詔勅を憲法に定めるべきだと考えたかは、それらが、國體が自ずと顕現している金科玉条であるからにほかなりません。思い出していただきたいのは、成文憲法である大日本帝国憲法は、制定された明治からの世代交代により國體が見失われたことによって解釈、そしてそれに基づく運用を誤った結果、国運の衰退を招来してしまったことです。現在の日本もまた、大変出自の怪しい憲法の、國體観を見失ったエリートたちによる、さらに誤った解釈、誤った運用により、国運の衰退を招いて今日に至っていますが、今や更なる困難に直面して、取り返しのつかない過ちを再び犯そうとしているのではないでしょうか。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
【『皇室と論語』　終わり】&lt;br&gt;
&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;
&lt;div class=&quot;notice&quot;&gt;&lt;/div&gt;
&lt;br&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hidemikishuu/66794526.html</link>
			<pubDate>Fri, 28 Jun 2019 07:53:16 +0900</pubDate>
			<category>日本史</category>
		</item>
		<item>
			<title>天照大神　【『皇室と論語』　（二十六）】</title>
			<description>&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;「からごころ」による大嘗祭の考察は、要するに、これを創始し、伝統として保持してきた人々の中に、「からごころ」に引かれ、天子の大祭である「郊社」「&amp;#31128;嘗」の祭を誠実に執り行うことによって、その本義を明らかにして、掌を示（み）るように国を治めることが期待されたように、代始めの大嘗祭には、新たに即位された天皇が天津御神、なかんづく天照大神を祭る秘儀を、誠意を以て執り行うことによって、掌を示るように天下を治めることが期待されたのではなかったか、それを問題提議したかったからにほかなりません。&lt;br&gt;
　だとすれば、毎年行われる新嘗祭はその実践的意義を持つことになります。&lt;br&gt;
　この視点に立てば、大嘗祭及び新嘗祭は天皇が天下を治めるための秘儀ということになります。この秘儀が、「からごころ」の影響が特に強く、律令制を整備し、歴史編纂事業に意欲的であった天武王朝時代に整備された、というのはその事を傍証しているように思われるのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　ここで大嘗祭及び新嘗祭の主祭神である天照大神について考えてみたいと思います。&lt;br&gt;
　本居宣長は『古事記伝』で、この大神に対する儒典及び仏典による解釈を排して、高天原とは天（アメ）を指して言い、天照大神は、今も目の当り天の虚空（ソラ）に仰ぎ見奉っている日こそそれである、と断言しています。&lt;br&gt;
　「ビ（日・比・毘・霊）」は凡て物の霊異（クシビ）なるを言い、「ムスビ（産霊）」「クシビ（久志毘）」「ナオビ（直毘）」「マガツビ（禍津日）」などの「ビ」は皆これだと言います。&lt;br&gt;
　そして、天地間で最も霊異（クシビ）なる存在こそ天照大神です。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「高天の原にまします天照大御神を、此の地（クニ）より瞻望（ミサケ）奉りて、日（ヒ）と申すも、天地の間に比類（タグヒ）もなく、最も霊異（クシビ）にますが故の御名なり。比古（ヒコ）比賣（ヒメ）などの比（ヒ）も、霊異（クシビ）なるよしの美称（タタヘナ）なり。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　ここで現代の生活常識に立ち返って考えてみたいと思います。&lt;br&gt;
　信仰を失ったわれわれ現代人がいかに否定しようと、古代、神代の人びとがそう名付けたように、日が天および天下を照らす尊い存在であることに変わりないし、日の徳（めぐみ）なしで一日とて生命の維持ができないことに変わりはありません。自然の順行が調和を乱せば、往々にして、この神は、容赦なく照りつけて旱魃となり、あるいは雲に隠れがちになって冷害となり、動植物の成長を阻害して、人間の生活に甚大な影響を及ぼしてきました。徳（めぐみ）への感謝は、否応なしに、その背後に畏怖の情を伴わざるを得ませんでした。これらは最新の科学でも否定しようがない厳然たる事実であるし、地球に人類が存続する限り、未来永劫、これを否定することは出来ないでしょう。&lt;br&gt;
　自分の生活にしか関心のない一般庶民でも、朝起きればいつものようにこの神が昇っていることを信じきっているし、この神の顔色を中心とする天気を窺いながら活動しているのです。天気予報はまさに日とこれを隠す雲と天（あめ）から落ちてくる雨の表象で表現され、通常なら、この神が照れば、われわれの気分も晴れやかになるし、逆に照らなければ気分は沈みがちです。そして、夕方になって、山の彼方に、あるいは海の彼方に、あるいは建物の間に、この神が去れば、われわれは休息に向かい、また明日の準備に取り掛かる。われわれの日常生活はこの事の繰り返しです。&lt;br&gt;
　天を照らす大神が去れば天空は深い闇に覆われる。雲がなければこの闇には幾千万の星々が瞬くが、地上を照らし出すほどの明るさではありません。この闇夜を照らすのは月神で、すなわち冷めた月の光ですが、これは日の反射光であり、いわば天照大神の余光であり、残照です。&lt;br&gt;
　夜が明ければ「明日」がやってくる。「明日」という言葉自体、「明くる日」すなわち「次の太陽」「次の日照」という意味です。「明」という漢字自体が「日」と「月」から成っている。暦は明治五年の改暦までは、太陰太陽暦といって、月と太陽の運行で表されました。その名残が何月何日という表現ですが、現在の暦は太陽と地球の公転運動を表す「年」と自転運動を表す「日」で表されています。われわれの四季折々の生活習慣、日々の生活のリズムは日輪の動きを中心に形作られているのです。&lt;br&gt;
　考えてみれば、これ以上、普遍的で確実、自然な信仰があるでしょうか。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　日神の徳を自覚し、その徳に感謝を奉げるために、一年に一度、新穀をこの神に供して生活する人々がおもに九州地方に在住していた。そこは日向と呼ばれる地で、彼らは実際に、日の出る方向に向かって勢力を拡張し、その稲作を中心とする生活文化を携えて、本州に根拠を移していきました。これが神話に反映されています。&lt;br&gt;
　この日神の信仰を持つ人々は「ひこ（日子・彦・毘古など）」、女性は特に「ひめ（日女・姫・比売・毘売・媛など）」と呼ばれました。「邪馬台国」の「卑弥呼」だって、直感的には「やまと」の国の「日の御子（巫女）」と見てまず間違いないでしょう。&lt;br&gt;
　これらの人々の内で、実際に日に向かって冒険的な事業に乗り出す英雄が現われました。「何地（いづこ）に坐（ま）さば、平（たい）らけく天の下の政を聞（き）こしめさむ。なほ東に行かむ。」と勅した神武天皇がそれです。東は「ひむがし」は「ひむかし」で、「日向処」「日向風（し）」の転訛した、日の方角を意味する古語です。&lt;br&gt;
　以下は『古事記』の物語です。&lt;br&gt;
　日出ずる方向への進出である神武天皇の東征事業は困難を極めましたが、この困難は信仰が解決しました。&lt;br&gt;
　「吾は日の神の御子として、日に向かひて戦ふこと良からず。…今者（いま）より背に日を負ひて撃たむ。」&lt;br&gt;
　軍勢は紀伊半島の最南端を廻って、熊野より日を背にして進軍し、現在の奈良の橿原の地に入り、宮を建設して、東征を成功裏に終えたのです。これが記紀に伝えられるところの大和朝廷の起源です。&lt;br&gt;
　ちなみに日に向かって戦って手痛い敗北を喫したのが、大東亜戦争、なかんづく太平洋戦争と呼ばれる対米戦争でした。真珠湾攻撃など愚の骨頂で、日本は日を背に、北西に進んでソ連を討つか、南西に進んで大英帝国を討つことに集中すべきでした。そうすればアメリカは手の出しようがなかったのです。&lt;br&gt;
　話を戻しましょう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　われわれ現代人は、日の下を意味する「日本」の国号、太陽を表す日章旗「日の丸」を掲げ、太陽の存在を信じ、その徳（めぐみ）を受けながら生きている。この意味で、いまだにわれわれ日本人は潜在的に「ひこ」であり、「ひめ」なのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　初代神武天皇以来、現在に至るまで、歴代天皇は天照大神の神勅を守り、この日神の霊力を畏れ、敬い、これを「まつる」ことで、この国を治めてきました。大嘗祭はその神霊を受け継ぐ儀式とされています。&lt;br&gt;
　折口信夫の説は既に紹介しましたが、所功氏によれば、神嘗祭は新穀を供することによって天照大神に神威を盛り返していただく祭であり、新嘗祭は、その神威を盛り返した天照大神の霊力がこの皇祖の子孫である天皇の体内に伝えられ、「皇御孫命（すめみまのみこと）」としての生命力を盛り返される祭である、との解釈を示しておられます。特に大嘗祭については、「その本質は前述の新嘗祭と通ずることであって、神話にみえる天照大神が天孫ニニギノミコトに『斎庭の穂』を授けられたごとくに、天照大神の霊威を皇御孫命たる歴代天皇が受け継がれ、天つヒツギ（日嗣＝霊継）のスメラミコトとしての霊力を獲得されるものと考えられる」としています（所功『「国民の祝日」の由来がわかる小事典』）。&lt;br&gt;
　しかし、もう少し整理しておくと、即位直後に行われる一代一度の大嘗祭によって、天照大神の神霊を受け継いで天津日嗣として完成した天皇が、毎年行われる新嘗祭において、交霊を継続し、その霊力の維持に努めている、ということになります。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　いつの頃からかわかりませんが、大嘗祭において、神座に足を踏み入れることはなくなったようです。古式ではそうではなかったという説もありますが、よく分りません。最初から足を踏み入れることがなかったのかもしれません。&lt;br&gt;
　だから布団が「真床追衾」を意味するものなのかどうか分りませんが、少なくとも、神が降臨する神代（かみしろ）として、寝具その他が用意されるのは間違いないでしょう。本儀は日没から日の出までの間に執り行われるのであり、天および天下を照らす大仕事を終え、地上にあるわれわれの視界から姿を消した大神に降臨して頂き、寝具と食事を用意して、これをもてなし、鶏鳴までに天空に御帰りいただく。そして、日の出を迎えるというのは、日本人としての生活感覚から容易に想像できます。日の出、日の入りというのは、一日の中で唯一、われわれがこの神の姿を直視し、拝むことが出来る時間帯です。日が完全に昇れば、われわれはこの神の霊力を温熱として体感は出来ても、その姿を直視することは叶いません。直視すれば、網膜は焼かれ、眼は眩むのです。天日に長くさらされれば、われわれの肌はじりじりと焼かれてしまいます。このように、この神がわれわれに直視を許さない存在であることが、鏡を下げ渡しての「吾が前を拝くが如く拝き奉れ」となったに違いありません。以来、この大神への拝礼は基本的に神代・形代を通してのものとなりました。&lt;br&gt;
　こういった日神認識の痕跡を示しているのが、すでに紹介した『古事記』の雄略天皇の段に採録されている天語歌です。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「纏向（まきむく）の日代（ひしろ）の宮は、朝日の日照る宮、夕日の日がける宮、竹の根の根垂る宮、木の根の根蔓（ば）ふ宮、八百土（やほに）よし　い築（きづ）きの宮、真木さく　檜の御門。&lt;br&gt;
新嘗屋（にいなへや）に生い立てる　百足（ももだ）る槻（つき）が枝（え）は、上枝（ほつえ）は天（あめ）を覆へり、中つ枝は東を覆へり、下枝（しづえ）は鄙を覆へり、…」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「纏向の日代の宮」とは景行天皇の宮のことで、この宮を｢日代の宮｣といい、朝日が照り、夕日が陰る宮だというのです。「しろ（代）」は宣長によると「それと定めて区（かぎ）れる処を云」い、「城」に通じるようですが、「代」という漢字は「代替」「代わり」を意味しています。「日代の宮」とはおそらく、日すなわち日神の依り代、日の神が光臨される宮、から来た名でしょう。&lt;br&gt;
　『古事記』が伝えるところによると、雄略天皇の御代に長谷（はつせ）の百枝槻（ももえつき）の下で、豊楽（とよのあかり）の宴会が行われました。豊楽とは後の豊明節会のことで、新嘗祭の翌日に行われる直会（なおらい）の宴会です。その宴会の中で、伊勢の国、三重の采女が盃を献上しましたが、槻の葉が盃に落ちて、気づかぬままに大御酒を勧めることになった。これに気づいた天皇は怒り、采女を打ち伏せ、刀を頸に差し当てて今にも斬らんとしたそのとき、采女が謡い始めた歌が先の歌です。&lt;br&gt;
　歌は次のように続きます。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「…上枝の枝の末葉（うらば）は中つ枝に落ち触らばへ、中つ枝の枝の末葉は下つ枝に落ち触らばへ、下枝の枝の末葉は、あり衣の三重の子が指挙（さきが）せる瑞玉盞（みづたまうき）に浮きし脂、落ちなづさひ、水こをろこをろに　是（こ）しもあやに恐（かしこ）し、高光る日の御子、事の語言（かたりごと）も是（こ）をば」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　これを聞いた天皇はその罪を赦し、誉めて数多の禄を下賜しました。采女の歌の後、皇后が謡った歌と続けて天皇が謡った歌、三歌を併せて「天語歌（あまがたりうた）」といい、天語連などが歌い伝えてきた物語風の歌なのだといいます。&lt;br&gt;
紀貫之が『古今和歌集』の「仮名序」で言ったように、歌が雄略天皇の心を和らげたのです。雄略天皇は采女の言霊によって、新嘗の祭りを始めたと伝えられてきた景行天皇を想起し、自身が継いだ高光る日の御子としての天皇霊を呼び起こされたのでしょう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　古代の人々にとって、天照大神が「まつり」に応じて降臨するとすれば、それはこの神が天上天下を照らすという大仕事を終え、休息するはずの、日の入りから日の出までの時間帯しかありませんでした。&lt;br&gt;
　これは神嘗祭、新嘗祭でも同様です。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　平安時代後期の官僚・大江匡房が著した有職故実書『江家次第』によると、新嘗祭神饌の儀の配置は、新儀式においては、中央に南北三行に敷いた神座としての八重畳、その東方に御座畳、その更に東に短畳を設け、主上は神座を背にして、短畳の神座と東向きに相対することになるといいます。大江匡房より少し後の平安時代後期の公家・平信範の日記『兵範記』では、御座と神座を東南に連ねるように斜めに置き、中央神座には神衾を置く、と記録されているといいます。&lt;br&gt;
　これが大嘗祭となると、『江家次第』によれば、中央の神座の東に、御座を半ば重なるように置き、神座中央に神衾と枕を置くといいます。&lt;br&gt;
　このあたりにこれらの秘儀における天照大神に対する認識の混乱、あるいは変化が見られるように思われます。東は当然、旭日を拝む形でしょうし、東南はおそらく伊勢神宮の方角でしょう。大嘗祭で神座と御座を半ば重ねるのは、降臨した天照大神と天皇の交霊の場であることを表すのでしょう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　これらの大祭は、日中に行われる日常の祭、例えば、天皇が毎日、明け方に行う神拝や伊勢神宮で毎朝夕に行われている大御饌とは異なります。神代に対して「吾が前を拝くが如く拝き奉れ」との『古事記』の神勅に忠実なのがこれら日常の祭儀だとすれば、大祭は夜になって天から御隠れになられた天照大神そのものをその場に招き、わざわざ御越しいただいて、直に言霊による霊の交感が行われる祭として位置づけられているように思われるのです。&lt;br&gt;
　それもこれも、天照大神とは日のことなのだ、との前提に立たなければ腑には落ちないのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　こういった日神信仰を核心とする天皇の統治のあり方について、再び本居宣長が『古事記伝』において説くところに耳を傾けてみましょう。&lt;br&gt;
　天照大神は天（雨）を指す高天原にましまして、「汝（な）が命（みこと）は高天原を知らせ」と事依（ことよ）さし賜える伊邪那岐命に随いて、天地（あめつち）とともに無窮（とこしえ；常）に高天原を所知看（しろしめ）して、四海（よものうみ）万國（よろずくに）、天地の表裏をくまなく御照らしましまして、この御霊（みたま）を蒙（かかう）らずということなければ、天地の限りの大君主（おおきみ）にましまして、世に無上至尊（かみなくとふと）きはこの大御神になむましましける。&lt;br&gt;
　君が御国を治め有（たも）ちましますを、「知（しらす）」「食（をす）」「聞看（きこしめす）」とも言う。「所知看（しろしめす）」は文字通り、知り見るということで同じ意。物を見るも、聞くも、知るも、食う（をす）も、皆他の物を身に受け入れるという同じ意であり、君が御国を治め有（たも）ちますは、物を見るが如く、聞くが如く、食（をす）が如く、御身に受け入れ有つ意である。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　これは大日本帝国憲法制定のところでも出てきましたが、これに対比される統治のあり方が「うしはく」です。出雲の国譲りの段で、天照大神は大国主神に問わしめた「汝（な）がうしはける葦原の中つ国は我（あ）が御子の所知（知らさむ）國」という言依（ことよさし）の中に出てくる言葉です。&lt;br&gt;
　「うし」は「主（うし）」、「はく」は「刀を佩（は）く」、「沓を着（は）く」の「はく」で、「身に着けて持つ」を意味し、主（うし）としてその処を我が物と領居（しりを）ることを言う、というのが宣長の解釈です。&lt;br&gt;
　つまり、「うしはく」とは領有支配するということですが、「しらす」というのは高所からのより大きな概念に基づく言葉であることが分かります。&lt;br&gt;
　「しらす」が、宣長の言うように、物を見るが如く、聞くが如く、食すが如く、眼耳口などを通じて、わが身に受け入れるようにして、知覚し、血肉と化す、というなら、一心同体の物として有つことになります。もちろん、君とはその人体を統一するところの心であり、精神であり、頭脳であり、首脳部ということになるでしょう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「しらす」は『日本書紀』では「おさめる」と訓ぜられることになる「治」という漢字で表現されています。「治」は治水に由来する漢字で、祓い清めること。「まつりごと」とも訓ぜられます。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　ここで、孔子が「&amp;#31128;」の祭りの本義について、「知らざるなり。其の説を知る者の天下に於けるや、其れ諸（こ）れを斯（ここ）に示（み）るが如きか。」と言って、その掌（たなごころ、手のひら）を指された、といい、天子・聖人の大徳を述べた『中庸』の第六章で「&amp;#31128;嘗」について、次のように言っていたことを思い出して下さい。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「郊社の礼は上帝に事うる所以なり。宗廟の礼は、その先を祀る所以なり。郊社の礼、&amp;#31128;嘗の義に明らかなれば、国を治ることそれこれを掌に示（み）るが如きか。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　天下を治める究極の統治のあり方、先王の道とは、天子のみが成し得るところの、天を祀り、その祖先の霊を祀ることによって体得した意義によって、掌の上に示（み）るように天下を治めることなのです。&lt;br&gt;
　この孔子の理想を日本において受容、応用し、窮めたと思われるのが大嘗祭で、だとすれば、皇孫としての日御子のみが成し得る皇祖皇宗の道は、高天原から天下をしろしめす天照大神を祀り、天皇霊を体得して、掌の上、あるいは高天原から鳥瞰するように物事を見、かつ聞き、かつ食すように、治める（しらす）ことになります。&lt;br&gt;
　それが天下を表裏くまなく照らすように、ということはわが身に受動的に受け入れるのみならず、能動的にしらすということでもあります。祭祀を中心とする象徴的行為によって、禍事（まがこと；凶悪事）、穢れを祓い清め直して、吉善事（よごと）に立ち復らせる。明治維新で唱えられた天皇親政とは、象徴的行為を祭祀以外にもさらに拡大したものですが、概ねそのような意味合いを含んでいると言えるでしょう。&lt;br&gt;
　それは立憲君主として政治的発言をしないという態度とは異なります。&lt;br&gt;
　昭和天皇以来の英国王室流の立憲君主を模範とする統治のあり方はわが国本来の國體とはこの点で大いに異なるのです。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hidemikishuu/66786404.html</link>
			<pubDate>Fri, 07 Jun 2019 17:13:18 +0900</pubDate>
			<category>祭りと伝統</category>
		</item>
		<item>
			<title>「令和」新時代的考察…「からごころ」から考える大嘗祭の秘儀 【『皇室と論語』（二十五）】</title>
			<description>&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;ここまで紹介した、神道および皇室祭祀に精通しておられる諸氏の説はそれぞれ強い説得力があります。まさに「心、誠に之を求むれば、中らずと雖も遠からず」（『詩経』『大学』）と言ったところでしょう。しかし、古い起源を持つ祭儀の意義には、本来、理による解釈を拒むようなところがあるのではないでしょうか。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　本居宣長によれば「かんがえる」、すなわち「かんがふ」とは、「かむかふ」の音便で、「かれとこれとを比校（アヒムカ）へて思ひめぐらす意」だといいます。これは今で言う「比較考量」の意ですが、小林秀雄はこれをたたき台に、「むかう」を「身（む）」「交（か）う」と解していいなら、自分が物事を考えるということは、物事をむかえ、これと親身に交わることだ、ということを言っています。物事を親身に感じて、思いをめぐらしながら生きることで、その経験によりようやく啓ける認識が知であって、宣長はこういった経験を持たない、すなわち考えるということをまるでしない「世の物しり」と言われる人々、今ならさしずめ知識人やインテリと呼ばれる人々を大変嫌悪しました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　荻生徂徠もまた、シナ儒教の伝統についてですが、同様の思考をめぐらした人物です。徂徠は朱子学の「格物窮理」あるいは「格物致知」の説を批判して、『大学』のいわゆる「格物」というものについて、先王の教えに遵ってその事に久しく習ううちに自然に得る所があり、その後にはじめて知る所は明らかになるものだが、宋儒の説くところの「格物窮理」とは、これらを経ずして、是を是とし、非を非とする類の世俗の知にすぎない、と。&lt;br&gt;
　徂徠学において「格（いたる）」は古文辞により「きたる」と訓ぜられ、「物格（きた）りてしかるのち知至る」と解釈されることになります。久しく習熟する内に真理は向こうからやってき、知はそこから啓ける、というのです。&lt;br&gt;
　朱子学の重んずる所の「理」というものは、事物に自然にあるもので、我が心を以てこれを推度し、その必ずまさにかくのごとくなるべきと、必ずかくのごとくなるべからざるとを見ることである、と徂徠は言います。人の見るところは各々その性を以て異なるもので、だから「理」というものはどこにでもあり、何にでも引っ付く、定準なきものとなる。この「理」を一定するには窮め尽くす必要があるが、天下の理のような大なるものは、聖人だけがその性を尽し、また人の性を能く尽し、物の性を能く尽し、天地とその徳を合することでようやく窮め尽くすことが出来るのである。そして、その結果、聖人が立てた窮極の定準こそ、「礼」と「義」に他ならない、というのが徂徠の主張です。だから、学者は須らく聖人が創作したところの詩書礼楽を習熟し、聖人の礼儀を立てし所以の理を得なければならない。&lt;br&gt;
　これが徂徠の「知」や「理」に関する考えです。&lt;br&gt;
　徂徠が批判したのは主に朱子学者ですが、宣長の「かんがふ」に近い態度であることが分かると思いますが、それもそのはず、宣長は徂徠の著作の愛読者だったのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　理はその性質上、言葉によって表現されるほかありませんが、古来「言の葉」は所詮「事の端」であり、事の本体そのものではありません。&lt;br&gt;
　「理」という漢字そのものにしてからがそうで、「王（玉）」と「里」から成りますが、その「里」は「田」と「社」の初文である「土」から成り、農地を意味し、その条理整然たる様を表すようになり、これが「王（玉）」と結びついて、「理」は「玉」の文（あや）を指すようになったのです。『説文解字』に「玉を治むるなり」とあり、『韓非子』には「王、すなわち玉人をして玉を理（をさ）めしむ」とあるそうです（白川静『字通』）。そこで、原石としての璞（あらたま）を磨いて、その美しい文・理を明らかにすることを意味するようになったのです。&lt;br&gt;
　われわれ現代人は玉の文理、すなわち「理」をその実体と勘違いし、それで理解したつもりになりがちですが、そうなれば「理」は玉そのものから離れていくばかりです。名あっての物ではなく、物あっての名である。つまり、玉あっての「理」であり、「理」は玉の一面を表すに過ぎない、ということを忘れてはならないのです。&lt;br&gt;
　日本人はこれまでこの「理」という漢字を「おさめる・ただす・みがく・ととのえる」あるいは「あや・すじ・きめ」「みち・のり・まつりごと・ことわり」などと訓じてきました。&lt;br&gt;
　「理」という多様な意義を持つ漢字を、深く理解してきたことが窺えますが、中でも「ことわり」という訓は、古人の思惟の深さを示していて興味深い。&lt;br&gt;
　「ことわり」とは「言・割り」あるいは「事・割り」であり、物事を割ってその内部まで分け入ることです。そのことによって物事をより深く、よりよく知る。しかし、それで割り切ってしまえば、見えるのはその断面のみで、かけがえない実体そのものは失われてしまいかねません。「ことわり」という訓は「理」というものの性質の一端を見事に表現しているのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　このことは皇室の祭祀についても言えそうです。&lt;br&gt;
　大嘗祭に関する先賢の解釈は玉を大事に磨き上げた、意を尽くしたものですが、それで割り切ってしまえるようなものでもありません。もちろん、これは「理」として述べた先賢への批判ではなく、それを読んで「理」を得ようとするわれわれの側の態度を問題にしています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　ここで本居宣長がいうところの「からごころ」で大嘗祭を考察してみましょう。&lt;br&gt;
　というのは、古代の精神を伝えるもっとも有力な史料は文字記録であり、それは漢字、すなわち「からごころ」を満載した文字で記されているからです。これを潜り抜けなければ、そこにたどりつくことは難しい。&lt;br&gt;
　「令和」の新元号発表から間もなく、新札発行が発表されましたが、これまで明治のオピニオン・リーダーで文明開化の精神の象徴的存在であった福沢諭吉が務めてきた一万円札の新たな肖像は渋沢栄一となりました。現在の世界の潮流は道徳を欠いた拝金主義であるグローバリズムですが、渋沢栄一はこれとは反対に、『論語と算盤』でよく知られるように、道徳と経済活動を結びつけることを説き、人生をかけて実践した人物です。「令和」にしても、新札の肖像に渋沢が選ばれたことにしても、要するに、そこには安倍内閣のアンチ・グローバリズムの希望が込められているのです。渋沢の説く道徳は『論語』に集約されますが、そもそも「経済」という言葉も漢語の「経世済民」に由来し、同じ根を持つものです。これまで書いてきた筆者の主張、すなわち「からごころ」を潜り抜けた上での「やまとごころ」による考察が、復古思想という極端なアナクロニズム（時代錯誤）に見えて、実は時代を先取りしたものであったことを表しています。ニーチェが『反時代的考察』で示したテーゼが実は時代を先取りしたものであったことと同様です。新思潮の便乗者は勘違いしているかもしれませんが、実はグローバリズムこそ、現れ方は違っても、ユダヤ思想に深い根を持つ古い古い思想にほかならないのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「からごころ」を満載した漢字の書物として日本に最初にもたらされたのはすでに触れたように『論語』ですが、孔子の祭に対する態度はすでに紹介しました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「祭ること在すが如くし、神を祭ること神在すが如くす。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　これは古言の引用という説もありますが、孔子が祭において実践してきたのは確かです。そして、続けて次のような感想を漏らしています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「吾れ、祭に与らざれば、祭らざるが如し。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　これは『論語』巻第二「八&amp;#20350;」篇の一条ですが、この篇は「礼」に関する問答が中心となっていて、その前条で孔子は次のように言っています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　ある人が天子の大祭である「&amp;#31128;（てい）」の祭の意義を孔子に尋ねた。&lt;br&gt;
　孔子答えて曰く、&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「知らざるなり。其の説を知る者の天下に於けるや、其れ諸（こ）れを斯（ここ）に示（み）るが如きか。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　そう言って、その掌（たなごころ、手のひら）を指された、といいます。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　白川静『字通』によれば、「&amp;#31128;」という漢字は、「五歳一&amp;#31128;の祭祀は王者にのみ許されるものとされ、卜辞では上帝や祖先神、また金文では直系の先王を祀るときに&amp;#31128;という」とのことです。&lt;br&gt;
　『礼記』の一部をなす『中庸』の一節には「&amp;#31128;嘗」という言葉が出てきますが、これはまさに「宗廟の大祭と秋の時祭」を意味しています。&lt;br&gt;
　「嘗」という漢字は、「供薦して神を迎え、神の詣（いた）ること」を意味します。これに「新」を加えた「新嘗（しんじょう）」という漢語は「新穀を以て祀る」ことを意味し、『礼記』「月令」篇に「農乃ち穀を登（すす）む。天子、新を嘗（な）む」とあって古い漢語です。わが国での用例と同じですが、折口信夫も述べたように、俗に言う「なめる」という意味ではありません。物忌みして贄を奉り、神を迎えることです。&lt;br&gt;
　「神嘗」という漢語のほうは出典を明らかにしませんが、神が供饌を食すことです。&lt;br&gt;
　「宗廟の大祭と秋の時祭」という意味だけなら、わが国の大嘗祭・新嘗祭は「&amp;#31128;嘗」と同義になってしまいますが、この漢語は使われません。&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
　「&amp;#31128;嘗」という言葉が出てくる『中庸』の第六章は天子・聖人の大徳を述べたもので、次のようになっています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「子曰く、武王・周公は、それ達孝なるかな。それ孝とは善く人の志を継ぎ、善く人の事を述ぶる者なり。&lt;br&gt;
春秋にはその祖廟を脩（おさ）め、その宗器を陳（つら）ね、その裳衣（しょうい）を設け、その時食を薦む。…（中略）…その位を践み、その礼を行い、その楽を奏し、その尊ぶ所を敬し、その親しむ所を愛し、死に事うること生に事うるが如くし、亡に事うること存に事うるが如くするは、孝の至りなり。&lt;br&gt;
郊社（こうしゃ）の礼は上帝に事うる所以なり。宗廟の礼は、その先を祀る所以なり。郊社の礼、&amp;#31128;嘗の義に明らかなれば、国を治ることそれこれを掌に示（み）るが如きか。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　天子というシナの概念を受容してもいる皇室は天（上帝）と地（土地神）を祀る「郊社」と同義の「郊祀」の祭も行ったことがあります。史料上確認できるのは、平安京を開いた桓武天皇の御代に二度、七十余年後の文徳天皇の御代に一度だけで、これで全てなのか、それともまだ他に行われたことがあったのかはっきりしません。しかし、修辞上のことなら、『日本書紀』によれば、「郊祀」は初代神武天皇が即位して四年目に行われています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「四年の春二月の壬戌（みづのえいぬ）の朔（ついたち）、甲申（きのえさるのひ）に、詔（ことよさ）して曰く『我が皇祖（みおや）の霊（みたま）、天（あめ）より降り鑒（み）て、朕が躬（み）を光（てら）し助けたまへり。今諸（もろもろ）の虜（あたども）已（すで）に平けて、海内（あめのした）事無し。以て天神を郊祀（まつ）りて、用（も）て大孝（おやにしたがふこと）を申（の）べたまふべし』とのたまふ。乃（すなわ）ち霊畤（まつりのには）を鳥見山（とみのやま）の中に立てて、…（中略）…用（も）て皇祖天神（みおやのあまつかみ）を祭りたまふ。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　『日本書紀』は漢語表現、すなわち「からごころ」の引力に引かれた書物ですから、編纂時、高天原に在す皇祖神を以て、天帝に擬えて「郊祀」との漢語を用いたのかもしれませんが、その祭祀の内容は、あくまでも「やまとごころ」であり、斎場を設けて、神勅を享けての事業の報告と神の加護に感謝の意を奉げることです。つまり、折口の見解に従えば、天津神の命令「またし」の執行復奏である「まつり」です。&lt;br&gt;
　この神武天皇が即位後初めて行った大祭祀「郊祀」の内容は、新穀の供進さえ行われていないものの、祝詞の内容を考えると大嘗祭・新嘗祭にも継承されているとみていいのではないでしょうか。すなわち神勅継承の儀式と毎年の事業の報告と、神の徳（めぐみ）への感謝の儀式としての側面です。それはすでに紹介した元文三年の桜町天皇の祝詞にも継承されていますし、今もなお継承されているとみていいでしょう。&lt;br&gt;
　以後、「&amp;#31128;」はもちろん、一部例外を除いて「郊祀」「郊社」の祭は、宮中祭祀として行われなくなったについては、漢語についての理解が深まって、古典の世界においてはともかく、周王朝以降のシナにおけるこれらの語の用例が、皇室の始原と必ずしも一致しないことが強く意識されるようになったからでしょう。「&amp;#31128;嘗」にしても、天命をその正統性の根拠とする周王朝の成立以来、先祖の始原として天（上帝）を祀るようになったシナ歴代王朝の「&amp;#31128;」とは区別して、「嘗」の文字のみが用いられたのでしょう。大嘗祭・新嘗祭は皇室の祖先神を祭る儀式であり、日本において、天（高天原）は場、あるいは空間であって、皇祖神ではないのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　一方、天を信仰し、天命の実践に人生を奉げた仁（ひと）である孔子を祭る「釈奠」が取り入れられたのは大宝律令の規定に基づき、国学および大学寮で毎年二月と八月（春秋二仲）に行うことが定められてからです。大宝元年（七〇一年）二月四日大学寮において初めての「釈奠」が行われ、翌二年に学令は施行されましたが、その中で、『論語』『孝経』の学習は必須とされています。「釈奠」は後れて国学においても行われるようになったようです。天平七年（七三五年）には遣唐使・吉備真備が唐礼百三十巻を持ち帰り、彼が祭器と儀礼を整備したとされます。彼の右大臣在任中、記録上確認できる唯一の天皇親臨の「釈奠」が行われています。神護景雲元年（七六七年）二月七日、シナかぶれの傾向が強かった称徳天皇の御代のことです。これが唯一の例で、紆余曲折を経て、女帝のシナかぶれは昂じ、ついには禅譲（放伐抜きの自発的易姓革命）に行き着いてしまうのです。有名な僧道鏡への譲位がそれですが、和気清麻呂が持ち帰った「我が国は開闢以来、君臣の分定まれり。臣を以て君と為すこと未だあらざるなり、天津日嗣は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除すべし」との宇佐八幡宮の神託によって阻止され、やがて称徳女帝は病に罹り崩御しました。「釈奠」の祭に親臨してから三年後の、神護景雲四年のことです。&lt;br&gt;
　宇佐神宮は全国に四万六百社以上ある八幡宮の総本宮で、皇室にとって伊勢神宮に継ぐ第二の宗廟と言われています。主祭神は『論語』と縁の深い応神天皇で、第二の祭神が謎の神・比売大神、第三の祭神が応神天皇の生母・神功皇后です。&lt;br&gt;
　比売大神は『日本書紀』に神代に宇佐嶋に降臨されたとあり、その正体は謎に包まれていて、「卑弥呼」説など諸説ありますが、皇室にとって非常に重要な神であることは間違いありません。ちなみに参拝の作法は通常の二礼二拍手一礼と異なり、国譲りの神話で幽事（かくりごと）の神となった大国主神を祭る出雲大社同様、二礼四拍手一礼です。&lt;br&gt;
　さて、道鏡事件のその後ですが、称徳女帝の崩御により天武天皇の男系継承は途切れ、奇跡的に天智天皇の男系子孫であることに正統性を置く王朝が復活を遂げます。光仁天皇の即位がそれですが、この天皇は天武天皇の女系の血も排除し、すでに触れたように、次代の桓武天皇は公然と、天を祀る「郊祀」の祭りを行ったのです。桓武天皇は父光仁天皇を併せて祀り、「是天上帝に告ぐ」と祭文に述べていることから、天武王朝からの皇位回復を易姓革命ととらえて、あるいは準えていた可能性があります。&lt;br&gt;
　そもそも壬申の乱で、天智男系王朝から天武男系王朝への大転換を遂げた天武天皇自身が易姓革命を意識していた形跡があることはすでに触れました。&lt;br&gt;
つまり、天智王朝の奇跡的な復活は、復古であり、もっと言えば維新だったのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　ともかく孔子を祭る釈奠の祭は以後も継続していきますが、親臨は称徳天皇の一回きりで、皇太子に限っても、仁明天皇の御代に皇太子・恒貞親王が親臨したのが唯一の例です。つまり、朝廷の祭祀としては受容されたものの、皇室の祭祀としては受容されなかったことになります。天への信仰と祭祀が皇室の本質と必ずしも相容れないことが判明してきたことが要因ではなかったでしょうか。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
　先の問答に話を戻しましょう。&lt;br&gt;
　孔子はある人から、天子がその先祖の始原として天を祀る「&amp;#31128;」の祭の意義について問われ、「わからない、それがわかるほどの者ならば天下のものごとについても、ほら、このように手のひらの上で物を見るようなものだろうね」と答えました。孔子はこの天子の祭である「&amp;#31128;」に与る立場の者ではありませんでしたから、祀ったこともなく、「祭らざるが如し」どころか、その意義さえわからない。それを知る者がいるとすれば、祭に与ることができる天子しかいない。当時、これは周王朝の血を引く者に限られます。&lt;br&gt;
　孔子が生きた時代、すでに周王朝は東西に分裂して、西周は滅亡しており、東周は第二十六代敬王の時代でしたが、王朝は衰微の極みにありました。&lt;br&gt;
しかし、孔子は確かに「&amp;#31128;」の祭を間近に観たことがあったのです。&lt;br&gt;
　そのさらに前条には次のようなことが書かれています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「子曰く、&amp;#31128;は既に灌（かん）してより往（のち）は、吾れ、これを観るを欲せず。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　&amp;#31128;の祭で、きびの酒を地に注いで神の降臨を招く灌の儀式が済んでから後は、私はもう観たくない。&lt;br&gt;
　これはいろいろな説があり、孔子の故郷である魯国では、灌から後の礼式が乱れていたからとも、祭に誠意がなくなるからとも言われていますが、皇室の『論語』の先生であった宇野哲人は『論語新釈』の中で、「&amp;#31128;」の祭を行う資格に注目して、次のような解釈を述べています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「この章は孔子が魯の祭の誠意を失っているのを傷んだのである。&lt;br&gt;
　&amp;#31128;は天子の大祭である。天子が己の先祖の出た所の帝を、己の先祖の廟で祭って、己の先祖をあわせて祭るのである。魯では周公が王室に大功があったので、成王から天子の礼楽を賜ったから、周公の廟で&amp;#31128;の祭をし、文王を先祖の出た所の帝とし、周公をこれに配して祭ったのである&lt;br&gt;
　&amp;#31128;の祭を魯ですることが、既に礼に外れているのに&amp;#31128;の祭を行う魯の君臣が誠意をもってこれを行わないとすれば、これは礼に外れたことを礼に外れた仕方で行っているのだから、孔子が見ていられなくなったのは当然である。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　周公旦は文王の子で、武王の同母弟。武王亡き後、この成王を補佐して大功がありました。周王朝成立後、旦は曲阜に封ぜられて魯公となりますが、天子を補佐して首都を去ることができず、子の伯禽を封地に下らせて治めさせました。つまり、魯公とは周公直系の子孫なのです。&lt;br&gt;
　周公旦は周王朝の礼楽を定めた人物とされ、孔子はそんな彼を聖人として理想視しました。&lt;br&gt;
　こういった歴史を踏まえれば、確かに魯公は天子ではなく、一王の立場に過ぎない以上、&amp;#31128;の祭を行う適任者とはいえない。しかし、当時&amp;#31128;の祭を行うべき周は混乱続きで、落ち着いて祭を行う余裕はなかったかもしれません。東周の内情は、魯国を活動の拠点としている孔子の知るところではありませんが、天下が乱れている以上、まつりごとは誠意を以て行われてはいない、ということになります。なぜなら孔子の考えによれば、天子に最も近い資格を持つ敬王が、&amp;#31128;の祭を誠意を以て斎行し、その奥義を窮めていたなら、天下のことは掌の上のものを見るように、うまく治まっているはずだからです。&lt;br&gt;
　一方、魯公は一応、文王の子孫ですから、この祖先の霊を祭る資格はあると言えます。だから魯公が&amp;#31128;の祭を行ったとしてもそれは全否定すべきものではなかったでしょう。だから、一応は祖先の神霊の降臨を招く灌の儀式までは安心して観ていられたものと思われます。後世の儒教において「&amp;#31128;」の催行資格は天子に限られるようになりましたが、孔子においては、まだそこまで厳格に規定されておらず、上帝のみならず、祖先神や先王を祭ることも、金文や甲骨文の用例に倣って「&amp;#31128;」という名が用いられたものと思われます。&lt;br&gt;
　だから魯公が「&amp;#31128;」を行ったとしてもそれは問題ではなかったはずです。&lt;br&gt;
　しかし、灌から先の儀式は観られたものではなかった。孔子の遺した数少ない言葉から拝察するに、神を祭るには神在すが如くす、という祭の基本が守られていなかったからではなかったでしょうか。あるいは、魯の君臣に、&amp;#31128;の祭を行うことに関して疑義があり、誠意を以て行う自信がなかったせいかもしれません。少なくとも、魯公の「&amp;#31128;」の祭での挙措は、祭の意義を体得しているようにはとても見えなかったのでしょう。&lt;br&gt;
　とすると、穿ち過ぎた見方になるかもしれませんが、「&amp;#31128;」の催行を魯公に献言したのは、礼の大家として知られるようになっていた孔子であったかもしれません。『論語』のこれらの数条後には、孔子が魯の大廟、すなわち周公の廟に入って事毎に問うた、という話がありますから、一応は重要な祭儀に参列出来る立場にはあったのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　孔子は易姓革命で成立した周王朝の時代の人間として、王朝文化の再興を考えた人物であり、易姓革命そのものを理想視はしていなかったとしても、これを否定する思想的立場にはありませんでした。しかし、周王朝成立の過程において、周公と並ぶ功臣でありながら、これと血縁関係になかった太公望呂尚の子孫が治める斉の国に関して、「斉一変せば、魯に至らん。魯一変せば道に至らん」と言っているように、姓は異なっても天子となる道は拓けていましたし、同姓ならばより道（先王の道）は拓けていました。道が人を弘むるのではない。人が道を弘むるのです。&lt;br&gt;
　おそらく孔子が言う「一変」とは周公の創作した礼楽秩序への現状からの一変（変革）ということでしょう。その点、魯は周公旦の子孫が治める国ですから、既にその礼楽秩序の中の一部であり、そこに組み込まれているのです。孔子が魯の政治改革に失敗して失脚し、まず政治亡命したのは衛という国であり、孔子はこの国にこだわった形跡がありますが、ここは周公の弟・康淑の子孫が治めていました。孔子の「魯・衛の政（まつりごと）は兄弟なり」（「子路」）との言葉は、この意味での礼楽秩序内の親近性を踏まえているのです。&lt;br&gt;
　しかし、これは周の礼楽秩序内の話です。&lt;br&gt;
　孔子は周の礼楽文化を礼賛して、次のように言っています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「周は二代に監（かんが）みて、郁郁乎として文なるかな。吾れは周に従わん。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　二代とは伝説的な夏王朝と殷王朝のことであり、孔子によれば、殷の礼楽制度は夏のそれを受け継いで、これを改善したものであり、周の礼楽制度は殷のそれを受け継いで、これを改善したもので、現時点では最も洗練されたものです。だからこれに従おう。しかし、天下が乱れている現状では、礼楽は政治的に有効性を失っているのは否定しようのないことであり、もし仮に周を継ぐものがあれば、その延長線上で百世先までも知ることができる。つまり、孔子にとって周の礼楽制度を受け継いで、これを改善して、世を治めるものが現われればそれはそれで可なのであり、周王朝がいよいよだめならば、太公望の子孫が易姓革命を起こして天子となり（一変）、礼楽制度を継承・改善して天下にこれを布いて治めれば（二変）、それは望ましいことなのです。&lt;br&gt;
　周王朝を第三代とすれば、シナの混乱は結局、秦の始皇帝によって収められました。しかしこの四代目は、残念ながら、周の礼楽制度を改善したものではなく、その批判から生まれた韓非子に代表される法家の思想を採用し、天下を治めたのです。秦は一代で滅び、五代目の漢は皇帝の威儀を整えるために儒学を採用し、これが後世のシナ王朝の模範とされるようになった。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　孔子の思想が時代の制約もあって、易姓革命を肯定せざるを得なかったのは無理もありませんが、潜在的に、王朝の始祖の直系子孫による統治を理想としていたことはご理解いただけるかと思います。渋沢栄一は別の根拠から、孔子の易姓革命に関する批判を嗅ぎ取り「不幸にして孔子は、日本のような万世一系の国体を見もせず、知りもしなかったからであるが、もし日本に生まれ、または日本に来て万世一系のわが国体を見聞したならば、どのくらい讃歎したかもしれない」（『論語と算盤』）と喝破しました。&lt;br&gt;
　その根拠とは「八&amp;#20350;」篇にある次の短い文章です。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　子、韶（しょう）を謂（のたまわ）く、美を尽くせり、又善を尽くせり。武を謂く、美を尽くせり、未だ善を尽くさず。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「韶」は禅譲を行ったとされる伝説上の聖天子・舜を讃えた音楽、「武」は放伐を行った武王の音楽です。ともに易姓革命を行った伝説的人物ですが、舜は、後世の儒者の聖人としての改変を受け、創作されるまでは、そもそも殷王朝の祖先神でした。『春秋左史伝』の外伝的要素を持つ非儒教的な『国語』に「商人（殷人）、舜に&amp;#31128;して契を祖とし、冥に郊して、湯を宗とす」（「魯語上」）とあり、漢初に成立した『礼記』には「殷人、&amp;#22195;に&amp;#31128;して冥に郊し、契を祖として湯を宗とす」（「祭法」）となっていて、&amp;#22195;（こく）は舜の別の属性による名です。同様に、俊（しゅん）も神としての舜の別名であり、この複数の名を持つ神は、太陽神としての性質を持ち、『山海経』「大荒西経」によれば、妻の羲和（ぎか）に十の日と十二の月を生ませています。十の日を一単位として旬とするのはここから来ています（白川静『中国の神話』）。&lt;br&gt;
　この太陽神としての性格を持つ舜を祖先神として&amp;#31128;の祭を行う殷王朝は天照大神を祖神として大祭を行う皇室に似ているところがあります。&lt;br&gt;
　白川博士が紹介している、殷の対立部族であった苗族の伝説に、面白いものがあります。&lt;br&gt;
　十の太陽が一時に現れたとき、賢者たちは合議して、弓の名手にこれを射ち落とさせることにした。しかし、一個の太陽がそれを逃れて、西山に入ったまま昇ることをやめ、長い暗黒の時が続いた。そこで、獅子や黄牛が太陽を呼んだが声が凶悪なので太陽は姿を現さなかった。最後に雄鶏が呼ぶと、その美しい声に誘われて太陽が再び姿を現し、世界は光を取り戻した。&lt;br&gt;
　わが国の天の岩戸を少し連想させる話です。&lt;br&gt;
　以上のように、舜が神であったとすると、孔子は後世の儒者が創作した聖人としての舜ではなく、神としての舜を讃えた音楽を、美を尽くし、善を尽くしている、と評価したことになります。一方、武王の音楽は美を尽くしたものではありましたが、善を尽くしたものではないと孔子には感じられた。渋沢はこれを易姓革命への暗喩とみたのです。実はこれは渋沢の『論語』の先生でもあり、皇室の先生でもあった宇野哲人の見解でもありました。『論語新釈』の中で、この条に関して同様の見解を示しています。&lt;br&gt;
　孔子は斉の国で「韶」の音楽が演奏されているのを聞いて感動のあまり、三月にわたって、肉の味を知らず、との異常な経験をしたことがありましたから、この評価は十分体温のこもったものです。そこに孔子の深い思惟の跡をたどることは許されるでしょう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　『中庸』は孔子の鬼神観を「鬼神の徳たる、それ盛んなるかな。これを視れども見えず、これを聴けども聞こえず、物を体して遺すべからず。天下の人をして、斎明盛服して、以て祭祀を承（う）けしむ。洋洋乎としてその上に在るが如く、その左右に在るが如し」と表現し、『詩経』から引用して「神の格（きた）るは度（はか）るべからず、いわんや射（いと）うべけんや」と書いていますが、鬼神・舜の盛んなる徳は、音楽を通して、いきなり孔子に格（きた）ったのであり、本来なら、物を体して遺すことがなく、感じ取る事の出来ないはずの鬼神の徳は、天下の人をして斎明盛服して執り行わせている祭祀の中でのみ、楽によって聞き、礼によって見ることができる。&lt;br&gt;
　おそらく孔子は舜の音楽を聞いて、そのことを悟ったのです。その経験は一種の衝撃を伴っていて、三月の間、肉を食べてもその味が分からなくなるような、異常な精神状態が続いた。&lt;br&gt;
　これは恐らく孔子が仁という徳の端緒をつかんだ経験で、後に高弟の顔回を評した言葉に「回やその心、三月仁に違わず、その余はすなわち日月に至るのみ」とあって、自身の経験から、三月の間、仁の徳の端緒をつかんで離さないでいる顔回が、このままいけば日月、すなわち天空に輝いて人々に道を照らし出す存在になるだろう、との言葉を生むことになるのです。&lt;br&gt;
　その点、この「仁」の一文字を授けられて育ち、やがて即位して天神地祇や皇祖皇宗を祀ることになる天皇は、まさに天地に満ち満ちている神霊の徳を最も感得しうる、最も神霊に近い人であるはずです。現御神、現人神との表現は本来そういう意味を込めたものでしょう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　孔子は聖天子の出現を渇望し、失望の内に世を終えましたが、その聖天子が天、および鬼神と繋がりうる「&amp;#31128;」の祭儀を体得したときに始めて、内に天命は聞こえ、秘儀はその奥深い意味が解き明かされる。その時初めて、聖天子は天下を掌の上の物を自在に扱うようにして治めることができる。孔子はそのように考えました。&lt;br&gt;
　そして、その極意は、最も優秀で、孔子が唯一仁を以て許した弟子、顔回の仁の問いに対する師の解答を引用すれば「中らずといえども遠からず」でしょう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「己れを克（せ）めて礼に復りて仁を為す。一日、己れを克めて仁に復れば天下仁に帰す。仁を為すこと己れに由る。而して人に由らんや。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　顔回はさらにその眼目を乞いました。&lt;br&gt;
　老師は答えます。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「礼に非ざれば視ることなかれ、礼に非ざれば聴くことなかれ、礼に非ざれば言うことなかれ、礼に非ざれば動くことなかれ。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　仁とは社会的、民族的伝統のことです。それは礼によって自己を厳しく律することによって、行為化される。だから礼は日々の厳しい実践が求められます。そのことによって、一日、すなわちある歴史的瞬間において、仁を体現する者の、何らかの象徴的行為である礼の一挙手一投足の中に、われわれはその仁を感取するのです。&lt;br&gt;
　礼は何も祭の時にのみ、必要とされる行為ではありません。日常、非日常、人間生活のあらゆる領域で、ある種の規範として、玄妙な働きをしています。それは社会的、ということはつまり歴史的動物である人間の精神様式を表すものです。それがより広く普遍的・多元的でありながら民族的合意を有するには、その起源をより深く、古いところに持つ必要があります。&lt;br&gt;
　孔子はこれを「一以てこれを貫く」とか「道」と表現しました。農本的な儒教に対して批判的な工匠階層から生まれた墨家でさえ、孔子の説く「先王の道」自体は正しいと言い、儒教への批判から生まれた『韓非子』でさえ、孔子は天下の聖人である、と認めざるを得ませんでした。党派を成し、非難・対立する集団においてでさえ、否定しえない要素が現れる時、そこに民族的合意を見ることは十分可能でしょう。&lt;br&gt;
　孔子はその意味での、古代シナ文明の伝統の集約者であり、以後のシナの伝統の樹立者でした。そして、それは二千年以上にわたる東アジアの伝統ともなりました。&lt;br&gt;
　それは「学びて時にこれを習う」というように、慣習を日常・非日常の各場面において実習し、追体験することで、個に内在するものとなったとき、はじめて伝統となるのです。それを窮めることで完成された傑出した個性は、個性というものを超克しており、一見するところ、自己主張は後退し、逆説的に個性は希薄化する。それは礼楽秩序という、全体との調和の中に個性を発現することです。そして、主体としての言動の中に、全を、公を体現することになる。これが君子であり、聖人です。孔子が七十にして達したと告白した「心の欲する所に従って、矩（のり）を踰（こ）えず」とはそういった境地でしょう。&lt;br&gt;
　孔子の私淑者たることを公言してはばからなかった孟子は、孔子没後二百年後に活躍した遊説家でしたが、孔子の事業を「集大成」と表現しました。伝統を集めて、大成したのです。彼はこれをさらに、音楽の始まりと終わりにたとえ、「金聲して玉振す」としました。鬼神の徳を讃えた音楽への感動によって仁に目覚めた孔子の生涯の事業を表現するにふさわしい譬えといえるでしょう。音楽の基礎となる楽曲、個々の楽器の演奏と調和。そして、それを受け止める聴き手の感性。&lt;br&gt;
　言わば、聖人とは指揮者であり、君子とは奏者でしょう。あるいは徂徠風に解釈すれば、作曲家と指揮者の関係かもしれません。　&lt;br&gt;
　孔子のいう礼と楽による政（まつりごと）とは、言わば、オーケストラによる演奏を伴った、神話や古典を題材とした伝統歌劇であり、ここに集まった聴衆あるいは観衆が民です。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　日本文明は儒教を取り入れなかったとされます。&lt;br&gt;
　しかし、伝統の集約者、あるいは樹立者の模範として、孔子の思想は十分取り入れられているのです。孔子は異文明が生んだ偉人でありながら、すでに見てきたように、その思想は、われわれ日本人の伝統の核心部分と非常に相性が良く、深いところで習合を遂げているのです。&lt;br&gt;
　「からごころ」を排撃し、「やまとごころ」の闡明に生涯を懸けた本居宣長でさえ、その晩年に「聖人は　しこのしこ人　いつはりて　よき人さびす　しこのしこ人」と後世のさかしらな「からごころ」によって作られた虚像である聖人を否定しつつ、「聖人と　人はいへども　聖人の　たぐひならめや　孔子はよき人」と、孔子だけは「しこ人（醜人）」から除外し、善人として認める歌を詠んでいるのです。これはもちろん「やまとごころ」から見て「よき人」との含意です。この歌には学問に志した二十代の若い頃に、荻生徂徠の『論語徴』を初めとする著作に触れて以来温めてきた、彼の十分な実感が込められています。&lt;br&gt;
　これはキリスト教を憎悪しつつ、イエスをある面においては認めざるをえなかったニーチェを髣髴とさせます。&lt;br&gt;
　すでに孔子の思想が日本の伝統の一部となっているのは、日本において『論語』に関する本が、『聖書』におけるキリスト教団のような巨大な宣教組織という背景を持たなくとも、また中国共産党が梃入れし、宣伝工作機関の看板としてのみ名を利用し世界中に設置している「孔子学院」のように、政府がその政策的意図からこれを推奨しなくとも、いまだに書店に溢れて、読まれ続けていることからも明らかでしょう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　日本文化の最古層、最深層より、現在まで伝えられてきた伝統、特にここでは大嘗祭・新嘗祭を取り上げてきましたが、この秘儀を継承し、おそらくその深い意義を理解する上でも、孔子の思想は欠かせません。皇室はこの秘儀の意味が見失われながらもこれを守り抜く上で、この東アジアの普遍思想を潜り抜けなければなりませんでした。おそらく皇室自体が神勅を頑なに守るだけでなく、伝統と向き合う中で『論語』を座右の銘と位置づけてきたのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　以上が「&amp;#31128;嘗」に関する「からごころ」からの考察です。&lt;br&gt;
　わが国固有の伝統にして、その本質に迫るものと言える大嘗祭に関しても、「やまとごころ」のみならず、「からごころ」からの考察を加えた方が、その本質はより理解されることがお分かりいただけたかと思います。&lt;br&gt;
　代初めの大嘗祭に始まり、毎歳行われる新嘗祭を行う資格を有するのは、天皇御一人です。そして、その秘儀を体得し、その意義を感得できる人がいるとすれば、それは天皇その人を措いて他に存在しないのです。ましてや民主的な選挙で選ばれただけの成り上がりの政事家ふぜいに、天下を好き勝手に扱えるわけがありません。&lt;br&gt;
　政事家は須らく自戒すべきでしょう。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hidemikishuu/66771576.html</link>
			<pubDate>Fri, 10 May 2019 07:24:51 +0900</pubDate>
			<category>祭りと伝統</category>
		</item>
		<item>
			<title>皇室祭祀の本義－大嘗祭（弐）　【『皇室と論語』（二十四）】</title>
			<description>&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;大嘗祭という、この広大にして神秘的な儀式の歴史・伝統を山に譬えるなら、日本というものを表象する山である富士山がもっともふさわしい。その秀麗にして神秘的な姿は山頂部のみで成立しているわけではなく、その広大な裾野を含む、総体的なイメージが万峰に屹立した霊峰としての美しさを際立たせているのです。もちろん清楚で美しい山頂部を支えているのは、広大な中腹から山麓にかけての部分で、高森氏の『民と天皇の大嘗祭』は概ねこの部分をスケッチしたものです。古代より現代までの膨大な数の民との関係が、あるいは、その歴史が、天皇という存在を下から支えています。大嘗祭という祭儀にもそれは十分象徴されています。高森氏がそれを改めて世に問うたことは非常に重要なことだと思われます。&lt;br&gt;
　高森氏は昭和三十二年、戦後の生まれです。&lt;br&gt;
　戦後の日本はその再出発点において精神的荒廃の芽を胚胎していました。戦勝国や共産主義者たちは日本の伝統の荒廃を目論んで、様々な策略を仕掛けてきたし、多くの日本人も自信を失って茫然自失となっていました。昭和天皇もまたそれを心配され、敗戦後初めて迎えた正月元旦の「新日本建設の詔書」（いわゆる人間宣言）で、すでにその心配を告白されています。&lt;br&gt;
　それが次のくだりです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「惟（おも）ふに長きに亙れる戦争の敗北に終りたる結果、我国民は動（やや）もすれば焦燥に流れ、失意の淵に沈淪せんとするの傾きあり。詭激の風漸く長じて、道義の念頗る衰へ、為に思想混乱の兆あるは洵（まこと）に深憂に堪へず。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　そこで天皇と国民の直接的な関係を取り戻そうと訴えられたのが、続く、いわゆる人間宣言とされるくだりなのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「然れども朕は爾等国民と共に在り。常に利害を同じうし休戚を分たんと欲す。朕と爾等国民との間の紐帯は、終始相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以て現御神とし、且日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延て世界を支配すべき運命を有すとの架空なる観念に基くものにも非ず。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　そういった天皇と国民の関係性の再確認を念頭に置いて、日本人が一丸となって新日本を建設すべき指針として御示しになられたのが、詔の冒頭に置かれた「五箇条の御誓文」であったのです。「五箇条の御誓文」は偉大なる祖父明治天皇が皇祖皇宗の神霊を招いて誓われた大御心であり、日本古来の現人神思想をまで否定するものではありませんでした。昭和天皇が否定したのは、引用の最後のくだり、いわば右翼的な思想でしょう。しかし、これは近衛文麿が指摘した如く、國體の衣を着けた共産主義なのです。&lt;br&gt;
　しかし、戦後生まれ、戦後育ちの日本人にそんなことは理解できません。「人間宣言」という米占領軍の洗脳工作はじわりと効果を発揮し、戦前の日本人は皆、天皇を絶対神（ゴッド）と崇め、米占領軍のおかげで天皇の「人間宣言」が行われ、日本人の多くはその迷妄から醒めた、解放されたのだ、との新たな戦後神話が信ぜられるようになったのです。&lt;br&gt;
　高森氏が『天皇と民の大嘗祭』を世に問うた数ヶ月後、平成の天皇の大嘗祭を前にして『鈴鹿家文書』の公開出版に携わった鳥越憲三郎氏が『大嘗祭　新史料で語る秘儀の全容』を上梓し、世に問うていますが、そこには次のようなくだりがあります。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「ところが第二次世界大戦の敗戦の直後、昭和天皇は現人神であることを否定された。天皇が大嘗宮の八重畳の寝座に伏すことは早く廃れはしたが、それは死してのち現人神として甦ることを意味した。さらに正確にいえば、皇祖天照大神の直系の子孫として、天照大神の御霊を体現する生き身の神として再生し、宇宙の至高神である日の神のもつ絶対的権威のもとに君臨することを意味するものであった。しかし今ではその現人神の思想もなくなった。…もはや践祚大嘗会としての意味を失った大嘗会の儀礼は、ただ形式的なものにすぎなくなったといえよう。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　古代史に関する多くの著作を持ち、大嘗祭に並々ならぬ関心を持って、新史料の発掘、学問的分析に携わった大正末年生まれの学者ですらこの程度の認識なのです。&lt;br&gt;
　大嘗祭を、形骸化し、死んだ祭儀と見ている学者に、この大祭の本義がわかるはずもありません。現に氏の当該著作は、祭儀に関する事実は豊富に記述されていますが、その意味するところの考察はあまり豊富とも、深いとも言えず、その全容を捉え切れていない印象をぬぐえないのです。&lt;br&gt;
　このような戦後の思想状況を考えれば、昭和天皇がお考えになられ、そう実践されたように、また平成の陛下がその大御心を継いで現在の皇室の在り方をお考えになられてきたように、高森氏が民と天皇の関係から大嘗祭を捉えなおそうとしたのは大変重要な意義があります。&lt;br&gt;
　しかし、天皇という存在の尊貴さとその天皇が民とともに在る事の実感は、戦前の大半の人々にとっては自明のことであり、戦前の思想家や学者がそういった実感を前提に、祭儀における天皇の儀礼的行為に注視し、その本義を究めようとしたのは当然であったといえるでしょう。&lt;br&gt;
　全体に占める割合はわずかであっても、山頂部はその山の全容を、本質を象徴する部分です。山頂部によって、山を象徴させることは出来ても、たとえ大部分であっても、それを欠いた残りの部分で山の特質を象徴的に描き出すことは非常に困難なことでしょう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　富士山は日本最高峰の霊山にして活火山です。普段は端整で物静かな姿を見せていますが、そこには秘めた激しさがあり、側面からの観察ではわかりにくいですが、山頂部には火山口があり、その奥深いところにマグマが通じています&lt;br&gt;
　それは万世一系の皇統をさかのぼると古代史に通じ、神話の世界に溶け込んでいくわが国の特質を思わせます。&lt;br&gt;
　このマグマは、時代の転換期に、大地を震わせ、激しく噴き出す。&lt;br&gt;
　神武天皇の創業の精神に立ち返ることが謳われた、幕末から明治初期に掛けての王政復古維新運動はまさにこれですし、昭和の激動期に、国史・国学を柱とする國體論が盛行し、神武天皇の言葉に由来する「八紘一宇」の精神が高々と掲げられ、西洋列強のアジア侵略に立ち向かった起死回生の偉業・大東亜戦争はその一つのピークでした。それが楠木正成の精神伝統に則った戦いであったという新たな見方をすでに提示しておきました。&lt;br&gt;
　「小日本人」はこの歴史を振り返ったとき、満州事変以来の「十五年戦争」での大日本帝国軍閥の行った罪悪として捉えますが、これは、満州事変以来、アジア完全制覇を目前にしていた西洋列強、そして、その背後にいてこれを敵視した特定のユダヤ人勢力が、唯一、この大勢への抵抗勢力として反抗を続ける大日本帝国の勢威をいよいよ許せなくなった歴史の裏返しであり、敗戦による自信喪失から歴史否定という自虐に走った大部分の日本人が、閉ざされた言語空間にあって、非常に狡猾に行われた勝者の洗脳工作を受け入れてしまったからです。利口なものほど、敵の洗脳工作を、反省と称して、自ら心地良く受け入れてしまったのです。&lt;br&gt;
　今や希少な存在となった「大日本人」は須らく、一連の事件を、幕末明治以来の東亜百年戦争の一環と捉える視点を持つべきです。今では戦国時代のキリスト教との邂逅以来のキリスト文明との対決の位相も提示されています。すなわち西洋文明との出会い以来の歴史は、日本の神々とキリスト教文明の絶対神との相克の歴史であった、というのです。&lt;br&gt;
　この歴史認識はこの論考のテーマに深く関わってくるものです。先に挙げた「新日本建設の詔書」を「人間宣言」と見るか否か、という問題です。キリスト教徒であるマッカーサーは天皇を絶対神とする見方（一部の日本人に限られたイデオロギーでしたが）を許せなかったから「人間宣言」を強制したのです。昭和天皇もそういった、伝統に反する見方を許容できなかったから、「人間宣言」を取り入れて、ごく新しかった絶対神としての現人神思想を否定し、一方で、「五箇条の御誓文」を闡明することで、わが国の伝統的な現人神思想を、国民にそれとなく知らしめようとされました。&lt;br&gt;
　それが詔書冒頭の高らかとした宣言となったのです。&lt;br&gt;
　詔書は次のように始まります。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「茲に新年を迎ふ。顧みれば明治天皇明治の初、国是として五箇条の御誓文を下し給へり。&lt;br&gt;
　曰く、 &lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　一、広く会議を興し万機公論に決すべし &lt;br&gt;
　一、上下心を一にして盛に経綸を行ふべし &lt;br&gt;
　一、官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしめんことを要す &lt;br&gt;
　一、旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし &lt;br&gt;
　一、智識を世界に求め大に皇基を振起すべし &lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　叡旨公明正大、又何をか加へん。朕は茲に誓を新にして国運を開かんと欲す。須らく此の御趣旨に則り、旧来の陋習を去り、民意を暢達し、官民挙げて平和主義に徹し、教養豊かに文化を築き、以て民生の向上を図り、新日本を建設すべし。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　ここにおいて昭和天皇は「茲に誓を新にして」とさり気なく言っておられますが、これはもちろんわれわれ国民に対してではありません。皇祖皇宗に誓った明治天皇を含む、皇祖皇宗の神霊に対してであり、伝統的な現人神思想を表現したものとなっているのです。&lt;br&gt;
　この深い大御心を理解できなくなって、マッカーサーの偏見を唯々諾々と受け入れている日本人の何と多いことでしょう。この相克は今も続いていて、歴史認識問題や経済問題に顕著な、グローバリズムと名を変えた国際主義（インターナショナリズム、かつての国際共産主義運動もその一種です）との相克軋轢は、その背後にある旧約聖書的世界観との相克軋轢なのです。ヒトラーが指摘していたのはまさにこれです。&lt;br&gt;
　筆者が大嘗祭を論じる背景にはこの問題意識があります。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　ともかくわれわれ日本人は普段は理性的でおとなしいですが、いざとなると原点に立ち返って、熱情的に、大胆に行動することがあります。しかし、それは発する直前まで、理性によって抑制されたものとなっていますから、それに則った行動となります。それをここでは均整の取れた富士の姿に象徴させているのです。&lt;br&gt;
　その山頂付近、噴火口「大内院」を取り囲むように聳える八神峰（最高峰は剣が峰）を祭儀に譬えるなら、その内の最重要の一つが大嘗祭なのです。そこに立ってみないと、その本義を覗くことは出来ない。&lt;br&gt;
　戦後の社会にあって、皇室を敬愛する者として、畏れ多いことながら、山の全容のみならず、この「大内院」を覗き込んでみたいとの思いに駆られるのは、筆者だけではないでしょう。&lt;br&gt;
　そういった近代的な問題意識を持った先駆的な思想家が大嘗祭の本義に関する代表的な見解を述べた民俗学者にして国学者の折口信夫です。&lt;br&gt;
　彼は「大嘗祭の本義」と題された昭和三年の講演筆記の冒頭部分で、次のようことわっています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「…ここで申しておかねばならぬのは、私の話が、あるいは不謹慎のように受け取られる部分があるかも知れない、ということである。だが、話は明白にせぬと何もわからぬ。話を明白にするのが、かえってそれを慕うことにもなり、ほんとうの愛情が表れることにもなる。あるいは、吾々祖先の生活上の陰事（かくれごと）、ひいては、古代の宮廷の陰事をも外へ出すようになるかも知れぬが、それがかえって、国の古さ・家の古さをしのぶことになる。単なる末梢的なことで、憤慨するようなことのないようにして頂きたい。国家を愛し、宮廷を敬う熱情においては、私は人にまけぬつもりである。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　そんな折口が、戦争が苛烈さを増していた昭和十八年春に、国学院の新入生を前に、現在は国学という学問にとって幸福な時代である、と不謹慎にも聞こえかねない発言をしています。その真意は、国学者が昔から抱いてきた理想を世の中全体が持つようになったからだ、というのです。歴史的にみると、国学が認められるときには世の中の不幸なときが多い。その不幸なときにあって、心の底からの悲しさや激しい憤りをわれわれが共有した時にはじめて、国学は国民に共通の理解を得る。国学という存在はそういった逆説を含んでいる。これは国史にも言えることでしょう。&lt;br&gt;
　大東亜戦争というのはマグマが噴出し、大山鳴動した時代でした。その成果は、世界史的意義を持つもので、西洋列強の植民地支配による世界制覇の達成を食い止めた、という点だけを見ても、「鼠一匹」という矮小化しうるものではありませんでした。&lt;br&gt;
　終戦の詔を拝した折口は箱根仙石原の家にひとりこもって四十日ほどを過ごしたといいます。そして、既に取り上げた「神　敗れたまふ」という歌を詠んだのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
神こゝに　敗れたまひぬ─。&lt;br&gt;
すさのをも　おほくにぬしも&lt;br&gt;
青垣の内つ御庭(ミニハ)の&lt;br&gt;
宮出でゝ　さすらひたまふ─。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
くそ　嘔吐(タグリ)　ゆまり流れて&lt;br&gt;
蛆　蠅(ハヘ)の、集(タカ)り　群起(ムラダ)つ&lt;br&gt;
直土(ヒタツチ)に─人は臥(コ)ひ伏し&lt;br&gt;
青人草（アヲヒトグサ）　すべて色なし─。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
村も　野も　山も　一色(ヒトイロ)─&lt;br&gt;
ひたすらに青みわたれど&lt;br&gt;
たゞ虚し。青の一色&lt;br&gt;
海　空もおなじ　青いろ─。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　敗戦を神々の敗北と受け止めた彼は、われわれ日本人の神学、世界宗教としての神学を打ち立てる必要性を痛感しました。&lt;br&gt;
　しかし、その志と努力は挫折しました。&lt;br&gt;
　その志を継ぐべき最愛の弟子にして養子でもあった藤井春洋を硫黄島の激戦で失ったことに対する悲しみが大きかったようです。&lt;br&gt;
　これは、仁を以て唯一許した愛弟子・顔回を失った晩年の孔子が「噫（ああ）、天、予（われ）を喪（ほろ）ぼせり、天、予を喪ぼせり」と失意のどん底に突き落とされたエピソードを連想させます。それは自らの志の挫折でもあったのでしょう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　いまや末梢的なことをあげつらって、皇室に関するもろもろを否定しようという輩が跳梁跋扈している今日では、ますます話を明白にしておく必要があるでしょう。山の全容を明らかにする必要がるのはもちろんのことながら、それを土台に、さらに一歩進めて、剣が峰に登って、「大内院」のそのさらに奥を明らかにする努力が必要でしょう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　さて、その先駆者、折口信夫の大嘗祭の本義に関する見解です。彼の国学や民俗学の知識を駆使しての考察は容易に要約できるものではありませんが、アウトラインを押さえておきましょう。&lt;br&gt;
　折口は「まつり」について大体次のように述べています。&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
　「まつり」「まつりごと」とは「政」ということではなく、朝廷の公事全体を指して言い、昔から為来（しきた）りある行事の意味である。「まつる」「まつらふ」という語には服従の意味があり、上の者の命令通りに執り行うことが「まつる」、人をして命令通り執り行わせることを「またす」と言った。&lt;br&gt;
　日本の太古の考えでは、この国の為事（しごと）は、すべて天つ国の為事を、天つ神の命令通りにそのまま行っているのであって、神事以外には何もない。本来は、この、天つ神の命令を伝え、命令通り執り行うことを「まつる」というのである。これが後に、意味が少し変化して、天つ神の命令通り執り行ったことを神に復奏することも「まつる」というようになった。これが古典に言うところの「祭り」の本質である。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　次に古代の天皇の仕事とは「食国（をすくに）」の「まつりごと」だとされている。天皇は天孫として天つ神の命「またし」によって降臨し、この国の田の生り物を作り、秋になると「祭り」をして天つ神に奉げる。ちなみに「食（を）す」とは「食う」の敬語で、「食国」とは、召し上がりなされる物を作る国、という意味である。この「をす」から「をさめる（治める）」という言葉が生まれた。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　この一年の終わりの天つ神への報告祭を「おおむべまつり（大嘗祭）」といったのである。「おおむべ」あるいは「おほんべ」のまつりは、各地で行われていた「にひなめ（新嘗）」の大きな祭りという意味で、あるいは壮大・神秘を意味する「おお」を加えて、「おおにひなめ」といって、それから転じたものらしい。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「にひなめ」とは、新穀を「なめる」という意味ではなく、民間の同類の行事を他に「にはなひ」「にふなみ」「にへなみ」などと言った例から考えて、神に奉げるための調理された食物を意味する｢にへ（贄）｣（調理されない生のものが生け贄である）と助詞の｢の｣、「いみ（忌み）｣が一体化した言葉であり、新穀を神に奉るときの物忌み生活を表す。「嘗」の字は、支那に似たような行事があって、そこから当てられた。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　これらがいつの頃からか忘れられて、天皇の代初めに行われる新嘗を｢大嘗祭｣、毎年行われる祭りを新嘗祭と使い分けるようになった。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　ところで、天皇陛下のことを｢皇御孫命｣と書いて｢すめみまのみこと｣と呼ぶことがある。尊い御子孫、という意味だが、古代においては、｢すめ｣は神聖、｢みま｣は肉体・身体を表す言葉で、神聖なる御体のことを｢すめみまのみこと｣とよんだのである。当時の人々にとって肉体とは魂の容れ物であった。&lt;br&gt;
　天皇としての霊威の根元となる魂のことを｢天皇霊｣という。この魂は唯一つしか存在しない。天皇が崩御され、この魂が崩御された先帝の｢すめみま｣を離れ、｢みこのみこと｣の｢すめみま｣、すなわち皇太子の尊い御体に入り、これを満たした時に、新たな肉体において「天皇霊」は復活する。つまり、天皇霊は常に同じ一つの魂であり、肉体の違う新たな天皇が誕生しても、霊的にはまったく同じ天皇なのである。｢皇御孫命｣の「孫」という字は、子孫という意味ではなく、歴代天皇が、天孫瓊瓊杵尊と同様に、天照大神の孫で在らせられる、という意味なのである。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　この魂の継承は、先帝が崩御されてからの物忌みの期間である｢喪｣中に行われる。&lt;br&gt;
　この｢喪｣中、天日は物忌みの対象となる。天日に御体をさらすと魂が駄目になると信じられていたからである。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　折口はこの物忌みと天皇霊の継承こそ、｢大嘗祭｣の本義と考え、「八重畳」の寝具を、神話に出てくる「真床追衾（まとこおうふすま）」と解釈して、次のように述べています。「真床追衾」とは、天孫瓊瓊杵尊が降臨する際、包まれていたとされる夜具です。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「これは日の御子となられる御方が、資格完成のために、この御寝所に引き籠って、深い物忌みをなされる場所である。実に、重大なる鎮魂の行事である。ここに設けてある衾は、魂が身体に這入るまで、引き籠っている為のものである。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　皇位継承資格を持つ人の事を｢日つぎのみこ｣と言い、中でも皇太子のことは特に｢みこのみこと｣とよんだ。この儀式を通じて、皇祖皇宗の神霊「天皇霊」を継いだ新天皇は「天津日嗣（あまつひつぎ）」となり、現御神あるいは現人神として完成する。その完成された御方が、御立ちになって祝詞を申される場所が「高御座（たかみくら）」である。&lt;br&gt;
　皇位のことを「天津日嗣の高御座」というのはここから来ている。&lt;br&gt;
　この「天津日嗣の高御座」に在す現人神の発せられる祝詞「天ッ祝詞ノ太祝詞」は天津神の御言葉の伝達であり、神の御言葉も同じである。この天神の言葉が発せられる高御座とそれを「まつる」場において地上は天上になる。祝詞が効力を及ぼす地域は天と重なる。高天原の地名と同じものが各地に点在するのもそのためである。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　天皇が高御座に立たれて仰せ言を下されると、今度は群臣が寿言（よごと）を申し上げる。これは魂を献上し、服従を誓うことを意味する。この魂の献上により天皇霊は補強される。&lt;br&gt;
　毎年の新嘗祭をはじめとする稲穂献上の祭りも同様で、諸国から稲穂を奉るのは相手への服従の誓いを意味する。日本では稲穂は神であり、国々の魂がついている。この魂を献上することで、献上を受ける天皇や更に上位の神の霊威は更に力を増す。夏を過ぎてかげりを見せる天照大神の霊力は盛り返し、これと一体の｢皇御孫命｣の霊力もまた盛り返す。&lt;br&gt;
　このことは同時に、これに服従を誓うものたちの霊力の復活をも意味した。&lt;br&gt;
　この意味で、天皇霊を受け継ぐ大嘗祭は皇室にとって、最も重要な「まつり」なのである。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　以上が大雑把に把握したところの折口の「大嘗祭の本義」に関する見解です。&lt;br&gt;
　この現人神を通じての神と人臣との相互性、自然との循環性が、江戸期の水戸学を代表とする日本化した儒教によって再確認され、国学の成果も採り入れられ、國體の核心となった、というのが筆者の見解です。この観点から言えば、明治維新によって造られた大日本帝國とは、海外から多くのものを取り入れながらも、芯の部分ではどこまでも神武の創業の精神に立ち返るという、王政復古であったのです。それが日本の急進的な近代化の低い重心となった。&lt;br&gt;
　この日本の歴史の重厚さが見えない浅はかな知ったかぶり知識人がなんと多い事でしょう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　皇位の正統性は天照大神のいわゆる天壌無窮の神勅に由来します。折口が言うところの天津神の命令「またし」がこれです。&lt;br&gt;
　天壌無窮の神勅とは『日本書紀』本文ではなく、異伝承の採録「一書曰（あるふみにいわく）」の第一書にある、天照大神が瓊瓊杵尊に授けた神勅&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「葦原（あしはら）の千五百秋（ちいほあき）の瑞穂（みずほ）の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾（いまし）皇孫（すめみま）、就（い）でまして治（し）らせ。行矣（いきくませ）。宝祚（あまのひつぎ）の隆（さか）えまさむこと、当に天壌（あめつち）と窮り無けむ」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
が有名ですが、このほかに、第二書にある、天忍穂耳尊（あまのおしほみみのみこと；瓊瓊杵尊の父）に宝鏡を授けた際の神勅&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「吾が児、此の宝鏡（たからのかがみ）を視（み）まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。与（とも）に床（ゆか）を同くし殿（おほとの）を共（ひとつ）にして、斎鏡（いはひのかがみ）とすべし」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「吾が高天原に所御（きこしめ）す斎庭（ゆには）の穂（いなのほ）を以て、亦吾が児に御（まか）せまつるべし」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
この二つを併せていいます。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　ここに皇統の正統性の根源が示されています。&lt;br&gt;
　宝鏡とは天照大神が天岩戸に御隠れになられた際、石凝姥命（いしこりどめ）が作成した八咫鏡（やたのかがみ）のことで、三種の神器の一つです。『古事記』では天照大神が、この鏡については特に「これの鏡は、専ら我が御魂として、吾が前を拝（いつ）くが如く拝（いつ）き奉れ」と宣しています。神代（かみしろ）、すなわち神の化身として、吾を祭るが如く祭れ、というのです。この内容は『日本書紀』の宝鏡に関する上記神勅と同じで、天照大神が下したと伝えられる金科玉条は、代々の天皇が幼少期に学ばれた『論語』の「在すが如くす」という祭祀の基本態度と期せずして符合しています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　鏡の他、二つの神器は、八尺瓊勾玉（やさかにのまがたま）と草薙剣で、天皇践祚に際して皇位とともに継承されるものです。&lt;br&gt;
　これらの神器の内、八尺瓊勾玉は本体が、鏡と剣は形代（かたしろ）が継承され、玉の本体と剣の形代は皇居吹上御所「剣璽の間」に、鏡の形代は宮中三殿の賢所に安置されている。鏡の本体は伊勢神宮に、剣の本体は熱田神宮に祭られています。形代とは神霊の依り代のことですが、皇居に安置されているこれらでさえ、歴代天皇は実見されたことはないといわれています。&lt;br&gt;
要するにこれまで誰も見たことがないのです。&lt;br&gt;
　江戸時代の学者・富永仲基は「神道のくせは、神秘・秘法・伝授にて、只物をかくすがそのくせなり」と喝破しましたが、ここまで徹底している以上、ただの「くせ」で済ませておくわけには行かないでしょう。神道では、この「くせ」のために、近代合理主義精神からは膨大な無駄としか思えない、費用を含む大変な労力が費やされているのです。ちなみに、下世話な話になりますが、平成の御代の即位の礼及び大嘗祭には約八十一億円の国家予算が計上されました。その上、この大祭の為に当事者が掛ける時間と労力は大変なもので、半年以上掛けて綿密な準備を経て行われる、一日だけの行事ではないのです。皇室が頑なに守り続けるこの「くせ」には、当事者の立場に立ってみないとわからない、存在の根源に関わる奥深い事情があるのです。それはこの国の、延いては日本国民の根源に関わる奥深い事情ということです。&lt;br&gt;
　おそらく、その本義を精確につかんでいる者は存在しません。&lt;br&gt;
　何しろ、神道の宗家とも言える皇室でさえ、神代からの長い歳月を毎日、見たこともない神代（かみしろ）を拝（いつ）き奉ってきたのですから…。&lt;br&gt;
　形代も含めて、三種の神器の保有が皇位継承の絶対条件といえないのは、既に見たように、これなしで皇位を継承した天皇がいたことでも明らかですが、皇室が天照大神の金科玉条を頑なに守り抜き、一方で、目を世界に見開いて後、『論語』という、近代以前の東アジアの普遍思想を援用して、祭を「在す如く」自覚的に斎行してきたことで現在までその本質を継続することができたと理解しておくのが妥当でしょう。&lt;br&gt;
　神代、形代は、あくまで神霊そのものではなく、神と人の媒介をなすものであり、神との繋がりを存在の根拠とする歴代の天皇にとって、神霊とは、『中庸』の中の孔子の表現を再び借りるなら、まさに次のようなものであったに違いありません。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「子曰く、鬼神（神霊）の徳たる、それ盛んなるかな。これを視れども見えず、これを聴けども聞こえず、物を体して遺すべからず。天下の人をして、斎明盛服して、以て祭祀を承（う）けしむ。洋洋乎としてその上に在るが如く、その左右に在るが如し、と。詩に曰く、神の格（きた）るは度（はか）るべからず、いわんや射（いと）うべけんや、と。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　歴代天皇もまた、神霊（鬼神）の盛んなる徳を肌身に感じながら、日常、非日常の祭祀を継承してきたであろうことを筆者は疑いません。&lt;br&gt;
　祭祀に用いられる神器をたとえ見たことがなかったとしても、どうせ神霊（鬼神）は、これを視れども見えず、聴けども聞こえず、物を体して遺すべからず、なのであり、神の依り代に過ぎない形代の形状など見たことがなくとも究極的には何のこともなかったでしょう。&lt;br&gt;
　ちなみに孔子は『論語』においても「礼と云い礼と云うも、玉帛を云わんや。楽と云い楽と云うも、鐘鼓を云わんや」（「陽貨」）と言って、礼や楽にとって重要なのはそれに用いる器、すなわち儀礼に用いる玉や帛（はく；絹）といった祭器や、音楽に用いる鐘や太鼓といった楽器が重要なのではない、ということを説いています。&lt;br&gt;
　その点、伊勢神宮に安置されている至宝、八咫鏡も究極的には同じことで、神代の伝承以来、天照大神として様々な神話と共に語り継がれてきた神霊の本体は、神社に、ましてや神器や祭器などに在すのではありません。今もわれわれの頭上に在って、燦然と輝いている日輪こそ、古代人が仰いだ天照大神そのものに他ならないのです。これは本居宣長が喝破したことです。&lt;br&gt;
　われわれの知には限界があり、自らの知を恃む人ほど、理に走って本来の意義を見失いがちです。何事も隠す「神道のくせ」は物本来の姿で保存することで、偏知により見失われた物本来の姿を取り戻す上で、重要なきっかけを与えてくれます。認識の扉は知に囚われていては見えませんが、このベールの向こうのどこかに隠されていて、それを見つけることができるかどうかは、われわれのこれに近づく態度如何にかかっているのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　折口信夫は、公家社会において古代からの祭儀や慣習、言葉の意義が失われて、新たな価値観による合理化が行われ、これらの改変を余儀なくされたのは、漢字の受容により「からごころ」が公家社会を席巻しつつあった平安時代と考えていたようです。&lt;br&gt;
　｢大嘗祭の本義｣の締めくくり部分で次のように述べています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「ともかくも、大嘗祭は、平安朝に固定して、今日に及んだものゆえ、神代そのまま、そっくりのものとは考えられない。吾々は、その変化のうちに、隠れているところを見たいものである。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　おそらく、古代からの伝承や伝統の意味が失われたのは公家社会において、漢学が重んじられるようになった奈良時代から平安時代に掛けてのことでしょう。仏教もまたシナ経由であり、広義の｢からごころ｣に含めてのことです。その大きな流れを作ったのは、やはり『日本書紀』『古事記』といった、古伝承や古記録の整理と文字化を命じた天武天皇といっていいように思われます。文字化は生き生きとした伝承世界の固定化を生む。それは伝承世界の一部死を意味するのです。&lt;br&gt;
　天武天皇の時代すでに、各家・各地方の伝承は混乱し、その意味は見失われていました。記紀はその編纂方針を見ると、出来るだけ、その保存に努めたことが窺われますが、それでも当時の合理的価値規範による誤解曲解や改変を免れていません。&lt;br&gt;
　その記紀によって伝統を受け継ごうとする公家社会の知識階級は、当時、最も漢字を通じて｢からごころ｣を自ら進んで学んだ秀才たちであり、当然ながら｢からごころ｣による合理的解釈に傾いて、誤解に誤解を重ね、伝統を改変することになるのです。それを彼らは善意で行っているのです。&lt;br&gt;
　これはいつの時代でも変わりなく、もっとわかりやすい例を挙げれば、大東亜戦争の敗戦後、公職追放により学会がマルクス主義や唯物論に席巻されたとき、記紀は、当時の支配者の政治的意図による捏造、とのイデオロギーで解体されようとしました。もっとも記紀の編纂に政治的意図による捏造がまったくなかったとはいいません。ですが、それですべてを解釈するのは行き過ぎであり、イデオロギーですべてを割り切ってしまえば、その豊かな内容は死んでしまいます。それは彼らの政治的意図、すなわち天皇制の廃滅をそこに読み込んでいるに過ぎないのです。これは現在のグローバリストも同じことです。&lt;br&gt;
　これは記紀編纂者たちの意図とは正反対の、皇室伝統への悪意の例と言っていいでしょう。　&lt;br&gt;
　物事をありのままに見つめ、これを理解しようと努めることがいかに難しいことか。これは伝統に常につきまとって離れない問題であり、おのが知を恃む人間ほど、俗耳に入りやすい、安易な、時代精神迎合の合理的解釈に陥るものなのです。&lt;br&gt;
　この難しさを認識していれば、伝統の核心と目される部分を、隠し、これを古くからのありのままで保存に努めるという態度が、人間の知性の限界をわきまえた、いかに賢明な態度であるかわかるでしょう。&lt;br&gt;
　それは「鬼神を敬して遠ざく」という、孔子が言うところの知的態度でもあるわけですが、西洋の知識人の言葉に敏感に反応する人にはゲーテの次の言葉を引用しておきましょう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「考える人間の最も美しい幸福は、窮め得るものを究めて、窮め得ないものを静かに崇めることである」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　静かに崇め、これをそのままに保存することで、いつかその意義を闡明にする者が現れるかもしれませんが、合理主義的に無駄と浅はかに判断して、これを廃してしまえば、その可能性もなくなってしまいます。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　孔子は悧巧で知られる弟子の子貢が、ある形骸化していた宗廟での祭祀で供えられている生贄の羊を無くそうとした際、なんじはその羊を愛しむが、われはその礼を愛しむ、と言ってたしなめたことがありました。形骸化していても慣習として存続していれば、伝統として礼の精神が復活することもあろう、との含意ですが、これは大嘗祭を始めとする皇室の祭祀全般に言えることでしょう。&lt;br&gt;
　皇室伝統の破壊を目論む唯物論者やグローバリストが無意味や無駄を理由に巧妙に付け込むのはそこです。&lt;br&gt;
　慣習として存続していれば、その意味を洞察して闡明する者、そして、これを新たな時代に復活させようと決意し、その精神で自らを律する人物が現れるかもしれません。そうした時、その偉大な精神、言霊は、そして神霊は、新たな時代にも生き続けていると言えるのではないでしょうか。&lt;br&gt;
　また、それが多くの人の共感を呼び、行動をともにする人が現れたとするなら、神霊の姿は見えずとも、その徳はこの世に何事かを及ぼし続けていると言えるのではないでしょうか。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hidemikishuu/66766504.html</link>
			<pubDate>Tue, 30 Apr 2019 19:10:03 +0900</pubDate>
			<category>祭りと伝統</category>
		</item>
		<item>
			<title>皇室祭祀の秘儀－大嘗祭（壱）　【『皇室と論語』（二十三）】</title>
			<description>&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;令和の御代で第百二十六代を数える歴代天皇の事跡は六国史を中心とする各史書に明らかです。皇室の本質を知るうえで最も重要なのは『日本書紀』と最古の史書『古事記』ですが、これらの書にあって皇祖皇宗の事跡は初代神武天皇をさかのぼると神代となり、やがて日向の高千穂峯から天に昇って高天原が舞台となります。&lt;br&gt;
　歴代天皇の事跡を学ぶのは天皇の御学問にとって必須の科目で、それによって大御心は養われるのですが、皇室の儒学受容の伝統に則り「忠恕」の心で｢祭るには在すが如くし、神を祭るには神在すが如くす｣と教育されてきた天皇が、日常・非日常の祭祀を通じて皇祖皇宗の神霊(鬼神)の存在を感じるようになるのは必然だと思われます。&lt;br&gt;
　祭祀による神々との繋がりを存在の根拠とする歴代の天皇にとって、神霊とは、『中庸』の中の孔子の表現を借りれば、まさに次のようなものであったに違いありません。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「子曰く、鬼神（神霊）の徳たる、それ盛んなるかな。これを視れども見えず、これを聴けども聞こえず、物を体して遺すべからず。天下の人をして、斎明盛服して、以て祭祀を承（う）けしむ。洋洋乎としてその上に在るが如く、その左右に在るが如し、と。詩に曰く、神の格（きた）るは度（はか）るべからず、いわんや射（いと）うべけんや、と。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　これは後世の者が孔子に仮託して述べたものですが、呪術的世界に生きた孔子の鬼神観はまさにこのようなものであったでしょう。&lt;br&gt;
　歴代天皇もまた、神霊（鬼神）の盛んなる徳を肌身に感じながら、日常・非日常の祭祀を継承してきたのではなかったか。少なくとも、祭祀の最中だけでもそのように感じられる瞬間はなかったでしょうか。&lt;br&gt;
　筆者は歴代天皇が神霊の存在を信じてこの国を治めてきたことを疑いません。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　天皇の一日が神事に始まるのは、古代はもとより、帝王学としての漢学の影響が強まってからも変わりません。&lt;br&gt;
　以下は所功氏の著作『皇位継承の在り方』からの孫引きです。&lt;br&gt;
　平安前期、藤原氏の摂関政治と対決し、菅原道真を抜擢して、親政を行った宇多天皇が十三歳の醍醐新帝に書き与えた『寛平御遺誡』も、その冒頭に、次のように記しています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「昧旦（早朝）…服を整へ盥嗽（かんそう；手水を取り、身を清めること）して神を拝す。又、近くに公卿を喚（よ）び、議すことあらば洽（あまね）く治術を問ひ、亦、…侍臣を召して六経の疑ひを求む。聖哲の君、必ず輔佐に依り、以て事を治む。…」（…は欠文）&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　つまり、天皇の一日は神事に始まり、次いで徳を以て君臣一体となって天下の統治を行うとの戒めが書かれているのです。天皇親政が専制独裁とは全く異なるものであることは明らかでしょう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　次に、鎌倉時代初期の承久三年に、天皇親政を目指して討幕の挙兵に踏み切った後鳥羽天皇と行動を共にした順徳天皇が書き残した『禁秘御抄』「賢所の条」には次のように記されています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「およそ禁中の作法、神事を先にし、他事を後にす。旦暮、敬神の叡慮、懈怠なかるべし。あからさまにも神宮ならびに、内侍所の方（神鏡を祀ってある賢所の方角）を以て御跡の方となさず。…」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　禁中においては神事、なかんづく天照大神への奉仕を優先せよ、と説かれているのです。そして同書「恒例毎日次第の条」には、宇多天皇が触れた昧旦の神拝について具体的に次のように記されています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「早旦、御湯を供じ、次に御手水を供ず。次に石灰の壇（清涼殿東南隅の遥拝所）に着く。主上、御心を正しくして巽（たつみ；東南）向きに着御し、神宮・内侍所已下に御祈請なり。毎日の御拝、夜半の後、一切の不浄を止む。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　学問については「諸芸能の事」条に触れられています。徳川家康が定めた「禁中並公家諸法度」の第一条に引用されているくだりです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「第一、御学問なり、それ学ばざれば、即ち古道に明らかならず。…第二、管絃なり。…和歌、わが国の習俗なり、…詩情・能書なども、同じく殊能なり…」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　『寛平御遺誡』も『禁秘御抄』も天皇となられる方必須の教科書として皇室に読み継がれてきた書物です。&lt;br&gt;
　優先順に神事、道の学問、諸芸能。&lt;br&gt;
　これら天皇としての修養を一以て貫く統合的な価値規範こそ、『論語』であっただろうことは、これまでの記述からもおおよそご理解いただけるのではないかと思います。&lt;br&gt;
　宮中祭祀は色々ありますが、天皇にとって最も重要な祭祀儀礼とされているのが大嘗祭です。&lt;br&gt;
　大嘗祭は天皇即位後、初めて行われる新嘗祭のことですが、一年に一度行われる新嘗祭と違い、一代に一度限りということで特別な位置づけがなされています。　&lt;br&gt;
　新嘗祭の起源は、大嘗祭よりかなり古く、農業にまつわる祭りとして特に変わった祭ではありません。新穀を神に供し、その御下がりを頂く。古来、広く民間で行われてきた祭で、『常陸国風土記』に「新粟（わせ）の初嘗（にひなめ）」あるいは「新粟嘗（にひなへ）」、『万葉集』の東歌にも「早稲を爾倍（にへ）すとも」と見えます。現在でも石川県の奥能登地方には「あへのこと（饗事）」と呼ばれる古くからの民俗行事が残っていて、ユネスコの無形遺産に登録されています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　戦前、新嘗祭は毎年十一月二十三日を祭日として祭りを行われてきました。現在の「勤労感謝の日」がそれです。「勤労感謝の日」は祝日法に「勤労を尊び、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」日と定められていて、神事としての性格はわれわれ国民の眼から覆い隠されていますが、わが国の勤労精神を培養してきた稲作文化とのつながりを根底では失っていないのです。&lt;br&gt;
　史料において、この民間の古俗が宮中に取り入れられたのは、『日本書紀』仁徳天皇四十年の条に「是歳、新嘗の月に当たりて、宴会の日を以て、酒を内外命婦等に賜ふ」とあるのが初見とされますが、すでに神代巻で、高天原において素戔鳴尊（すさのおのみこと）が暴状を働いた際、「天照大神の新嘗（にいなへきこ）しめす時を見て」との表現があります。ちなみに『古事記』では「その大嘗（おおにへ）聞こしめす」との表現になっていて、記紀が編纂された時代には神代に由来するものとして認識されていたことが窺えるのです。&lt;br&gt;
　神話によると、天照大神は保食神（うけもちのかみ）の死体から五穀の種子を得て、それを高天原の御田に植え、大嘗を行って食していた。そして、その種「吾が高天原に所御（きこしめ）す斎庭（ゆには）の穂（いなのほ）」を地上に降臨する天孫・瓊瓊杵尊（ニニギノミコト）に授けた。初代神武天皇の祖父に当たる瓊瓊杵尊は火瓊瓊杵（ホノニニギ）とも言われ、稲穂が賑々しく実ることを表す名です。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　おそらく、これらの神話を祭儀化したのが、伊勢神宮で毎年行われる神嘗祭（かんなめのまつり）と宮中で行われる新嘗祭です。&lt;br&gt;
　神嘗祭は、伊勢（宇治）の御神田で収穫された初穂で作られた神饌（みけ）を、外宮の豊受大神と内宮の天照大神に供じ、これを食していただく御祭です。明治初年以降は、これに加え、天皇が皇居吹上御苑で自ら田植えを行い、刈り取られたばかりの初穂を伊勢に送り、全国の篤農家から奉納された初穂、いわゆる懸税（かけちから）と共に、内宮の瑞垣に懸け奉られるようになったといいます。この祭は旧暦の九月の十六日（外宮）、十七日（内宮）に行われてきましたが、明治十二年より新暦の十月の同日に改められました。&lt;br&gt;
　祭の当日には、宮中の賢所においても祭が行われ、天皇は伊勢神宮を遥拝されます。&lt;br&gt;
　神宮では、毎朝毎夕、古式に則った素材と製法で作られた御水・御塩・御飯を主とする神饌（しんせん）を神に供ずる大御饌祭（おおみけさい）が行われていますから、これをさらに盛大にした神嘗祭は初穂を捧げるところに祭の意義があるのは明らかです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　この神嘗祭が、夏が過ぎ、太陽の威力、すなわち天照大神の霊力の衰えが誰でも肌で感じられるようになる旧暦の「長月（語源は一説には夜長月）」に祝われるのに対して、新嘗祭は、すでに触れたように明治六年の改暦以来、十一月二十三日に行われてきました。しかし、それ以前は、律令に旧暦の「十一月下卯日（しものうのひ）」と定められているように、冬至近くに行われてきたのです。冬至の頃は、十一月が旧暦で「霜月（語源は文字通り霜が降りる月）」と表現されるように、天照大神の霊力が最も弱まり、大気や大地がめっきり冷え込む頃です。&lt;br&gt;
　この時期に、民間では一年の農業行事の締めくくりとして新穀献上の祭が行われると同時に、皇居においても、天皇御一人が神嘉殿に出御され、新穀を中心にして作られた神饌を、天皇自ら竹の御箸で柏の葉に盛り付けて供した後、同じものを神々と召し上がられる神人共食の祭儀、新嘗祭が行われるのです。&lt;br&gt;
この祭儀を次代に皇位を御継ぎになられる皇太子が南庇の間中央の拝座にて学ばれます。&lt;br&gt;
　この間、神楽歌の演奏が絶え間なく流れ、庭燎が焚かれています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「ともしびの　静にもゆる　神嘉殿　琴はじき　うたふ声　ひくく響く」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　平成天皇が皇太子時代の昭和三十一年、昭和天皇の新嘗祭を御覧になって詠まれた御歌です。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　高森明勅氏の『天皇と民の大嘗祭』によれば、神話上はともかく、初めての新嘗の記事が見える『日本書紀』仁徳天皇の段の即位前紀に、伝承として、垂仁天皇の御代に、皇太子（後の景行天皇）に命じて、｢倭（やまと）の屯田（みた）｣を定めさせたとの記事があるといいます。これは天皇のお召し上がりになる穀物を産する田んぼのことで、皇子といえども皇位を継いだ上でなければ掌ることは許されない天皇直属の神聖な御田でした。後の｢大宝令｣では｢屯田｣、｢養老令｣では｢官田｣と表記されます。&lt;br&gt;
　『古事記』には景行天皇の御代に｢倭の屯倉（みやけ）｣を定めたと記されていて、新嘗祭の起源が景行天皇の御代であると朝廷では伝承されていたことになります。『古事記』雄略天皇の段には次のような「天語歌」が採録されています。「あまがたりうた」とは天語連（あまがたりむらじ）などが伝承した神話を題材とした物語風の歌のことです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「纏向（まきむく）の日代（ひしろ）の宮は、朝日の日照る宮、夕日の日がける宮、竹の根の根垂る宮、木の根の根蔓（ば）ふ宮、八百土（やほに）よし　い築（きづ）きの宮、真木さく　檜の御門。&lt;br&gt;
新嘗屋（にいなへや）に生い立てる　百足（ももだ）る槻（つき）が枝（え）は、上枝（ほつえ）は天（あめ）を覆へり、中つ枝は東を覆へり、下枝（しづえ）は鄙を覆へり、…」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「纏向の日代の宮」とは景行天皇の宮のことで、新嘗の神事との深い関係を思わせる歌です。&lt;br&gt;
　実際、崇神・垂仁・景行天皇が宮を構えた纏向の遺跡からは、新嘗の原型となる祭が行われたと考えられる祭祀遺跡も発掘されており、出土品は延喜式・大膳職式の｢御膳神（みかしはでのかみ）｣「竈神（かまどのかみ）」「新嘗祭」の条にある祭器と一致するものが多いとのことで、考古学的にある程度の裏づけがなされているといいます。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　さて、その新嘗祭の内、天皇即位後、初めて行われる一代に一度の祭が大嘗祭です。&lt;br&gt;
　平成の大嘗祭に際して、政府の統一見解が出されましたが、その意義は次のようにまとめられています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「大嘗祭は、稲作農業を中心とした我が国の社会に古くから伝承されてきた収穫儀礼に根ざしたものであり、天皇が即位の後、初めて、大嘗宮において、新穀を皇祖及び天神地祇にお供えになって、みずからもお召し上がりになり、皇祖及び天神地祇に対し、安寧と五穀豊穣などを感謝されるとともに、国家・国民のために安寧と五穀豊穣などを祈念される儀式である。それは、皇位の継承があったときは、必ず挙行すべきものとされ、皇室の長い伝統を受け継いだ、皇位継承に伴う一世に一度の重要な儀式である。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　大嘗祭は史料上確認できるところでは、毎年行われる新嘗祭に改革を加え大嘗とした天武天皇の御代（即位二年・六七三年）にその原型となる祭儀が行われたのを初めとして、次代持統天皇の御代に儀式が整えられ、以後、継続して行われました。天武朝最後の孝謙天皇の御代の「養老神祇令」に、新嘗祭・大嘗祭ともに「大嘗」といい、「毎世」と「毎年」の「大嘗」で区別されていたからややこしいですが、要するに、「毎世」のものが践祚大嘗祭、「毎年」のものが新嘗祭に当たると推測されています。&lt;br&gt;
　戦国時代の後土御門天皇の大嘗祭（文正元年・一四四六年）を最後に、秩序が安定した江戸時代の東山天皇の御代に復活するまでの二百二十年間、中断を余儀なくされましたが、それ以外の時代はずっと行われてきました。この中断した時代についても、歴代天皇は望んで果たせないやむをえない事情があったからで、それは朝廷の衰微と世の乱れが原因でした。&lt;br&gt;
　後奈良天皇は朝廷が衰微のきわみにあった時代の天皇でした。朝廷の財政の逼迫により、天皇は三十一歳で践祚してから十年間即位の礼を行うことが出来なかったのです。その即位式でさえも大内・今川・朝倉・北条ら有力大名の献金によってようやくであり、大嘗祭は断念せざるを得なかった。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　皇位継承資格は神武天皇以来の男系の血統を受け継いでいることですが、それだけなら通常、条件を満たす皇族は多数います。では、それらの有資格者と天皇の存在を別格のものとしているのは一体どういった条件なのでしょうか。その謎を解く鍵が大嘗祭にあるとされています。&lt;br&gt;
　古くは「おおにえのまつり」「おおなめのまつり」「おおむべのまつり」と呼ばれた大嘗祭（だいじょうさい）は、即位後、朝廷お膝元の畿内以外の百姓（おおみたから…公民）の耕作する土地の中から、卜占によって定められた悠紀国（ゆきのくに）と主基国（すきのくに）で収穫、献上された稲の初穂を、天皇親ら天照大神を中心とする天神地祇に供し、それと同じものを召し上がられる祭です。&lt;br&gt;
　この祭のために、掘立茅葺きの簡素な二つの祭殿からなる「大嘗宮」（東に悠紀殿、西に主基殿）が御所内に建てられます（明治・大正・昭和は京都御苑、平成は皇居内）。本儀はそこで行われます。悠紀殿供饌の儀、主基殿供饌の儀、間に休息を挟んで午後六時から明け方までの間で計六時間余り、二殿に御こもりになられて、二つの祭儀に臨まれるのです。これに供奉を許されているのは小忌（おみ）の奉仕者たちです。占いで選ばれ、厳重な物忌みを行った小忌の親王・納言・参議、小忌服を着た大臣、祭祀関係氏族である中臣・忌部・御巫（みかむなぎ）・猿女などから成ります。&lt;br&gt;
　天皇は御座に着いて、親ら神饌を神に献じ、告文を奏して、五穀豊饒を感謝され、国家の繁栄と大宝（おおみたから）である国民の福祉を祈願される。その後、神饌と同じものを神々と向かい合って召される。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　この時の祝詞の一例として、元文三年の桜町天皇の大嘗祭の祝詞を『伯家部類』から挙げることにします。&lt;br&gt;
　ちなみに神祇伯を代々世襲してきた白川家では、古来から朝廷に伝わる祭祀の作法を神道らしく、口伝で継承してきましたが、戦国時代から主流となった吉田神道への対抗上の必要から、家伝を整理しました。延宝八年（一六八〇年）のことです。それが『家説略記』ですが、その直後、東山天皇の御世、貞享四年（一六八七年）に、大嘗祭は復活しています。『家説略記』をさらに改訂したのが、宝暦四年（一七五四年）の『伯家部類』で、その中に元文三年の桜町天皇の大嘗祭における祝詞が記録されています。これは神食薦（かみけこも）の上に天皇が神饌を並べ終えてから唱えられる祝詞です。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「伊世（伊勢）の五十鈴川の河上に湯津磐村（ゆついわむら）の如く鎮りまします天照大神を初奉り、天つ神・くにつ神・八十万（やそよろず）の神のあら御玉（みたま）・和（にぎ）御玉・三はしらごとに申て申さく、朕、すめ神たちのの擁護給ふがゆゑに、宝祚つゞきて動ことなく、天が下平らかに、年穀ゆたかにみのりて、うつくしき蒼生（たみくさ）をも救ひ、上下ゆたかに楽しめん。かるがゆゑに今年の新のたなつ物、八握穂（やつかほ）にしなひたるを御食（みけ）に奉りて、弥増（いやまし）の守護をのみいのり申す由を聞しめしてうけ幸ひて、諸の災をさけ、千早ぶる悪心を払ひ、朝家おこりさかへんに神の威をかゞやかし守り幸ひたまへと申す、…」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　祝詞は「言の葉」による表現です。古代において「言の葉」とは「事の端」であり、物事の一端を示すに他なりませんが、ここに大嘗祭の本質の一端は表されている見るべきでしょう。これから天皇になられる御方の言霊がこれらの「言の葉」には込められている。しかし、われわれにとってはともかく、客観的には、祭の主役は本来なら祭られる対象のはずです。大嘗祭の場合、われわれ国民の眼は天皇陛下に注がれますが、天皇になられる御方の御魂は祭られる対象、すなわち天照大神その他の神々に集中しているのです。&lt;br&gt;
神道には本来、表立った教義が存在しませんから、「言の葉」によって祭の意義が説かれることはありません。&lt;br&gt;
　大嘗宮における神事についても、儀式に奉仕する極少数の者を除いて、陪席者がいないことに加えて、過去の記録のほとんどがここで行われる核心部分について詳しく触れていないため、儀式の詳細は秘密のベールに包まれてきました。そこで大嘗祭の意義について様々な解釈が行われてきたわけです。&lt;br&gt;
　戦国の混乱を経て大嘗祭が復活してから幕末まで神祇官として奉仕した、中臣を始祖とする鈴鹿家に伝わる詳細な記録が、平成の大嘗祭を前にして、高鴨神社宮司・鈴鹿冬三氏によって公にされました。平成二年正月のことです。そこには儀式の記録や図面のみならず、実際に卜定に用いられた亀甲や悠紀・主基両国の抜穂の実物までが保存されていたのです。&lt;br&gt;
　鈴鹿家の記録によると、祭殿内陣中央には寝座として「八重畳（やえだたみ）」が置かれ、敷布団と掛布団が敷かれ、その上に「坂枕（さかまくら）」という枕が置かれています。また、さらに沓・扇・櫛までが用意されています。&lt;br&gt;
　内陣の桁行は三間（約5・5メートル）、八重畳の長さは一丈二尺（約3.6メートル）で、中央に堂々と設えられています。枕は八重畳の南端、沓は北端に置かれていて、「坂枕」とは死者に用いられる北枕の「逆枕」という意味でしょう。つまり、生を象徴させているということになります。&lt;br&gt;
　神人共食の儀式は、内陣の東南隅に設けられている神座と御座で行われます。天皇の御座は神座に東南方向に相対している。これは京都御所から見て伊勢神宮のある方角です。&lt;br&gt;
　内陣の配置を見る限り、儀式の中心は「八重畳」にあるはずですが、復活以降の大嘗祭ではここで何も行われない。しかし、かつてはそうではなく、むしろ儀式の本質はこちらにあったのではないか、というのが一般的な見解です。&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
　まずは高森明勅氏の語るところの大嘗祭の本質を紹介しておきたいと思います。&lt;br&gt;
　高森氏は従来の新嘗祭と大嘗祭の共通性から大嘗祭の本質に迫ろうというアプローチではなく、両祭の著しく異なる点に、大嘗祭を大嘗祭たらしめているその本質を見ようとしたのです。それがまとめられているのが、平成の大嘗祭を前にして世に問われた『天皇と民の大嘗祭』という著作ですが、歴史学的見地からの堅実な検証が行われていて非常に説得力があります。&lt;br&gt;
　氏が提示するのは、「民の大嘗祭」という視点です。先に見たように、大和朝廷における新嘗祭の起源は景行天皇の頃にまで遡り、『日本書紀』の伝承によれば、垂仁天皇の命令により皇太子時代の景行天皇が定められた天皇直属の「御田（屯田）」の産する穀物で行われました。一方、大嘗祭の起源は当時の先進的な大国・唐を意識して中央集権の大改革事業を行った天武天皇までさかのぼることが出来ます。天武天皇は代初めの新嘗祭で、畿外に悠紀・主基の両地方を卜定し、そこから取れる穀物で「大嘗」を執り行いました。重要なのはこの両地方が「百姓（おおみたから）」の耕作する土地から選ばれるということです。「百姓」とは天下の公民との含意があります。すなわち大化の改新以前の前国家的な個別的支配地からの個別的収取を前提とする官田（屯田・屯倉）ではなく、公的・国家的収取による神事の執行です。律令の制定を命じ、公地公民制を確立した天武天皇にして初めて可能な、画期的な出来事であったのです。&lt;br&gt;
　大嘗祭における稲以外の献上物、すなわち海産物を中心とする御贄（由加物）は紀伊・淡路・阿波、服（にきたへのみそ）・麁妙服（あらたへのみそ）などの斎服は三河・阿波、語部は美濃・丹波・丹後・但馬・因幡・出雲・淡路、神盾（かむたて）・戟（ほこ）などの祭器は丹波・紀伊の諸地方から献上されました。いずれも畿外の諸地方の非稲作民の奉仕です。祭器を献上する河内・和泉・尾張・参河・備前の内、後者三地方、尾張・参河・備前も畿外です。&lt;br&gt;
　以上のように、大嘗祭における公民「おおみたから」の奉仕という性格は徹底していて、新嘗祭が朝廷内の諸官司の奉仕によって行われたのに対し、これを執り行ったのは国司、すなわち地方に中央から派遣された官吏でした。「養老令」の「凡そ大嘗は世毎（よごと）に一年、国司事を行へ。以外は、年毎（としごと）に諸司事を行へ。」とはそのことを定めたものです。この国司の下で、地方生え抜きの郡司が地方民を束ねて奉仕の実務に当たったのです。皇位継承儀礼である大嘗祭はもっぱら「おおみたから」の奉仕によって成立する国家的祭祀だったのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　次に例外的事例を見てみると大嘗祭にはさらに別の特徴があるのが見えてきます。&lt;br&gt;
　祭器を献上する五国の内、河内・和泉の二地方は畿内です。この両地方は、わが国で最古最大の須恵器の生産地であり、これは他の非稲作民の奉仕にも言えることですが、それらの地方は、大化の改新以前からの朝廷への奉仕の歴史と伝統を持っています。&lt;br&gt;
　また、大嘗祭には吉野の山の民・国栖（くず）と日向・大隅・薩摩地方の海の民・隼人の奉仕があります。いずれも、稲作に根ざした朝廷文化からは異族視されてきた民です。国栖の服属は神武天皇の御代にまで遡り、これに対し隼人の服属は大嘗祭成立の時期からみて極々新しいことですが、後にも度々反乱を起こしていることから見ても、都からは辺境に位置するまつろわぬ民でした。&lt;br&gt;
　国栖・隼人は大嘗祭に限らず、朝廷の様々な儀式に奉仕し、群臣が式場入場の際、門外において、国栖は歌笛を奏し、隼人は犬吠（犬の遠吠えを真似た声）を発しました。（ただし、外国使節がいる前ではこれらの奉仕が行われなかったといいます。）ところが大嘗祭の神事の時のみは、門内での奉仕を許されたのです。&lt;br&gt;
　大嘗祭の神事のとき、大嘗宮南門の外の庭上で行われる行事は、順に、国栖の古風（ふるぶり）奏上、悠紀または主基地方の歌人の国風（くにぶり）奏上、諸地方の語部の古詞奏上、隼人の風俗歌舞、そして皇太子以下の八開手の拝礼へと続きます。&lt;br&gt;
　その順序は服属の歴史と時間的に符合しているのです。&lt;br&gt;
　以上のことから、彼ら非稲作民の大嘗祭における奉仕は国家の歴史性―国家の機構的・人的な構造を担保する歴史性―を象徴させている、というのが高森氏の見解です。すなわち総括して言えば、大嘗祭とは国家の構造性とそれを支える固有の歴史性を象徴する祭儀ということになります。新嘗祭に代表される農耕儀礼が皇位継承儀礼に転化したのではなく、公の理念を含んだ律令国家の成立過程で、皇位継承儀礼が必然的に農耕儀礼を含みこんだのです。&lt;br&gt;
　以上で、高森氏の多面的な論証を覆いつくせるものではありませんが、なるほど説得力のある見解であり、そういった特質を持つ祭儀であることは間違いないように思われます。&lt;br&gt;
　大嘗祭の本義について、従来の大家の説が祭儀における天皇の振る舞いに注目していたのに対し、高森氏は天皇と民の関係という視点からその全体像を捉え直し、その意義を問い直したのです。&lt;br&gt;
　一方で、氏は大嘗祭の本義に対する従来の「密室の秘儀」という見方を矮小と批判しています。&lt;br&gt;
　しかし、それはどうでしょうか。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hidemikishuu/66764585.html</link>
			<pubDate>Fri, 26 Apr 2019 19:01:06 +0900</pubDate>
			<category>祭りと伝統</category>
		</item>
		<item>
			<title>神霊の存在-日本人の本来的自己喪失（参）　【『皇室と論語』（二十二）】</title>
			<description>&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;&amp;nbsp;『かのやうに』の主人公五條秀麿の父の精神上の教養は、その世代にとって一般的であった、朱子の註によって『論語』の講釈を聴いたぐらいのものであったという設定になっています。それは当時一般に行われていた慣習に倣っただけであって、明治になって、ユダヤ・キリスト教をバックボーンとする西欧文明という新たなパラダイムに対応せねばならなくなったときに（それは留学から帰った息子がもたらした）、祖先の神霊を祭るに在ますが如くしてきたが、果たして自分は神霊の存在を感じても、信じてもいないのではないか、という自問自答となるのは知的誠実というものでしょう。&lt;br&gt;
　知識人たるものこれに答える義務があります。&lt;br&gt;
　いくら科学が発展し、近代的知性によって、神霊（鬼神）の存在が否定されたからと言って、先祖代々の存在があって奇跡的に自分という個性が今この世に存在することの重みを否定することはできません。&lt;br&gt;
　また、同様に、いくら過去を否定したところで、過去の積み重ねによって現在がある、その逆ではない、という事実の重みを決して否定することは出来ないのです。　&lt;br&gt;
　いくら精緻な理論を構築する才能があっても、ここを踏まえていない理論は、つまり知の限界を弁えていない理論（解釈）は、それこそ無駄、いや時に有害ですらあります。&lt;br&gt;
　&amp;#40407;外は「かのやうに」という差当っての解決策を提示した後、明治天皇の崩御と五條子爵のモデルとされる乃木希典の殉死という衝撃的事件に直面して、殉死というテーマに取り組むことになります。人は、精神的な弱さから来る自殺ならともかく、信じてもいない存在のために意識的に死を択ぶことはできません。ならば、&amp;#40407;外の五條子爵の心情への忖度は浅はかであったと反省されざるを得なかったでしょう。明治の一長者は一体何を信じていたのか。それが以後の&amp;#40407;外の創作動機になったと思われます。&lt;br&gt;
　乃木大将の辞世の句は次の通りです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
神あがり、あがりましぬる、大君の、みあとはるかに、をろがみまつる&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
うつし世を、神去りましゝ、大君の、みあとしたひて、我はゆくなり&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　神霊となられた明治天皇を遠くから拝み、祭る。&lt;br&gt;
　その御跡を慕って、私も神霊の世界に行く。&lt;br&gt;
　やはり天皇の御存在に、神霊の存在を感じ、これを信じていたとしか解釈の仕様がありません。乃木大将は多くの人々の死を見つめてきた人物です。彼の座右の銘である山鹿素行の『中朝事実』に則って、天下の本である国家に、国家の本である民に、民の本である君（天皇）に、軍人として尽くす過程で、多くの部下を失いました。旅順のいわゆる二〇三高地においてロシア軍を相手に甚大な人的損害を被ったのは周知の事実です。ここで彼は二人の息子も失っています。&lt;br&gt;
　その悲哀を深く心に刻み込んだ彼が英霊達を忘れて、殉死するまでの余生を過ごしたとは思われません。彼にとって戦死者は、後の唯物論者がそうみなしたような消費された人的資源であったはずはないのです。&lt;br&gt;
　大将は戦後、膨大な数の「鬼神（神霊）」を背負いながら、明治天皇に仕え、その大御心に従って、学習院の初代院長に就任し（学習院の名は『論語』の「学びて時にこれを習う」に由来している）、皇孫・裕仁親王（後の昭和天皇）の教育に力を注いだのです。&lt;br&gt;
　大将は『中朝事実』の「人、いまだその父祖を思はざるなし」という言葉が好きだったといいます。彼は、殉死の二日前、明治帝崩御して既に実質的な皇太子であらせられた裕仁親王に特に拝謁を願い出て、自ら手写した『中朝事実』を献上し、涙で頬を濡らしながら数時間に亘って、御進講を行いました。&lt;br&gt;
　これを遺言となし、殉死した乃木大将は忠臣として鬼籍に入り、乃木神社に祭られて神となりました。孔子の言葉を借りるなら、乃木大将は、明治天皇という至尊の人に事え、「鬼」籍に入られた天皇にさらに事えようとした、ということになります。それをさらに忠実に行うには、祭るという人事は他の者に任せ、自らも鬼籍に入らねばならない。それは同時に、間接的にこの国の「神」に事えることを意味しました。主君にして至尊である明治天皇の父祖に思いを馳せれば、それは神話に行き着かざるを得ないからです。つまり、大将は敢えて、自ら鬼となることで、神に事えようとしたことになるのです。&lt;br&gt;
　現代人は大将の辞世の句を読んで、素直に共感できないかも知れませんが、理解できぬなら、せめて「敬してこれを遠ざく」ぐらいの伝統的な知的謙虚さがあってもいいのではないでしょうか。&lt;br&gt;
　五條子爵は、息子秀麿の手紙を読んで、祭りは在す如くしている自分の心的態度を自問自答しましたが、明治天皇に仕えた当初の乃木希典も、他の多くの武士と同じく、神霊の祭りごとにはプラグマティックに取り組んでいたかもしれません。しかし、明治天皇に仕え、忠義を、人事を尽すうちに、その背後に神霊の存在を感じるようになったのではなかったでしょうか。&lt;br&gt;
　乃木大将が到達したと思われる世界観は秀麿の父も一部共有していたと言っていいでしょう。&lt;br&gt;
　一方、息子の秀麿は欧化時代の明治の若者らしく、こういった古典の教養を持たぬまま留学し、西洋の学問、なかんづくドイツの哲学の中に答えを見出しましたが、それは『かのようにの哲学』を援用するまでもなく、幕末維新期を過ごした父以前の世代には解決していた問題であったのです。つまり、父子の葛藤は明治人の自己喪失の典型だったのではないかということです。&lt;br&gt;
　ドイツ留学経験を持つ森&amp;#40407;外や、ドイツ文学を専攻し、同じくドイツ留学経験もある西尾氏が、そこに鍵を見出すのは自然です。&lt;br&gt;
　繰返しになりますが、鬼神とは神霊のことです。「鬼」とは、先祖の魂その他、人間のなった神、「神」とは、天の神その他、人間以外の神でとのことです。われわれ現代人にとって、それは迷信に過ぎず、渋沢の認識が示すように、文脈から見て彼の言う神仏とは明らかに人間以外の「神」のことで、これは維新の志士も同様の認識でした。渋沢は、引用文にもあった『論語』「八&amp;#20350;」篇の「祭るには在すがごとくにし、神を祭るには神在すがごとくにす」の講義の中で、「神とはもと人なり」との、新井白石以来の朱子学的合理主義の立場を表明しており、要するに彼にとっての神とは、優れた知性、徳を持つ先人、つまり聖人賢者をイメージしていたことがわかります。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「…神はもと人なり。耶蘇教(キリスト教)のいわゆる造物主にあらず、ゆえに神に事うるには人に接する道を以てすべし。人に接するには信を主とす。信の実体は人に対して誠を尽くし、言行一致して表裏なきにあり。神に事うるにもこの心を推して敬虔の意を表するより外に道あるべからず。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　孔子でさえ答え得なかった鬼どころか、神への事え方を論じているわけですから、渋沢の知は孔子以上ということになり、行き着くところ、神話も合理的に解釈されて、歴史ととらえられることになります。しかし、これは『論語』の深い読みでは、窺知しがたいことを知で捉えるタブーを犯すことになります。荻生徂徠の朱子学に対する批判も同じ趣旨です。これはプラグマティズムの限界を示すものであります。しかし、渋沢にはこの態度によって、幕末･維新を経て近代日本の確立に貢献してきたという、経験に裏付けられた確信があったのでしょう。&lt;br&gt;
渋沢はやはり、先の引用に続けて、この鬼神に対する理解、そして態度から一種の國體論を導き出しています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「しかして神を敬するはすなわち己の祖先や社会の先達を尊崇する所以にして、大和民族の一大家族的の一致結合も、郷土における淳風美俗も、実に敬神の旨より生ぜざるはなし。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　鬼神(神霊)に対する態度は日本人としての生き方、日本の國體観の根本をなす。だからこそ、この問題を掘り下げてみる必要があるのです。&lt;br&gt;
　近代社会を合理主義的に生きていると自ら信ずる一般庶民にとって、神仏とはすなわち迷信であると言っていいかもしれません。ですが、先祖の霊である「鬼」に関しては、神霊としての存在は信じられなくとも、自分が今ここに存在している以上、近代科学による証明を待つまでもなく、かつて先祖がこの世に存在したことは確かな事実です。さかのぼれば、顔や性格や事跡は不明であっても、いつの時代にも先祖は確実に存在したのです。&lt;br&gt;
　祖先の祭を疎かに出来ない最低限の根拠はここにありますが、祭を正心誠意執り行ったとしても、神霊の存在を感じられるようになるとは限りません。&lt;br&gt;
　渋沢は神仏を迷信としているし、秀麿の父もそれを告白している。&lt;br&gt;
　だからといって、祭を決しておろそかにすることはない彼らは漢学を通じて「かのように」の哲学を身につけていたと言えます。&lt;br&gt;
　しかし、先祖の事跡や言葉が口承伝承や古典籍などを通じて確かめられる場合はどうしょうか。&lt;br&gt;
　幕末の重要人物で言えば、水戸の貴公子徳川慶喜は、父から口伝された光圀(水戸藩初代藩主徳川頼房の三男にして家康の孫)の遺訓に強く縛られていました。&lt;br&gt;
　彼は『昔夢会筆記』という談話筆記の中で、水戸黄門様の遺訓を次のように述べています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「烈公(父･斉昭)尊王の志篤く、毎年正月元旦には、登城に先だち庭上に下り立ちて遥かに京都の方を拝し給いしは、今なお知る人多かるべし。予が二十歳ばかりの時なりけん、烈公一日予を招きて、『おおやけには言い出だすべきことにはあらねども、御身ももはや二十歳なれば心得のために内々申し聞かするなり。我等は三家･三卿の一として、幕府を輔翼すべきは今さらいうにも及ばざることながら、もし一朝事起りて、朝廷と幕府と弓矢に及ばるるがごときことあらんか、我等はたとえ幕府には反(そむ)くとも、朝廷に向かいて弓引くことあるべからず。これは義公(水戸光圀卿)以来の家訓なり。ゆめゆめ忘るることなかれ』と宣(のたま)えり。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　『大日本史』編纂の発起人･光圀らしい内容であり、彼の事跡に照らしても、遺言は事実であったでしょう。しかも慶喜の実母は有栖川宮家の出身です。その本家である皇室に弓を引けるはずがありません。&lt;br&gt;
　慶喜が単なる水戸の貴公子としてその人生を全うしたなら、この遺言は日本史においてさして大きな意味を持ちませんでしたが、彼は図らずも徳川宗家を継ぐことになって、大政奉還を行いました。彼のあり余る政治家としての能力に、強力な制動力として働いたのが、この光圀の遺言が持つ引力だったのです。&lt;br&gt;
　実はこの『昔夢会筆記』の編纂責任者は渋沢栄一です。彼は尊皇攘夷の志を抱いて武蔵血洗島の農村を出奔して、一橋時代以来の慶喜に仕えた経歴を持っていたのです。慶喜が宗家を継いだことで、幕臣となってしまうという数奇な運命をたどりました。彼は大政奉還、鳥羽伏見の戦、官軍による江戸攻略という動乱の時期に、慶喜の実弟のパリ万国博覧会出席および留学の随員としてヨーロッパに滞在していて、政変そのものを経験しませんでした。帰国後、どうしても政変におけるこの主君の処置に納得がいかなかった彼は、静岡に謹慎中の慶喜に拝謁し、疑惑を質しましたが、重い沈黙にあって疑念は長い間氷解することがありませんでした。それでも長く仕える内に疑念はやがて氷解するようになりますが、それは明治も二十年代になってからのことでした。渋沢は慶喜の真意を次のように解説しています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「…かくして追々と歳月を経るに従って、政権返上の御決心が容易ならぬ事であったと思うと同時に、鳥羽･伏見の出兵はまったく御本意ではなくて、当時の幕臣の大勢に擁せられて、やむをえざるに出た御挙動である事、しかしてその事を遂げんとすれば、日本は実に大乱に陥る、またたとい幕府の力で薩長その他の諸藩を圧迫しうるとしても、国家の実力を損する事は莫大である、ことに外交の困難を極めている際に当ってさような事をしては、皇国を顧みざる行動となると悟られたためである事、またここに至っては弁解するだけかえって物議を増して、なおさら事が紛糾するから、愚といわれようが、恭順謹慎をもって一貫するより外はない、薩長から無理としかけた事ではあるが、天子を戴いておる以上は、その無理を通させるのが臣子の分であると、かく御覚悟をなされたのだということを理解したのは実に明治二十年以後の事であった。…」(『昔夢会筆記』「徳川慶喜公伝　自序」)&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　このように理解して、渋沢の慶喜に対する尊敬の念慮はいっそう切実なものとなり、やがて世間の誤解を解くべく、事実に基づく｢徳川慶喜公伝｣編纂事業へと彼を駆り立てていくことになるのです。ただ慶喜の謹慎以後の心情は、おおむね渋沢の敷衍した内容で大過はないとしても、史料を詳細に追っていくと、渦中にあった当時の心境は、もっとぐらついていたのであって、徳川宗家当主としての立場と遺訓にある勤皇の立場との矛盾相克に、引き裂かれそうに、あるいは押しつぶされそうになっていたことがわかります。&lt;br&gt;
　渋沢の解説にあるように、彼自身は政変によって朝廷を独占した格好になっている薩長を正義とは認めておらず、家臣の激昂に一定の理解と共感を持っており、またさらに、幕府の実力を持ってすれば薩長を京都から駆逐するのは容易である、との認識を持っていました。それが討薩を主張する荒ぶる家臣たちの統制を放棄し、一戦敗退を経て、江戸逃帰後の朝廷に対する弁解行為となったのです。&lt;br&gt;
　要するに、当時の彼の現状認識は甘かった、ということになりますが、彼の難しい立場を理解するとき、安易に批判する気にはなれません。慶喜自身も、明治以後、それもようやく渋沢らに心を開くようになってからも自身の行為に納得はしていなかったように思えます。&lt;br&gt;
　彼が自身の歴史的使命、言わば天命を素直に受け入れるようになったのは、勝海舟らの尽力によって、明治天皇への拝謁を許された明治三十一年三月二日のことでした。慶喜はこの日、今は皇居となっている、かつての居城に登城、天皇皇后両陛下に拝謁しました。&lt;br&gt;
　彼は参内の翌日、勝海舟の元を訪れて、次のように語ったといいます。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「どこまでも天恩の辱（かたじけな）きに酬(むく)い奉り、祖宗の祀りを絶やさないように勉むる故、この絖（ぬめ）へ『楽天理』と書いてくだされ。」(『氷川清話』)&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　これを聞いて喜んだ勝もまた、自分の歴史的使命（天命）は終わったと感じたのです。「楽天理」の境地で祖宗の祀りを執り行った慶喜は大正二年十一月二十二日に薨ずるまで十余年間を生きましたが、勝の方は、拝謁実現の約二月後、すなわち明治三十二年一月十九日に薨じています。天命を果たし、天寿を全うした人生であったのです。享年（天から享けた生年）七十五。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　さて、徳川宗家は源氏長者として征夷大将軍としての任命を受け、幕府をひらいて君臨してきたわけですが、源氏長者は足利義満以来、清和源氏に移行していますから、徳川家も清和源氏ということになっています。清和源氏とは清和天皇の皇子のうち四人、孫の王の内の十二人を祖としています。彼らが臣籍降下して源氏性を賜ったのです。足利家は初代幕府を開いた源頼朝と同じ清和源氏でした。足利将軍家が生んだ驕児・義満は武家の棟梁では満足せず、公家としても最高位にあろうとして太政大臣にまで昇りつめました。この怪物の出現以前、源氏長者の地位は、北朝を擁した義満と対立関係にあった南朝方の主流である村上源氏にありました。村上源氏は同様に村上天皇の皇子を祖とする賜姓皇族です。&lt;br&gt;
　岩倉具視が皇政復古に際して建武の中興に範を取ろうとしていたのは知られていますが、後醍醐天皇が目指した親政を補佐した北畠親房・顕家父子や千種忠顕などの忠臣の多くは村上源氏でした。つまり、村上源氏の天皇親政の理想の背後には、平安時代以来、五摂家を中心に堂上家の主流をなしている藤原氏への対抗意識に加え、清和源氏への怨恨を育てていたのです。幕末当時、この清和源氏の棟梁が徳川家であることはすでに触れました。&lt;br&gt;
　岩倉家もまた村上源氏の支流でした。嫡流の久我家から独立したのは江戸時代の初頭で、第六代の尚具(ひさとも)は桃園天皇の近習としていわゆる「宝暦事件」に連座して、辞官・落飾処分されています。&lt;br&gt;
　「宝暦事件」とは、宝暦年間に、一草莽に過ぎない崎門学徒（山崎闇斎学派）の竹内式部が、摂関家に不満を持つ若手の公卿に影響力を広め、これに危機感を強めた摂関家が幕府に告訴、京都所司代に賛同者が弾圧された事件です。&lt;br&gt;
　竹内式部の主張の眼目は、『論語』の一節を論拠とし、このままでは天下が危うい、というところにありました。彼は町奉行の取調べに対し、『論語』(「季氏」篇)の一節「天下道あれば、すなわち礼楽征伐、天子より出ず。天下道なければ、すなわち礼楽征伐、諸侯より出ず。諸侯より出ずれば、蓋し十世にして失わざること希なり…」云々を論拠に、現在礼楽征伐は諸侯である徳川氏から出ている、当代（徳川家重）は九代だから次代は衰退し、天下は危うい、という本音を告白しています。&lt;br&gt;
　結局、彼は京都追放の憂き目に遭いますが、先の告白によって罰せられたわけではなく、その罪状は、ひとつは若手の堂上との酒宴に参加したことの時処位をわきまえぬ不謹慎ぶり、もうひとつは儒書を講ずるなら四書五経を講ずるべきところ、浅見敬斎の『靖献遺言』を講じた、ということでした。言わば、朝廷の強い要請を受けての余罪による処罰であり（しかも何ら法に抵触していない）、『論語』の権威は幕吏にまで浸透していた、ということになります。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br&gt;
　この事件に連座した尚具は子孫に遺訓を残しました。&lt;br&gt;
　彼は、藤原氏を外戚に持たず、摂関家の権勢を削り、親政を行おうとした賢帝・後三条天皇を補佐した村上源氏の栄光の時代を語り、これに加えて宝暦事件における自身の無念を語り、「忠孝の二字を心肝に刻銘し、奮励奉公して村上源氏の名声を汚すことなかれ」と訓戒しました。&lt;br&gt;
　ちなみに第八代具選(ともかず)は勤皇家で「寛政の三奇人」の一人・高山彦九郎と深い交わりを結んだ人物でした。&lt;br&gt;
　幕末維新に活躍した具視は藤原氏支流の堀河家から養子に入り、この岩倉家の十代当主となった人物です。彼が皇政復古運動に挺身するに至った背景には、この村上源氏としての矜持がありました。だからこそ、安政年間の彼の画策を表立って推進した同志は、村上源氏嫡流の久我建通（たてみち）だったのです。&lt;br&gt;
　他家から養子に入り、家を継いだとはいえ、いや、むしろだからこそ、岩倉具視は、村上源氏の名声を汚すな、との遺訓を肝に銘じた人物でした。現に、彼は挙兵計画延期で宙に浮いた慶応三年十月の王政復古の奏聞書の中で、先に引用した『論語』(「季氏」篇)の一節と他一節を引用して、皇政復古の断行を説いています。&lt;br&gt;
　慶応年間、京の政界へ復帰後の具視が結んだのは薩摩藩でした。彼との交渉を主に担当し、後々まで深く結んだのは大久保利通でしたが、ここでは薩摩藩を動かした彼ら誠忠組のリーダー格であった西郷隆盛について触れることにします。&lt;br&gt;
　西郷隆盛は有名な勤皇僧・月照との薩摩潟への投海から蘇生後の奄美大島への遠島中、変名として「菊池源吾」と名乗ったことからもわかるように、菊池氏の矜持を強く持した人物でした。彼がその名に託した想いは、菊池氏の出自こそ吾が源泉である、ということであったでしょう。&lt;br&gt;
　菊池氏は肥後の菊池郡を根拠とする氏族で、遠祖は藤原政則とされています。政則は寛仁三年(一〇一九年)の「刀伊の入寇」と呼ばれる異民族（満州の女真族と考えられています）による侵略事件で、太宰少弐として、太宰権帥・藤原隆家の下で戦い、夷狄の撃退、すなわち攘夷に功がありました。それによって、息子の則隆に肥後の菊池郡が下賜されたのです。&lt;br&gt;
　これが菊池氏の起こりですが、第八代・隆能は承久の変に際し朝廷側に与し、第十代武房は元寇に際し、攘夷戦に参加し、軍功を上げています。&lt;br&gt;
　西郷隆盛を語る上で最も重要なのは第十二代当主菊池武時の時代です。&lt;br&gt;
　武時はかの楠木正成が盛り上げた討幕の機運に乗じて、後醍醐天皇の討幕の綸旨に一族郎党を率いて応じました。彼らは九州で兵を挙げ、大宰府鎮台・北条英時を討つ寸前まで追い詰めましたが、味方の裏切りにあって討たれ、跡を継いだ長男・武重は父の遺志を継いで、後醍醐天皇に忠義を尽くしました。&lt;br&gt;
　後醍醐天皇の志は、その諡（おくりな）からもわかるように、醍醐天皇（延喜帝）の跡を継いで、武家から権力を取り戻し、鎌倉時代の公家社会で天皇親政の理想時代とされた延喜・天暦の治の時代に復古することにありました。通常、諡とは天皇の崩御後にその事跡を勘案して贈られる名のことですが、後醍醐天皇の場合、異例にも、生前自らこの名を決めていました。皇太子の義良親王は後村上天皇と諡されることになりますが、これは村上天皇（天暦帝）に倣えという、後醍醐天皇の強い願望によるもので、古代の「宝字称謙孝徳皇帝」同様、天皇のシナかぶれが原因でしょう。『太平記』によれば、後醍醐天皇は｢御在位の間、内には三綱五常の義を正して、周公・孔子の道に順い｣万機百司の政を怠ることがなかったといいます。村上源氏で、忠臣として名高い北畠親房も『神皇正統記』において、この君について同様のことを書いているし、先代で対立する持明院統の花園天皇も同様の期待を日記に書き残しています。彼らを結び付けていたのは朱子学の正統の観念に基づく天皇親政の理想だったのです。&lt;br&gt;
　南朝の衰勢を決定した湊川の戦において、菊池武重は兵庫の和田岬に陣取った新田義貞軍と行動をともにしていましたが、敵軍の挟み撃ちにあった楠木軍の戦況が気がかりで、弟の武吉を派遣しました。彼が湊川に到着したとき、楠木正成は敗軍の中で、弟・正季とまさに刺し違えて死のうとしているところでした。武吉は去るに忍びず、彼らとともに死を選びました。&lt;br&gt;
　忠臣の鑑とされた楠木正成と行動をともにした西郷の祖先のこれら生き様は、維新の志士の歴史教科書とも言える頼山陽の『日本外史』に活写されています。事実、山陽の『日本外史』『日本政記』は慶応年間の西郷隆盛の愛読書であったと伝えられています。慶応三年、時勢が煮詰まった段階での皇政復古派の用意していた挙兵計画は西郷を中心に練られたもので、建武の中興における討幕戦を叩き台にしたものだったのです。&lt;br&gt;
　これは西南戦争における熊本城攻城戦の大胆略にもつながってきますが、前者が高く評価され、後者が低く評価されるのは、前者は成功し、後者は失敗したからに他なりません。「勝てば官軍、負ければ賊軍」は、歴史事件の安易な評価基準ともなっているのです。大東亜戦争に関する評価にも通底する問題です。理屈をうまく捏ねられるかどうかはともかく、勝ったほうを高く評価し、負けたほうを低く評価するというだけなら子供にでもできます。一方で日本においては、弱者・敗者への共感、言わば判官びいきの感情が、弱者・敗者の怨念（ルサンチマン）に基づく主張を支え、逆に強者・勝者びいきの主張を蔽ってしまうことがしばしばですが、これもまた、対立者に対する理解・批判が不十分という点では同様です。&lt;br&gt;
　ともかく、以上のように、村上源氏として天皇親政の理想を抱く公家・岩倉具視と楠木正成を忠臣の鑑とする草莽たち、薩摩藩・誠忠組を結びつけたのはこの国のある種の伝統でした。&lt;br&gt;
　彼らが命懸けで、先祖の遺志を実現しようとした時、神霊の存在をひしひしと感じる時はなかったでしょうか。これは窺知しがたい領域の問題ですが、実はそういった条件を最も満たしているのが皇室なのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「令和」の時代で第百二十六代を数える歴代天皇の事跡は六国史を中心とする各史書に明らかです。皇室の本質を知るうえで最も重要なのは『日本書紀』と最古の史書である『古事記』ですが、これらの書にあって、皇祖皇宗の事跡は初代神武天皇をさかのぼると神代となり、やがて日向の高千穂峯から天に昇って高天原が舞台となります。&lt;br&gt;
　歴代天皇の事跡を学ぶのは天皇の御学問にとって必須の科目であって、それによって大御心は養われるのですが、伝統に則り「忠恕」の心で｢(鬼を)祭るには在すが如くし、神を祭るには神在すが如くす｣「己に克ち礼に復(かえ)るを仁と為す」と教育されてきた皇室が、日常・非日常の祭祀を通じて皇祖皇宗の神霊(鬼神)の存在を感じるようになるのは自然なことのように思われるがどうでしょう。&lt;br&gt;
　筆者は歴代天皇が神霊の存在を信じてきたことを疑いません。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　以上、筆者なりの解釈を縷々述べてきました。&lt;br&gt;
　聖典にせよ、古典にせよ、伝統にせよ、歴史にせよ、要は後世の解釈です。そして、それらは、あたかも山の景色のように、不動の実体を持ちながらも、われわれが動けば、変わる。&lt;br&gt;
　しかし、われわれ人間が歴史的な存在である以上、生きていくうえで、解釈によって再構成された歴史なり、古典なりを必要としているのではないでしょうか。&lt;br&gt;
　ここまで縷々述べてきたことは、不動の実体に少しでも近づくための一本の道、それもその入り口を示したに過ぎないでしょう。しかも、この道は限界まで突き進んだ時に、忽然と姿を消します。宣長が「直毘霊」で論ったように、敢えて「道」という外来の概念を用いるなら、わが国の古の道は「實は道あるが故に道てふ言なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり」というような、逆説的にしか表現の仕様のないものなのです。&lt;br&gt;
　そして、すでに述べたように、日本人と「道」という概念の出合いは応神天皇の御代の王仁によってもたらされた『論語』にまでさかのぼることができます。それは同時に、本格的な文字との出合いでもありました。&lt;br&gt;
　動かない真実を求めるのは確かに無駄かもしれませんが、しかし、それでも敢えて言いたい。&lt;br&gt;
　無駄であることがわかるだけでも動かぬ真実を求めることには意義がある。いや、動かぬ真実を求めなければ、何が無駄であるかもわからないのだ、と。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hidemikishuu/66762179.html</link>
			<pubDate>Mon, 22 Apr 2019 16:32:09 +0900</pubDate>
			<category>日本史</category>
		</item>
		<item>
			<title>「かのやうに」神霊を祭るということ－日本人の本来的自己喪失（弐）　【『皇室と論語』（二十一）】</title>
			<description>&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;かつて、西尾幹二氏が、日本の文明観、國體を次のように語っていました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　〔日本人は天皇を超える神を必要としている。&lt;br&gt;
　日本の文化は二重性があって、神仏信仰で、神と仏の両方があった。天皇を超える仏教という超越原理を持つ文化、言わば形而上の世界があって、この二重性が日本を豊かにしてきた。&lt;br&gt;
　これによって西欧文化を理解することができたが、シナやアメリカには形而上の世界がない。〕&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　確かに、表面的な観察では現代のシナやアメリカにはそういったところは見出せないかもしれませんが、西尾氏自身、アメリカはキリスト教原理主義の国であって、日米戦争は宗教戦争であった、という卓見を示しておられます。また、シナの場合も、古典文学の世界では必ずしもそうではなく、政治の場においても、天命思想にもとづく皇帝による専制支配と天を祭る儀式や臣下との関係を規制する儀礼は、それがフィクションであるにせよ、密接不可分の関係にありました。そもそも形而上･形而下という言葉自体、シナの古典『易経』を出典としています。&lt;br&gt;
　日本文化の持つ二重性がこの國を精神的に豊かにしてきたというのは見識ある知識人が夙に指摘してきたところであって、福沢諭吉も『文明論之概略』「西洋の文明を目的とする事」で、別の含意ながら、シナの元素は一、日本の元素は二であるとして、そのことが西洋文明を理解しやすいものにした、という趣旨のことを述べています。福沢の言う二つの元素を今の言葉に翻訳すれば、権威と権力で、日本は言わば権々二分の国であるということになります。&lt;br&gt;
　シナは周末期、諸子百家による多事争論の社会だったが、秦の始皇帝による統一以来、権威と権力が一体となって、一元素の国になった。一方で、日本はよく知られているように、中古以来、武家による権威と権力の分離が行われて、二元素となった。これは日本にとっての僥倖で、元素が一であれば、思想の向かうところは必ず一方に偏し、胸中に余地を残さない。しかし、日本は元素が二で、元素が二つあれば、その自由な運動を許すことになって、その間に一片の道理をまじえざるを得なくなる。このように人心活発は自由の気風を生じ、逆に道理を必要とする。この精神が西洋文明の摂取という困難を、他文明よりは比較的容易にしてきたというのです。&lt;br&gt;
　大雑把に要約しましたが、ダイナミズムに富んだ文明理解と言えるでしょう。&lt;br&gt;
　しかし、それは踏み込んでみれば、日本の神道文化の寛容性が土壌になっている、と言えます。そもそも古神道そのものが、縄文文化と弥生文化の対立・融合、天津神と国津神の対立・融合という二元素で成り立っているのです。&lt;br&gt;
　西尾氏の言う神仏信仰の二重性の継続的発展は、この二元素文明が生じさせたものともいえるだろうし、また別種の二重性をも生じさせてきました。しかし、仏教の教えが育んだ形而上世界の追及は鎌倉時代に最盛期を迎えて、以後停滞、そして沈滞に至ったような印象があります。筆者は仏教のことに詳しくないので断言はできませんが、戦国時代、殺生を禁じられているはずの仏教勢力は、いわゆる僧兵を養って、自ら殺生を行うほど頽廃していたのであって、この勢力を殺ぐべく起ち上がったのが織田信長でした。&lt;br&gt;
　織田信長は狂気のみの英雄ではありません。理性の英雄でもあります。自由と道理は信長の事跡に横溢しているのです。この二つは言わば英雄の中に生ずる二元素なのです。&lt;br&gt;
　彼は大名に比肩する実力を蓄え、城塞を構えて世俗政治に干渉しようとした仏教勢力を乱世の一要因と見、根源的に正そうとしました。その結果、場合によっては根切りが必要であるとの結論に達したのです。彼は、仏教の純粋な信仰そのものまで根絶しようとしたわけではありませんでした。&lt;br&gt;
　彼以後の支配者は天下統治の見地から、仏教を「敬して遠ざく」政策を採って、幕末に至りました。信長を教条主義的に非難するばかりで、そういった自己の頽廃を直視できない仏教が再興して、今後とも日本文明の再興進展に大きく寄与することはないのではないでしょうか。仏教は確かに庶民の生活にまだ生きているかもしれませんが、それが大きなエネルギーとなって、日本の文明を動かすことはもはやないでしょう。&lt;br&gt;
　先ほどの「敬して遠ざく」とは『論語』の言葉ですが、戦国時代の混乱から信長･秀吉･家康の三代を経て、日本は一応の統一を見、これを継承発展した江戸期を経て、幕末維新を迎える過程で、この思想は二元素を維持したままの統合に重要な作用を働くことになりました。&lt;br&gt;
　日本人が今後必要とする超越的存在は、少なくとも仏ではないでしょう。&lt;br&gt;
　もちろん聖書の「神」でもありません。&lt;br&gt;
　むしろ、それはおそらく、われわれが文字との出合い以来、育み、戦国期のキリスト教との邂逅を経て磨き、発展継承してきた、われわれの言葉の蓄積の中に潜在的に眠って、未だ体系化のなされていないし、また、なされるべきでもない潜在的信仰でしょう。おそらくそれは価値規範の危機に直面して初めて自覚される信仰です。それは、西郷隆盛や中村敬宇流に「敬天愛人」と言ってもいいし、夏目漱石流に「則天去私」と言ってもいいし、福沢流に「天道」と言ってもいい、天を超越的存在とし、天に仮託されるなにかです。 &lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　さて、紀貫之は「仮名序」で、和歌の作用の一つに、鬼神をあはれと思わせる、つまり鬼神を感動せしむる、と述べましたが、彼が読んでいた『論語』には、この鬼神について孔子が論じた数条があります。&lt;br&gt;
　ある弟子が孔子に知を問うたのに対し、孔子は答えました。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
子曰く、「民の義を務め、鬼神を敬して之を遠ざく、知と謂うべし。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「義務」「敬遠」の出典です。&lt;br&gt;
　また、高弟である子路が鬼神に事（つか）えることについて問うた際の孔子の答えはこうです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
子曰く、「未だ人に事うる能わずんば、いずくんぞ能く鬼に事えん。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　子路はならばとばかりに、敢えて死を問い、孔子はこれに答えます。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
曰く、「未だ生を知らずんば、いずくんぞ死を知らんや。」&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
　ここで孔子は鬼神を窺知し難いものとして、言葉にするのを慎んでいます。かといって否定しているわけではなく、むしろ、「敬して」と言っていることから、上位の存在と見ていたことは明らかです。&lt;br&gt;
　ここで西尾氏の『皇太子さまへのご忠言』に話を戻します。&lt;br&gt;
その第二部第二章は「『かのようにの哲学』が示す知恵」となっていて、現代人が皇室と向き合って行く手がかりとして、森&amp;#40407;外が近代知識人として天皇をどう理解したらいいかに悩むテーマの『かのやうに』という作品を挙げておられます。&lt;br&gt;
　小説「かのやうに」は明治四十五年一月発表の作品で、一年前に判決が下った大逆事件の影響を受けて書かれたものだとされています。幸徳秋水の法廷での発言が外部へもれて、南北朝正閏論がジャーナリズムを賑わし始めた時代でした。&lt;br&gt;
　ちなみに&amp;#40407;外の『帝諡考』は歴代天皇の諡号の由来を調べた研究です。&lt;br&gt;
　西尾氏はその&amp;#40407;外の『かのやうに』の内容を要約し、引用しています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「息子秀麿をドイツに留学させた五條子爵は、ドイツの大学で神話と歴史の相剋するテーマに取り組み始めた息子からの手紙を前に、自分の信仰心を心の中で次のように問い質してみる。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
（筆者注…以下『かのやうに』からの引用。読みやすく改変した）&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
『自分の家には昔から菩提所に定まっている寺があった。それを維新の時、先代が殆ど縁を切ったようにして、家の葬祭を神官に任せてしまった。それからは佛と云うものとも、全く没交渉になって、今は祖先の神霊と云うものより外、認めていない。現に邸内にも祖先を祭った神社だけはあって、鄭重な祭をしている。ところが、その祖先の神霊が存在していると、自分は信じているだろうか。祭をする度に、祭るに在すが如くすと云う論語の句が頭に浮ぶ。しかしそれは祖先が存在していられるように思って、お祭をしなくてはならないと云う意味で、自分を顧みて見るに、実際存在していられると思うのではないらしい。いられるように思うのでもないかもしれない。いられるように思おうと努力するに過ぎない位ではあるまいか。そうして見ると、倅の謂う、信仰がなくて、宗教の必要だけを認めると云う人の部類に、自分は入っているものと見える。』&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　…（中略）…&lt;br&gt;
　五條秀麿はドイツから帰国し、父の子爵の前で神話が歴史でないことを言明するのは良心の命ずる所だと思うが、余りにも微妙な問題なので親子は対話を回避しつづける。すべての実在は存在しない。先祖の霊も存在しない。しかし、あたかもそれが存在するかのような振りをしてお祭をしている。そこに生きんとするものの必然性がある、と秀麿は当時の近刊のハンス・ファインガー『かのようにの哲学』を援用して、神話は歴史ではないが、あたかも歴史であるかのように信じて生きる実用主義（プラグマティズム）を差し当りの解決として提示してみせるのである。」（『皇太子さまへのご忠言』）&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　ここで表された五條子爵の神霊に対する態度や心境は、維新期を経験した多くの人に共通するものであって、維新によって皇室でさえ、菩提寺である泉涌寺との関係を絶っています。というより、天皇親政を謳った明治維新によって、皇室は神の子孫、祭祀を行う者として、親（みずか）ら菩提寺との関係を絶ったと言った方がいいでしょう。&lt;br&gt;
　維新まで日本では神仏習合といって神社と仏教寺院は一体となっていて、死者は仏として葬られてきました。仏壇に祭られているのはご先祖様や亡くなった家族の位牌であったりします。&lt;br&gt;
　この習俗は正統な仏教から見ては異端です。&lt;br&gt;
　というのは、仏教は本来悟りの宗教であって、死者の霊の存在を認めないからです。つまり、江戸時代の寺請制度によって仏教が葬式仏教となって以来、世俗一般の日本人にとって神社や寺院とは「鬼神」を祭る空間であったのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　当時の知識階級であり、支配階級であった武士は概ね、『論語』を聖典として、これを学び、時にこれを習い、個人の生き方や帰属する社会の生活に、また天下の政道にプラグマティックに活かしてきました。&lt;br&gt;
　例えば、幕末維新の英雄の一人、勝海舟は仏教を念頭において徳川家の宗教政策を「鬼神を敬して遠ける」と『論語』の言葉で表現しています。&lt;br&gt;
「従来徳川では、宗教は敬して遠ざける方針を執って、各派の僧侶には、高位高職に相当する位階を与へ、また寺には御朱印地を付けて、いっさい彼らの自治に任せたのだ。治めざるをもって、治めるのが、幕府の宗教に対する政略であった。」（『氷川清話』）&lt;br&gt;
　これは仏教という「鬼神」問題に対する幕府のプラグマティックな態度を表現していますが、朱子学を官学として採用した幕府の当然の帰結であったでしょう。そして、その政策の起源は、『論語』を好み、天下の政道に『中庸』を応用した徳川家康に求めることができるのです。&lt;br&gt;
　このプラグマティズムはおそらく神に繋がる血統を持つ皇室に対する態度にも応用されていたように思われます。少なくとも、後世、江戸時代の儒学や国学などの学問によってそのように反省されたことは事実です。　&lt;br&gt;
　孔子によれば、民の義務を行い、鬼神を敬遠すれば、そこに知は生ずる。&lt;br&gt;
その知が異文明との接触を経て、これに応じた。それが幕末維新期の騒乱となったのです。その結果、江戸社会が崩壊し、新たな文明、新たな価値規範を取り入れざるを得なくなった時、五條秀麿の父のように、それまで当然とされてきたこの生き方に、懐疑の眼差しを向けるようになったのも、ある意味自然な流れであったでしょう。&lt;br&gt;
　一方、父の世代までの生き方、またそのバックボーンとなっていた古典を知らない、欧化時代の青年・秀麿は、西洋の哲学を学び、神話、すなわち鬼神の話を、存在しないが存在するかのように、また、神話を過去の事実の集積である歴史ではないが歴史であるかのように信じて、ともに歩んでいく、というプラグマティックな生き方を差し当たりの解決策として提示してみせたのです。&lt;br&gt;
　しかし、それはあくまでも差し当たっての解決策であって、われわれ日本人にとっての本質的な解決策ではありえません。&amp;#40407;外はこの短編について、後に娘婿になる人物に宛てた書簡の中で、「…小生の一長者に対する心理状態が根調となり居り、そこに多少の性命はこれあり候ものと信じて書きたる次第」と書いていて、この書簡中の一長者とは山県有朋か乃木希典ではないかと言われています。小堀桂一郎氏によれば後者ではないかといいます。&lt;br&gt;
　ちなみに乃木大将が青年時代、自ら択んだ学問の師は、親戚の玉木文之進で、彼は吉田松陰の叔父にして学問の師でもありました。そもそも松下村塾とは彼が開いた寺子屋の名です。&lt;br&gt;
　玉木は前原一誠のいわゆる「萩の乱」に関与していたらしく、乱の責任を取って、先祖の墓前、すなわち先祖の「鬼」の前で切腹しました。維新の精神の何ものかを体現する人物でした。&lt;br&gt;
　当然、長州閥の中にあって、彼の教えは乃木大将の精神に沈殿していったはずで、西南戦争における有名な連隊旗喪失事件も、この沈殿物を攪拌し、純度を高める事件となったでしょう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　短編「かのやうに」が発表された明治四十五年の七月三十日、明治天皇が崩御されました。&lt;br&gt;
　改元されて大正元年九月十三日、青山斎場で御大葬が挙行され、&amp;#40407;外もこれに参列しましたが、その帰路、乃木大将夫妻が殉死したとの噂を耳にします。半信半疑だった&amp;#40407;外ですが、やがて彼はそれが事実であったことを知ります。&lt;br&gt;
　乃木大将の葬儀は十八日、同じ青山斎場で行われ、&amp;#40407;外もこれに参列しましたが、大将の殉死に対する思いを投影させた『興津弥五右衛門の遺書』をこの日一気に書き上げて、「中央公論」に寄稿しました。&lt;br&gt;
　殉死は君主に対する態度の問題であり、明治人の君主とはすなわち天皇ということになります。以後、&amp;#40407;外は、江戸時代の殉死の問題、すなわち明治の基礎を成した武士道の問題に創作動機を見出していくことになります。&lt;br&gt;
　親交のあった乃木大将の殉死は、&amp;#40407;外に突きつけられた動かぬ事実であって、五條秀麿に託された&amp;#40407;外のプラグマティズムは反省されざるを得なかったと思われます。&lt;br&gt;
　西尾氏が言うように、確かにここにはわれわれ現代人が皇室という存在と向き合っていく上でのヒントが隠されているといえるでしょう。&lt;br&gt;
　西尾氏が引用する森&amp;#40407;外の『かのやうに』は明治期の自我喪失という思想的混乱を表す話であって、実は明治を創った人々においてこの問題は既に解決済みの問題でありました。乃木大将が殉死に躊躇した様子はないし、天皇親政の理想に命をかけてきた山県有朋も死処は違うにしてもこれは同じだったのではないでしょうか。&lt;br&gt;
　教養主義で人は死ぬことはできないのです。&lt;br&gt;
　近代的知識人である&amp;#40407;外に突きつけられた問題はこれであったと思われます。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　死の問題に直面し、これに対し自覚的に取り組む契機とならないような教養など何の意味があるのでしょう。維新の元勲に教養主義はありませんでしたが、わが国の伝統の中に育まれてきた教養は身につけていました。&amp;#40407;外は、明治天皇の崩御と乃木大将の殉死に直面して、「かのやうに」振舞う西欧的近代合理主義の軽薄さを乗り越えるきっかけを得たのではないでしょうか。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　五條秀麿の祖父の世代の明治人として渋沢栄一を例に挙げてみましょう。&lt;br&gt;
　幕末、家を飛び出し、志士として活動した渋沢は晩年の『論語講義』の中で、一般の風潮を意識してでしょうが、西尾氏も引用している「子、怪力乱神を語らず」の一節の講義において、いくつかの例を挙げて、実用主義的に鬼神に対する孔子の態度を解説しています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「余の交際せし維新前後の志士や、維新の元勲には、神仏に祈願するという迷信は決してなかった。ただし維新の際は世の中が物騒で、ややもすれば天誅と称して、反対派を暗殺するに至った。されど力自慢や技倆自慢をした者は、たいてい学問の素養に乏しき撃剣家ぐらいに過ぎなかったのだ。いやしくも漢学を修め、武士道を弁えたる者は、慎重の態度を持し、容易に刀の鞘を払うようなことをしなかった。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　ここでは皇政復古運動を推し進めた維新の指導者達が漢学を修め、それに則って行動したことが述べられています。彼らの多くが神仏に祈願するという迷信を持っておらず、『かのやうに』の父のように、鬼神を祭るが、その実在を必ずしも信じているわけではなく、在すが如く祭らねばならない、と考えて「まつりごと」を行ってきた、というのです。&lt;br&gt;
　そして、渋沢は孔子の考えを次のように敷衍しています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「孔子は神を語らずといっても、神に対する敬虔の念は十分にあったのである。論語八&amp;#20350;篇には『祭るには在すがごとくにし、神を祭るには神在すがごとくにす』とあり、また『大廟に入っては事毎に問う』とあり、これらによってこれを証明し得べし。しかれどもこれは孔夫子が心を正しうしてご自分の務めを疎かにせざらんことを心懸けられた、正心誠意の発露に外ならず、神に祈ってどうしようのこうしようのという精神からではないのである。余のごときも、自ら顧みて正しいと思う所を行い、自己の義務責任を果すのが、これ孔夫子のいわゆる天に対する道であって、かくさえしておれば、祈らずとても神や守らんと固く信じておる。」（『論語講義（三）』講談社学術文庫版；70～79ページ）&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　要は、人事を尽して天命を俟つ、という信念が述べられているわけですが、窺知できることに対して、民の義を務め、鬼神を敬してこれを遠ざく、知というべし、との孔子の言葉にも適っていて、当時の志士の儒学のプラグマティックな活用が窺えます。&lt;br&gt;
　これが天皇を中心とする政事への態度と繋がっていたのです。&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
　岩倉具視の王政復古の奏聞書は、その柱となる部分で、重要な論拠となっていたのが、『論語』の有名な「必ずや名を正さんや」（正名論ともいう）と、これまた有名な「礼楽征伐天子より出ず」云々の天子のあり方に関する条でありました。&lt;br&gt;
　これは国学者･玉松操が起草した文書であるとされていますが、それは薩摩藩首脳部の王政復古討幕運動の支柱となっている思想でもありました。西郷隆盛は一貫して『論語』や『孟子』を規範として、王政復古討幕運動を推し進めたのです。&lt;br&gt;
　ここでは別の例を挙げてみましょう。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「鬼神」を「敬遠」するという武士のプラグマティズムの視点から見た維新ということであれば、次の例を挙げることができるでしょう。&lt;br&gt;
　王政復古が行われて、慶応四年三月十四日、『五箇条の御誓文』が発布され、同時に、御誓文の趣旨を敷衍するものとして、明治天皇の御宸翰が下されました。書き出しはこうなっています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「朕、幼弱を以て俄かに大統を紹（つ）ぎ、爾来、何を以て万国に対立し、列祖に事（つか）へ奉らんやと朝夕恐懼に堪えざるなり。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　列祖とは皇室の代々の先祖、すなわち「鬼」にして、さらに溯れば「神」となります。つまり皇統を継いだ明治天皇に課せられたものは、万国に対立し、皇室の「鬼神」、延いてはわが国の「鬼神」に事えることだ、との認識であったということになります。&lt;br&gt;
　次いで、幕末までの長きに亘る武家による政治を振り返って次のように表現されています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「竊（ひそか）に考うるに、中葉朝政衰へてより、武家権を専らにし、表は朝廷を推尊して、実は敬して是を遠ざけ、億兆の父母として、絶えて赤子の情を知ること能はざるやふ計りなし。遂に億兆の君たるも唯名のみに成り果て、そが為に今日朝廷の尊重は古へに倍せしが如くにて、朝威は倍（ますます）衰へ、上下相離るること、霄壤の如し。かかる形勢にて、何を以て天下に君臨せんや。…」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　皇室は、さながら「鬼神」の如く、武家に敬して遠ざけられ、民の父母としての天職を妨げられてきた、というのです。&lt;br&gt;
　「禁中並公家諸法度」は徳川家康の「中庸」思想の朝廷への応用であり、皇室を敬して遠ざけるプラグマティックな武家政治の伝統を明文化したという一面を持っていました。&lt;br&gt;
　しかし、天皇は「鬼神」を祭り、事える存在であって、「鬼神」そのものではありません。このことは諸法度の第一条に暗示されているところでもあります。&lt;br&gt;
　当時の困難な国際情勢の中にあって、自主独立の国として万国に対峙し、億兆の父母として君臨するには、これまでの「敬して遠ざく」武家政治のプラグマティズムは克服されなければならなかったのです。&lt;br&gt;
　この理解がこじつけではないのは、御宸翰の結びが次のようであることからも明らかです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「汝億兆、能々（よくよく）朕が志を体認し、相率いて私見を去り、公義を採り、朕が業を助て、神州を保全し、列聖の神霊を慰し奉らしめば、生前の幸甚ならん。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「神州」、すなわち神の国でのことであるから、漢語である「鬼神」は避けられて「神霊」が用いられていますが、そこに流れている精神は孔子の「先王の道」と同じで、君主親らによる政（まつりごと）としての政治の復古復活こそ、日本の精神的秩序の復活であり、國體の再興である、との確信であったのです。&lt;br&gt;
　この御宸翰の起草者は木戸孝允であるとされています。&lt;br&gt;
　御誓文の起草に携わった土佐藩士･福岡孝弟の談話に、御宸翰の起草につき、木戸が「国家を泰山の安に置く」とかいうシナ流の文句を「富嶽(富士)の安に置く」と改めさせた、との趣旨の発言があるからです。実際の文句は「天下を富嶽の安きに置かんことを欲す」となっていますが、要は同じことです。「鬼神」というシナ流の表現が避けられて、「神霊」とされたのも同じ趣旨からでしょう。&lt;br&gt;
　水戸学の影響が見られ、國體を意識したものとなっています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　福沢諭吉が指摘したように日本文明は二元素文明です。&lt;br&gt;
　西尾氏は神道と仏教の二元素がわが国を豊かにしたとしていますが、戦国時代を経て、仏教の役割は後退して、むしろ神道と儒教の二元素を主流とする文明への道を歩み始めました。しかし、この二元素とは、党を成して、対立するばかりではなく、協調、調和するものでもあります。その梃子となるのが皇室の存在であり、「和」の伝統なのです。&lt;br&gt;
　対立は遠心力を生じて、文明を進転させる。「転石苔を生さず」の伝統です。&lt;br&gt;
　一方、調和は向心力を生じて、文明の統一性を保ち、円心を安定させる。「細石の巌となりて苔を生すまで」の伝統です。&lt;br&gt;
　これらの運動の思想的な背骨（バックボーン）となったのが、皇室の御存在であり、また、いわゆる孔孟の教えによって培われてきた伝統でした。その日本の文明体の背筋を正してきた価値規範、教養は、明治の開化によって見失われて今日までの大勢を作ってきました。&lt;br&gt;
　戦前まではまだその影響が残っていましたが、戦後はどうでしょうか。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　自己の権益を実力で守る事に目覚めた、開拓農民たる武士によって、プラグマティックな政治の場から、七百年の長きに亘って、敬して遠ざけられてきた皇室は、江戸時代の学問的陶冶を経た武士のプラグマティズムによって再び政治の中心に据えられました。このわが国において最も尊き御存在のもとに、わが文明が持つありとあらゆる智慧と力を結集して、国難に対処しようとしたのです。若き天皇もまた、この公議輿論を受け容れて、親らこれを率先していくことをわが国の神霊に誓われたのでした。&lt;br&gt;
　これが「五箇条の御誓文」に集約された明治維新の意義です。&lt;br&gt;
一旦は見失われようとしたこの精神をもう一度取り戻す試みが、大日本帝国憲法制定と教育勅語の発布であったといいうるでしょう。&lt;br&gt;
　日本は外圧によって、たった四杯の黒船の威圧によって、むりやり開かされたのだ、と自虐的なまでに卑下する必要はありません。西欧文明との出会いの衝撃に、われわれの内的規範が、わが国の本源の深い所から、言わばそこひなき淵から応じた結果、再興の凄まじいエネルギーとなりました。これはわれわれの内なるものを外から覗き込んで分析するような眼では到底見ることができません。内に顔を突っ込んで、さらに内奥を探るような眼が必要となります。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　現人神とも称される天皇は、聖と俗の端境に立って、神霊（鬼神）を祭る存在であって、神霊（鬼神）そのものではありません。政治的プラグマティズムの立場から、特に遠ざけられなければならない、ということはないのです。&lt;br&gt;
　しかも、そこに儒教的な聖人天子として君臨しなければならないという要請が重ねあわされました。読者に注意を喚起しておいた日本古来の神々の世界、言わば「やまとごころ」に、儒教を中心とする漢学の世界観、言わば「からごころ」が、重層的に重ねあわされたのです。&lt;br&gt;
　つまり、昭和天皇に倫理学を御進講し、三種の神器（鏡・玉・剣）はただ皇位の御証としてだけでなく、それぞれ知・仁・勇の三徳を表すものであり、これに則って皇道を体すべきことを説いた杉原重剛は、何も自己の思想を昭和天皇に無理やり押し付けたのではなく、明治維新というものの本質を、若き天皇にそのまま継承していただこうとしたまでで、どこまでも無私の精神で貫かれていたことになるのです。&lt;br&gt;
　本居宣長は日本古来の「やまとごころ」を闡明するために「からごころ」を排撃しましたが、われわれ日本人が漢字と仮名を使って思考し、話す限り、この二つの心の重層性は日本人の宿命として逃れることはできません。ですが既に「からごころ」は「やまとごころ」と横に密接に絡み合い、縦に重層的に積み重なっていて、不即不離の関係となっています。その起源も定かではないのは、日本人の文字使用がいつ始まったのか学問的に特定できないことでも明らかです。&lt;br&gt;
　われわれ日本人は大和言葉のみで自己を表現することはできないし、相互理解を深めることはできません。だからと言って「漢語」のみでそれを行うことはそれ以上に困難です。&lt;br&gt;
　そうである以上、この二つの心が葛藤し、乖離せぬにはどうすればよいか考える必要があるのではないでしょうか。&lt;br&gt;
　そのヒントはこれまで書いて来た事の中にあります。&lt;br&gt;
　わが国の『論語』受容の伝統がそれなのです。&lt;br&gt;
　近代知識人にとっての差当っての解決策として提示された『かのやうに』の哲学はわが国の学問の伝統、國體の観点からいえば、明らかに後退であったのです。&lt;br&gt;
　明治維新は、今から千五百年ほど昔に、王仁という人物を通じて、皇室が『論語』という哲人・賢者の言葉と文字に出合い、これを学び続けた日本人にとって、そのひとつの成果といえるものでした。&lt;br&gt;
　ここでは敢えて、保守の知識人が嘘の固まりと吐き捨てる『論語』をより深く読み込むことで、思想的閉塞感を突破し、活路を見出してみましょう。&lt;br&gt;
　既に紹介した『論語』中の問答をもう一度取り上げることにします。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　高弟・子路が鬼神に事（つか）えることを問うた事があった。&lt;br&gt;
　孔子は答える。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「未だ人に事うる能わずんば、いずくんぞ能く鬼に事えん」と。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　子路は、ならば、とばかりに、敢えて死を問うた。&lt;br&gt;
　師がこれに答える。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　曰く「未だ生を知らずんば、いずくんぞ死を知らんや」と。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　ここで孔子は、子路の鬼神に事えるとはどういうことかの問いに、鬼についてしか答えていません。繰り返しになりますが、鬼神とは神霊のことです。吉川幸次郎の解説によれば、「鬼」とは、先祖の魂その他、人間のなった神、「神」とは、天の神その他、人間以外の神であるといいます。つまり、「鬼」は、かつてこの世に存在したという点で、現世に生きる我々とは、死という断崖絶壁によって隔てられているとはいうものの、繋がった存在です。想像するよすがをわずかながらも持っている。&lt;br&gt;
　一方、「神」はかつて人間であったこともなく、人間とは全く異なる存在ですから、敬遠を言うなら「鬼」より「神」の方がより遠く、窺知し難い存在です。&lt;br&gt;
　孔子は怪力乱神を語りませんでしたが、この問答においても、「鬼」については知らないという形で語っても、「神」については語ってもいません。これは偶然でもなんでもなく、孔子は明らかに「神」について語ることを避けたのです。子路の問いかけに、孔子は、神事については答えを避け、人事さえ能く尽くすことができないのに、どうして鬼事に能く尽くすことができようか、と答えました。そこで子路は、人と鬼を隔てている死というものを単刀直入に問うたのです。これに対し、孔子は、未だ生というものについて分からないのに、どうして死というものを知ることができようか、と遠ざけざるを得ない理由を答えました。&lt;br&gt;
　しかし、孔子は人事を尽くしてよく生きようとしていたわけですから、近づきたくとも近づき得ないものと「鬼神」を認識していたことになります。&lt;br&gt;
　ちなみに今上陛下の信頼篤い漢学者で皇太子殿下の名付け親でもあった宇野哲人は、朱子の『論語集注』の説に依拠している著書『論語新釈』(昭和四年に昭和天皇の即位を祝うための企画の一冊として書かれた)の中で、前条「民の義を務め、鬼神を敬して遠ざかる」云々を次のように解釈しています。&lt;br&gt;
　「鬼神を敬してこれを祭って、鬼神に狎れ近づいて福を求めるようなことをしなければ、知と謂うことができる。」&lt;br&gt;
　さらに解説して、「人道のようなまさに知るべき所を知って、鬼神のような知るべからざる者に惑わないのであるから、知である。」と言っています。&lt;br&gt;
宇野はすでに、大正三年に出版された『東洋哲学大綱』の中で、孔子の宗教観に触れた箇所で、天の信仰および霊魂不滅の思想を有していたとした上で、上の子路との対話については、孔門においては、現世を務むべきことを説いて、生死の問題は深く立ち入ることを避けた、と解釈しています。&lt;br&gt;
　宇野は明治四十一年から四十三年まで、当時学問の本場とされていたドイツへの留学経験があり、この『東洋哲学大綱』も新カント派の哲学者ヴィルヘルム・ヴィンデルバントの哲学史を手本にしたとの事であり、こちこちの儒者というわけではありませんでした。&lt;br&gt;
　また、今上陛下の『論語』の御進講を担当した息子の精一の方は、その著『論語と日本の政治』の中で、次のように孔子の思想を要約しています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「…孔子はこの禮を總合體系化すると同時に、人としてのあり方の根本として『仁』を主唱し、古来の神、祖先神、天神中心の思想から、それら神を尊仰しつゝも（『鬼神ヲ敬シテ之ヲ遠ザク』〔雍也篇〕とある）、人の行動は、自己の判断により従つて責任を重んずるといふ意味での人中心の思想に切り替へたのである。その意味で私は、孔子の思想は人主義であるといふのが持論なのである。…」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　この孔子の思想に対する理解は、現人神として、「古来の神、祖先神、天神」への祭祀・祭礼を継承しつつ、その子孫の御名に「仁」の一字を授け、これを「ひと」と読み慣わしてきた千年以上に亘る皇室の伝統に適っていますが、むしろ、この伝統を培養してきたものこそ、皇室の『論語』受容の伝統であったといえるのではないでしょうか。&lt;br&gt;
皇室の歴史の中に『論語』を典拠とする鬼神理解の痕跡を見るならば、仁明天皇の御代に下された勅命までさかのぼることができます。&lt;br&gt;
その御名に「仁」の一字を持つ最初の天皇、清和天皇の祖父にあたる仁明天皇は、史料に残る限りにおいて国風諡号を持つ最後の天皇ですが（「日本根子天璽豊聡慧尊」）、在位中の詔に『論語』からの引用、あるいは論拠を持つ言葉が多く見られます（『論語年譜』林泰輔編）。その中で、承和七年五月、旱魃が起きた際に下した詔の中に、国司としての職務の在り方として、『論語』に論拠を持つと見られる「敬神如在、視民如子」という言葉が出てきます。この詔の中で、仁明天皇は、五畿内七道諸国の国司に対して、神を敬うこと在すが如くし、民を視ること子の如く、職務に励むよう要請し、部内を巡行して神社を修造するよう、厳しく命じているのです。（『続日本後紀』）この翌々日には、日照りによる稲苗の枯死を心配した天皇が特定の神社へ雨乞いを命じていますから、「敬神如在」とは明らかに神の存在を前提として、熱心に祭りを執り行え、との意味であったことがわかります。&lt;br&gt;
『続日本後紀』は官撰六国史の一つで、仁明天皇の御代の記録ですが、その大半が、朝廷が祭祀に勤しむ内容なのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　鬼神をめぐる孔子と子路の対話は様々な意味を含んでいますが、鬼神を敬して遠ざかるとは、鬼神を敬して祭り、結界、端境を設けて、俗社会の欲をそこに持ち込んではならない、ということです。「敬遠」を「敬して遠ざかる」と訓ずれば、謙譲の精神を表すことになるし、「敬して遠ざける」と訓ずれば、私欲にまみれた日常に軸足を置きつつ、そこから神霊の領域を区別しようとの表現になります。&lt;br&gt;
　これは日本人の神社における正しい態度に通じます。&lt;br&gt;
　神社とは本来、清浄明直の心を以て神に感謝の心を捧げに訪れる場所です。&lt;br&gt;
　鳥居に注連縄を張って聖と俗の端境としてあるのであり、そこに俗世界の欲を持ち込んではなりません。だからこそ、俗界に住む身として神社に参拝する場合には、心身を清めるための作法として、まず手水を行うのです。　&lt;br&gt;
　孔子は「これを知るをこれを知ると為し、知らざるを知らざると為す、これ知なり」とも言っていますから、この結界は、知の限界線でもある。そこから先は不可知の領域ということになります。伊勢神宮を参拝した西行法師が「何事のおはしますかはしらねども」と詠んだようにです。この端境を越えれば動かない真実を求めたところで、それはあくまでも実証不能の一解釈に過ぎず、西尾幹二風に極論すれば、無駄、ということになります。これは近代科学に対する戒めとして、現在も有効性を失ってはいないでしょう。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;&lt;strong&gt;&lt;/strong&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hidemikishuu/66760649.html</link>
			<pubDate>Fri, 19 Apr 2019 17:40:12 +0900</pubDate>
			<category>日本史</category>
		</item>
		<item>
			<title>日本人の道－日本人の本来的自己喪失（壱）　【『皇室と論語』（二十）】</title>
			<description>&lt;strong&gt;&lt;font size=&quot;5&quot;&gt;大東亜解放の大義に殉じた英霊は靖国神社に祀られていますが、ここは本来、幕末維新以来の国難に殉じた英霊たちが祀られている場所です。&lt;br&gt;
　故に反日勢力が目の敵にしている場所で、参拝を遠慮したことを痛恨の極みといった安倍首相もさも当然であるかのように参拝しなくなってしまいましたが、今上陛下は即位されてから平成の三十一年間、皇居のすぐ近くにあるこの神社を天皇として行幸啓なさらぬままに平成の御代を終えられようとしています。&lt;br&gt;
今回は神霊に対する信仰を失った現代社会において、われわれはどのようにこの神霊という存在と向き合ったらよいか、それを考えてみたいと思います。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　以前、保守系雑誌『正論』の元編集者が、明治維新を扱うと読者の人気がない、という趣旨のことを言っていました。これはいわゆる「保守」というものを考える上で、何か示唆的です。明治維新は外圧で開かされたものだというイメージで語られることが多いですが、それは一面の真実であっても、ある重要な面、すなわちわが文明の内発性を見落としています。明治維新は、阿片戦争の衝撃に始まる西洋文明の刺激に、日本の伝統が内発的に応じた結果達成された文明再生の偉業であった、という視点です。&lt;br&gt;
　すでに見たように、幕末明治を動かした志士達の天命の教科書は儒教、要するに『論語』『孟子』であり、彼らは、天命を受けて、この国を統治してこられた京の天子様を再び国政の中心に据え、その上で国内が一致団結して、国難を乗り越えようとしたのです。&lt;br&gt;
　長州で言えば、吉田松陰は『孟子』の言葉を実践して刑死しましたし、高杉晋作は『論語』の一節に着想を得て、匹夫の志によって成り立つ軍隊「奇兵隊」を創設しました。なぜなら「三軍も帥を奪うべきなり、匹夫も志を奪うべからざるなり」と孔夫子が仰っているからです。（もっとも「奇兵」という言葉自体は『孫子』に由来しますが。）また、薩摩で言えば、島津斉彬の政治思想の中心には『論語』『孟子』があったし、島津久光も、西郷隆盛も、それを継承しました。だから対立・確執はあっても大きなところで協調することが出来たのです。&lt;br&gt;
　彼らの教養の基礎を成した学問はもっぱら儒者の手になるものでした。江戸期の学問は、やはり儒学を中心に展開された、日本版諸子百家による百家争鳴です。これを日本版ルネッサンスとしてとらえるにしても、儒学を中心に展開したことに変わりはありません。その最も深いところまで突き詰めた思想家といえる本居宣長でさえ、本人が否定したとは言え、徂徠学の影響は強く、終生、孔子をよき人として敬愛してやまなかったことを思えば、例外ではないのです。&lt;br&gt;
　彼らの多くは、日本こそ中華（世界の中心）であると考え、その根源を問い、「本来的自己」を手放す事はなかった。&lt;br&gt;
　そもそも戦国時代を終息させ、秩序の根幹を創り上げた徳川家康自身が学問好きで、林羅山を近づけて『論語』を講じさせていました。彼の天下統治の教師であり、反面教師でもあった織田信長は、鳳凰と並んで聖天子の出現の兆しを著す瑞獣「麒麟（きりん）」の「麟」字の草体を花押とし（佐藤進一説）、周王朝発祥の地である「岐山」にちなんで、その居地を岐阜と名づけ、堯舜を含む三皇五帝や老子・孔子などシナの聖人賢者を超える存在となって、天下一統を謀ったのです。時の正親町天皇も信長に非常に協力的でした。&lt;br&gt;
　つまり、日本の近代への歩みは、戦国時代という旧秩序の徹底崩壊した時代に、民の側から始まった、シナ思想の影響を多分に受けた秩序再生の運動とともに始まったのであり、これが三百年の歳月をかけて熟成し、明治維新という形で集大成されたのです。最近盛んに宣伝されている偽りの明治維新という見方が、いかに皮相で、陳腐な見識に過ぎないか分かろうというものです。　&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　筆者は、『論語』を聖典として絶対化しようなどと主張したいのではありません。&lt;br&gt;
　筆者が言いたいのは、『論語』を深く知ることが、日本人としての己れを深く知ることに繋がる、ということです。また、そのことが日本とはあまりにも異なるシナ文明を深く知ることにも繋がる。&lt;br&gt;
　漢学、なかんづく『論語』理解の問題、それはあたかも、われわれ近代日本人にとって重要な課題であり続けている西洋文明を理解する上で、ユダヤ・キリスト教やギリシャ哲学やローマの歴史の理解が欠かせないようなものです。これらは西洋人にとって、他文明に由来するという点で、われわれにとっての漢学と同じです。「聖書」は古代パレスティナの地で生まれたものだし、古代ギリシャ文明も古代ローマ文明も滅びました。&lt;br&gt;
　その点、維新の元勲中では、才子として軽く見られた伊藤博文が、憲法制定過程において、わが国における、西洋の宗教キリスト教に比すべきものとして、神道を引っ張り出し、これは宗教勢力として微弱であるから皇室しかない、としたことがそもそもの誤りでした。大久保利通の後継者として頭角を現した政事家である彼は、そもそも國體と政體の区別が曖昧で、憲法の制定は政体の変更のみならず、國體の変更であると考えていました。すでに検証したように、明治国家の由来を考えれば、キリスト教に比すべきものは日本的儒教とするのが至って自然です。何よりも、明治天皇の教育勅語の存在そのものがそれを物語っています。&lt;br&gt;
　その点、大正時代になって、経済界における拝金主義の横行に危機感を感じて、わが国における西洋の宗教キリスト教に当たるものとして、『論語』を推し出そうとした維新の志士上がりの実業家渋沢栄一の見識は注目に値します。&lt;br&gt;
　彼は明確にそのような意識を以て、日本の産業界育成に努め、国家運営に役立てようと、漢学の保存再生に尽力したのです。彼の口述を本にまとめた『論語と算盤』と大部の『論語講義』は有名で、最近新たに発表された新一万円札紙幣の肖像に彼が採用されたことは非常に示唆的です。すなわち、新元号「令和」にも通じそうですが、経済と道徳を結びつける渋沢終生の思想は、金儲けのためなら、対立を煽り、戦争やテロも、また人を経済的奴隷におとしめることも辞さないグローバリズムに対する安倍政権のアンチテーゼの表明ではないか、ということです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　かつて、昭和の御代に入って、国際共産主義運動の脅威を自覚した日本に國體明徴運動が起こります。その一つの成果が、文部省が当時の学者の力を結集して作成した『國體の本義』です。&lt;br&gt;
　この中でわが國體に対する漢学の影響もちゃんと触れられています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「我が国に輸入せられた支那思想は、主として儒教と老荘思想とであつた。儒教は実践的な道として優れた内容をもち、頻る価値ある教である。而して孝を以て教の根本としてゐるが、それは支那に於て家族を中心として道が立てられてゐるからである。この孝は実行的な特色をもつてゐるが、我が国の如く忠孝一本の国家的道徳として完成せられてゐない。家族的道徳を以て国家的道徳の基礎とし、忠臣は孝子の門より出づるともいつてゐるが、支那には易姓革命・禅譲放伐が行はれてゐるから、その忠孝は歴史的・具体的な永遠の国家の道徳とはなり得ない。…要するに儒教も老荘思想も、歴史的に発展する具体的国家の基礎をもたざる点に於て、個人主義的傾向に陥るものといへる。併しながら、それらが我が国に摂取せられるに及んでは、個人主義的・革命的要素は脱落し、殊に儒教は我が国体に醇化せられて日本儒教の建設となり、我が国民道徳の発達に寄与することが大であつた。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　これは正確な認識でしょう。&lt;br&gt;
　ですが、当時シナと戦争中ということもあったからかもしれませんが、やはり日本のオリジナリティ、すなわち神道的価値観が前面に押し出され、漢学の影響は付属的扱いです。&lt;br&gt;
　敗戦後、皇国史観が非難攻撃の矢面に立たされた時、護教論を持たない神道は大きな傷を被ることになりました。そこには[GOD]を「神」と訳したことによる大きな誤解があり、占領軍はこの「神」としての天皇および「神」道を破壊しようとしたのです。「神道指令」は敗戦四ヶ月後の十二月十五日には早くも発せられています。いわゆる「人間宣言」としての昭和二十一年元旦の詔書を誕生させたのも同じ精神からでした。&lt;br&gt;
　これに対し、昭和天皇は、占領軍の意向を受け入れて、[GOD]＝「神」としての「天皇」および「神道」は否定したものの、日本本来の神々、およびそれとつながるものとしての皇室を守ろうとしました。それが「五箇条の御誓文」を第一義とする昭和二十一年元旦の詔書の御言葉とあいなったのです。&lt;br&gt;
　「人間宣言」とは、表面的には言わば「非[GOD]化宣言」ではあっても、その暗示するところの深い大御心を忖度するならば、天皇と国民の間は道徳的信頼関係を基礎とし、一方で天皇と皇祖神とのつながりが再確認されています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　明治大帝を模範とされた昭和天皇は、この祖父が天地神明に誓われた「五箇条の御誓文」の精神を重んじられ、敗戦後、初めての詔書（いわゆる「人間宣言」）で、新生日本建設の指針として「五箇条の御誓文」を掲げられましたが、その御誓文原案の起草者であった由利公正は、それが四書の思想に由来することを自伝で告白しています。&lt;br&gt;
　若き日の昭和天皇、すなわち裕仁親王の倫理学を担当した杉原重剛は、御進講の大体の方針を次のように述べています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　一つは、三種の神器に則り皇道を体し給う事、&lt;br&gt;
　一つは、五箇条の御誓文を以て将来の標準と為し給うべき事、&lt;br&gt;
　一つは、教育勅語の御趣旨の貫徹を期し給うべき事。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　後者二か条は要するに明治大帝を模範とされよ、ということですが、一つ目の三種の神器（鏡・玉・剣）はただ皇位の御証としてだけでなく、それぞれ知・仁・勇の三徳を表すもので、北畠親房・中江藤樹・山鹿素行・頼山陽など、みな説いてきたところであり、シナの古典『中庸』はこの三者を天下の達徳とし、『孟子』の五倫五常もこの三徳なしでは為しえない。これは西洋で言えば知・情・意に当るもので、東西説くところは同じである。杉原はこのように説きました。&lt;br&gt;
　これは明治維新の精神の継承といってよく、より歴史を掘り下げてみれば、戦国時代を収束せしめた信長・秀吉・家康の秩序思想の発展的継承と言えます。&lt;br&gt;
　ここで神話という古代日本人の精神の記念碑に、多くの人々が生きる規範として普及してきた儒教徳目が重ね合わされる、という重層性に注意を喚起しておきたいと思います。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　昭和天皇の御心に杉原の帝王教育が生きていたことは、日米開戦前の御前会議で明治天皇の御製「よもの海　みなはらからと　思ふ世に　など波風の　たちさわぐらむ」を詠み上げて再考を促したことでも拝察できますし、敗戦後、日本の復興に向けての指針として「五箇条の御誓文」を示された昭和二十一年元旦の詔書（いわゆる「人間宣言」）にも表れています。&lt;br&gt;
　また、ポツダム宣言の受諾を決意された、いわゆる御聖断のこころを詠んだ御製にも明らかです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　「身はいかに　なるともいくさ　とどめけり　ただたふれゆく　民をおもひて」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　これは『論語』の言葉で言えば「身を殺して以て仁を為」したということになるでしょう。&lt;br&gt;
　昭和天皇の知・仁・勇はここに凝縮したといっても過言ではありません。これが口先だけのきれいごとでなかったのはマッカーサーとの初会見で証明されています。　&lt;br&gt;
　昭和天皇が同じく被占領期に国民に対する願いを詠んだ次の御製にしてもそうです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「降り積もる　深雪に耐えて　色変えぬ、松ぞ雄々しき　人もかくあれ」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　この御製の本歌（？）は『論語』の一節「子曰く、歳寒くして、然る後、松柏の彫（しぼ）むに後（おく）るを知る」であると拝察されます。&lt;br&gt;
　実は『論語』のこの条の次はこのようになっている。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「子曰く、知者は惑わず、仁者は憂えず、勇者は懼れず。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　御聖断の時の昭和天皇は、まさに三種の神器に象徴される知・仁・勇を行いました。&lt;br&gt;
　日本の國體はこの時まさに昭和天皇の両肩に圧し掛かっていたといえます。&lt;br&gt;
　昭和天皇の偉大さ、延いては皇室伝統の偉大さがこの時発揮されたのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　皇太子時代の今上陛下も五十歳の御誕生日（昭和五十八年）に記者から座右の銘を尋ねられて、『論語』の一節を御答えになられています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「好きな言葉に忠恕があります。『論語』の一節に『夫子の道は忠恕のみ』とあり、…自己の良心に忠実で、人の心を自分のことのように思いやる精神です。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　今上陛下は、漢学者の宇野哲人を東宮御所に招いて、現皇太子殿下・浩宮徳仁親王に、七歳からの学習院初等科時代の六年間、『論語』の素読を学ばせています。「浩宮」「徳仁」を四書の一つ『中庸』から択んだのは、この宇野哲人であることからも今上陛下の御信頼のほどが拝察されます。&lt;br&gt;
　宇野哲人は明治中期の欧化思想の盛んであった時代に、時流に逆らって、わが国の漢学の伝統を滅亡の危機から救おうとの悲愴な決意をした学者で、渋沢栄一晩年の『論語』の先生でもあります。ちなみに、もうじき天皇に即位される現皇太子殿下の中等科の二年間は、同じ漢学者で、今上陛下への『論語』の御進講を担当してきた息子の宇野精一が御進講を行っています。&lt;br&gt;
　西尾幹二氏がかつて「孔子が『怪力乱神を語らず』と言って、人間以上の力を持つものの存在を認めなかった儒学の伝統に従い、江戸の儒学もまた合理主義に傾く傾向が強かった」と書いておられますが、それは朱子学的伝統ではそうはいえても、少なくともわが国体に醇化された日本儒学の伝統、なかんづく皇室の儒学受容の伝統では決してそうではありませんでした。&lt;br&gt;
　福田恒存は次のようなことを書いています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「宇野精一氏に聴いた話だが、孔子が重んじた『禮』とは人間の窺知し難い自然や神霊のタブー（禁忌）に近づきその怒りや祟りを鎮めるための手段、儀式であったといふ。それならタブーの無くなった文明社会では『禮』は存在理由を失ったのだろうか。そうは言えまい。」（「東風西風」）&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
　これが今上陛下に『論語』の御進講を行ってきた宇野精一の「禮」に対する認識です。当然『論語』を進講するに当って、「禮」の意義をそのように説明したに違いありません。そもそも、皇室の本質とは祭祀･祭礼にあるのです。&lt;br&gt;
　古来、皇室には怨霊信仰があり、その祟りを鎮めるために祭祀を重んじてきた事実があります。これは神霊の存在を前提としたものであり、古来シナでは「鬼神」と表現されてきたものでした。皇室は怨霊を鄭重に祀る事で、その祟りを鎮め、逆に守り神にしようとした。これを御霊信仰といいます。菅原道真が怨霊として恐れられ、手厚く祀られたのはよく知られていますが、その最も有名な事例が、崇徳上皇でしょう。崇徳上皇は皇室を恨んで配流地である讃岐において憤死し、史上最大の怨霊として恐れられました。上皇が舌を切って滴る血で五部大乗教の写本に書き付けた「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」との『保元物語』の呪詛はよく知られています。この呪詛が事実であったかどうかわかりませんが、上皇の崩御後、世が乱れ、源平の争覇が進行する中で、上皇の怨霊が朝廷で強く意識されるようになったのは事実です。上皇の呪詛は奇しくも、鎌倉幕府の成立、そして、いわゆる「承久の変」における北条氏という地方武士による上皇・天皇の配流によって実現しました。以来、崇徳上皇の怨霊は最大の怨霊として、まさに大魔縁として恐れられるようになったのです。そして、世が乱れるたびに人々に想起されたのは『太平記』にも表れています。&lt;br&gt;
　幕末の騒乱期にも、孝明天皇はやはり崇徳上皇の霊を想起されました。事実、朝廷において、崇徳上皇の霊を京に御還幸いただくことが討議されました。元治元年のことです。元治元年と言えば、天狗党の義挙、池田屋事件、禁門の変（蛤御門の変）、四国連合艦隊下関砲撃事件、長州征伐といった重大事件が相次いだ年です。朝廷では崇徳上皇の祟りのせいだと考えられたのです。&lt;br&gt;
明治天皇は先帝の御遺志を継いで、崇徳上皇の命日に当たる慶応四年八月二十六日、讃岐白峰にある崇徳上皇の御陵に勅使・源通冨を派遣しました。勅使の目的は、崇徳上皇の霊を慰めるとともに、京都への御還幸を請うことにありました。ですから、明治天皇の即位の礼は、その願文が讃岐白峰で読み上げられた翌日、八月二十七日に行われています。そして、九月六日、崇徳上皇の霊は、御還幸のため新たに建立された京都の神社に御還幸になり、天皇親ら迎拝し、その二日後の八日、明治への改元は行われました。つまり、明治改元へのスケジュールは、平成から令和の御代替わりが国民主権を採用した日本国憲法に則って進められたのとは違い、日本史上最大の「神霊のタブー（禁忌）に近づきその怒りや祟りを鎮めるための手段、儀式」である祭「禮」の進行に沿って定められ、厳かに進められたのです。&lt;br&gt;
　怨霊の祭祀を通じての維新事業に対する守護神化、すなわち怨霊の鎮魂による御霊信仰がこれら一連の事件の根底にはあります。&lt;br&gt;
　明治天皇は、その意味での祭礼を決して怠りませんでした。&lt;br&gt;
　もちろん、祭祀は崇徳上皇に対してのみ鄭重に行われたわけではなく、この内乱期の多忙混乱の中で、祭礼は決して疎かにはされなかったのです。&lt;br&gt;
　例えば明治への改元に先立つ慶応四年三月十四日、群臣を前に、天皇御親ら天地神明に誓われる祭礼を行われました。いわゆる「五箇条の御誓文」です。これは、天皇が群臣に誓う形式にしてはシナ皇帝流の覇道に堕してしまうとの批判が太政官で起ったからです。つまり、「礼」はわが國體を意識して行われたのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　また、皇室の重んじることの一つに和歌があります。&lt;br&gt;
　今でも歌会始は重要な皇室行事の一つですが、この詠歌にも同様の作用が認められます。&lt;br&gt;
　紀貫之撰の『古今和歌集』「仮名序」では、和歌について次のような説明がなされています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「和歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事・業しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聴くものにつけて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水に住むかはづ声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力を入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは、歌なり。」（『古今和歌集』岩波文庫）&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　漢文で書かれた「真名序」で最後の文章は「動天地、感鬼神、化人倫、和夫婦、莫宜於和歌」となっています。和歌の作用の一つに、鬼神をあはれと思わせる、つまり感動せしむ、というのがあるのです。&lt;br&gt;
　日本最初の勅撰和歌集『古今和歌集』が編纂されたのは、後世、天皇親政の理想時代とされ、維新の一つの源流となった「延喜・天暦の治」の前者で、醍醐天皇の時代です。和魂漢才の忠臣・菅原道真が活躍し、失脚したのも、この延喜帝の時代でした。醍醐天皇の崩御は菅公の怨霊の仕業ではないかと都では恐れられました。&lt;br&gt;
　この時代は、戦後の歴史家によって、律令政治の最終段階であるとともに、王朝国家体制への移行期とされ、その理想視に水を差されましたが、挫折したとは言え、いや挫折したからこそ、天皇親らの復古的改革への意志が、後世になって、非上流貴族の理想とされ、継承された、と理解すべきではないかと思います。すでに触れたように、この時代、「道」という自覚的な生き方を日本人に教えた『論語』の価値が非常に高まった時代でした。&lt;br&gt;
醍醐天皇は、明経・紀伝博士をして、生まれてまだ七ヶ月の皇子・寛明親王（後の朱雀天皇）に、『千字文』『漢書』『孝経』『論語』『史記』『尚書』『春秋左史伝』などを読誦せしめています（『御産部類記』）。まるでお経や呪文のような扱いです。&lt;br&gt;
　「仮名序」によると、当時は漢学が隆盛を極めた時代で、和歌は「色好みの家に埋れ木の人知れぬ事となりて、まめなる所には、花すすき穂にいだすべき事にもあらず」という有様だったといいます。&lt;br&gt;
　この和歌の窮状を救おうとしたのが、醍醐天皇の大御心でした。醍醐天皇の勅命は、「仮名序」では「いにしへの事をも忘れじ、古（ふ）りにし事をも興したまふ」「今もみそなはし、後の世にも伝はれ」となっていて、「真名序」の同じくだりを書き下すと「既に絶えたる風を継がしむことを思ほし、久しく廃れたる道を興さむことを欲す」と表され、明確に「道」という漢語で表現されています。&lt;br&gt;
　大和言葉では「道」という漢語の使用が避けられたということでしょうか。ということは「道」という観念は当時、まだ外国から渡来したものと明確に意識されていた、ということになります。&lt;br&gt;
　この大御心を受けた紀貫之はこの「仮名序」、『土佐日記』の作者でもあることからもわかるように、仮名による大和言葉の表記に対する思い入れが殊の外強かった人物です。&lt;br&gt;
　実は紀貫之の「貫之」の名は『論語』「里仁」篇の「一以て之を貫く」に由来しています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　孔子は若い弟子の参（曾子）に言った。&lt;br&gt;
　「参よ、吾が道は一以て之を貫く。」&lt;br&gt;
　参は「はい」とのみ答えた。&lt;br&gt;
　やがて、孔子は出て行った。&lt;br&gt;
　すると参の弟子が「どういうことですか」と尋ねた。&lt;br&gt;
　参が答えて言うに、「夫子の道は忠恕のみ」と。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　つまり、今上陛下が感銘を受けた一節は、孔子の言葉ではなく、「吾が道は一以て之を貫く」という孔子の言葉に対する曾子の解釈なのです。&lt;br&gt;
　孔子は「吾が道は一以て之を貫く」と言いましたが、何を以て貫くとは言っていません。荻生徂徠は、言わなかったのではなく、言えなかったのだと解釈していますが、紀貫之にとって、一以て之を貫く吾が道とは、和歌を起点とする一つの道であったでしょう。貫之はその事に忠恕の心を以て臨んだのです。それが『古今和歌集』編纂および「仮名序」の執筆、そして副産物として『土佐日記』を生んだ。そして、見事に和歌を自覚的な歌の道として再生せしめた、と言っていいでしょう。&lt;br&gt;
　その「仮名序」の中で貫之は、『論語』をわが国にもたらした王仁の難波津の歌と『万葉集』に収められた、不機嫌だった葛城王（橘諸兄）をなだめるために采女が詠んだ和歌を挙げ、「この二歌は、歌の父母のやうにてぞ、手習う人のはじめにもしける」としています。つまり、王仁の難波津の歌は和歌の父のようなもので、和歌の母である采女の詠歌とともに、手習いの始めに習うものであったということです。古代において『論語』をもたらした王仁は、文字や和歌の世界においても特別な存在に位置づけられて記憶されていたのです。現在でも、競技かるたにおいては、百人一首とは別枠で、序歌として初めに詠まれるのがこの歌なのはその名残をとどめるものでしょう。現在ユニバーサル・スタジオ・ジャパンがある大阪は此花区の名の由来ともなっています。　&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
難波津に　咲くやこの花　冬ごもり　今は春べと　咲くやこの花&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　貫之はこの歌に次の注記を挿入しています。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
「おほさざきの帝、難波津にて、皇子ときこえける時、東宮をたがひに譲りて、位につきたまはで三年になりにければ王仁という人のいぶかり思ひてたてまつりける歌なり。『この花』はむめ（梅）の花をいふなるべし。」&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　つまり、仁徳天皇が即位する以前、先代応神天皇の御代に渡来した『論語』を学んで、弟と帝位を譲り合って、空位が三年続いた際、師である王仁が詠んだ歌がこの難波津の歌なのです。&lt;br&gt;
　当然、この歌を捧げられた、「民の竈」で知られる仁徳天皇の仁政も、王仁に授けられた学問教養の賜物であったと考えるのが自然です。&lt;br&gt;
　これらのことは日本の伝統文化と論語の関係を象徴的に表していると言えるでしょう。&lt;br&gt;
　貫之はこの難波津の歌は「帝（みかど）の御初（おほむはじ）めなり」としていて、『詩経』六義の「風」に当る「そえ歌」であるとしています。『詩経』は孔子が学問の初歩として最も重んじた書物で儒教の聖典五経の一つです。このように、『論語』は和歌の自覚化、歌の道としての再生にも密接に絡み合っているのです。&lt;br&gt;
　ちなみに筆者は新元号「令和」が『萬葉集』の梅の詠歌の序文から採られたことと併せて、新紙幣における渋沢栄一の肖像採用が日本における『論語』受容の伝統の再認識につながり、その伝統の起源である王仁の事跡に梅を表す「咲くやこの花」で有名な難波津の歌があることに、何か因縁のようなもの、あるいは希望的観測かもしれませんが、伝統再興の息吹を感じてしまいます。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　さて、以上のように、われわれの先人が文字を学ぼうと決意したのは、応神天皇や後の仁徳天皇が、賢人・王仁を通じて、賢者の言葉を学ぼうとの動機を強く持ったのがきっかけであり、それは朝廷において『論語』の名を以て記憶されたのでした。『古事記』や『日本書紀』の記述はそのように読めます。&lt;br&gt;
　この出合いは、日本人の言葉や文字に対する感性を決定付けたように思えます。&lt;br&gt;
　一方で、王仁もまた日本の文化を理解しようと努めたようで、彼の難波津の歌は、和歌の父のような存在とされ、そして、おそらくは書き言葉としての日本語の父とも伝承された。&lt;br&gt;
　しかし、いつの頃からか、それらの記憶は忘れられました。&lt;br&gt;
　時の経過もさることながら、日本人が平仮名や片仮名などの仮名を発明して、日本語としての文字の使用に習熟し、書き言葉としての日本語を確立したことが、文字の父としての王仁の存在を忘れさせたのでしょう。&lt;br&gt;
　&lt;br&gt;
　以上、『論語』がいかにわが国の文化の土壌に深く根を下ろし、からみついて、ともに支えながら生長してきたものであるかを念頭に置きながら書いてきました。「令和」でさえ、安倍首相がそう説明したように、『萬葉集』を直接の出典としながら、その起源、すなわち本歌は『文選』にも採用されている後漢・張衡の『帰田賦』「仲春令月、時和し気清らかなり」にあるのです。和歌には本歌取りの伝統があり、これは元となる歌に敬意を払いつつ、これに手を加えることで独自のものを創造する態度で、わが国の優れた伝統でもあるのです。われわれはシナに限らず、近代に入ってからは西欧の文化・文明を言わば「本歌」にして、これに手を加えることで独創的な文明を築き上げてきました。「つくりかへる力」による国風化とはこの作用の事です。&lt;br&gt;
　西洋由来の「保守」思想から見て、シナから受容した文明は本来、シナと日本を起源とする別のものであるべきはずで、癒着と呼ばれるべき状態ということになるのかもしれません。しかし、外科手術でこれを無理に引き剥がそうとすれば大変な出血をともなうことになるでしょう。現に戦前のいわゆる皇国史観によって、前面に押し出された「惟神の道」は外部からの物理的打撃によって、大きな傷を被ったのではなかったでしょうか。&lt;br&gt;
　筆者が言いたいのは、日本にはシナとは違う『論語』解釈の歴史、受容の歴史があるのであり、これは文明の根幹に関わることである、ということです。&lt;br&gt;
保守論壇に横行している儒学批判、ひいては『論語』批判は程度が低いものが多い。&lt;br&gt;
　孔子もまた食人の習慣があったとか、論外です。儒教体制が東アジアに停滞をもたらしたとかも皮相の見解であって、そのような面が確かにあるにしても、どのような社会規範･社会体制も、文明が衰退期に入って、人々が精神の溌剌さを失って、これに屈従すれば、社会は停滞するのであって、これは古今東西変わらぬ現象でしょう。&lt;br&gt;
　要は衰勢の中にあって、人がもがき苦しんで、これに違和感を感じ、抗おうとする中から、文明再興の萌芽は生まれるのですが、外的要因がその芽を摘んでしまうことが実に多いです。その意味で、無関心とか、諦観こそがわが内なる敵といっていいかもしれません。&lt;br&gt;
　筆者は古くから生きる規範として日本人に読まれてきた『論語』の、日本人なりの通釈の歴史があり、それに則って行動することで日本の歴史が動かされてきた面があり、それはどこまでも歴史である、と言いたい。人間の知性や認識能力は完全どころか欠陥だらけであり、誤解も含めて思想を形成し、歴史を動かしていく。例えば、中国や韓国の主張する近現代史は捏造だらけで、稚拙な政治的デマゴーグに満ちていますが、われわれ日本人の側が、自己主張の強い意志を持たず、それどころか向こうの言い分を無気力に受け入れてしまったりすれば、言ったもの勝ちで、そのように歴史は動いてしまうのです。&lt;br&gt;
&lt;br&gt;
　古来『論語』は日本人に大きな叡智をもたらしてきました。&lt;br&gt;
　先人の重要なバックボーンとなってわが国の発展に寄与してきた思想の一つです。&lt;br&gt;
　確かによく指摘されるように儒教には実学の軽視という欠陥があります。それは、この『論語』に既に現れているわけですが、孔子自身は苦労人で、自ら「吾れ少（わか）くして賤し、故に鄙事に多能なり」というだけあって、農事に携わった経験も言葉ににじみ出ているし、司馬遷の『史記』によれば役人をしていたこともあったことになっています。つまり、下層民としての実生活の上に、これらの思想を築き上げていたのです。孔子が世に知られ、人生経験も蓄積して思想らしい言葉を語るようになったのは、ようやく四十という不惑の齢を過ぎてからのことでした。だから、実務に従事する日本人にこそ、『論語』を読んで欲しいと思い、『論語』の復権を説こうとしているのです。&lt;br&gt;
　『論語と算盤』の著者で経済人の渋沢栄一も同じ趣旨で『論語』を称揚しました。筆者はまた別の側面から光を当てようとしているだけですが、あまりラジカルだと人はついて来ることができないようです。ラジカルは過激とか、急進的な様を表す言葉ですが、本来は、根本的とか根源的という意味合いの言葉です。根源的言動は一般の眼には、時には過激、時には急進的に映るのです。本質的危機の時代にあって役に立つのは、ラジカルな認識に基づく解決策でしょう。保守派の人々は、国を愛すとか、歴史を大事にとか、伝統を重んずるとか、常々言っているはずです。ここに好き嫌いという私を差し挟んではならない。中国の脅威が差し迫っているからと言って、敵性言語として、敵性思想として、この伝統を抹殺しなければならないとすれば、それこそがシナ流です。&lt;br&gt;
　シナ人は言語を、『論語』を、嘘の固まりにしてしまった人々。&lt;br&gt;
　日本人は言語を、『論語』を、「まこと」としてきた民族です。&lt;br&gt;
　そこをこそ、直視すべきなのではないでしょうか。&lt;br&gt;
　これは信仰の話ではありません。どこまでも歴史の話として書いているつもりです。&lt;br&gt;
　よく日本文明は融通無碍といわれます。古くはシナ文明、新しくは西洋文明を貪欲に学び、時にこれに習って、近代化を成し遂げてきました。&amp;quot;Rolling stone gathers no moss.&amp;quot; 西洋の諺で「転石、苔を生さず」といいますが、日本文明の持つ国際性には確かにこういった面を見ることが出来るでしょう。　&lt;br&gt;
　しかし、國體は変化を本質とするものではありません。むしろ國體を守るために変化を余儀なくされるものでしょう。日本の國體には、転石苔を生さずと観察される面があるものの、一方で、これら苔生さずの転石でありつつも、皇室を中心とする「細石の巌となりて苔の生すまで」の伝統が、その球体の中心に、重心になっています。&lt;br&gt;
　転石たる民を中心にプラグマティックに歴史を見ていけばなかなかわかりませんが、皇室を中心にすえて歴史を見ていけば、自ずとそういう歴史観、國體観が拓けて来るでしょう。筆者は、この、長い年月をかけて細石（小石）を凝結させる作用を果してきた重要な要素の一つが『論語』であったことを言いたいのです。それは聖徳太子の「十七条憲法」以来の、皇室の下での、君子相和し、小人同ず、の「和」の伝統でした。&lt;br&gt;
　『論語』は、原石たる日本人に「切磋琢磨」、すなわち「切り上げ、磋（みが）き上げ、琢（う）ち上げ、磨（と）ぎ上げて」玉となすべき事を教えてきたのです。&lt;/font&gt;&lt;/strong&gt;</description>
			<link>https://blogs.yahoo.co.jp/hidemikishuu/66758143.html</link>
			<pubDate>Mon, 15 Apr 2019 18:23:12 +0900</pubDate>
			<category>日本史</category>
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