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マレーの上陸は、航空撃滅戦と上陸作戦が同時に敢行されたのだが、フィリッピンへの上陸は、
3段構えの戦法がとられた。第一段に航空撃滅戦、第ニ段に先遣隊を進めて飛行場を占領、第三段に
主力の上陸という3段構えで、この戦法は、後に行なわれた米軍の反攻作戦においても、ヨーロッパに
おけるシシリー島やノルマンデーの上陸作戦においても、規模こそ違え、同様な方式がとられたのであ る。そういう意味では日本軍こそこの作戦の元祖なのだ。
この航空撃滅戦では、台湾南部に基地を持った海軍機380機、陸軍機140機がクラーク、イバ両飛行 場に殺到し、米機は離陸前だったので、大戦果を上げることが出来た。
日本軍は上陸第一歩から息つく間もなく急進し、戦車群がむらがる敵中を突破、追い越して進み、
橋下の火薬につないである電線を切り、舟艇機動では敵の後ろ後ろへと上陸し、背後を脅かした。
糧を敵に得たのみならず、ガソリン、爆弾も戦利品で間に合い、海を守れば陸から攻め、道を防げば
ジャングルから廻るなど、空海陸同心一体となり、協力間然するところなし、と著者は記述する。
そして英の舗装道路は、進撃にエネルギーと加速度を与えてくれた。フイリピン、ジャワでも同じこと で、このことは大陸戦線では見られない現象だったと語る。
2月8日、シンガポール要塞への攻撃は、440門の大砲、野砲各1千発、重砲各門5百発の弾丸集積、 工兵隊のジョホール水道の渡河準備によって開始された。力攻また力攻で、三方からの総攻撃を行い
遂に敵は白旗を揚げ、有名な「山下パーシバル会見」が行なわれ、英は日本軍に無条件降伏をして
シンガポール攻略戦は終ったのだった。
この先、日本軍は1月3日、マニラを占領したが、アメリカ軍の主力は、バターン、コレヒドール方面に 移動し、再び軍を整えてバターン半島攻撃を開始しなければならなかった。4月7日、バターン総攻撃を 開始し9日、バターンを落とし入れ、5月7日、コレヒドールを占領。日本軍の連戦連勝で「マレーの 虎」として世界に勇名を轟かせた山下将軍だったが、その後、運命は「マレーの虎」をフィリッピン最 後の守将となした。
真珠湾攻撃で損害を受けた米太平洋艦隊は、今後数ヶ月、大規模な作戦には参加できないとして、
米作戦部は、当面、オーストラリアの基地化と米濠交通線の確保に重点を置く事になる。
オーストラリアは、フィリッピンへの跳躍台となり、この基地からフィリピン内部の残存部隊やゲリラ 部隊に対して、飛行機や潜水艦で、封鎖破りの補給が行なわれたのである。
*この写真は、樺太、西海岸の牛牧場
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