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(1)前田朗さんのメール(その1) CML 003972(2010年5月5日付)より 東本さん おすすめしたい本があります。もっとも、ご存知かもしれませんが、野村浩也『無意識の植民地主義』(お茶の水書房)です。 その一部に収められた文章の要旨は野村さんのウエブサイトでも読めます。 http://sociology.r1.shudo-u.ac.jp/nomura/ このサイトの「研究業績」欄に掲載されている論文、特に「沖縄におけるナショナリズムとコロニアリズムに関する予備的考察」「日本人と共犯化の政治」「植民地主義は終わらない」「無意識の植民地と沖縄ストーカー」などをご覧ください。簡潔な要旨しか掲載されていませんが。 野村氏は、本土から沖縄に出かけては偉そうにご高説をたれる平和運動家を厳しく批判しています。「沖縄ストーカー」と呼びます。 野村氏の議論は沖縄でも広い支持を得られているわけではないようで、むしろ批判している人たちもいます。 しかし、私は、野村氏の議論を無視できません。野村氏がいうところの「沖縄ストーカー」にならず、かつ「沖縄基地問題=日本問題」に向き合うことをずっと考えて、行動してきました。ですから那覇市での無防備平和条例運動にも微力ながらかかわりました。石垣島や西表島で、読谷村や辺野古で、平和運動、反対基地運動の人々と一緒に活動してきました。 そのためには、内輪ぼめの幼稚園ごっこにふける「沖縄ストーカー」をやめて、沖縄に基地を押し付けている植民地主義者の一員である自分を根底的に問い直すことが重要です。野村著をいかに受け止めるのか、あるいは、いかに反論しうるのか、私には今でも宿題です。 (略) (2)前田朗さんのメール(その2) CML 003980(2010年5月6日付)より 東本さん
もう1冊、ご紹介します。 野村浩也編『植民者へ――ポストコロニアリズムという挑発』(松籟社、2007年) 冒頭には、野村浩也「日本人という植民者」があり、これは野村氏の前著『無意識の植民地主義』のエッセンスです。野村氏はフランツ・ファノン、アルベール・メンミ、エドワード・サイードなどを駆使しながら日本人の植民地主義について論じています。 260ページある前著と違って、40ページほどの論文なので論旨がわかりやすいかもしれません。 少しご紹介します。同書からの引用です。 帝国主義の継続という問題の発見は、帝国主義を実践しつづけているのはいったいだれなのかという疑問を喚起する。しかも、帝国主義の実践主体を特定することは、帝国主義そのものの継続を困難化させる要因のひとつとなるのだ。したがって、帝国主義の実践主体ほど帝国主義の発見を嫌悪しがちであり、みずからをその実践主体として自主的に認めることも、ほとんどない。たとえば、帝国主義といえば、すぐさまアメリカ合州国等を連想して責任転嫁する日本人は多い。また、日本人と名指しされることを毛嫌いする日本人も少ない数ではない。このような振る舞いによって、日本人は、ほとんど無意識的に、彼/彼女ら自身の帝国主義を隠蔽しようとしており、帝国主義の実践主体と特定されることを回避しようとしているといえよう。 帝国主義を隠蔽するのは、それが帝国主義の継続に貢献するからである。そして、多くの日本人がしばしば隠蔽、もしくは否定しようとするのは、彼/彼女ら白身の以下の現実である。すなわち、帝国主義を実践することによって沖縄人に「にが世」を強制し、七五%もの在日米軍基地を押しつけてきた張本人こそ、ひとりひとりの日本人にほかならない。いいかえれば、日本人は、「自分の運命を自分で決定することのできない境遇」を沖縄人に強いることによって、今なお植民地化しつづけているのである。日本人がこのことを否定するのは、現実を直視すればするほど不可能となるはずだ。 エドワード・サイードによれば、植民地化とは帝国主義の帰結であり、個別具体的な土地の住民に対して帝国主義が実践される場合のことを特に植民地主義という。したがって、日本人が沖縄人に対して実践している帝国主義は、植民地主義と呼ぶのが適切である。伊波のことばを借りていえば、沖縄人が「自分の運命を自分で決定することのできない境遇におかれてゐる」のは、日本人の帝国主義の帰結として、植民地主義が実践されているからである。その点、伊波のこのことばは、植民地主義の定義の一部をなしているのだ。<以上、同書29〜30頁> この部分は、日本と沖縄の現実を、ポストコロニアリズムで読み解くために、帝国主義、植民地主義とは何かという前提を記述しています。こうした論述は決して珍しくありません。多くの論者が同様のことを論じています。
ただし1点だけ決定的に違うことがあります。多くの論者は、この文脈では、自分を部外者の位置におくのです。日本人を除外します。歴史の話になれば大日本帝国を批判しますが、現在の話になると、突然、帝国主義は他人事になります。野村氏はその欺瞞を突きます。日本人は帝国主義の側に立っているのに、それを隠蔽し、責任転嫁している。隠蔽することで第三者の安泰を得ようとするが、それは帝国主義の継続に貢献する、と。 今後も引用・紹介しますが、野村氏の議論には、「日本人」と「ひとりひとりの日本人」を区別することを許さない厳しさがあります。その点を批判することは簡単です。だからといって、野村氏の基本的な問いかけから逃れることはできません。 ここでの問いは、私たちは「帝国主義の実践主体」であるのか否か。「帝国主義の実践主体」であることを論理的にも実践的にも拒否しえているのか否か、です。 (3)前田朗さんのメール(その3) CML 003982(2010年5月6日付)より 東本さん
野村浩也編『植民者へ――ポストコロニアリズムという挑発』(松籟社、2007年)からの引用・紹介を続けます。 ポストコロニアリズム研究とは、第一に、植民者の問題化を不可欠とする学問的実践である。なぜなら、植民者の存在があってはじめて植民地主義は成立しているからだ。日本人に特化して述べれば、ポストコロニアリズム研究とは、日本人という植民者を一貫して問題化することを通して、植民地主義を実践しつづけている日本人の政治性を解明し、植民地主義を継続させる権力的メカニズムを批判的に分析することによって、日本人の植民地主義の終焉を構想する学問的実践である。つけ加えておけば、日本人がみずからの植民地主義を終焉させたとき、彼/彼女らが植民者でなくなるのはいうまでもない。その点、ポストコロニアリズム研究とは、日本人が植民者から脱却する方法についての思考でもある。 植民者の問題化が不可欠である以上、ポストコロニアリズムおよび植民地主義の議論において、日本人は、彼/彼女ら自身の問題化を免除される特権をもたない。したがって、中立や外部といった安全な位置に身を置くことはできない。ところが、みずからを何ひとつ検証することもなく、ほとんど無意識的に自身の中立性や外部性を前提する日本人はきわめて多い。こうした身勝手な振る舞いこそ、植民地主義を行為遂行的に構成するものにほかならない。ポストコロニアリズム研究にかぎらず、社会科学や人文科学の研究者がこのことに無自覚なまま、植民地や被植民者を研究対象にするならば、研究そのものが植民地主義の実践と化してしまうであろう。 植民地主義に対する中立や外部とは、植民地主義の実践主体ではないということを意味する。そして、日本人が、植民地主義の実践主体としての自分自身を意識しなければ、植民地主義をやめるという課題すら自覚されない。その結果、植民地主義はそのまま温存されることとなる。つまり、中立や外部を無意識的に前提することは、日本人自身の植民地主義を隠蔽してあやしまないという意味で、卑劣な政治的行為となってしまうのだ。 そもそも日本人は、植民者でもなければ被植民者でもないといった部外者ではないし、ましてや、植民地主義に関して中立であったためしなどない。日本人は、植民地主義のまぎれもない実践主体であり、積極的にみずからの植民地主義を終焉させた証拠もどこにもない。そのような日本人が自身を中立や外部に位置づけることは、彼/彼女ら自身の植民地主義を隠蔽することによってそれを存続させるという意味で、まさしく植民地主義的実践にほかならないのである。このように、もしも日本人を問題化しない研究がポストコロニアリズム研究や植民地主義研究を自称するならば、より巧妙で悪質かつ有害な植民地主義であるといっても過言ではない。<以上、同書41〜42頁> おわかりいただけたでしょうか。
[下に続く]野村氏の主張は、従来、東本さんが展開してきた主張と、そう大きく変わらない(はずなのです)。 その東本さんが、先の天木氏の発言に全面的に同意することは、論理的にも倫理的にも、ありえない、何か見落としているのだろう、と私は即座に判断しました。 ポストコロニアリズムとか植民地主義といった言葉を使うかどうか、どのように定義するかなどの問題はいったんおいておきます。 重要なのは、日本人と沖縄、沖縄人の関係がどのように構築されているのか、そこで私はどの位置に立っているのか、立とうとしているのかです。みずからの植民地的立場を自覚して、問い返し、主体的に拒否しなければ、「無意識の植民地主義」という批判に甘んじることになります。論じるべきは「沖縄問題」ではなく「日本問題」です。 (写真1:沖縄の海と空)
(写真2:沖縄県庁 シーサー像) |
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