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写真は激戦のあった真岡港。真岡郵便局の「9人の乙女」もここで自決殉職した。
私が目覚めたのは朝だった。樺太特有の濃霧も晴れ、船は軽快なエンジン音を響かせて航行していた。
快晴で見渡すかぎり真っ青な空と海の中で、私たちの船だけが走っていた。
昨夜のことが色々と思い出された。山越えでクマに遭遇しなくて本当によかった。もしクマに遭遇して いたなら、武器もない私たちは間違いなく冬眠前の飢えたクマの餌食になっていた。
それにしても昼間のようにあたりを照らし出す月光の明るさを、私たちは予想もしていなかった。
約束の時間に大幅に遅れたのもこの月光のせいだった。
山頂から見下ろしたときの漁村を蔽う濃い牛乳のような濃霧もはじめての体験だった。
船上の全員が目を皿のように見開いて上空、海上を監視していた。もしソ連機やソ連海軍の艦艇に発見 されたらそれで終わり。生命の保障はまったくなかった。
数日前、国道を南に避難する人たちが口々に叫んでいったのは
「ソ連軍は日本人に攻撃を加えている。きっと皆殺しにするつもりだ。早く避難しろ!」だった。
網元が船での脱出参加を私たちに勧めたときも、「ソ連軍に捕まった時は全員銃殺されるらしいことは 聞いているので、覚悟の上での脱出行です」と話していた。
誰も口にはしなかったが、死を覚悟しての脱出行だった。だから全員が自決用の青酸カリや*ブシ(エ ゾトリカブトの汁)を携帯していたのだ。(*エゾトリカブトは樺太に生育する猛毒の植物で、その茎 汁を飲用すると10秒前後で人畜を殺害するといわれている)
そしてこの日は1日、ソ連軍に遭遇、発見されることもなく、無事夕暮れが訪れた。
後日、私たちの船逃避行の進路・真岡港を8月20日に攻撃し、上陸したソ連軍部隊の詳細を調べると
次のようなものだった。
1)ソ連軍の攻撃、上陸日 8月20日
2)日本軍との戦闘 8月20日〜23日
3)ソ連軍の規模
・17隻の艦艇、5隻の輸送船 飛行機80機
・海軍歩兵混成大隊、第113狙撃旅団 計3,400名
4)真岡港上陸のソ連軍と交戦した日本軍
・歩兵25連隊の1個大隊及び2個中隊
*日本軍指揮官Y大佐の報告書から「ソ連軍の素質」を要約すると
「ドイツ戦線から直送された部隊で、暴逆行動に馴れた素質不良の部隊。
教育程度は極めて低く(中略)飢えた狼に似ている」と。
*参考引用文献:「樺太防衛の思い出」鈴木康生著
前述したとおり、この逃避行で出発した日時等の詳細に記憶はなく、はっきりしていることは詔勅の翌 日8月16日が初めてソ連戦闘機2機の機銃掃射を浴びて九死に一生を得た日だったことまでである。
だから父母が隣町の病院から退院して帰宅したり、村の代表が決別の挨拶にきた日のあたりから記憶が 怪しく、いまでも多くの疑問がある。
起きた事件や出来事の記憶には間違いはないのだが、日にちにのみ疑問が残るのだ。
上述した真岡港攻撃のソ連海軍の規模をみても、もし20日に近い頃、私たちの船が真岡港に近づいて いたなら、例え30キロくらい離れていたとしても艦砲射撃の砲声や多数のソ連機の爆音を聞いている のではないかと思うのだが、現実にはまったく耳にしてはいないのだ。(次回に続く)
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