◆デカダンスの彼方へ.....◆

"デカダンス"「映画」「文学」「美術」を語りましょう♪

文学

[ リスト | 詳細 ]

HIDETO.K的「文学」書評、作家・作品紹介。
記事検索
検索

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]

イメージ 1

イメージ 1

「檄」

われわれ楯の会は、自衛隊によつて育てられ、いわば自衛隊はわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は四年、学生は三年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
 
われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずにして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。
政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力慾、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を冒涜してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのをみた。もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質な欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
 
四年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。日本の軍隊の建軍の本義とは「天皇を中心とする日本の歴史、文化、伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲がつた大本を正すといふ使命のため、われわれは小数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
 
しかるに昨昭和四十四年十月二十一日に何が起こつたか。総理訪米前の大詰といふべきこのデモは圧倒的な警察力の下に不発に終わつた。その状況を新宿で見て、私は「これで憲法は変わらない」と痛恨した。その日に何が起こつたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢えて「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収拾しうる自信を得たのである。治安出動は不用になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自身を得、国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしゃぶらせつづけ名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて実をとる政治家にとつてはそれでよかろう。しかし自衛隊にとつては致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごまかしがはじまつた。
 
銘記せよ!実はこの昭和四十五年(注・四十四年の誤りか?)十月二十一日といふ日は、自衛隊にとつて悲劇の日だつた。創立以来二十年に亘つて、憲法改正を待ちこがれてきた自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議會主義政黨を主張する自民党と共産党が非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、その日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。
われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残つてゐるならばどうしてこの事態を黙視しえよう。自らを否定するものを守るとは、なんたる論理的矛盾であろう。男であれば男の矜りがどうしてこれを容認しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。
われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本から来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿であるといふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。

この上、政治家のうれしがらせにのり、より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停条約はあたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人自衛隊からは出なかつた。沖縄返還とは何か?本土の防衛責任とは何か?アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年のうちに自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終わるであらう。
 
われわれは四年待つた。最後の一年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒涜する者を待つわけには行かぬ。しかしあと三十分。最後の三十分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。
 
日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまりこの挙に出たのである。

昭和四十五年十一月二十五日
楯の会隊長 三島由紀夫

画像は、『STUDIO VOICE Vol.182 特集★再考 三島由紀夫の檄』(INFAS)(平成3年2月1日発行)です。

「表1」モデル:三島由紀夫氏、カメラ:篠山紀信氏。
「檄」文は本誌、P11〜13に掲載。

イメージ 1

イメージ 1

『写真集 三島由紀夫 '25〜'70』(新潮文庫)「表4」の下記「跋」文に表記のとおり、

"「私はそもそも、天に属するのか?」− 仮面と情熱、創作と行動、死と美の臨界をひたむきに駆けぬけた、文字通り「不世出」の文学者、三島由起夫。彼はまた、つねに世間の注目を浴びたその作家生活と活動を通じて、少なからぬ写真家たちの被写体でありつづけた。華麗にして不可解なるまま「謎」として残された三島の生涯。劇的なほどに真摯な45年を、写真の数々で鮮烈に再検証する。"

三島ファンには必携の写真集です。

構成は、編年体方式で、随所に「三島由紀夫年譜」、「自筆原稿写し」、「作品の抜粋(名文句)」が鏤められています。

"「文武両道」とは、散る花と散らぬ花とを兼ねることであり、人間性の最も相反する二つの欲求、およびその欲求の実現の二つの夢を、一身に兼ねることであつた。"

"想像力も剣も、死への親近が養ふ技術である点では同じだったからである。しかも、この二つのものは、共に鋭くなればなるほど、自分を滅ぼす方向へ向ふやうな技術なのであつた。"
『太陽と鉄』(三島由紀夫)

編集は、三島由紀夫夫人、平岡遥子氏と『新潮日本文学アルバム 三島由紀夫』を担当された藤田三男氏の手になっております。

現行本では、『写真集 三島由紀夫 '25〜'70』というタイトルにて新潮文庫(平成12年12月1日発行)があります。

画像は、『グラフィカ 三島由紀夫』(新潮社)(初版本:平成2年9月10日発行)です。

イメージ 1

イメージ 1

『澁澤龍彦全集』(全24巻)(河出書房新社)の第13巻(平成6年6月15日発行)の奥付の解題にあるように、
"本作は昭和46年〜49年に発表された多くのエッセーのなかから、単行本未収録のもの26篇をあつめて作られた書物で、「あとがき」に見るとおり、<文字通りの雜文集>の観"がなくもないです。"『澁澤龍彦全集』第12巻所収の『人形愛序説』などとも近い<まことにバラエティーに富んだ(同前)>内容のもので、同時期の『胡桃の中の世界』のような一貫した方法意識にもとづく著作とは異なり、当時の澁澤龍彦氏のいだいていた多様なスタイルのもとに語りなされているエッセー集だった"
といえるでしょう。

"彼のこのようなタイプの書物は、のちに改編されたうえで、『ビブリオテカ澁澤龍彦』のような集成におさめられることが多かったが、本書の場合、その種のものに再録される機会はついになかった。すなわち、その収録エッセーのほとんどすべて(「毒薬と一角獣」「絵本について」「聖母子像について」「小栗虫太郎・木々高太郎」解説の4篇をのぞく)は、『ビブリオテカ澁澤龍彦』の他の書物の項に吸収され、その結果、『貝殻と頭蓋骨』自体はいわば解体されることにな"ってしまいました。

書名にかんしては、解題で巖谷國士氏が指摘するように、

"一見、本書の内容にさほど似合っていないように思われるかもしれませんが、下記[2項]所収のエッセー「過ぎしにかた恋しきもの」(P149〜)に<それでは、私がドライフラワーや貝殻が好きではないのかと言うと、決してそんなことはない。好きでなければ、わざわざ部屋に飾ったりはしない。もちろんのことである。ただ、私が何よりすきなのは、湿っぽい思い出やなつかしさの情緒に汚染されていない、からからに乾いた、硬質の物体なのである。>(途中省略)<わが家の応接間の壁面や飾り棚>に<所狭きまでにごたごたと並べてある>オブジェの数々が列挙されており、そのなかには<模型の髑髏>や、<鎌倉の海岸で拾った犬の頭蓋骨>などもふくまれているのである。"

さらに"<何より好きな>ものの並列する状態は、<いわば小さな自然博物館>であり、<私はこれらの品々に囲まれつつ、私自身もまた、やがて死んで、からからの骨になる自然の子なのだということを、たえず意識するだけなのである>というくだりなどは、彼の最後の作品となった『高丘親王航海記』の主人公の死後の<骨>の表現をいやおうなく思いおこさせ、いまとなっては大いに感慨ぶかいものである。"と。

コンテンツは以下のとおり。

巻頭口絵

「オイディプースとスフィンクス」ギュスターヴ・モロー
「死せる詩人を運ぶケンタウロス」ギュスターヴ・モロー
「夢、アドリアドネーと塔」デ・キリコ
「吟遊詩人」デ・キリコ

澁澤龍彦、紀行スチル(カメラ:『太陽』編集部 祐乗坊英昭氏)

バビロンの架空庭園跡
クテシフォンにて
マッサラにて(アラブ人姿の著者(澁澤龍彦))
ペルセポリスにて

1.
*ビザンティンの薄明 あるいはギュスターヴ・モローの偏執
*キリコ、反近代主義の亡霊
*幻想美術とは何か

2.
*千夜一夜物語紀行
*フランスのサロン
*オカルティズムについて
*シェイクスピアと魔術
*「エクソシスト」あるいは映画憑きと映画祓い
*毒薬と一角獣
*絵本について
*聖母子像について
*過ぎしにかた恋しきもの
*雪の記憶
*読書遍歴

3.
*岡本かの子 あるいは女のナルシシズム
*魔道の学匠 日夏耿之介
*琥珀の虫 三島由紀夫
*花田清輝頌
*藤綱と中也 唐十郎について
*未来と過去のイヴ 四谷シモン個展
*金井美恵子『兎』書評
*中井英夫『悪魔の骨牌』書評
*江戸川乱歩『パノラマ島奇談』解説
*「小栗虫太郎・木々高太郎」解説
*唐十郎『盲導犬』解説
*アルティストとアルティザン 池田満寿夫について

あとがき/初出一覧

【本文より】「琥珀の虫 三島由紀夫」より

"三島氏はザインのひとではなくて、ゾルレンのひとだったと私はつくづく思う。神秘的現象を信じていたのではなくて、信じなければならなかったのである。こんな些細な、ほんのお遊びのような場合でも、その点では変りがなかったのだ。

ずいぶん前のことだが、たしか安部公房氏との対談で、生前の三島氏が、「おれには絶対に無意識というものがないのだ」と主張していたのを記憶しているが、これも同じ理窟で、自己が二つに分裂することを極端に恐れる三島氏にとって、無意識というものは、あってはならないものだったのである。あると思ってはいけないものだったのである。

しかし今や、三島氏には怖れるものは何もなくなった。みずから死を選び、ひとびとの記憶のなかで「虫入りの琥珀の虫」になってしまった三島氏は、ザインとゾルレンをぴったり一致させて、明確な美しい自己の形を保っているし、永遠に保ってゆくことであろう。

小林秀雄流に言えば、「まさに人間の形をしているよ」ということになるのかもしれない。"

『澁澤龍彦全集』(全24巻)(河出書房新社)では、第13巻(平成6年6月15日発行)に収録。

*今回も「手帖3部作」同様、豪華(特殊)な装丁。
特殊な朱色×銀粉をアレンジした「和紙」を使用したクロス装上製函入。

画像は、『貝殻と頭蓋骨』澁澤龍彦(桃源社)(初版本:昭和50年5月10日発行)です

イメージ 1

イメージ 1

『ユリイカ』(青土社)の「澁澤龍彦特集」としては、2回目の号。下記のコンテンツを見ればわかるとおり、かなりの充実した内容です。

■澁澤龍彦に捧ぐ
「狐のだんぶくろ」をめぐって 川村二郎 etc.
■詩
銀鮫(キメラ・ファンタズマ) 吉岡実 etc.
■作品
臨終の男との会話       金子國義 etc.
■少年時代の澁澤龍彦
玩物の思想          菅野昭正 etc.
■60年代の澁澤龍彦
オドラデク跳梁        高山宏 etc.
■サド/サド裁判
澁澤龍彦と戦後日本      石井恭ニ etc.
■『血と薔薇』
澁澤龍彦の侠         平岡正明 etc.
■三島由紀夫と澁澤龍彦
「さかしま」とサド      三島由紀夫 etc.
■60年代の澁澤龍彦
旅行記            澁澤龍彦 etc.
■作家・澁澤龍彦
黄金時代の夢         富士川義之 etc.
■澁澤龍彦と美術
註のない文章について     若桑みどり etc.
■澁澤龍彦のミクロコスモス
対談 澁澤龍彦の幸福な夢   出口裕弘/種村季弘 etc.
■年譜・著書目録

澁澤龍彦自作年譜       澁澤龍彦編 etc.

澁澤マニア、コレクターとしては、
1.『新潮日本文学アルバム54 澁澤龍彦』(新潮社)、
2.『澁澤龍彦スペシャル シブサワ・クロニクル』、
 『澁澤龍彦スペシャル ドラコニア・ガイドマップ』(幻想文学出版局)とあわせて必携のアイテムでしょう。

画像は、『ユリイカ〜総特集 澁澤龍彦』昭和63年6月臨時増刊号(青土社)です。      

イメージ 1

Vol.0001、Vol.0004で触れておりました『ユリイカ』(青土社)の該当号。「澁澤龍彦特集」としては、1回目の号です。

"こわばりを嫌う一個のリベラル、そこに澁澤龍彦の本領があるのではなかろうか。"

"サドに深入りし、シュルレアリスムに心酔したのも、一個のリベラルとしてであったにちがいない。リベラルの極北を探ってみたら、そこにマルキ・ド・サドがいた。だからサドの研究に打ち込んだ。それが実情だったろうと私は考える。"

(以上「核としてのリベラル」より抜粋)といった、出口裕弘氏の論考をはじめ、

「メ−トル原器のある庭園」種村季弘、
「アナロジイの精神」富士川義之、
「神と玩具」田中美代子、
「自然児澁澤龍彦」松田修、
「昭和の子供だ、ぼくたちは」松山俊太郎、
「鎌倉の一寸法師」四谷シモン
etc...所収

画像は、『ユリイカ〜澁澤龍彦 ユートピアの精神〜』昭和50年9月号(青土社)です。

全5ページ

[1] [2] [3] [4] [5]

[ 前のページ | 次のページ ]


よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

数量限定!イオンおまとめ企画
「無料お試しクーポン」か
「値引きクーポン」が必ず当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事