写真は真岡港、9人の乙女の碑、真岡中学校、昭和天皇、皇后
真岡港(現ホルムスク)は本斗と並び、西海岸有数の不凍港だった。
段丘の町で、海沿いに市街が展開しているために、樺太師団防衛戦略上からも、敵の攻撃(艦砲射撃)
を受けると掩護の方法はなく、予め住民を島都・豊原や北海道方面に避難させた上で抗戦しないと甚大 な被害が出ることは予想されていた。
そして8月15日の敗戦日を迎えたのだが、ソ連軍は武力による侵攻(南進)をやめず、西海岸の塔路港 や恵須取港を次々と艦砲射撃の上、ソ連軍に上陸され、恵須取方面からの避難民は上空からソ連爆撃機 や戦闘機の機銃掃射を浴び、多数の死傷者を出した。
1945年(昭和20年)8月20日、「ソ連艦艇4、5隻が北上中」の予報は、北8kmの幌泊監視硝から真 岡郵便局長宛入電し、職員に緊急召集を指示した直後に艦砲射撃を受け、真岡港の悲劇が始まった。
真岡港には、この日、恵須取方面からの避難民が1万5千人から1万8千人が到着し、日本からの引揚げ船 に待機していたのだが、早朝の濃霧をついてのソ連艦艇の攻撃や上陸の急襲を受け、人々は岡を上って
裏山に逃避しようとして、ソ連兵の自動小銃の乱射を浴び、多数が犠牲になった。
ソ連軍戦史によると、日本軍2個中隊と交戦したとあるが、真岡港、市街の日本軍はきわめて小部隊 で、市街での戦闘はほとんど行なわれてはおらず、犠牲者の大多数は避難民や真岡町民だった。
このとき樺太師団は、終戦で大兵を動かす事は禁止されており、抗戦したのはわずかな日本兵だけだっ たという。
このとき、真岡中学校の教練教官一家数人や神社・神官一家が自決している。
そして真岡郵便局交換嬢9人が睡眠薬と青酸カリを飲み、白制服の上にモンペをはき、自決したことは あまりにも有名だ。彼女たちには全員、「優先引揚げの指示」が出ていたにもかかわらず、断ってい る。
宗谷海峡を見下ろす北海道・稚内の丘上の「氷雪の門」そばに、「殉職9人の乙女の碑」が建ってい る。彼女たちには昭和48年3月30日、勲8等宝冠章が送られ、昭和天皇皇后もこの碑に立ち寄られた。
なお1946年より1949年7月まで樺太(ソ連統治下のサハリン)に抑留された日本人の日本本土への 引揚げ港としても有名で、29万人が帰国している。私たち一家も1949年6月末、第5次樺太引揚者とし て北海道函館港に帰国した。帰国船「徳寿丸」、帰国者総数2244名。
*このほか11万人が8月10日から8月末頃までに樺太を脱出、帰国している。
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この碑を見に行った事あります。映画も昔見て「真岡郵便局」記憶に焼き付いています。
2007/2/4(日) 午後 8:18
コニーさん、コメント有難うございます。私も以前、彼女たちの慰霊のため稚内に行きました。そしてサハリンの見える海近くの飲食街で、彼女たちを偲んで深夜まで深酒しました。
2007/2/5(月) 午前 2:36 [ hig**a78* ]
真岡中出身父が先日死去しました。真岡でのつらい思い出をたくさん聞いてました。
2010/2/25(木) 午前 10:50 [ 優子 ]