|
私たちの決死の樺太脱走船(10トンの漁船)は、南に向け全速で2晩走り続けた。
幸いソ連軍に発見されることもなく順調に航行してきたので、うまくゆけばこのまま北海道まで
走りとおせるような気がしていた。
網元の考えは*久春内まで到達できれば、そこで上陸し、汽車で南端の大泊港まで行き、そこからは日 本船で北海道に帰国する計画を組んでいた。(*久春内は大泊行きの汽車の始発駅で、防衛上はここが 北地区と南地区の境界線で、北地区は歩125連隊、南地区は師団主力の防衛担当地区になっていた。
また地形的にも南樺太でもっとも幅員の狭い個所(20キロ)で、久春内から東海岸の眞縫に達した。
だがソ連軍の行動がまったくわからない現状では不安要素は山積していた。
北部の支庁所在地・恵須取港が、ソ連軍の攻撃を受け、炎上していた2日前の夜、私たちは出航してき たのだが、ソ連軍戦闘機が我が物顔で上空に飛来し、日本人の避難民を容赦なく攻撃している様子か ら、どのあたりまでソ連軍に制空権を握られているのか見当もつかなかった。
なにしろソ連軍が10日に侵攻してきてから、1度たりとて日本軍機の勇姿を見ることがなかったので ある。
樺太の日没はおそく、21時頃でもまだ闇はこないし、雲がない夜は満天に星で、月光は強烈に明るい が、昨夜もソ連機の夜の飛来はなかった。
久春内から約100キロ南に真岡港が位置していたが、我々の船は鵜城近くの漁港から出航してきたの で、100キロ先の久春内にさえまだ到達してはいなかった。岸から約1.5キロの沖合いを航行して
いたので、目立った特長のない漁村などはそれがどこなのかはわからなかった。当時の漁船には望遠鏡 や双眼鏡などはなく、肉眼のみが頼りだった。
2日目の夜、眠りについてどれほどたってからか、なにか大きな物音で目が醒めた。
船員たちが慌しく船内を行き来している。いつのまにか波がでて船が停止して少し揺れていた。
網元や船員たちが船尾を覗き込み、やがて2,3人が海に飛び込んだ。
しばらくして網元の説明がある。
(海が少ししけて(荒れて)きて、曳航していたはしけ(小船)のロープが母船のスクリューに絡ま り、エンジンが止まってしまった。からまったロープは切断して撤去したが、全速走行で過熱していた
エンジンが焼付いて動かなくなったので修理中なのでもう少し待ってほしい)
この船には専門の機関士が乗っていなかった。この船の機関士は他の漁船で家族と共に一足先に避難し ていたのだ。
数人の船員が交代で機関室に入り、修理に当たるが直らない。
樺太の夏の夜明けも早く4時すぎには日が昇るが、海では濃霧が厚く海面を蔽う。船は錨を下ろした まま揺れ動いていた。船に乗りなれていない母や女先生が船酔いし、船べりから顔を突き出して嘔吐し た。修理はまだ続いているが、それ以外にはなすすべがなかった。我々は濃霧に厚く覆われていた。
「よわったな。もうすぐガス(濃霧)が晴れる」誰か漁村青年の声が聞こえた。
案の定、濃霧が薄れ、熱い陽光が肌を射し、汗が噴出してきた。そして霧は嘘のように消失した。
昨日と同じ晴天だった。私たちの船だけが海に浮かんでいた。砲声や爆音も聞こえなかった。
今日も無事発見されずに済むだろうか。でも船はもう動かず、小波のざわめいている海面に浮かんでい た。
そして恐れていたことが現実となった。
北の空にかすかな爆音がして、それは見る間に機影となり、確実に私たちの船に向かって高度を下げな がら直進してきた。爆音が日本軍機ではなかった。私たちの耳はいつの間にか峻別する力を備えてい た。ソ連戦闘機は攻撃の姿勢で船に近づいてきた。
その時だった。父の大声が甲板に響いた。
「誰か赤いきれを出せ!はやく急いで赤い布だ!」
漁師の家族らしい婦人が赤いきれを差し出し、父は青年にポールに結びつけるよう指示し、それを手に すると甲板に仁王立ちになり、ソ連機に大きく振り出した。
ソ連機は途中から不気味な金属音をあげながら急上昇していた。そして一定の高さから急降下をはじめ た。私は船べりにしがみつきながら閃光が走ったら海中に飛び込めるように身構えた。(もうだめか)
心の中でつぶやいていた。(続く)
|