近代戦史と国際情勢の研究、考察

旧北方領土(樺太、千島列島)の史実伝承

全体表示

[ リスト ]

大本営発表18

イメージ 1

 栗田艦隊は、ブルネイ出発以来、不眠不休の5日間だった。潜水艦に狙われ、飛行機に襲われ、僚艦の 沈没が相次ぎ、まさしく死闘の連続であった。かかる苦難と疲労の堆積が、判断の明鏡を曇らせない とは、誰が保証し得るであろうか、と著者はいう。

 こんなときに、サマール島東北方に敵機動艦隊出現の報せが入った。
 (レイテ湾の獲物は逃げ出したようだ。むしろこの機動艦隊に、午前の戦果と同様の大打撃を与える ことが出来たら、爾後の作戦に有利な影響を与えるにちがいない)それに、
 (増強された敵機から狭い湾内でやられたら大変だ)との考慮も手伝ったと言われている。

 かたや陸軍だが、1945年(昭和20年)1月3日、方面軍司令部をバギオに移転した。
 1月6〜7日、ルソン島の交通路は猛爆撃を受け、ゲリラは橋梁の破壊に協力した。
 1月9日、米輸送船団はリンガエン湾に進入し、猛烈な砲爆撃の後、上陸を開始し、7万人を陸揚げし、
 橋頭堡を作り上げてしまう。

 日本軍突撃隊は、輸送船めがけて肉薄攻撃を敢行し、20隻前後を撃沈、撃破し、敵船団は湾内を右往 左往して逃げ回った。リンガエン守備隊は、毎夜、敵線深く潜入し、相当な戦果をあげた。
 2月4日、米軍はバギオ正面を攻撃し、マニラに南下する。

 海軍部隊は、港湾施設を徹底的に破壊し、約1万人はマニラに止まる。山下大将、大河内中将は市外退 去を電命したが、2月下旬、市街戦で全滅する。

 米軍有力部隊は、パレテ南方に進撃し、そこには日本軍1兵団(実力5個中隊)と戦車師団がいて、
 マニラから搬出した軍需品が山積していた。

 戦車師団と優勢な空軍に掩護され、我が軍の数倍するこの敵を邀撃したが、大損害を蒙る。
 だが、この犠牲は、パレテ峠を占領し、軍需品の搬入を完成したので、パレテ守兵の勇戦と相俟って
 4ヶ月の持久戦を可能ならしめた。

 米第8軍のアイケルバーガー中将は、「この戦いこそ日本軍の真価を発揮したもの」として激賞してい る。

 3月21日、バギオでは、ラウエル大統領の日本への亡命があり、村田大使と下山して、カガヤン河谷か ら台湾に飛んだ。沖縄戦たけなわな時だった。

 5月下旬、方面軍司令部はプログ山麓のキャンガンに移り、複郭陣地の構想が立てられる。
 プログ山麓は、東北80キロ、東西50キロで、山間盆地が数箇所あり、棚田、段々畑もあり、食糧も
 なんとかなりそうで、ここで敵を食い止めようとした。

 6月中旬、米軍はラムット河橋梁を修理して、複郭陣地の方にやってきた。
 思う壷にはまったのだが、複郭の準備もまだ未完成だった。

 ルソンの山奥の小さな日本人のこの国を、洪中将は自活監として自活区域を割りあて、食糧の収集配 給に当たり、馬場少将は患者と居住民を、安全地帯の谷間に移し、完全な米軍の包囲の中、司令部員 も銃をとって前線に向かった。

 1945年(昭和20年)8月15日、山下大将、武藤中将の2将軍は、プログ山東麓の掘建て小屋で敗戦を
 迎えた。米有力6師団を最後まで秩序を保って引き付けた。この部隊は、日本本土への進攻を予定さ れていたものだった。

 戦いは敗れたが、おそらく2人の全知能は、この一戦に集中されたと言っても過言ではあるまい、と
 著者は語る。

 *この写真は、「樺太戦没者慰霊」 樺太では日ソ戦で、多数の住民も死傷した。


.
hig**a78*
hig**a78*
男性 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

過去の記事一覧

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事