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*写真は、稚内(宗谷岬)に建つ樺太探検家・間宮林蔵
目を覚ましたのは翌朝、早朝でみな寝入っていた。外へでると、他の民家前に見張りの青年が立ってい て、笑顔で挨拶した。あたりは静かで物音ひとつ聞こえず、海は冴え渡り船影も見られなかった。
民家から500メートル位先を国道が走っていた。樺太は細長い島で、西海岸は海沿いに国道が走り、
日ソ国境から南端までは500キロ弱で、島の中央には山脈が連なっていた。
国道も静まり返り、近くで戦闘が行なわれている気配はなく、ソ連軍が南下した様子も感じられなかっ た。私は民家に戻ると、横の納屋に入って驚いた。大きな米びつには米があふれ、魚介類の干物やかに
の缶詰などが所狭しと備蓄してあったのだ。そのほか軍手の束や魚網類もあちこちに置かれていた。
やがてみなが起きだしてから私は鳥小屋に行き、産みたての暖かい卵を籠ごと母に渡した。
そして久し振りに卵焼きや干物、缶詰など豊富なおかずを腹いっぱいに食べ、元気を取り戻したのだ。
どれほどしてからか国道の北方から爆音が聞こえてきた。飛行機なのか船、クルマなのかはわからなか ったが、砂埃をあげてトラックが現れて、一瞬、切迫した空気が流れた。
全員が私たちの民家に集まっていて、相手に覚られないように身をひそめながら、窓や物陰からうかが った。
トラックは漁村の真ん前で停止し、音を調整するスピーカーの雑音が流れてから、日本語が飛び出し た。流暢な日本語で、通訳のようなナマリの有る外人ではないことがわかる。
細かなことは忘れたが、要旨はこうだった。
(自分は〇役場の〇〇という日本人だ。日本軍はソ連軍に降伏して戦争は終った。あなたたちがそこに いることをソ連軍は知っている。抵抗の意思のない者には危害を加えないから、両手をあげて出てき なさい。10分たっても出てこない場合は、抵抗するものとして攻撃する)
*のちに樺太戦史を調べると、元樺太師団参謀長・鈴木康生大佐は、8月22日、知取町で、ソ連軍
アリーモフ少将と会見し、5項目の条件を提示、約束させ、停戦協定を成立させている。
正式には22日正午過ぎの由。ただしこの5項目の約束はのちに大半反古にされた。
1・略奪、暴行、強姦のなきよう
2・真岡港の住民への砲撃、爆撃を停止するよう
3・軍使の射殺の再発防止
4・日本軍を捕虜として扱わず、名誉を傷つけない
5・停戦実施伝達のため各地にソ連軍将校を同行させるよう
以上
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これを読むと、靖国神社に合祀されている樺太の真岡の電話交換手のお姉さんたちのことを思い出しますね。 ソ連軍の猛攻撃の前に「・・・皆さん、これが最後です。 さようなら」の声を最後に命を絶ったとのこと。 「南樺太は日本の領土」、「靖国神社に合祀されるのは戦争による公務死者」、これらは捻じ曲げることの許されない真実です。
2007/1/22(月) 午後 10:17
ご挨拶遅れてすみません。しかもこのとき真岡の主要日本軍は後方にいて、ソ連軍の攻撃にさらされ犠牲になったのは、大部分が非戦闘員の真岡 人でした。ロシアが南樺太を永久に日本に譲渡する内容のポーツマス条約は、実はソ連とヤルタ密約を結んだ米国の仲介によるものだったことを 知るとき、国際法などは無視してよいという戦勝国の横暴さを感じますね。
2007/1/24(水) 午前 3:35 [ hig**a78* ]