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美術

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■ウィーン分離派とグスタフ・クリムト Gustav Klimt

クリムトが活躍した世紀転換期のウィーンは、文学、音楽、芸術などあらゆる文化的領域において、「近代」の幕開けを告げる激動の様相を示していました。特に美術では、今日「分離派」として知られる「オーストリア造形芸術家連盟」が旧来の「ウィーン造形芸術家組合」に対抗するかたちで1897年に設立されました。その初代会長に就任したのが当時35歳のクリムトです。彼はすでに1880年代から90年代にかけてウィーンの美術界で活動の足場を固めていきましたが、今日我々がクリムトの名から想起する独自の絵画世界は、「分離派」時代に花開いたものです。

■グスタフ・クリムト Gustav Klimtの作風

黄金で装飾された、官能的な世界.....
妖艶で、淫猥、背徳の香りのする女性たち.....
坂崎乙郎氏が『絵画への視線』のなかで指摘するように"画面の洗練度も、感覚の繊細さも病的であるほどゆきとどいている"構成。

女性の裸体、妊婦、セックスなど、赤裸々で官能的なテーマを描くクリムトの作品は、甘美で妖艶なエロティシズムと同時に、常に死(タナトス)の香りが感じられます(若い娘の屍体を描いた作品もあります)。しかしそれは、よく言われるような官能と虚無と頽廃の妖しい匂いに包まれた病的な"華"ではありません。そうした匂いも影に揺曳する、ある不思議な輝きこそクリムトの本質といえるでしょう。
また、「ファム・ファタール famme fatale」というのも多用されたテーマであります。『接吻 Der Kuss』に代表される、いわゆる「黄金の時代」の作品には金箔が多用され、絢爛な雰囲気を醸し出しています。

クリムトはかなりの数の風景画も残しています。『けしの野』(1907年)、『アッタ−湖畔のウンターアッハ』(1915年)等殊にアッター湖畔(ザルツカンマ−グート)の風景を好んで描いています。正四角形の画枠(カンバス)を愛用し、それは平面的、装飾的でありながら静穏で、絵画というよりは織物か敷物のようであり、刺繍や編物を想わせる一定の長さの筆致がぎっしり詰め込まれているという印象がつよいものです。同時にどことなく不安感をもたらす構図であります。
クリムト自身のことばによると

"この画枠を用いると、素材は平和な雰囲気のなかに沈潜する。かくして正方形の絵画は宇宙の一部となる。"

神秘的な力を持つ大きな全体を、部分的に表現することに感心を抱いたクリムトの意向にぴったりでした。

■代表作

『パラス・アテネ Pallas Athene』(1898年)
『ヌーダヴェリタス Nuda Veritas』(1899年)
『医学 Medizin』、『哲学 Philosophie』、『法学 Jurisprudenz』「ウィーン大学講堂の天井パネル画」(1897〜1907年)
『ユディト? Judith ?』(1901年)
『ユディト ?(サロメ) Judith ?(Salome)』(1909年)
『ベートーベン・フリーズ Beethobenfries』(1902年)
『ストックレー・フリーズ Der Stoclefries』(1905〜1909年)
『ダナエ Danae』(1907〜1908年)
『接吻 Der Kuss』(1907〜1908年)

■同時代の作家たちとその女性像

世紀末ウィーンにおけるクリムトの影響を考えるとき、同時代に当地を中心に活躍した芸術家たちを見過ごすことはできません。
クリムトの前世代に当たる●ハンス・マカルト(1840〜84)は、豊潤な色彩と華麗な描写による豪奢な歴史画や肖像画を制作し、当時のウィーンにその名声をとどろかせていました。壮麗な様式をマカルトから受け継いだクリムトは、エロスとタナトスといった人間の根源性を平面的・装飾的な絵画空間の中にあらわすことを生涯にわたり追求しましたが、彼に続く芸術家たちは、装飾という概念よりいっそう直接的な方法で、同じ根源的な主題に挑みました。
●エゴン・シーレ(1890〜1918)は、クリムトの影響を誰よりも強く受けましたが、その繊細で神経質な描線と陰影に富む沈んだ色彩は、いっそう現代的な精神と結びついています。「抱擁(男と女)」に描かれた白布の上で孤独を埋め合うように抱擁する男女には、愛の持つ甘美な感傷性はほとんど見られず、むしろ強い不安感を見る者に募らせます。

【グスタフ・クリムト Gustav Klimt(1862年7月14日〜1918年2月6日)略歴】

1862年ウィーン郊外バウムガルテンに生まれ、弟エルンストと共にウィーン工芸美術学校に学んでいます。卒業後、すぐにプロの芸術家としての活動をはじめ、弟エルンスト、フランツ・マッチェと共に「芸術家カンパニー」を結成し、主に劇場装飾の仕事を請け負っていました。

『ユディト ?』1901年、すでに装飾家として名声を得ていたクリムトはウィーン大学大講堂の天井画の制作を依頼されます。「学部の絵」と名づけられたこの天井画は『哲学』、『医学』、『法学』の3部から成立しています。人間の知性の勝利を高らかに歌いあげるという依頼者が意図したテーマに反し、これら3枚の絵は理性の優越性を否定する寓意に満ちたもので、その是非をめぐり大論争を引き起こしました。

この事件をきっかけに、1897年「ウィーン分離派」を結成することになります。分離派は古典的、伝統的な美術からの分離を標榜する若手芸術家のグループであり、クリムトは初代会長を務めました。分離派からは後にエゴン・シーレ Egon Leo Adolf Schiele(1890〜1918年)、オスカー・ココシュカ Oskar Kokoschka(1886年〜1980年)などを輩出しています。クリムトは内部の対立から1905年、分離派を脱退しています。

●年譜

1862年 7月14日ウィーン近郊のバウムガルテンで7人兄弟の第2子として生まれる。父は北ボヘミア出身の貴金属彫金師エルンスト・クリムト、母は盲目で音楽好きのアンネ・フィンスター。
1876年 10月、ウィーン工芸美術学校(Kunstgewerbeschule)に入学。フェルディナンド・ラウフベルガーおよびユリウス・ヴィクトル・ベルガーの下で学ぶ。
1877年 弟エルンストも同校に入学。2人は写真を基にした肖像画を描いて、1枚6グルデンで売りさばいていた。
1879年 弟のエルンストや友人のフランツ・マッチュと共に「芸術家カンパニー」を結成し、美術史館(Kunsthistorisches Museum)の中庭の装飾等を担当する。
1880年 ラウフベルガーに紹介されたウィーンの建築設計会社の仕事を始め、主に宮殿の天井画などの注文を受け始める。ウィーンのストゥラーニ宮殿の寓意画4点、カールスバートのクアハウスの天井画等。
1881年 フェルディナンド・ラウフベルガーが亡くなり、ユリウス・ヴィクトル・ベルガーに師事。
1882年 ライヒェンベルクの市立劇場の装飾に従事。 
1883年 工芸美術学校を卒業し、フランツ・マッチュと共同のアトリエを構える。
1885年 皇妃エリザベートのお気に入りの別荘、ヴィラ・ヘルメスの内装をハンス・マカルトの構想に基づいて手がける。
1886年 ブルク劇場の仕事で、弟エルンスト、フランツ・マッチュとも異なるクリムト独自の様式を確立、アカデミズムと一線を画する。それぞれ独立して仕事をする。カールスバートの市立劇場の天井画を制作。
1888年 芸術的功績(新ブルク劇場の装飾画制作)により、皇帝フランツ・ヨーゼフより黄金功労十字章を授けられる。
1890年 《旧ブルク劇場の観客席》という作品に関し、皇帝より賞金(400グルデン)を受く。ウィーン美術史館の階段ホールの内装。
1891年 ウィーン美術家連盟に加入。
1892年 アトリエをヨゼーフシュタット地区に移転。6月に父が、12月に弟エルンスト、死去。
1893年 文化教育省からウィーン大学大講堂の装飾計画への参加を要請される。国家勲章を受章。美術アカデミー教授に推薦されるが、文化相に拒否され任命されず。 
1894年 フランツ・マッチュとともに大学講堂内装の注文を受ける。
1895年 ハンガリー、トティス(Totis)のエスタハ−ジィ(Esterhazy)宮廷劇場ホールの内装に関し、アントワープで大賞を受ける。
1896年 建築家ヨーゼフ・ホフマンと出会う。ウィーン大学大講堂天井画の下絵を提出。 
1897年 芸術家の反乱が始まり、クリムトは「分離派」グループに加わり会長に選ばれる。女友達エミーリエ・フレーゲ Emilie Floegeとアッター湖畔で夏を過ごすようになる。
1898年 第1回「分離派」展のポスターと、「分離派」の機関誌「ヴェル・サクルム(聖なる春) VERSACRUM」が創刊され、編集委員会に参加。3〜6月、第1回「分離派」展開催。11月、オルブリヒ設計の分離派館完成。
1899年 1月、ニコラウス・ドゥンパ邸音楽室の装飾画を制作。 
1900年 3〜5月の第7回「分離派」展に出品され、87人の教授達から抗議を受けた絵画『哲学 Philosophie』がパリ万国博覧会で金メダルを受ける。
1901年 3月の第10回「分離派」展に『医学 Medizin』を出品。再度美術アカデミー教授に推薦されるが、任命されず。帝国議会が文部相に質問状を出す。
1902年 2月の第13回「分離派」展に『金魚 Goldfische(An meine Kritiker)』を出品。4月第14回「分離派」展において、マックス・クリンガーの『ベートーベン像』完成記念の展覧会のために『ベートーベン・フリーズ Beethobenfries』を制作。オーギュスト・ロダンとの出会い。ロダンは「ベートーベン・フリーズ Beethobenfries」を賞賛する。
1903年 ヴェネツィア、ラヴェンナ、フィレンツェへの旅。ラヴェンナでモザイク画に感動する。5月、建築家ヨーゼフ・ホフマンが「ウィーン工房」を設立し、クリムトも参加。「黄金の時代」が始まる。ウィーン大学大講堂のパネルがオーストリア絵画館(Oesterreichische Galerie)に持ち込まれ、クリムトは抗議する。「分離派」館でクリムト回顧展。
1904年 ブリュッセルのストックレー邸の壁画モザイクの下絵デッサンを描く。この邸宅は「ウィーン工房」が設計施工した。 
1905年 エンゲルハルトのグループと意見が対立し、クリムトら18人は「分離派」を去る。内閣がウィーン大学大講堂のパネルを返却。
1906年 5月、ストックレー邸の壁画モザイク制作でブリュッセルを訪問。「オーストリア造形芸術家連盟」結成。1907年 ウィーン大学大講堂の装飾画をミートケ画廊などで展示。若きエゴン・シーレと知り合う。ピカソが『アヴィニョンの女』を描く。
■『接吻 Der Kuss』(1907〜1908年)
1908年 「クンストシャウ(ウィーン総合芸術展) Kunstschau Wien」に絵画16点出品。ローマ近代美術館が『人生の三時期 Die drei Lebensalter』を、オーストリア国立絵画館が『接吻 Der Kuss』を買い取る。
1909年 『ストックレー・フリーズ Der Stoclefries』制作開始。パリへ旅行してトゥルーズ・ロートレックの作品に興味を持つ。フォービズムのことも聞き知る。ゴッホ、ムンク、トーロップ、ゴーギャン、ボナール、マチスなどが総合芸術展に出品。
1910年 ヴェネツィア・ビエンナーレ展に参加(「クリムトの間」が設置される)して成功を収める。
1911年 『生と死 Tod und


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