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先日に引き続き我が東八田の先代だんじりの紹介をしたいと思います。本日は彫物編。 残念ながら私は、上だんじりの構造や部位名はまったくの無知といっていいほどなので、その辺はだいたいの雰囲気でお願いします☆ それでは早速いってみよー! ↑下だんじりで言うところの松良の部分。左右で「龍・虎」となっていました。なかなか粋やと思いませんか? ↑勾欄の下の部分。縁葛でいいのでしょうか・・・それとも土呂幕?題材は「二十四孝」。 ↑平の屋根廻りです。ここは?虹梁・・・車板? ↑いよいよ見送り三枚板。まずは右平から・・・三国志の張飛らしいです。 ↑後正面。これまた三国志の「劉備玄徳、壇渓を渡る」だそうです・・・ ↑左平もやっぱり三国志で「諸葛孔明と関羽」。 ↑幟台。図柄は不明ですが、東八田時代は赤と黒のツートンカラーの2本の幟が立てられていました。 ↑内部の彫刻もなかなかいい味出てるでしょ? ↑私が一番好きな正面主屋根の車板の龍。昔もこれはイカツクてかっこいいと思ってました。 ↑後正面の三枚板にある「大佐」の銘。このだんじりは江戸末期から明治初期の作と考えられていますが、大正10年ごろに「大佐」による修理がされた時につけられた銘であるとのこと・・・。 私がこのだんじりと親しんでいた少年時代は、まだまだ彫物がどうこうと思えるほどではなかったので、このたびの先代だんじりとの再会でじっくり見せてもらい、なつかしいはずのだんじりが新鮮な感じがしました。
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東八田先代だんじり
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温故知新・・・ふるきをたずね、あたらしきをしる。 我が町の現在の祭の盛り上がりも、すべては我が町の先人の方たちが秋祭りという伝統行事を伝えてきてくれたおかげ。今の祭をどうこう言う前に、昔の祭を振り返ってみよう。 私の少年時代。私にとって、東八田の祭というものを最初に教えてくれたのは、先代のだんじりでした。 昭和の終わりとともに東八田から去っていった先代だんじりに会いたい! 嫁ぎ先となった大阪市北区の綱敷天神社へその想いをお願いし、再会させていただけるとのお返事をいただけましたので、そのレポートをしたいと思います。 ↑先代だんじりは現在、この綱敷天神社の宮附地車として保管されています。 再会の当日は、雪もチラホラするほどの冷え込みでしたが、境内では梅の花もあちらこちらに見られました。 ↑これが我が町の先代だんじり。擬宝珠勾欄付き堺型だんじりです。現だんじり新調に伴い我が町から嫁いでいきました。 当初の5年ほどは祭礼の時に曳きだされていたそうですが、交通状況の悪化や曳き子の減少などで現在は残念ながら曳行されていないようです。 境内にある空手道場兼倉庫に保管されていました。 ↑我が町から嫁いできた時に、洗いと若干の修理、金物類の新調、また綱敷天神社と書かれた行灯が新しくされるなど少し雰囲気が変わっていたものの、なつかしい姿見です。 東八田時代は担い棒が勾欄にぴったりくっついていたように思うのですが・・・ここも手直しされたのでしょうか? ↑主屋根廻り。上だんじりの知識が全然な私はこういう形の屋根廻りをなんと呼ぶかわからないですが・・・割とかっこいいじゃありませんか! ↑台木の部分。下半分(芯金が出てるとこ)は東八田時代にはありませんでした。おそらく納車時の修理で追加されたものでしょう。どうりでかなり背が高くなったと思いました・・・ 上半分の台木はなつかしい!昔はこの台木油まみれやったなあ・・・ ↑これは下段の勾欄部分(土呂幕?なんていうんやろ・・・?)昔はこの奥に大太鼓が横向きに据えられており、鳴り物の青年団のにいちゃんらがこの彫物の赤幕をはがして顔を出してました。なつかしなー! ↑上段の勾欄です。納車時に新しくされた金物がきれいです。小太鼓や鐘、笛はこの段で叩いてました。二階建て構造でしたね・・・ ↑後梃子の穴やブレーキはありませんでした。後についてた木のブレーキ。今では考えられないですね・・・ ↑20年ぶりに再会した先代だんじり。なつかしいとこばかりでした・・・ 後日改めて彫物をご紹介したいと思います。お楽しみに・・・☆
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