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先日、仕事から家に帰るとポストの中に見慣れたパンフレットがっ・・・! いよいよ今年もこの季節がやってきました。 「久世地区連合体育祭」 私が綱長をやらせてもらっている我が東八田綱引きチームが、前回優勝!東八田綱引きチームのみなさん!今年は目指せV2!ということで盛り上がっていきましょう! 今年こそは練習をしたいなーと思っていますので、みなさん参加よろしく☆
またこのブログをご覧のみなさんも陰ながらの応援をよろしくお願いいたしますー! |
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みなさん、マウスはどんなの使っていますか?もともと付属してたモノ派?こだわり派? パソコンを使っているとき、マウスっていちばん手に触れるものです。私は今まで何百円のしょーもない光学式マウスを使っていましたが、最近はレーザーのええやつが安く売っているので、先日パチンコで勝ったことですし、いっちょ新調したろ!と相成りました。 ↑これが新調マウス。レーザー式でありながら3千円弱。甲高なフォルムは手が大きめな私でもしっくりと握りこめるデザインで、親指のところに窪みがあり本当に持ちやすいです。 ↑今では常識らしいのですが、ちょうど親指の上のあたりにファンクションボタンというのがあって、ブラウザの進む、戻るがこのボタンで操作できたりするんです。今まで時代に取り残されていた私です・・・ ↑さらにホイールの部分が左右に倒れ、横スクロールできるのです!大きい画像編集の時などに重宝しそうですね☆ ボールがコロコロしてたマウスが、今ではレーザーでしかもこんなに多機能に・・・しかも3000円足らずで買えるとは。もっとお金を出せばもっとボタンがいっぱいついてるやつもありました。(私には逆にややこしそうでした・・・)
マウスって替えるだけで劇的に変化しますよ!お手軽なPCカスタムだと思います。(次はキーボード替えようかな?) 今日は意味無くコチコチってやっとこうっと☆ |
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私の趣味と自己満足の塊でお送りしているこの企画。 前回は大坂の陣で大活躍した天才、後藤又兵衛基次の最期の地をご紹介しましたが、今回は大坂の陣もう一人の天才、真田左衛門佐幸村をピックアップ! 大坂の陣での彼の奮戦の地である大阪市天王寺区の三光神社と、幸村最期の地になった同じく天王寺区の安居神社をご紹介します! まずは三光神社近辺から。 この場所は大坂の陣の時、幸村が大坂城の防衛拠点として作った要塞、真田丸の跡とされている所で、現在は真田山公園として親しまれています。 ↑真田山の北端には宰相山西公園というのがあります。真田山は宰相山とも呼ばれているのですが、宰相とは君主の右腕とも言われる最高補佐官という意味があり、そういう意味では幸村は豊臣秀頼の右腕とも言うべき活躍をしたからそういう名前で呼ばれるようになったのかもしれません。 今はごく普通の公園です。この日はこの公園の満開の桜の下で弁当とビールでほろ酔いになりました。 ↑真田山公園には日本陸軍の戦没者墓地があります。日本のために戦いそして散っていった勇者たちのお墓がならんでいます。その勇敢さには幸村と通ずるところがあります。 ↑いよいよ三光神社の社殿です。この神社は日本で唯一の中風除けの神社らしいです。宰相山西公園のすぐ隣にあるこの神社には実はすごいものがあるんです! ↑境内に建てられた真田幸村公の像。采を振りその堂々とした立ち姿はやはり浪速のヒーローです。 ↑あまりにかっこいいのでアップでどうぞ! さてこの神社のメイン。「真田の抜け穴」をご紹介しましょう! この付近が大坂の陣のころ徳川方の武将を散々に痛めつけた最強の要塞「真田丸」であったことは先ほども説明しましたが、実はその真田丸と大坂城とを地下で結ぶ連絡通路があったというのです!! 三光神社はJR玉造駅の近所ですのでまあ大坂城には近いといえば近いのですが、あのころにそれほどの土木技術があったかどうか・・・またまたこれも真偽のほどはわかりませんが、とにかくその「真田の抜け穴」をご紹介しましょう! ↑これがその「真田の抜け穴」の入り口です。現在は鉄扉がつけられており、その鉄扉にはご存知真田の家紋、六連銭が施されています。しっぶー! ↑興味深々、穴の中をフラッシュ撮影!左に曲がってますね。あー!入ってみたい☆ さて、続いてはちょっと場所をかえて天王寺一心寺の向かいの安居神社です。 ここは幸村最期の地として伝えられている場所。大坂夏の陣で茶臼山に陣を張った幸村は家康本陣を急襲し一時は家康に死を覚悟させるほどの奮戦をしたものの、やがては寡兵敵せず疲れ果て体中に幾多の傷をうけ、この神社の境内にある松の根元に腰掛け休んでいるところを討ち取られるのです。 ↑安居神社社殿です。ごく小さい神社ですが由緒は深いみたいです。 ↑この神社の絵馬はやっぱり幸村公。この絵かなり渋いですね。このほかにも手ぬぐいなど真田グッズが売ってました。 ↑奉賛者の掲示板におもしろい団体の名前が!! ↑この神社にも幸村の像を!ということで寄付の募集がされていました。私は最近金欠なもので・・・すんません。 ↑そしてこれが幸村戦死の碑。幸村のその壮絶な最期とは対照的に碑の石段では猫が昼寝してました。これもまた一興。。。 ↑実際、幸村が討たれるときに腰掛けていた松は枯死してしまったらしいですが、現在はその場所にまた松が植樹されており「さなだ松」と呼ばれています。思わず合掌・・・ 今回は真田雪村奮戦の地・最期の地をご紹介しましたが、いかがでしたか? 信州の武将でありながら大阪の地でもすごい人気の真田幸村。やはり滅び行く豊臣家のため生涯最後の大戦で華々しく散っていったその生き様が、多くの人の心を惹きつけたのでしょう。 私ももちろん惹き付けられている一人です。 それでは最後にわが町のだんじりより幸村の勇姿で今回はおしまい〜!
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入母屋の献灯台が欲しい! ということで始まったこの献灯台制作企画。 うーんやっぱりはかどらん・・・ 現在はまだ第1段階の葺地制作の段階。ついにきました!第1の難関。「箕甲」とり。 墨さえ打てれば何とかあとは彫刻刀で頑張りたいとは思っているのですが、とにかくどうやって線をひいたらいいかがわからん! やっぱりコンパスで半円を描いていくのか?でも相手は曲面やし・・・ とにかく今はそこで行き詰ってる状態です。。。これで今年が終わったりして☆ とりあえず今日は現段階までの報告まで。 どなたか箕甲のとり方、墨の打ち方わかる方教えてください!(天野さんに聞こうかな?)
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前回は徳川家康、大坂の陣討死説のミステリー堺・南宗寺をレポートしましたが、今回はその家康を死に追い込んだといわれる(あくまでも討死説の中でですが・・・)大坂方の天才軍師・後藤又兵衛基次の最期の地、大阪府柏原市の玉手山公園を紹介したいと思います。 時は慶長20年(1615年)。徳川家康のうす汚い策略により大坂夏の陣が勃発。ほとんどの堀を埋め尽くされた大坂城に籠もって戦うよりも、ここは討って出て野戦でいこかえ!と大坂方の後藤又兵衛、真田幸村、毛利勝永ら1万8000が出陣。又兵衛は小松山(現在の玉手山公園付近)に陣を敷き3万5000ともいわれた徳川方を迎え討ちました。これを道明寺の戦いといいます。 しかしなんぼなんでも兵力が違いすぎる・・・天才又兵衛もついには力尽き、この地で自害。56歳でその生涯を終えるのでした・・・ ↑現在、又兵衛が布陣した小松山は玉手山とよばれ公園になっています。その頂上付近から東を見た風景。私が訪れた日は、のどかなお花見ムードでしたが、夏の陣のその時はこの方向に徳川方の大軍が迫っていたのでしょう・・・有名な独眼竜正宗もその中にいました。 ↑公園内にある又兵衛の碑。その立派な佇まいが又兵衛の男ぶりを物語っているようです。(注)これはお墓ではありませんぞ! ↑その隣には吉村武衛門の碑があります。彼は又兵衛の忠臣で又兵衛自害のとき介錯をした人です。 ↑主従が並んで座っているように・・・ふたつの碑は寄り添って建てられています。ちょっと感動☆ ↑玉手山公園の頂上には「大坂夏の陣両軍戦死者供養塔」があります。「両軍戦死者」というところに温情を感じます。合掌・・・ ↑この公園にはちょっとした資料館もあります。資料そのものは貴重なもの等ありませんが道明寺合戦の内容が詳しく説明されていました。 ↑その資料館の中に神輿が展示されていました。明治31年新調の神輿で地元の祭で担がれていたものらしいです。現在は平成15年に新調された神輿が活躍しているとのことでこの神輿は先代にあたるものですね。 ↑公園内の展望台から大坂城を望む。城を出た時すでに又兵衛は「ここには帰らない」と覚悟していたことでしょう・・・どういう心境でこの山から大坂城を眺めていたことか。 ↑公園内に又兵衛を偲んで「後藤又兵衛しだれ桜」と名づけられた桜が植えられており、この日はちょうど花が咲きだしたころでした。現在はまだ小さい木ですが、将来この木も大きく育ち又兵衛のように豪快に美しい花を咲かせて欲しいものです。 おまけですが、戦国史につきもののミステリーが実はこの後藤又兵衛にもあります。後藤又兵衛は夏の陣で討死せず、奈良県の宇陀に逃げ落ちたという説。これまた興味深々なミステリーです。宇陀には又兵衛が老後に植えたという「又兵衛桜」と呼ばれる桜の木が残っているのですが、やっぱり又兵衛に桜はよく似合う!桜の花のごとく咲き乱れて散っていった後藤又兵衛基次。私は夏の陣討死を信じたいと思います。 それでは最後に、わが町のだんじりより正面土呂幕「後藤又兵衛の勇戦」の画像で今回のレポートを締めくくりたいと思います。それではまた次回☆ |





