|
私はいつか友人に田原拓治記者署名の東京新聞記事を紹介し、田原記者の立ち位置はすばらしい、と言ったことがあります。 そのときは、その記事を読んだ限りでの印象でしたが、その後「彼」が田原牧というペンネームでイスラーム圏の問題について精力的に発言している「彼女」であることを知りました。 その彼女が、「聖戦の風景」という中東を取材したレポートを『直言』というインターネット誌に連載しています。今回が最終回のようです。「個人という砦」(2006年12月21日)というテーマです。 http://web.chokugen.jp/tahara/ 注:すでにリンク切れしています。 その中で彼女は、教育基本法がいままさに「改正」されようとしていたときの「国会周辺の風景」にもふれています。 14日の昼過ぎ、国会周辺。準憲法ともいえる教育基本法の「改正」が参院委員会で採決される数時間前だった。平日の昼間のせいか、反対派の人々は議員会館前に150人ほど。その一角を除けば、国会の周りは静かすぎるほど閑散としていた。これが事実上の改憲の日を迎えた国政の最高機関を取り巻く風景だった。/前夜に自分たちがつくった紙面がビラとして刷られ、風に舞っている。「革命するぞうー!」。突然、若者の一群のシュプレヒコールが聞こえ、私は耳を疑った。ちょっと不快に感じた。それはどんな革命なのか。安倍晋三氏やその取り巻きたちの「耐えられない軽さ」。それと彼の叫びがダブった。
……日本で事実上の改憲を強いたのは他ならぬ、国会周辺に姿を見せなかった膨大な人々である。その人々を日給6200円という痛みと陳腐な国家主義が襲っている。その痛みが抵抗という燎原の火を導くのか。あるいはかつてのように自滅するのか。
「彼」が「彼女」であったことに、私は新鮮な驚きを覚えています。はじめて「彼」の記事を読んだときの「彼」の「立ち位置」に対する覚悟のようなものへの共感。「彼」の覚悟は、彼女の生き方そのものであったのですね。 彼女の「視点」も、私には共感できます。その眼は、決して冷めているのではないのです。この身に熱い血がたぎっているからこそ悲しみもし、いらだちもするのです。 私は、田原さんがいっそう好きになりました。最終回ということで、「田原牧さん」のことを紹介したくなりました。
|
ジェンダー
[ リスト | 詳細 ]
|
先のエントリ記事でご紹介したCBS女性記者襲撃事件に関する冷泉彰彦さんの見方についてアメリカ在住のある日本人フェミニストから反論がありました。聞くべきご指摘、ご意見だと思います。下記に紹介させていただこうと思います。 > まず二番目の問題ですが、まずこの異常なニュースが報道された背景にあるのは、性的暴力の被害者
> は徹底的に救済・保護するという文化が確立しているということが挙げられます。(中略)この時期 > からは女性をほぼ無条件で保護する権利が確定しています。判例というだけでなく、社会的な価値観 > としても明らかです。(東本注:左記は冷泉氏の論攷より) そんな文化が確立していれば良いのですが、それはないでしょう。ローガンさんは、そういう文化を確立するのに貢献するため、問題提起するために、あえて普通なら公開されない被害の事実を勇気を出して公開したのであって、すでにそういう文化が確立しているからと気軽に公表したわけではありません。 そもそも、この件がそれだけ話題になり、ローガンさんの勇気がたたえられている(そして、ローガンさんに対する中傷発言が激しく反発をされている)ということが、ローガンさんの行為が「社会的な価値観」を揺るがすものであることを示しています。たとえば男性ニュースアンカーのアンダーソン・クーパーが暴行を受けた件については、勇気を出して公表したと褒める人もいなければ、かれに対して失礼なジョークを言うのもタブーではありません。 筆者は、 > 勿論、実名での告白を自動的に強制するとか、実名を晒すということは今でも厳格に否定されていま > すが、本人の自由意志で過去の被害経験を告白することがメンタルな問題解決に役立つのであれば、 > 周囲はそれを受容しなくてはならないし、まして嘲笑したり、疎遠な感じを持ったりすることは近親 > 者であっても厳しく禁じられる、そんな文化が確立しているのです。 と書いていますが、それが「厳しく禁じられる」のは、性暴力被害を公言することが、いまだにタブーだからです。もしほかの犯罪被害と同じように、被害者の「落ち度」が責められるのでもなく、被害者の恥だとか貞操の問題だとかして扱われるのでなければ、ほかの犯罪被害者と同じ程度には(アンダーソン・クーパーに対して「話題作りになって良かったな」と揶揄する人がいて、それが悪趣味だと思われつつも特に反発を浴びない程度には)許容されるはずです。そうでないのは、いまだに性暴力に関して、ほかの暴力や犯罪行為とは別格の、なにか被害者本人の資質や人格にとって汚点となるようなものだとして見る「社会的価値観」が温存されているからです。 すなわち、性暴力の被害者を嘲笑することがことさら咎められるのは、性暴力は特殊な犯罪だという価値観と裏表です。もちろんいまの社会において性暴力が特殊な犯罪として扱われているのは事実なので、ことさら咎める(そうしたものからことさら被害者を保護しようとする)のは悪いことではないでしょう。しかしそれは、被害者保護が社会的価値観として定着しているからではなく、逆にそうした価値観が不十分だからこそ、要請されるものです。もしほんとうに性暴力被害の告発がタブーではない世の中になったならば、クーパーの被害の扱いとローガンさんの被害の扱いは、「程度の違い」程度の問題に落ち着くのではないでしょうか。 |
|
ですが、ここ数年、確かに「目立つから」という特性を使って女性記者に戦争報道をさせる傾向があるようです。ローガン記者はその代表例と言えなくもありません。勿論、彼女の場合もイラク戦争ではブッシュ路線に不利な報道をし過ぎるとして「偏向報道」という非難を浴びた「武勇伝」もあり、モデル出身だからといって容姿だけを売り物にしているわけではありません。ですが、ローセンのように「斜め」に見ればその政治的ポジションも「出世のためのウケ狙い」というイメージにもなるわけで、とにかく何らかの知的な関心と正義への情熱はあるにしても「女性の目立つ特性を使って活躍しよう」という「勢い」そのものが不自然なものに見えるのだと思います。
では、TV局サイドとしてはどうして「女性戦争記者」を使うのかというと、何といっても視聴率のためだと思います。アマンポーラなどの場合はともかく、現在ではホンネとして、女性記者の方が「受ける」という心理が漠然と社会的に存在するからです。これもかなり複雑で、女性視聴者にしてみれば「責任重大で困難な仕事を女性が担っている姿」への好感ということがあり、男性視聴者も基本的に同じですが一部の男性心理にしてみると、「戦場や混乱状態」から女性がレポートすることの「健気さ」を好むとか、「勝気な行動をしている女性が時折見せるパーソナルな表情が好きだ」などの心理があるわけです。そんな複雑なものではなく、無粋な男より女性のほうがスマートで格好良いという印象を男女ともに持っているとも言えるでしょう。 確かにローガン記者はそうした「ニーズ」をうまく使ってキャリアを積んできたという印象はあります。南アメリカ人として英国にわたり、最初はモデルをしていたのが戦争報道で有名になり、離婚や再婚を報じられる中で芸能人扱いされる一方で、アメリカのCBSに職を得てからは、かなり積極的な取材姿勢が評価されて「ファンサイト」なども出来ているのです。 単にアメリカの視聴者受けというだけでなく、政治的な背景もあるように思います。ローガン記者を「突撃の急先鋒」として、エジプト革命のプロセスではアメリカから多くの女性記者が現地入りしていますが、そのほとんどはエジプトということもあって、ベールを使わずに、金髪や長い髪を振り乱してデモ隊の中に飛び込んでいます。各局共にどうしてそうした演出になっているかというと、恐らく「この革命は市民の自由化を求める革命であって、イスラムの復権を目指すものではない」という性格付けをアメリカ世論へのメッセージとして送りたい、そのひとつの象徴として多くの女性記者をデモ隊の渦中に送り込んだということは言えると思います。 つまり「派手な白人の女性記者がデモの群衆の中に入っても、宗教的にそして文化的に排除されない」ということが「これは宗教革命ではなく市民革命だ」ということを正にテレビ的に視覚で表現できるというわけです。この辺りが、冒頭の二つの疑問のうちの一つ目に関わってくるのですが、こうした報道姿勢はアメリカ側としては終始一貫していたように思います。 先々週のこの欄でもお伝えしたように、アメリカの報道姿勢は「大変だ。エジプトまでが反米の原理主義になるかもしれない」というリアクションを排除して冷静さを確保するということで一貫しています。例えば、ムバラク前大統領が「辞任しない」と頑張っていたときには、サラ・ペイリンが「エジプト情勢に関してオバマがいちいち記者会見すると、みんなでその見解に従うのは異常」だと吠え立てて、「原理主義拡大の動きに警戒を」と呼びかけていたのですが、これに対しては保守本流の大物政治家であるリンゼイ・グラハム上院議員(共和)が「呆れた発言だ」と大統領を擁護するなど、政界も超党派で冷静さを保っていたぐらいです。 ちなみに、下手をすると反米センチメントの拡大もありそうな、イエメン、ヨルダンのデモに関してはアメリカの報道は抑制気味、一方でリビアのデモは長年の仇敵カダフィ政権の動揺への期待から扱いが大きくなっています。イランの民主化デモに関しては、アメリカの世論も政界もデモ隊側を応援していますが、彼等を支援するがゆえに報道を自制しているような感じもあります。 いずれにしても、今回のエジプト革命が「アメリカ人として応援できる」そして「アメリカにとって有害ではない」市民革命の一種だということを強調する報道姿勢は明らかにあると思います。また「何とか自分たちの理解の範囲にある」エジプトの例にアメリカ世論の関心を引きつけておこうという気配もあり、それは、アメリカの超党派の本流のホンネであると同時に、とにかくアメリカの保守派による過剰反応がかえって現地での反米心理の拡大になってはいけないという相互性を意識してのことということもあるように思います。 ララ・ローガン記者が一度目の危険遭遇にも関わらず、自ら強く志願して現場に復帰した、そして革命の瞬間に立会いつつ事件に巻き込まれたというストーリーの背景には、そうしたアメリカの「文脈」があったと言って構わないでしょう。またローガン記者の被害というプライベートなニュースが、一旦何者かが事件を暴露した後に大手メディアでも報じられたのは「暴力被害にあった女性の権利は守り切る」という文化が背景にはあるのだと思います。 この二つの文脈は正にアメリカの「フェニミズム」の現状を反映しているように思います。私はそこに個人的には普遍性も感じるのですが、同時に深刻な問題点も感じる者です。というのは、このようなフェニミズムは「過剰」であり、同時に「独善」だという問題です。過剰というのは、例えば女性兵士の大量派兵という問題です。女性が男性同等ならば、兵士として戦闘に参加するのも当然というのは、しかも大規模で行われているというのはやはり過剰さがあります。そのことと「イスラム圏のデモ隊の真ん中に女性記者を送りたがる」というのは同根という面もあるからです。更に独善性が暴走すると、イラクのアブグレイブでの捕虜虐待に際して「ムスリムの敵兵の自尊心を破壊するために、女性兵士によって拷問を行う」というようなダークな行動にもなってしまいます。 そこまで行かなくても、女性の権利拡大を押し付ける姿勢が余りに独善的なために、かえって反発を招いてしまい、相手国での女性の人権が拡大しないという問題もあるように思います。アメリカ流のフェニミズムを絶対的に押し付ける態度は、相手から見れば自分への蔑視を含む尊大な姿勢に映るわけで、そうした心理が起きてしまうと、逆効果になるわけです。日本もその一つのケースと見なすことができるかもしれません。 一方で、エジプトの場合は、非常に微妙な問題が入っています。というのは完全に世俗国家化しているトルコ、マレーシア、インドネシアなどを例外とするならば、エジプト社会における女性の人権はイスラム圏では先進的なのです。その一方で、ムスリム同胞団に代表される宗教保守派は、女性の人権拡大や西側文化の流入に反対して いるという緊張関係があります。例えば、2001年頃に、アメリカの『フレンズ』というTVコメディがエジプトで流行し、大問題になったのだという話をエジプトのTVプロデューサーの講演で聞いたことがあります。『フレンズ』というのは、男3人、女3人の6人組が恋愛関係になったりパートナーが変わったりしながら「グループ交際」を続ける他愛ない話ですが、エジプトの保守派には十分に刺激的で賛否両論で大変だったのだそうです。 もしかしたら、ローガン記者はそうした「自由を欲するエジプト女性への連帯」の気持ちを秘めてデモ隊に飛び込んだのかもしれませんし、またそうしたエジプトのフェミニストたちが彼女を暴力事件の現場から救出したのかもしれません。それはともかく、今度は激しいデモはバーレーンに飛び火し、流血の惨事に発展しているという報道もあります。オバマとして、アメリカとして、中東という地域に対して、更に本質的な思考を迫る事態が来る可能性も否定できなくなりました。 補記:ノルウェーの内閣で閣僚の男女比が逆転 フェミニズム問題に関しては、ノルウェーでは閣僚の3分の2が女性、という次のようなニュースもあります。当然のことがニュースになる現実は悲しいことですが、東欧・ノルウェーは私たちの国の「現実」を遥かに超えた社会になっているようです。 ■ノルウェー政府が「イクメン」支援、男性閣僚2人が育休(ロイター 2011年2月17日) [オスロ 16日 ロイター] ノルウェーの内閣では現在、男性閣僚2人が育児休暇を取っている。ストールベルゲ法務・警察相が今年の1月から3月末まで、リースバッケン児童・男女共同参画・社会統合相は昨年11月末から3月21日まで育児休暇中だ。
ノルウェーでは男性の育児休暇が奨励されており、最低でも10週間は有給で休みが取れる。 1989年に自身も育休を取ったストルテンベルグ首相は「職場や政府で、男性が女性より不可欠な存在ということはない」と語る。現在育休中の2人の閣僚の代わりは女性が務めており、閣僚の3分の2が女性となっている。 ノルウェーでは出産後、両親は自動的に2週間の休暇が与えられ、その後、2人合わせて有給で46週間の休暇か、8割の給料で56週間の休暇かを選択することができる。年内には最長57週間まで認められることになり、男性のみでは12週間まで延長されることになる。 ■ノルウェー男性閣僚2人が育休 代理を女性が務め男女逆転(共同通信 2011年2月17日)
【ロンドン共同】ノルウェーの内閣で男性閣僚2人がほぼ同時期に育児休業を取得、代理を女性が務めていることもあり、閣僚の約6割が女性という状況になっている。ロイター通信が16日伝えた。
育休を取っているのはクヌート・ストールベルゲ法務・警察相とアウドゥン・リースバッケン児童・男女共同参画・社会統合相。期間は法相が今年1月1日から3月31日までの3カ月、児童相が昨年11月末から3月20日までの約4カ月。 ノルウェーは男女平等の考えが強く、育児支援の手厚さで知られる。閣僚はもともと半分が女性だった。育休は両親が取得できる期間のうち、父親専用に最低10週間が割り当てられるが、政府は年内にこの期間を12週間に延長するなど、制度を拡充する方針。 |
|
ヒジャーブを被ってエジプト革命デモに参加する女性 下記はエジプトのムバラク大統領弾劾デモに参加している女性たちをポートレートした写真集です。 上記の写真集にポートレートされている女性たちはNO.10の子どもを肩に乗せて抱きかかえている女性を除いて全員ヒジャーブを被っていません(この写真集だけを見ると現在のエジプトの女性たちはヒジャーブを被らないのが通常のように錯覚してしまいます)。 しかし、この点については、現代アラブ文学研究者の岡真理さんが「エジプト、タハリール広場と三代の独裁者――革命の最前線、タハリール広場を中心にエジプトの近現代史をひもとく」(TUP通信 速報888号 2011-2-13)で次のような指摘をしています。 30年前のエジプトで、ヒジャーブ(イスラーム式スカーフ)を被っている若い女性など、ほとんどいませんでした。むしろ例外。ヒジャーブを被っている女子大生がいると、「ねえ、あなたはどうしてヒジャーブ被っているの?」とわざわざ訊ねたものです。
ところが今、多くの高等教育を受けた若い女性たちがヒジャーブを被っています。かつて、マルキシズムが社会正義の実現を目指す社会変革のためのイデオロギーであったとしたら、今、それはイスラームなのです。若い女性たちがヒジャーブを被る、その理由は一つではありませんが、でも、この不正な社会に対する一種のプロテストの意味もあるのです。 今回の革命で、ヒジャーブを被った若い女性たちもまた、前面で反ムバーラク、ムバーラク退陣を訴えました。ヒジャーブをイスラームによる女性抑圧の象徴と見なし、ヒジャーブを被ったムスリム女性をイスラームの家父長制に虐げられる犠牲者であるかのように見なす者には、彼女たちがアラビア語で、あるいは英語で積極的に発言する、行動する、そのアクティヴィズムが、不思議なものに映ったかもしれません。でも、「ヒジャーブを被った女性たち<さえもが>」ではないのです。ある意味、「ヒジャーブを被った女性たち<だからこそ>」、明確な政治的主張をしているのです。 フリージャーナリストの津山恵子さんは、ウォールストリートジャーナル日本版のコラムで「実は、エジプトでデモが始まった初期、報道写真やテレビ映像に、女性がほとんど映っていないのが気になっていた。写真が多いニューヨーク・タイムズも2月3日朝刊まで、ほとんど女性が映ったデモの写真がない」とレポートしていますが、あるいはヒジャーブを被った女性は被写体としては「絵(写真)になりにくい」というメディア側の商業上の理由がその大きな原因のひとつだったかもしれません(そうだとすればなんとも馬鹿々々しいことです)。 メディア側の商業上の理由といえば、1月25日革命(エジプト革命)時のCBS女性記者襲撃事件について米国ニュージャージー州在住の作家の冷泉彰彦さんがJMM(Japan Mail Media)に次のような記事を書いています。今日のフェミニズム問題の一端を考えるひとつの参考として転載させていただこうと思います。 ■CBS女性記者襲撃事件とアメリカ的フェニミズム(JMM 2011年2月19日) エジプト革命のニュースは相変わらずアメリカでは関心が高く、ムバラク辞任後の流動的な情勢も依然としてトップニュースになっています。その中で、一つ気になるニュースが全米を駆け巡り、消えていきました。それはCBSの女性記者ララ・ローガンへの襲撃事件についてです。襲撃といえば、反政府運動が拡大する中で、2月3日に突如「ムバラク派」と思われるグループが、反政府派への襲撃を試み、ラクダやら馬まで登場して軍隊が間に割って入るという事件がありました。この混乱の中で、CNNの「AC」ことアンダーソン・クーパーが襲われたりしています。
このローガン記者も同じ3日のタイミングで襲われているのですが、問題になった事件はそれとは別です。事件は、ムバラク辞任のニュースに狂喜した群衆が街に押し出した11日に起きました。ローガン記者は大勢のエジプト人男性に取り囲まれ、性的な暴力を受けた上に激しく殴打されたというのです。 この事件に至るまでの間にローガン記者には色々なことが起こっています。事実関係としてはこうです。ローガン記者は2日の時点ではムスリム同胞団の拠点のひとつと言われているアレクサンドリアで取材をしています。その時の映像を私は見ているのですが、やや混乱状態の中デモ隊への直接取材を行っていますが、取材の内容としてはこの欄でもお伝えしたように、「自分たちは経済を破壊するようなことはしない。ムバラクに出ていってもらって国を変えたいだけ」というもので、文脈としては「ムスリム同胞団の影響の強い地区でも宗教政治を志向するような声はない」という主旨、逆を言えば「同胞団を危険視する必要はない」という内容のレポートでした。 そのローガン記者は、翌日はカイロに戻って問題の「2月3日」の混乱状態の中、殴打どころか拉致されてしまいます。直後に本人が語ったところでは銃を突きつけられて軍と思われるグループに連行されたが、やがて解放されたというのです。この時点ではCBSは事態を重く見て、他のNBCやCBSのメインキャスター同様に「一時的にカイロからアメリカへ脱出」させる措置を取っています。ローガン記者は一躍「時の人」となり、翌週(2月7日の週)の前半にはニューヨークでTVの対談番組に登場して「革命を遠くで指をくわえて見ているわけには行きません。一刻も早くカイロに戻らなくては」と述べていたそうです。 実際に程なくしてローガン記者はカイロに戻って取材を続けました。その結果として、11日のムバラク辞任のドラマに「間に合ってしまい」事件に巻き込まれたというわけです。報道によれば暴力を受け、殴打されているローガン記者は、10人ほどのエジプト軍兵士と女性たちのグループによって救出され、そのまま翌朝の飛行機でアメリカに急送されました。病院で治療を受けたところ、回復は意外に早いということで、16日にニュースが発表になっています。 ここまでお話した「経緯」はどこまで本当かは分かりません。受けた暴力の程度や事件後の記者の症状などは、プライバシーに属する問題ですから、今後も100%明らかにされることはないでしょうし、本稿でも関心を寄せるつもりはありません。またムスリム同胞団の本拠と言われるアレクサンドリアでの取材で、ローガン記者が何らかのトラブルがあってその後も付け狙われたという可能性、3日に一旦彼女を拉致した兵士の素性、11日に今度は彼女を救った兵士の素性、何故か事件現場にいて彼女の救出を助けた地元女性の正体なども良く分かりません。もしかしたら落ち着いたところで、ローガン記者本人が手記を出版するというようなことがあるかもしれませんが、仮にそうであっても内容が100%真実かどうかは分からないと思います。 今日お話ししたいのは、2点です。それはモデル出身という目立つ外見のローガン記者が、最終的には暴力事件に巻き込まれるような「危険」を冒してエジプト革命の取材を続けたのはどうしてか、という疑問、もう一つは詳細はともかく「特定の女性が性的な暴力を受けた」というプライバシーに関わるニュースがどうしてアメリカ社会で報道されたのかという点です。 まず二番目の問題ですが、まずこの異常なニュースが報道された背景にあるのは、性的暴力の被害者は徹底的に救済・保護するという文化が確立しているということが挙げられます。アメリカでも80年代前半ぐらいまでは、まだまだ被害者にも落ち度があるとか、必死の抵抗がなければ何らかの合意に近いのではというような見解が残っていました。ですが、ジョディ・フォスターとケリー・マクギリスの熱演で話題になった映画 "The Accused"(邦題は「告発の行方」)などに見られるように、この時期からは女性をほぼ無条件で保護する権利が確定しています。判例というだけでなく、社会的な価値観としても明らかです。 更に、90年代になると女性シンガーソングライター・ブームの中で例えばトーリ・エイモスとかフィオナ・アップルといったメジャーな歌手たちが、過去の性的暴力被害を告白するという中で、被害者が名乗り出る文化が浸透して行ったように思います。勿論、実名での告白を自動的に強制するとか、実名を晒すということは今でも厳格に否定されていますが、本人の自由意志で過去の被害経験を告白することがメンタルな問題解決に役立つのであれば、周囲はそれを受容しなくてはならないし、まして嘲笑したり、疎遠な感じを持ったりすることは近親者であっても厳しく禁じられる、そんな文化が確立しているのです。 この事件が実名で報道されたのは勿論異例なのですが、一旦このニュースが出回った後は、メジャーなTVニュースも取り上げて行ったわけで、その背景には「アメリカ社会は被害女性を公的にも私的にも守り切る文化が確立している」からという点があったと言って構わないと思います。ちなみに、この報道には妙なリアクションがありました。NYU(ニューヨーク大学)司法安保研究センターのフェロー(研究員)であったニール・ローセンという人物がツイッターでの暴言事件を起こして大学を解雇されています。 ローセンのツイートは「聖女に祭りあげるのもいいけど、アイツは戦争屋だからな」「アイツみたいにヘンなことされた女がゴマンといるんだろう」(筆者意訳)というものです。勿論、これはこうした「被害者を守り切る」文化から見れば完全にアウトで、特に二番目のものは即レッドカードものですが、このローセンの屈折したツイートの背景にあるのは、先に申し上げた第一の点に関係してくるように思います。それは、どうしてアメリカのメディアは「戦争報道」にわざわざ目立つ女性記者を送るのかという問題です。 勿論ローセンのツイートはとても擁護できるものではありませんが、確かにここ数年、アメリカのメディアは戦争報道に目立つ女性を使いたがる傾向があります。TVの女性記者で戦争報道のプロといえば、CNNで長年活躍したクリスチャン・アマンポーラ(現ABC)がいますが、彼女の場合はイラン系英国人として生まれた中で中東問題などに深い理解をしているユニークな存在として活躍したわけで、女性の目立つ特性を使ってということではないと思います。911の直後には、何人か女性戦争記者が登場していますが、その多くも事件への個人的な思いからアフガンやイラクで何が起きているかを伝えようという個人的情熱に駆られたものでした。 |
|
前回のエントリ記事「上野千鶴子さんの朝日新聞連載「孤族の国 第1部 男たち」への論評を読む 」についてある「フェミニスト」と自称する人から反論がありました。しかし、その反論は、反論というよりも私の記事に対する単なる反発の表明というべきもので反論の体をなしていません。取り上げるに足らないものですが、その「反論」には現在のある種の「フェミニスト」と自称する人たちが共通して陥っている認識の浅慮、あるいは陥穽のようなものがあります。そのことを指摘しておくことは、フェミニズムが単に「女権拡張論」、また単に「女性尊重主義」をめざすものではなく、女性解放という目標を通じて男と女を含む人間の平等(ジェンダー平等)を実現するためのイデア(理念)、またセオリー(理論)であることを明らかにするためにも大切なことというべきであろう、と私は思います。 その「反論」は次のように述べて私を批判していました。 「あなたは『深くて冷たい海の底にいるような悲しくてどうしようもな い深いしじまの底からの男たちの嘆息』を上野さんが聞いていないとおっしゃるけれども、それ以前に、これと同じような、これよりもさらに切実な女たちの嘆息の、長い長い歴史に想いをいたされたことがおありでしょうか。」 私がこの「反論」が反論の名に値しない、というのは、同反論者は、私が前エントリで指摘している上野論評の問題性についてはまったく応えようとせず、私が同エントリではまったく言及していない「女たちの嘆息」なる問題を持ち出して、その「男たちの嘆息」の問題よりも「さらに切実な女たちの嘆息」の問題に私が前エントリで言及していないからケシカラン、という論ともいえない論を展開しているからです(「女たちの嘆息」の問題は前エントリの主題ではありません。前エントリの主題は「上野論評」の問題性についてでした)。 例をあげれば次のような論法のことを言います。 A氏「私は子どもが道路で遊ぶのは危険だと思う。」
B氏「そうは思わない。なぜなら子どもが外で遊ぶのは良いことだからだ。A氏は子どもを一日中家に閉じ込めておけというが、果たしてそれは正しい子育てなのだろうか。」 この論法は「無意識でおこなっていれば論証上の誤り(非形式的誤謬)となるが、意図的におこなっていればそれは詭弁」(ウィキペディア『ストローマン』)ということになります。 このような論法を詭弁とも自覚せず、正当な反論とでも思いなしているところに同反論者の非論理的思考力と無知がある、と指摘しておく必要があるでしょう。 それにもまして私が重要であると思うのは、同反論者の「反論」には、現在のある種の「フェミニスト」と自称する人たちが共通して陥っている認識の浅慮と陥穽があると思えることです。 同反論者は上記引用文で次のように言っていました。「あなたは(略)これ(筆者注:男たちの嘆息の問題)よりもさらに切実な女たちの嘆息の、長い長い歴史に想いをいたされたことがおありでしょうか」、と。 しかし、なんらの前提もなく、すなわちア・プリオリに「女たちの問題」を「男たちの問題」よりもさらに切実な問題だとする思惟のあり方は私は誤っているだろうと思います。「切実」さは状況によって変わってくるでしょう。いまパン一個もなくひもじさに耐えかねている女性がいて、もう一方で餓死寸前の男性がいたととして、どちらも「切実」な状況下におかれていることには変わりはありませんが、この場合より切実な状況下にあると判断されるのは男性の方とみなされるべきでしょう。これは性差別の問題ではありません。状況判断の問題です。長い「男性中心社会」の中でこれも長く、長く女性が差別的な状況下におかれてきた、いまもおかれ続けていることはいうまでもないことですが、そうしたフェミニズムの認識からどういう状況下にあっても「切実」さにおいては女性は常に男性を上回る、とする考え方はそれこそ“Masculinist(男性上位)思想”(同反論者は私を“Masculinist”性の持ち主であると批判していました)ならぬ容易に「“Matriarch”(女性上位)思想」に転化しうる思想というべきものだろうといわなければならないように私は思います。 これが私の一部(といっても、かなり広範な)の「フェミニスト」たちに見られる誤った「フェミニズム」思想批判です。この思想の克服は真の“フェミニズム”のためにも(フェミニズムといってもさまざまなフェミニズム論があるようですが、それらのさまざまあるフェミニズムに共通する課題として)重要なことだと私は思っています。 補足: 上記の記事を書いた後に同記事中にも少し触れておいたジェンダー研究者の伊田広行さんの「『男は、・・・女は・・・』という言い方」(ソウル・ヨガ(イダヒロユキ) 2011年1月17日付 )というブログ記事を読むことがありました。僭越な言い方になって恐縮ですが、私が上記で述べた「フェミニスト」批判(一部の「フェミニスト」に対する私の見方、考え方)に相通じるものがあるように思えましたので補足として下記にその大要を転載させていただこうと思います。ご参照いただければ幸いです。 ■「男は、・・・女は・・・」という言い方(ソウル・ヨガ(イダヒロユキ) 2011年1月17日)
僕の友人が、「女の友情はハムより薄い」という言葉をある女性から聞いたそうです。経験に基づき、ある側面を面白く言い当てているという意味で、面白い表現だと思いました。言った人のキャラクターでのその文脈では笑えました。
でも、もちろん、男であれ女であれ、厚い友情をもつひともいますし、薄情な人もいます。結婚したあと、あまり友達関係を続けられなくなるのは、その背景にいろいろ避けがたい事情がある場合もあるでしょう。 僕は、「男は、女は」という言い方にとても違和感を持つほうです。 そうでもないのにな、とよく思います。 でもある側面をいう、社会構造上の位置、育てられ方、そういうものを男女2グループで大雑把に見たとき、ある一定のことが言えるので、まあフェミニズム的な言説の分析にも、一定理解をもつほうだと思います。 でも、女性をひとくくりにし、被害者・弱者のほうに置く議論のアラっぽさにはときどき「あーあ」と思います。トンデモ系と同じ程度だなという意見もあります。 まあ、必要なのはバランスですね。 すこし硬くいうと、秩序を揺るがす言動(その意味で秩序の下位の側からの集団としての反撃、批判)には賛同しますが、その秩序が壊れた後の方向性を考えて、男女二分法の限界も意識しています。その2段階の意識がなくていつまでも男女二分法で語るのは、以下に示すように、トンデモ系でかえって害があるという効果を及ぼす場合もあります。 「女嫌い」「ミソジニー」とか「男たちのホモソーシャルな連帯」(性的でない男たちの絆)というような概念も、あまりに単純すぎ、ある一面でしかないなと思います。私は男性ですが、「ホモソーシャル」なんてきらいですね。いつまで、セジウィックをつかっているのでしょう。権威主義ですね。誰か外国の有名な人を使えばいいというスタイルはやめたほうがいいと思います。 決め付けられると、わかってないなあと思います。 上野千鶴子さんをはじめとして、フェミニストの分析や記述には共感するところ、学ぶところもたくさんありますし、私は昔も今もフェミニストですが、それは私が面白いとおもうフェミニズムの支持者であるということです。フェミニズム的だから何でもいいというわけではありません。 ***************** その関連で、男女二分法のいい加減さに少し触れておきます。 あるMLで、こんなことを書く女性がいました。 <おとこはんは左脳が活発で、負けず嫌いが多くて困ります。もっと右脳を使ってどうやって相手を楽しませようかと思うと楽しくなり免疫もあがりますが、おとこはんはすぐ証拠証拠って証拠症候群かいな。> ここには、トンデモ系・インチキ系でしかない「右脳・左脳」論をつかって、男女を本質主義的に規定しています。だめですねえ。 こういうのもフェミニズムの一部ですが、私はそんな言い方ばかり今でもしていることのだめさをわからないのは、困ったものだなあと思います。男は女ぎらいで、男同士が好きなのだ、なんて、いい加減なきめ付けを言うのはやばいなあと思います。 「学者」という肩書きがあってもいい加減な人などたくさんいるもので、NHKが取り上げたヘレン・フィッシャーなど本当に無茶を言っていると思いますが、そんなのに多くのが騙される。(インチキなのに人気といえば、川島隆太という大学の先生も「脳トレの川島」で大もうけ。) 「話を聞かない男、地図が読めない女」というトンデモ系も同じ程度ですね。 これら、男女二分法的のはみな、反フェミニズムのひとたち(バックラッシュ派、一部右翼・保守主義者)の、頭の構造と似ているといえるでしょう。 つまり、かたや、本質主義的に男は強く、女は従順で子供好きなものだといい、かたや、男は負けず嫌いで、すぐに群れてみな女嫌いだ、というのです。 本質主義、男女二分法という点で同じです。 少しの身の回りで観察された主観的な経験やゆがんだ情報を鵜呑みにして影響されるような点で、似ているといえるでしょう。 私がまともだなと思うフェミニズムは、今の社会で流布されている男女二分法、性役割、その規範性などを、おかしいなと思い、多様性を認めていく、だまされないリテラシー能力を高めるようなものです。バックラッシュ派と似たようなことをいって、男たちをくさして喜んでいるというのは、今後共感を広げていくのは難しいと思います。 |

閔妃のせいでロシア領になっていたらオリン...




