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"病と狂気と死とが私の揺藍を守る黒い天使たちであった" 
(エドヴァルト・ムンク)
 
今回は、エドヴァルト・ムンク(Edvard Munch)(1863.12/12〜1944.1/23)の作品から、『カ−ル・ヨハンの夕暮』(1892年)、『叫び』(1893年)、『思春期』(1893年)、『接吻』(1892-97年)、『吸血鬼』(1893-94年)、『マドンナ』(1893-95年)といったいわゆる『生のフリーズ』の作品群をご紹介いたします。

芸術家(画家、彫刻家...)の作品を「ことば」で論じる場合、どれだけ、本来その作品が湛えている「実存的な本質」に肉迫できるのか?という疑問に苛まれますが、読了後、皆さんが美術館に行かれたり、書店で画集を手にとられることを期待して、進めてゆきたいと思います。

■エドヴァルト・ムンク(Edvard Munch)略年譜

1863.12.12 オスロ北方のヘドマーク郡リョイテンで生まれる。
1868 母が結核で死去。妹ビヨルスタ嬢が家事を引き継ぐ。
1877 15歳の姉ソフィーエが結核で死去。
1881 オスロの王立美術工芸学校へ入学。
1883 展覧会への初出品。
1885『病める子』の制作に取りかかり、これは翌年に完成する。
1889 初の大々的な個展。11月父が死去。
1892 ムンク事件:ベルリン芸術家協会から展覧会開催の要請を受けるが、協会員の論争と評決の後、一週間で中途閉幕。
1893 「生のフリーズ」の輪郭がまとまり始める。
1894 初めてエッチングと石版画を手掛ける。
1895 弟アンドレアスが死去。
1896 ボードレールの『悪の華(Les Fleurs du Mal)』の挿絵を手掛ける。彩色石版画と最初の木版画の制作、クロの工房の本格的始動。
1902 「生のフリーズ」をベルリン分離派展へ出品。
1904 ベルリン分離派の正会員となる。
1905 ベルリン、プラハで展覧会を開き、大成功を収める。
1908 秋、神経症の発作のためコペンハ−ゲン北郊のダニエル・ヤコブソン博士医院に8ケ月入院。聖オラーブ王立ノルウェー騎士勲章を授与される。
1912 ケルンの分離派国際(ゾンダーブント)展に名誉会員として招待され、セザンヌ、ゴッホ、ゴ−ギャンと並ぶ「現代絵画の柱」としてピカソとともに<特陳室>が設けられる。
1916 首都西郊のクリスティアニアの街はずれにある広大な土地とエ−ケリィ邸を購入し孤独の砦とする。
1923 ドイツ・アカデミーの会員となる。
1930-31 眼疾を患う。
1933 聖オラーブ大十字勲章を授与される。
1936 イギリスで最初の展覧会。
1937 ナチス・ドイツで公共コレクションにあった82点、「頽廃芸術(entartete kunst)」の烙印を押されて没収され、のち競売に付される。
1940 ノルウェーはドイツ侵攻軍に占領されるが、彼らとの接触を一切拒絶。
1943 80歳の誕生日に多くの賞賛を浴びる。
1944.1.23 占領下のエ−ケリィで深い孤絶のうちに永眠。遺言で絵画1,000点、版画14,500点、水彩と素描4,500点、彫刻6点など、手元に残っている作品を、多数の手紙や手稿などとともに、すべてオスロ市へ遺贈。

■『叫び』(1893年)

「生のフリ−ズ」の中核的テ−マとなった不安の系列のピ−クをなす異色作、『叫び』。
ムンクのもっともムンク的な作品として象徴主義的初期表現主義の代表作と目されるこの『叫び』は、当初『絶望』と題されていたその前代未聞の表現性にベルリン・ボエ−ムの仲間たちが与えた解釈から、そう呼ばれるようになったものだといわれています。
絶望は硬直した沈黙を破って叫びとなる...。『叫び』は自然の叫びではなく、人間自身の破局的な絶望と恐怖の叫びにほかなりません。そしてこの虚空にみちた悶絶の叫びに、中央の人物は耳をふさぎ、瞳孔の拡散した両目を虚空に放ち、顔面蒼白、驚愕反射のパニックに陥ったまま、口をあけ、声にならない声をあげて叫んでいます。そう考えれば、この人物は男でも女でもなく、追い詰められた個我の極限状態における実存的様相、みずからの不安に怯える自我自身の惨めな姿の形象化といえるでしょう。(注1)

さらにこの『叫び』の謎を解く鍵ともいえそうなムンクの「散文詩」(1971年に「生のフリ−ズ」のバリエイションとして発見されています)をご紹介しましょう。

"ある夕方、私は道を歩いていた...
片側には市街と港湾が眼下に拡っていた...
私は病んでいた...
私は立ちどまり、ひどく疲れて柵によりかかった...
湾越しに向うをながめた...
そのとき陽が沈み...
蒼黒い江湾と市街の上に...
したたり飛び散る血の雲がひろがっていた...
空は俄に血になった...
友人たちは先へ進み私は一人不安のうちに立っていた...
胸に傷口をあけたまま...
そして私は自然をつんざく「叫び」のようなものを感じた...
私は「叫び」を聞いたように思った..."

「生のフリーズ『叫び』」(エドヴァルト・ムンク)

さらに、1890年代のベルリンの友人の一人[フランス人美術批評家フランツ・セルヴァエス]をして次のように書かしめています。

"・・・人間の本性における原始を見たり、経験したりするため、わざわざタヒチまで出かける必要など彼にはなかった。自らの裡に自分のタヒチを持っているのだから・・・"(注2)

*注1:『ムンク 世紀末までの青春史ドキュメント』鈴木正明著(美術出版社)に拠る。
*注2:『ムンク画集 油彩、下絵、習作』アルネ・エッグム著/西野嘉章訳(リブロポート)に拠る。

●以上、「エドヴァルト・ムンク略年譜」及び「生のフリ−ズ」翻訳は、『ムンク 世紀末までの青春史ドキュメント』鈴木正明著(美術出版社)(昭和53年1月31日発行)、『みずえ 特集:ムンク 孤独の翳の傷痕』(NO.788,1970)(美術出版社)「生のフリ−ズ」鈴木正明訳(P25〜45)に拠っています。

画像は、『ムンク画集 油彩、下絵、習作』アルネ・エッグム著/西野嘉章訳(リブロポート)(平成3年12月6日発行)より。


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