*写真は「三船殉難者慰霊の碑」(北海道・留萌)と「小笠原丸殉難者の碑」(北海道・増毛)
8月20日は、ソ連海軍が真岡港に攻撃をかけ上陸した日だが、2日後の22日に樺太師団参謀長・鈴 木大佐が、ソ連軍のアリーモフ少将と停戦交渉をした際に、「5項目の条件」を提示し、承認させた ことは前述したが、その約束は1項目(日本軍の停戦伝達にソ連軍将校を同行させる)を除いて、すべ てが反古にされた。
但し日露戦争で乃木将軍がロシア将校の名誉のために帯刀を許した返礼のつもりか、樺太でも中国大陸 でも日本軍将校の帯刀は一時的に許可されたらしいが、その後の仕打ちを日本人は決して忘れてはなら ない。ソ連軍の捕虜(70万人)とされ、シベリアなどで過酷な重労働の末、死亡した日本軍将兵は
1割の7万人にのぼる。
つけ加えるなら、日ソ中立条約(国際法)を破り、軍使を射殺(国際法、陸戦法規違反)し、ヤルタの 密約で旧北方領土を占領し、北方4島までも奪い取って、いまだに返還に応じないロシアなどに日本国 民として好意や信頼をよせることができるかということだ。
史実を調べると、20日に南端の大泊港から、老幼、婦女子を乗せた引揚げ船3隻が日本に向けて出航 しているが、22日北海道留萌至近の海岸でソ連潜水艦の攻撃を受け、撃沈、大破され、死者1700 余名を出した。樺太の戦争は8月10日にはじまり、25日ごろまで続いたのだが、多くの死傷者は
終戦日(8月15日)以降に出ているのがなんとも無念でならない。
私たち一行(漁船での脱出者)を乗せたソ連軍トラックは、ソ連軍兵士を満載したトラックとひんぱん にすれちがいながら北上した。荷台のソ連兵はきわめて友好的だったが、私たちがいままで住んでいた
場所に強制送還されつつあることに違いはなかった。
やがて星空の下で見慣れた風景が目に飛び込んできた。ようやく漁村に戻ったのだ。
大半が魚村民なのでここでトラックを降り、網元は更に一山越えて村に戻る私たち4人に不安を感じ、
漁村に泊まるよう説得したが、父は「大丈夫」と謝意を呈し、私たちのトラックは山に向かった。
キャビンにはソ連将校、運転兵と父、荷台には自動小銃を持ったソ連兵が2人と私、母、女先生。人っ 子ひとりいない夜の山道をトラックは走り続ける。
私はふと思った。(もしこのソ連兵たち4人が突然、私たちを襲ってきたとしたら、相手のなすがまま だ。網元が心配したのも無理はない)と。
私は以前から父の言動に素直に同意できないことがたくさんあった。畏敬の念は持っていたが、親子と しての情愛はあまり感じなかったと云っていい。
父の度胸がいいことは認めるが、私からみると無謀すぎると思うことが多く、その後も生命の危機を感 じることがソ連兵やソ連人との対応で多発し、4年間の「鉄のカーテン」内生活では、命の縮む思いを
幾度となくしてきた。生きて日本に帰国できたのは、すべてが好運だったことだけだといまでも思う。
反抗、抵抗する日本人をまるで虫けらのように射殺したソ連兵の実態をいうなら、樺太各地でどれほど 多くの日本人が行方不明になっているかわからないのだ。
ようやくトラックが無事山を下ったとき、私の緊張は一気にとれ、急に疲労感が襲ってきた。
久し振りで目にする民家には灯りは見えず、もう山越えして東海岸から日本に脱出したのかもしれなか った。
トラックは校庭で止まり、ソ連将校がキャビンから降りた父に握手を求め、その後、まるで映画でみる
ドイツ将校のように靴をカチリと鳴らし、不動の姿勢で父に挙手の礼をしてから去っていった。
この日から私たちの樺太(サハリン)での四年間の抑留生活がはじまったのである。
*写真は「樺太防衛の思い出」鈴木康生著より引用。
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私の勉強によると、ソ連軍に捕まった日本人は100万人以上で、そのうち約50万人が死亡したと推定されています。 http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=NW&board=1143582&tid=fn5febg5tbba6a1a6bdbe730v0bix6afc0a9oa29ta4n13&sid=1143582&action=m&mid=9648
2007/1/22(月) 午後 10:21
おはようございます。資料のご提示有難うございました。今のロシアの本質もソ連時代となんら変わりないと思っています。
2007/1/23(火) 午前 9:05 [ hig**a78* ]