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『寒山拾得』森鴎外(岩波書店)に関連して、今回は「寒山」をご紹介します。

『中国詩人選集(一集)第5巻「寒山」』(岩波書店)のあとがきにあたる下記吉川幸次郎氏の「跋」文がよくその「寒山」の詩の特色をあらわしていると思います。

"寒山子の詩の歌うところは、絶対自由の境地にいる人間のよろこびである。ところでその詩は、唐詩の歴史の主流にはない。
まずその人が、従来普通の説では、唐の初期の人とされていた。近ごろの見解は、そうでなく、唐の中葉以後の詩とするのに傾くこと、入矢氏の解説に見えるごとくである。
また寒山という名の乞食坊主が、伝説のいうような形で、或いは伝説にもとづいて絵画がえがきつづけて来たような形で、実在したかどうかが、すでに疑問である。そもそもは個人の作ではなく、複数の作者をもつであろうという推測も可能なこと、やはり入矢氏の解説にくわしい。
要するにこの一群の詩の作られた経過は、よくわからない。詩を作った人、あるいは人人を、唐の詩の歴史のどの部分にくりいれてよいか、つまびらかにしにくいのである。
ところでその制作の経過があいまいなことと、これらの詩のもつ特異さとは、あい連なった関係にある。

すなわち、これらの詩のうたうような絶対自由の境地は、ちゃんとした署名をもった、ちゃんとした詩人の詩には、現れにくいものだからである。
ちゃんとした詩人がちゃんとした署名をした詩、それは幾分なりとも詩人の身分を反映する。日常身辺のことに題材を求めやすい中国の詩にあってはことにそうである。
ところで、中国のちゃんとした詩人というのは、かあいそうに、みな役人である。あるいは役人であった人物、ないしは役人になりたくてなりそこねた人物である。要するに何らかの意味で、役人の世界につらなる人物である。杜甫だってそうである。奔放不羈のように見える李白だってそうである。韓愈、白居易はいうまでもない。陶淵明だって、かつて役人であった時期をもたなければ、「帰去来の辞」は作られなかった。
ところが寒山の詩はそうでない。役人の世界とは全く縁のない人物の言葉として提出されている。そのゆえにこそ、何ものにもとらわれない、しかもやせてはいない、充実した、絶対自由の境地が、そこにある。いいかえれば、まったくの裸の人間の言葉が、そこにある。"

(吉川幸次郎)

【「寒山」実在の真偽】

「寒山」は入矢義高氏が巻頭の解説でのべているとおり、

"実のところ、この寒山という人物が果して実在したかどうかは、まったく不明であって、その実在を証明する確かな材料は何ひとつないのである。従来は、唐の初め、7・8世紀ごろの人とされていたが、もちろんそれも確かな史実の裏づけがあるわけではない。現に、その詩のなかには、8世紀以後の事がらや語彙を用いたものが少なくないのであ"り、"その分身である拾得とともに、古くから我が国の人人にも知られ、しかしそれは、一般的にいって、もっぱら画題の人物として、或る固定化された印象の上での親近感だったように思われ"ます。

さらに『求道と悦楽 ― 中国の禅と詩 ―』入矢義高(岩波書店)所収「寒山 その人と詩」のなかで入矢氏は、

"ところが宋以後になると、寒山についてのイメージは、超俗的な奇矯さに更に一種の神秘性が加わり、特に画題となると、そのような点に強いアクセントを置いた異様なデフォルメが施される傾向が一般化する。こういう傾向を生みだした要因の最も大きなものは、『寒山詩集』(古いテキストは拾得と豊干を併せて『三隠詩』と題した)の巻首にある閭丘胤なる者の序である。それによると、彼は実際にこの三人の変り者を知り、その不思議な現行をみずから見聞きしたことになっているが、すでにそれは神話化された記述であり、寒山を文殊の、拾得を普賢の化身と見なしている。ところで、この閭丘胤なる人物がまた問題であって、果して実在した人なのかどうかさえ疑わしいのである。"

と、吉川幸次郎氏と同様、その実在に疑問を持っています。

【「寒山」詩の特色】

『求道と悦楽 ― 中国の禅と詩 ―』入矢義高(岩波書店)所収「寒山その人と詩」のなかで入矢氏は、
"唐宋の三人の詩人(唐末の詩僧:貫休、唐末の詩人:李山甫、唐末の詩僧:斉己)がそれぞれに詩によって呈示した寒山に、詩人および求道者の二面があった。まさにこのことと対応して、寒山の詩は詩人としての作と、求道者ないし宗教者としての作とに大別できる。"とし、

"詩人としての作には格調の高い佳品が多い。しかもそれらの作品の大部分は、魏・晋の詩の風格を色濃く帯びており、直截で単純な修辞法の鮮やかさとともに、奥に秘められたパセティックな情念が、時には露わに、時には隠微に、つねに詩中に揺曳する。"
"そしてまた一方、すでに貫休の詩が述べていたように、彼は一人の道を楽しむ高風の士であり、また斉己の詩が示唆しているように、人の心に救いを与える偈(宗教的アフォリズム)の作者でもある。"
と総括しています。

さらに、日本人古来の解釈、つまり<禅>を導入して理解しようとする傾向に警鐘をならし、
"第一、寒山は禅僧ではない。そもそも彼は、あとでも述べるように、職業的な僧侶であることを嫌ったし、そういう坊主を執拗なまでに罵倒している。彼はあくまで自由人、自然人であることを欲した。"さらに、「寒山の偈」の「偈」とは、狭く「禅偈」の意味に限ってはならない。寒山の分身ともいうべき拾得に、次のような詩がある。"とし、

我詩也是詩 おれの詩だってやはり詩だ
有人喚作偈 ところが偈だという奴がおる
詩偈総一般 詩でも偈でも同じことなのだ
読時須子細 そこをちゃんと読み取らねばいかん

(入矢義高氏 訳注)

を挙げ、

"本来の寒山は、いかなる色が付くことも、いかなる臭みが付くことも嫌ったはずである。"
と結んでいます。

【本文より】

*筆者の勝手で以下の三詩を選んでみました。じっくり「山林幽隠の興」を含み、「時態を譏諷して、能く流俗を警励す」詩を味わっていただければと思います。

■「高高たる峰頂の上」

高高峯頂上 高高たる峰頂(ほうちょう)の上 
四顧極無邊 四顧すれば極まり無辺 
獨座無人知 独座 人の知るなく
孤月照寒泉 孤月 寒泉を照らす
泉中且無月 泉中 且つ月なし
月自在青天 月は自ずから青天に在り
吟此一曲歌 此の一曲の歌を吟ずるも
歌中不是禅 歌中 是れ禅にあらず

高い高い峰のいただきに立ち、四方を見渡してみると、広漠としてどこまでも涯がない。
ここに今、わたしは独り坐っている。そのことを誰もしるものはない。あるものとては、冷ややかな泉に映る月ひとつ。
その泉とて、べつにその中に月があるというのではない。月はもともと青天にかかっているのだ。
この一ふしの歌を、わたしは今うたう。といって、その歌のなかにあるのは禅なのではない。

●高高の句 唐の李こう(韓愈の弟子)が、当時の有名な禅僧薬山禅師(753-828年)に仏法を問うた時、「それが分ろうと思ったら、高高たる峰頂に立ち、深深たる海底を行かねばならぬ」と言われた(景徳伝灯録)。この言葉が恐らく背景にあると思われる。●無辺 はてがない。●泉中のニ句 この二句も、上記の李こうが「道とは何か」と問うたのに対して薬山が答えた言葉「雲は天に在り、水は瓶に在り」のヴァリエーションであろう。「且」は訓読しにくいが、語調を少しゆるめる言葉である。●此一曲歌 この一ふしの歌とは、この一首の詩を指すと見てよい。 

■「古しえより諸もろの哲人も」

自古諸哲人 古(いに)しえより諸もろの哲人も 
不見有長存 長(とこ)しえに存するもの有るを見ず
生而還復死 生まれて還って復(ま)た死し
尽變作灰塵 尽(ことご)とく変じて灰塵と作(な)る
積骨如毘富 積める骨は毘富(びふ)の如く
別涙成海津 別れの涙は海津(かいしん)を成す
唯有空名在 唯だ空しき名の有るのみ
豈免生死輪 豈(あ)に生死の輪(りん)を免かれんや

むかしから聖人にもせよ賢人にもせよ、いつまでも生きながらえたというためしはない。
この世に生まれれば、やはり死んでいくのであって、誰もみな地下の土と化してしまうのだ。
こうして人間は永劫の間に生と死をくりかえしつつ、その残す骨は毘富の山とも積もり、はらからとの死別に流す涙は大海にもなるほどである。
哲人とても、ただ空しく名を後世にのこすのみであって、生死の輪廻を免れることはできなかったのだ。

●自古の二句 陶淵明の「形影神」の詩に、「三皇は大聖人なりしも、今は復た何処(いずく)にか在る」という句がある。●積骨の二句 「涅槃経」巻二十に、「一人一人の衆生が一劫の間に積みし所の身骨(一劫の間に生まれ死に、また生まれ死にして残した屍の骨)は、王舎城の毘富羅山の如く、飲みし所の乳汁(母からもらったお乳)は四海の水の如く、身より出させし所の血は四海の水の如く、父母兄弟、妻子眷属が命終りしときに哭泣して出させし所の目の涙は四大海よりも多し」とある。海津は海水のこと。

■「吾が心は秋の月に似たり」

吾心似秋月 吾が心は秋の月に似たり
碧潭清皎潔 碧潭(へきたん) 清くして皎潔(こうけつ)
無物堪比倫 物の比倫(ひりん)するに堪(た)うる無し 
教我如何説 我れをして如何(いか)が説かしめん
わが心は秋の月が、澄みきった碧潭に皎皎と冴えているのに似ている。この心を比べるに足るものはほかにない。いったいどう説明したらよかろうか。

●比倫 くらべる。並べて比較する。
●以上、入矢義高氏訳注。

画像は、『中国詩人選集 一集』(全18巻)(岩波書店)より、第5巻『寒山』入矢義高 注(平成2年9月25日発行)です。

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「世紀末ウィーン」.....

このことばを聴いただけでも、何かしら得体の知れない"やるせない倦怠"と"頽廃(デカダンス)"を感じてしまうのは私だけでしょうか?
"世紀末パリ"、"世紀末ロンドン"、"世紀末ニューヨーク"........なんだかもう一つしっくりきませんよね。

やはり世紀末は、ウィーンであり、プラハであり、チューリヒであり、ベルリンであり、ミュンヘンでなくてはいけません。

「世紀末ウィーン」という伽藍を、幻想的な"ロマンティシズム"と"エロティシズム"で支えた2大作家。アルトゥール・シュニッツラー Arthur Schnitzlerとフーゴー・フォン・ホフマンスタール Hugo von Hofmannsthal.....。

グスタフ・クリムトもエゴン・シーレもグスタフ・マーラーもリヒャルト・シュトラウスもこの2人の多大な影響を受けております。

学問・芸術が絢爛たる花々を咲かせた「精神の世界都市」世紀末ウィーン.....

いずれも一筋縄では行かぬ天才たちが輩出し才を競いあった都市。
1897年、グスタフ・クリムトを中心として「ウィーン分離派」が誕生しました。「分離」とは十九世紀の歴史絵画からの分離であり、それは新しい時代への窓をひらいたといえるでしょう。絢爛たるグスタフ・クリムトの作品が生まれ、若いエゴン・シーレやココシュカが息せき切って活動を開始します。コロマン・モ−ザ−やヨーゼフ・ホフマンによる「ウィーン工房」も大胆な試みをはじめます。
ウィーン「分離派」の機関誌「ヴェル・サクルム(聖なる春) VERSACRUM」の創刊号には、高らかにこう記されていました。

"われわれはもはや<大芸術>と<小芸術>の相違を知らない。富者のための芸術と貧者のための芸術との相違を知らない。芸術は公共のための富である。"

美術ばかりではありません。新しい音楽がマーラーやシェーンベルクやアルバン・ベルクによって、新しい建築がオット−・ヴァ−グナ−やアドルフ・ロースによって、精神分析がフロイトやアルフレート・ア−ドラーによって、言語哲学がヴィトゲンシュタインによって、美術史のテーゼがリーグラーによってひらかれました。「ウィーン学団」の名のもとに哲学にいそしんだ者たちがあとにつづきます。そして、文学においては前述のようにアルトゥール・シュニッツラーやフーゴー・フォン・ホフマンスタールやカール・クラウス、ヨーゼフ・ロート、ツヴァイク、ム−ジル.....が登場します。

それらの絵画をみるたびに、大好きなアルトゥール・シュニッツラー Arthur Schnitzlerの『夢小説 TRAUMNOVELLE』とその実写版(スタンリー・キューブリック監督の遺作)『EYES WIDE SHUT』に思いを馳せてしまいます.....

さて、ここで『接吻 Der Kuss』(1907〜1908年)をご紹介いたしましょう。

■『接吻 Der Kuss』(1907〜1908年)

【解題】

『接吻 Der Kuss』は、クリムトの「黄金の様式」をその絶頂まで導いています。

主題のエロティシズム、金箔や銀箔、また、瞠目すべき装飾を使用した点で、クリムトの「黄金の時代」のクライマックスにしてこの時期の特質を端的に表わしており、「分離派」の標章ともいわれる作品であり、「世紀末ウィーン」の象徴でもあります。

クンストシャウ Kunstschau Wien(「ウィーン総合芸術展」1908年)でもそれ以後でもクリムトの絵画中で最も評判の高いこの作品は、写実の場を犠牲にして象徴の場を拡げることで、官能的効果の強度を増幅させています。

『喜び、美しき神々の火花よ』「ベートーベン・フリーズ Beethobenfries」(1902年)のパネルでは、さらにそれ以上に『ダナエ Danae』(1907〜1908年)では、エロティックな効果は塑像的なヌードの肉体で伝えられました。『接吻 Der Kuss』では肌はおおわれていますが、しかしその官能的効果は愛撫する身振りの線で高められています。着衣においても、恋人たちが跪いている花一杯の土台におけるように、装飾的要素がシンボルとしても役立っています。

男女双方の掛け布は、その装飾的デザインによってくっきりと区別されています。
『ダナエ Danae』ではゼウスの男根(penis)のシンボルだった単一の長方形が、『接吻 Der Kuss』では男性のマントに繁殖し、他方女性のドレスは、卵子でも花でもあるシンボルで満ち満ちています。これらのものは伝統的シンボルではなく、クリムトの無意識の貯蔵庫から引き出された創案であります。
はっきりと限定された二つの性的シンボルの場は、共通の下地となった"黄金の揺れる被い"によって、対立物の統一にもたらされています。

動きと文学的暗示の芸術とから静的抽象の芸術へ進んで、クリムトは『接吻 Der Kuss』では、いまでは和合的ながらも力強いエロティックな感情をもう一度描くために、象徴的コラージュの間接的表現法を修正して用いたのでしょう。

本作はエロティシズムと極めて装飾的な要素を前面に訴求していた「黄金の時代」のクリムトが新しい展開に至った結果といえるでしょう。これまで、何にもまして両性の闘争をテーマとしてきたクリムトが、いまやひとつの統合を描く境地にいたり、「ベートーベン・フリーズ Beethobenfries」や「ストックレー・フリーズ Der Stoclefries」と共通の要素を包摂するこの作品は、ほかの作品では男性像に君臨している「ファム・ファタール famme fatale」がここでは従属させられています.....彼女は男に身を捧げ、身を委ねています。紛れもないエロティシズムは燦然と輝く衣裳を通じてあらわになっていますが、その行為自体は衣裳の下に隠されています。

"接吻"というテーマが登場したのは1895年の『愛』(「ウィーン大学大講堂天井画」)においてですが、『接吻 Der Kuss』に直接影響を与えたのは『喜び、美しき神々の火花よ』「ベートーベン・フリーズ Beethobenfries」(1902年)や『成就 Die Erfuellung』「ストックレー・フリーズ Der Stoclefries」(1905〜1909年)でしょう。

『接吻 Der Kuss』は「ベートーベン・フリーズ Beethobenfries」の最後の部分『喜び、美しき神々の火花よ』に登場する男女を一層装飾性豊かに描いたものであり、また「ストックレー・フリーズ Der Stoclefries」の『成就 Die Erfuellung』をあまり変えずに描いたものです。しかし、その2点と違うのは、前にも書きましたが『接吻 Der Kuss』の男女は跪いていることです。これは愛情に満ちた瞬間であり、この女性がエクスタシーの状態にあることは、彼女の表情と"掻き抱くような手"を見れば明らかであります。

『接吻 Der Kuss』では、直線と曲線という対照的な2つのタイプの装飾は区別されながらも並置され、それは絵画の中心を占める黄金のフォルム(男根のようにさえ見える)に包み込まれています。抱き合う男女はこれにすっぽり覆われ、2人の愛の成就ばかりか、自己陶酔も示唆されています。この黄金のフォルムは『エミーリエ・フレーゲ Emilie Floege』(1902年)や『フリーツァ・リトラー Fritza Riedler』(1906年)の肖像画で、彼女らの顔を取り巻く光輪(ニンプス)のようなものが拡大したものと考えられます。

一体となった2人が溺れる官能性は、星を連想させる背景や2人が跪く花園によって一層強調されています。しかし、この花園はまた、途中でばっさりと切れて深淵の存在が暗示され、そのために、2人の幸福の脆さも示唆されています。つまり、この絵の雰囲気と意味はまず具象的な部分で示され、さらに、装飾的、抽象的手法によって強化されているのであります。

この装飾的、抽象的手法の中でとりわけ目立つのが、金箔と銀箔の使用です。
黄金は富を象徴するだけではなく魔力をも連想させます。高価な材料を使った華やかな装飾のために、本作の官能性は高まり、絵画の帯びる性的な含みも増幅しています。"愛の行為"はほとんど宗教的秘儀のごとく表され、絵画の方は肉体的な愛を崇拝する神殿を飾る祭壇画のようでもあります。
最後に、『ひまわり Die Sonnenblume』(1906〜1907年)との関連について。
クリムトと同時代=世紀末ウィーンの詩人のペータ−・アルテンベルクは、"クリムトは風景を女性であるかのように描く"と書いています。クリムトの「ひまわり」の"肖像"は、たしかに彼の描いた何点かの肖像画を想起させます。

最も顕著なのは『接吻 Der Kuss』であります。おそらくクリムトは、ヴァン・ゴッホの同じ主題による作品に動かされて、「ひまわり」を描いたのでしょう。ゴッホの作品は1903年の「分離派展」に出品され、1906年にはウィーンのミートケ画廊でも展示されました。
タブーの題材である『接吻 Der Kuss』は検閲を免れ、ピューリタン的ウィーン市民の偽善をなじったクリムトは、大衆の熱狂的賞賛を享受します。
画のモデルはエミ−リエ・フレーゲを抱擁するクリムト自身であるともいわれています。
国王フランツ・ヨーゼフの即位60周年を記念する大展覧会の開催に寄せて、国から依頼された講演のなかで彼は次のように語っています。

"人間の生のいかなる分野にも、あまりにも無意味で小さくて、芸術的努力を容れる余地がないなどというものはありません.....どんなにとるに足らないものでも、すっかり完成すれば、この世の美を高めるのに役立ちます。文化の進歩というものは、絶えず前進しつつ芸術的意図を生活のあらゆる側面にまで行きわたらせること、唯一このことに根ざしているのです。"と.....。

●グスタフ・クリムト Gustav Klimtの"ファム・ファタール famme fatale"

クリムトが描いた数多くの女性像のなかで、肖像画とならんで重要なのが愛と死の問題を寓意的に取り上げた一群の作品です。
なかでも1901年の「ユディト?」は、象徴主義の画家たちが頻繁に採り上げた「宿命の女」(ファム・ファタール)=男を惑わせ破滅に導く悪しき女、の典型的作例として知られています。ユディトは聖書に登場する女傑で、敵将ホロフェルネスを討ち取ってユダヤ人を救った英雄的人物ですが、クリムトが描くユディトのなんとなまめかしいことでしょう。豪奢な黄金の首輪や衣装、男の生首をつかむ指、頬を紅潮させ薄目を開いた陶然たる表情は、ユディットというよりむしろ、同じ聖書の登場人物である淫蕩なサロメに似つかわしいといえます。世紀末には多くの芸術家がサロメのイメージに挑戦しましたが、クリムトこそがもっとも印象的なファム・ファタール像を打ち立てたといえます。

■参考文献

●『GUSTAV KLIMT』ジル・ネレー Gilles Neret(タッシェン社)
●『クリムト』フランク・ウィットフォード Frank Whitford / 関根秀一/吉岡昌紀/片桐頼継/越智博美訳(洋販)
●『世紀末ウィーン』カール・E・ショースキー / 安井琢磨訳(岩波書店)
●『絵画への視線』坂崎乙郎(白水社)
●『世紀末と楽園幻想』池内紀(白水社)
●『ウィーンの世紀末』池内紀(白水社)
●『世紀末の窓』池内紀(白水社)
●『世紀末の肖像 〜池内紀の仕事場 第1巻〜』池内紀(「池内紀の仕事場」全8巻より)(みすず書房)

"自然より出たからには、わが身をば
いかなる自然の具象にも形を似させることはすまい。
ただ願う

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■ウィーン分離派とグスタフ・クリムト Gustav Klimt

クリムトが活躍した世紀転換期のウィーンは、文学、音楽、芸術などあらゆる文化的領域において、「近代」の幕開けを告げる激動の様相を示していました。特に美術では、今日「分離派」として知られる「オーストリア造形芸術家連盟」が旧来の「ウィーン造形芸術家組合」に対抗するかたちで1897年に設立されました。その初代会長に就任したのが当時35歳のクリムトです。彼はすでに1880年代から90年代にかけてウィーンの美術界で活動の足場を固めていきましたが、今日我々がクリムトの名から想起する独自の絵画世界は、「分離派」時代に花開いたものです。

■グスタフ・クリムト Gustav Klimtの作風

黄金で装飾された、官能的な世界.....
妖艶で、淫猥、背徳の香りのする女性たち.....
坂崎乙郎氏が『絵画への視線』のなかで指摘するように"画面の洗練度も、感覚の繊細さも病的であるほどゆきとどいている"構成。

女性の裸体、妊婦、セックスなど、赤裸々で官能的なテーマを描くクリムトの作品は、甘美で妖艶なエロティシズムと同時に、常に死(タナトス)の香りが感じられます(若い娘の屍体を描いた作品もあります)。しかしそれは、よく言われるような官能と虚無と頽廃の妖しい匂いに包まれた病的な"華"ではありません。そうした匂いも影に揺曳する、ある不思議な輝きこそクリムトの本質といえるでしょう。
また、「ファム・ファタール famme fatale」というのも多用されたテーマであります。『接吻 Der Kuss』に代表される、いわゆる「黄金の時代」の作品には金箔が多用され、絢爛な雰囲気を醸し出しています。

クリムトはかなりの数の風景画も残しています。『けしの野』(1907年)、『アッタ−湖畔のウンターアッハ』(1915年)等殊にアッター湖畔(ザルツカンマ−グート)の風景を好んで描いています。正四角形の画枠(カンバス)を愛用し、それは平面的、装飾的でありながら静穏で、絵画というよりは織物か敷物のようであり、刺繍や編物を想わせる一定の長さの筆致がぎっしり詰め込まれているという印象がつよいものです。同時にどことなく不安感をもたらす構図であります。
クリムト自身のことばによると

"この画枠を用いると、素材は平和な雰囲気のなかに沈潜する。かくして正方形の絵画は宇宙の一部となる。"

神秘的な力を持つ大きな全体を、部分的に表現することに感心を抱いたクリムトの意向にぴったりでした。

■代表作

『パラス・アテネ Pallas Athene』(1898年)
『ヌーダヴェリタス Nuda Veritas』(1899年)
『医学 Medizin』、『哲学 Philosophie』、『法学 Jurisprudenz』「ウィーン大学講堂の天井パネル画」(1897〜1907年)
『ユディト? Judith ?』(1901年)
『ユディト ?(サロメ) Judith ?(Salome)』(1909年)
『ベートーベン・フリーズ Beethobenfries』(1902年)
『ストックレー・フリーズ Der Stoclefries』(1905〜1909年)
『ダナエ Danae』(1907〜1908年)
『接吻 Der Kuss』(1907〜1908年)

■同時代の作家たちとその女性像

世紀末ウィーンにおけるクリムトの影響を考えるとき、同時代に当地を中心に活躍した芸術家たちを見過ごすことはできません。
クリムトの前世代に当たる●ハンス・マカルト(1840〜84)は、豊潤な色彩と華麗な描写による豪奢な歴史画や肖像画を制作し、当時のウィーンにその名声をとどろかせていました。壮麗な様式をマカルトから受け継いだクリムトは、エロスとタナトスといった人間の根源性を平面的・装飾的な絵画空間の中にあらわすことを生涯にわたり追求しましたが、彼に続く芸術家たちは、装飾という概念よりいっそう直接的な方法で、同じ根源的な主題に挑みました。
●エゴン・シーレ(1890〜1918)は、クリムトの影響を誰よりも強く受けましたが、その繊細で神経質な描線と陰影に富む沈んだ色彩は、いっそう現代的な精神と結びついています。「抱擁(男と女)」に描かれた白布の上で孤独を埋め合うように抱擁する男女には、愛の持つ甘美な感傷性はほとんど見られず、むしろ強い不安感を見る者に募らせます。

【グスタフ・クリムト Gustav Klimt(1862年7月14日〜1918年2月6日)略歴】

1862年ウィーン郊外バウムガルテンに生まれ、弟エルンストと共にウィーン工芸美術学校に学んでいます。卒業後、すぐにプロの芸術家としての活動をはじめ、弟エルンスト、フランツ・マッチェと共に「芸術家カンパニー」を結成し、主に劇場装飾の仕事を請け負っていました。

『ユディト ?』1901年、すでに装飾家として名声を得ていたクリムトはウィーン大学大講堂の天井画の制作を依頼されます。「学部の絵」と名づけられたこの天井画は『哲学』、『医学』、『法学』の3部から成立しています。人間の知性の勝利を高らかに歌いあげるという依頼者が意図したテーマに反し、これら3枚の絵は理性の優越性を否定する寓意に満ちたもので、その是非をめぐり大論争を引き起こしました。

この事件をきっかけに、1897年「ウィーン分離派」を結成することになります。分離派は古典的、伝統的な美術からの分離を標榜する若手芸術家のグループであり、クリムトは初代会長を務めました。分離派からは後にエゴン・シーレ Egon Leo Adolf Schiele(1890〜1918年)、オスカー・ココシュカ Oskar Kokoschka(1886年〜1980年)などを輩出しています。クリムトは内部の対立から1905年、分離派を脱退しています。

●年譜

1862年 7月14日ウィーン近郊のバウムガルテンで7人兄弟の第2子として生まれる。父は北ボヘミア出身の貴金属彫金師エルンスト・クリムト、母は盲目で音楽好きのアンネ・フィンスター。
1876年 10月、ウィーン工芸美術学校(Kunstgewerbeschule)に入学。フェルディナンド・ラウフベルガーおよびユリウス・ヴィクトル・ベルガーの下で学ぶ。
1877年 弟エルンストも同校に入学。2人は写真を基にした肖像画を描いて、1枚6グルデンで売りさばいていた。
1879年 弟のエルンストや友人のフランツ・マッチュと共に「芸術家カンパニー」を結成し、美術史館(Kunsthistorisches Museum)の中庭の装飾等を担当する。
1880年 ラウフベルガーに紹介されたウィーンの建築設計会社の仕事を始め、主に宮殿の天井画などの注文を受け始める。ウィーンのストゥラーニ宮殿の寓意画4点、カールスバートのクアハウスの天井画等。
1881年 フェルディナンド・ラウフベルガーが亡くなり、ユリウス・ヴィクトル・ベルガーに師事。
1882年 ライヒェンベルクの市立劇場の装飾に従事。 
1883年 工芸美術学校を卒業し、フランツ・マッチュと共同のアトリエを構える。
1885年 皇妃エリザベートのお気に入りの別荘、ヴィラ・ヘルメスの内装をハンス・マカルトの構想に基づいて手がける。
1886年 ブルク劇場の仕事で、弟エルンスト、フランツ・マッチュとも異なるクリムト独自の様式を確立、アカデミズムと一線を画する。それぞれ独立して仕事をする。カールスバートの市立劇場の天井画を制作。
1888年 芸術的功績(新ブルク劇場の装飾画制作)により、皇帝フランツ・ヨーゼフより黄金功労十字章を授けられる。
1890年 《旧ブルク劇場の観客席》という作品に関し、皇帝より賞金(400グルデン)を受く。ウィーン美術史館の階段ホールの内装。
1891年 ウィーン美術家連盟に加入。
1892年 アトリエをヨゼーフシュタット地区に移転。6月に父が、12月に弟エルンスト、死去。
1893年 文化教育省からウィーン大学大講堂の装飾計画への参加を要請される。国家勲章を受章。美術アカデミー教授に推薦されるが、文化相に拒否され任命されず。 
1894年 フランツ・マッチュとともに大学講堂内装の注文を受ける。
1895年 ハンガリー、トティス(Totis)のエスタハ−ジィ(Esterhazy)宮廷劇場ホールの内装に関し、アントワープで大賞を受ける。
1896年 建築家ヨーゼフ・ホフマンと出会う。ウィーン大学大講堂天井画の下絵を提出。 
1897年 芸術家の反乱が始まり、クリムトは「分離派」グループに加わり会長に選ばれる。女友達エミーリエ・フレーゲ Emilie Floegeとアッター湖畔で夏を過ごすようになる。
1898年 第1回「分離派」展のポスターと、「分離派」の機関誌「ヴェル・サクルム(聖なる春) VERSACRUM」が創刊され、編集委員会に参加。3〜6月、第1回「分離派」展開催。11月、オルブリヒ設計の分離派館完成。
1899年 1月、ニコラウス・ドゥンパ邸音楽室の装飾画を制作。 
1900年 3〜5月の第7回「分離派」展に出品され、87人の教授達から抗議を受けた絵画『哲学 Philosophie』がパリ万国博覧会で金メダルを受ける。
1901年 3月の第10回「分離派」展に『医学 Medizin』を出品。再度美術アカデミー教授に推薦されるが、任命されず。帝国議会が文部相に質問状を出す。
1902年 2月の第13回「分離派」展に『金魚 Goldfische(An meine Kritiker)』を出品。4月第14回「分離派」展において、マックス・クリンガーの『ベートーベン像』完成記念の展覧会のために『ベートーベン・フリーズ Beethobenfries』を制作。オーギュスト・ロダンとの出会い。ロダンは「ベートーベン・フリーズ Beethobenfries」を賞賛する。
1903年 ヴェネツィア、ラヴェンナ、フィレンツェへの旅。ラヴェンナでモザイク画に感動する。5月、建築家ヨーゼフ・ホフマンが「ウィーン工房」を設立し、クリムトも参加。「黄金の時代」が始まる。ウィーン大学大講堂のパネルがオーストリア絵画館(Oesterreichische Galerie)に持ち込まれ、クリムトは抗議する。「分離派」館でクリムト回顧展。
1904年 ブリュッセルのストックレー邸の壁画モザイクの下絵デッサンを描く。この邸宅は「ウィーン工房」が設計施工した。 
1905年 エンゲルハルトのグループと意見が対立し、クリムトら18人は「分離派」を去る。内閣がウィーン大学大講堂のパネルを返却。
1906年 5月、ストックレー邸の壁画モザイク制作でブリュッセルを訪問。「オーストリア造形芸術家連盟」結成。1907年 ウィーン大学大講堂の装飾画をミートケ画廊などで展示。若きエゴン・シーレと知り合う。ピカソが『アヴィニョンの女』を描く。
■『接吻 Der Kuss』(1907〜1908年)
1908年 「クンストシャウ(ウィーン総合芸術展) Kunstschau Wien」に絵画16点出品。ローマ近代美術館が『人生の三時期 Die drei Lebensalter』を、オーストリア国立絵画館が『接吻 Der Kuss』を買い取る。
1909年 『ストックレー・フリーズ Der Stoclefries』制作開始。パリへ旅行してトゥルーズ・ロートレックの作品に興味を持つ。フォービズムのことも聞き知る。ゴッホ、ムンク、トーロップ、ゴーギャン、ボナール、マチスなどが総合芸術展に出品。
1910年 ヴェネツィア・ビエンナーレ展に参加(「クリムトの間」が設置される)して成功を収める。
1911年 『生と死 Tod und

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今回も前回のART BREAK Vol.0025:「生のフリーズ vol.03 『思春期』エドヴァルト・ムンク」に続きまして、「『接吻』エドヴァルト・ムンク」をご紹介したいと思います。

"その後三年間に、私はフリ−ズのためのいくつかのスケッチや作品を集めた...そのフリ−ズというのは、ベルリンで1983年にはじめて出陳されたものだ。『叫び』、『接吻』、『吸血鬼』、『愛する女』などがそれであった。

あれは写実主義と印象主義の時代であった...その頃、私は病的に疲れた気分か愉しい気分でいるとき、よくいつも描きたいと思っていた風景をみつけたものだ...私はイーゼルをとってき...それを立て掛け、そして自然のままの絵を描いたものだ。...
それはいい絵になった...しかし私が描こうとしたものにはならなかった...病的な気分か愉しい気分のなかでみたようには、どうしても描くことができなかった。...
このようなことがたびたび起った。そこで私は同様の場合、前に描いたのを削り取ることを始めた...私は記憶のなかで最初の形象...最初の印象を探し求めた...そしてそれを取り戻そうと努めた。"
(エドヴァルト・ムンク)(オスロ、1918年)(注1)

■『接吻』(1892-97年)

「愛」のチクルス(シリーズ)のはじめの『夏の夜の夢』(1893年)は、後に『声』として知られる作品です。つぎに愛の最初の経験としての『接吻』が来ます。
ここでは両性の合体が示されます。街路を見下す、水槽のようにうす暗い部屋。そこではパリで描かれた前作ほど窓に重きが置かれていません。引かれたカーテンの陰に身を寄せた二人は、黒っぽい服を着けたまま抱き合っています。抗しがたい流れの波頭に漂うもののように、二人は愛の抱擁のなかでひとつの輪郭にからみあい、もつれあって一体になってしまっています。女の後ろの暗がりに壁紙にまぎらすようにして、異形なものの面相がいくつか描きこまれています。

ウンテル・デン・リンデンの個展でこれを見たプシビシェフスキは『E・ムンクの作品』のなかで、『接吻』を下記のように評しています。

"ひとは二つの人間の姿を見る、その顔はひとつに融けあっている。そこには一人一人を識別できる輪郭はなにもない。ひとが見るのは融解点だけであり、それはひとつの大きな耳のように見え、それがまた血の恍惚のなかでつんぼになるのだ。それは溶けた肉を捏ねあわせた塊りのように見え、そこにはなにか胸のわるくなるようなものがある。たしかにこの象徴化の方式は異常である。しかし接吻という情熱のすべて、痛みにみちた情欲のおそるべき力、個人的意識の消失、二つのむきだしの個性のあの融合...すべてこれらのことがきわめて率直に描出されているのだから、われわれはその胸のわるくなるような異常な様相をも見逃さなければならないということだ。"

(『E・ムンクの作品』)(注2)

1896年初夏、パリの新しいビングのギャラリー<サロン・ド・ラール・ヌーヴォー>(Salon de l'Art Nouveau)でムンクの展覧会が開かれたとき、ストリンドベルイはバルザックの一句を題辞としたムンク論を、各種のモティーフについて終始一貫した主観的な評釈を書き、それは象徴的な自由散文詩のかたちで『ラ・ルヴェー・ブランシュ誌』に発表されました。

"接吻、融合する二つの存在、
その小さい方は、鯉のかたちをしており、
大きい方をいまにも飲み込まんとしている。
害虫のように、細菌のように、吸血鬼のように、
そして女たちがするように、
さもなくば、男は幻想を与え、生み、
女がそれに報いる。
男は頼む、お願いだから、
魂と、血と、自由と、幸せを与えてください。
何と引き替えに?
僕の魂と、血と、自由と、平和と、
幸せを与える楽しみ、
それと引き替えに...。"

(ストリンドベルイ)
(『ラ・ルヴェー・ブランシュ誌』1896年、525-526頁)(注3)

『接吻』のモティーフをムンクは、いろいろな手法のヴァリエイションで何度も繰返していますが、同年の油彩画のほか、1895年の銅版画があり、1897-1902年には画面の簡略化がさらに進められて、版木の木目をデコラティブなバックにした有名な木版作品にもなっています。

*注1:『みずえ 特集:ムンク 孤独の翳の傷痕』(NO.788,1970)(美術出版社)「生のフリ−ズ」鈴木正明訳(P25〜45)に拠る。
*注2:『ムンク 世紀末までの青春史ドキュメント』鈴木正明著(美術出版社)に拠る。
*注3:『ムンク画集 油彩、下絵、習作』アルネ・エッグム著/西野嘉章訳(リブロポート)に拠る。

●以上、作品解題及び翻訳は、『ムンク 世紀末までの青春史ドキュメント』鈴木正明著(美術出版社)(昭和53年1月31日発行)、『みずえ 特集:ムンク 孤独の翳の傷痕』(NO.788,1970)(美術出版社)「生のフリ−ズ」鈴木正明訳(P25〜45)に拠っています。

画像は、『ムンク画集 油彩、下絵、習作』アルネ・エッグム著/西野嘉章訳(リブロポート)(平成3年12月6日発行)より。

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今回も前回のART BREAK Vol.0024:「生のフリーズ vol.02 『カ−ル・ヨハンの夕暮』エドヴァルト・ムンク」に続きまして、「『思春期』エドヴァルト・ムンク」をご紹介したいと思います。

■『思春期』(1893年)

セックスと不安のモティ−フを扱った最初の作品『思春期』、最初は『夜』と題されていました。夜一人、性の目覚めの不安に怯えながら、髪をといた裸の少女がベッドの端で身をすくめるように、細長い両腕を膝の上で組合わせ、大きく目を見開いてこっちを向いており、彼女の翳がベッドのうしろの壁に気味悪くその影法師をひろげています。

がらんとした寝室の、画面には見えない左下方に、蝋燭の光源がフットライトのように置かれています。彼女のとりつかれたような表情とポーズは、成熟しきっていない裸を隠そうとするしぐさとともに、自分の存在そのものの痛々しさにおびえているようにもみえます。
思春期の秘められた生命とも、セックスの暗い力ともいうべきものが、それに対する少女の怖れと重なって、この人魂のような青紫色の影法師のなかに凝集して出ています。そしてまたこの奇態な謎めいたものの投射によって、感受性の強い年頃の少女の心理的反応が的確にとらえられています。こういう心理状況の投影としての"影"の使用を、ムンクは繰返し試みていますが、これがその最初の作例といえます。

キルケゴ−ル流にいえば、夢見る精神において、可能性としての無が、すでに無垢が失われたかのような不安を伴う無垢の高次の形式として、羞恥の不安の表現としてそこにあらわされているといえるでしょう。(注1)

ムンクがベルリン時代に、酒場「黒仔豚」でつきあったフィンランドの作家アドルフ・パウルに次のような記録があります。

"ある日のこと私は彼を訪ねていった。彼はフリードリヒ街とミッテル街の角の三階に、家具つきの室を借りて住んでいた。ちょうど制作中であった。ベッドの端に裸の少女が坐っていた。彼女は別に聖女のようにもみえなかったが、それにしてもあどけない清楚で内気な感情の持主のように思えた。...ムンクが彼女を描く気になったのも、そのためであった。...そして春の陽のまばゆい光を浴びて、自らの影が不吉に脅かすように後に立っている彼女の坐像を、彼は能うかぎりの熱心さで描き、その画面に...彼は「思春期」とよんだ...なにか不安なもの、一切を捉えるものを深く迫真的に創り出した。"
(アドルフ・パウル)(注1)

*注1:『ムンク 世紀末までの青春史ドキュメント』鈴木正明著(美術出版社)に拠る。

●以上、作品解題及び翻訳は、『ムンク 世紀末までの青春史ドキュメント』鈴木正明著(美術出版社)(昭和53年1月31日発行)、『みずえ 特集:ムンク 孤独の翳の傷痕』(NO.788,1970)(美術出版社)「生のフリ−ズ」鈴木正明訳(P25〜45)に拠っています。

画像は、『ムンク画集 油彩、下絵、習作』アルネ・エッグム著/西野嘉章訳(リブロポート)(平成3年12月6日発行)より。

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