近代戦史と国際情勢の研究、考察

旧北方領土(樺太、千島列島)の史実伝承

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樺太は1945年(昭和20年)8月10日、「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄したソ連軍によって侵攻されましたが、日本が戦いをやめた8月15日(詔勅の日)以降もソ連軍は武力による南進をやめませんでした。
そしてソ連軍は8月20日、多数の艦艇を西海岸の真岡港に終結させ、砲撃ののち上陸作戦を遂行しました。
真岡郵便局には北海道の軍司令部その他と連絡をとるために多くの交換嬢が残っていました。
彼女たちは優先的に日本に帰国できる機会を与えられながら、自主的に職場に踏みとどまっていたのです。
応戦した日本軍の砲台が全滅し沈黙した後、多数の上陸用舟艇は海岸に殺到し、ソ連軍が真岡市内に乱入してきました。それを目にしながら9人の交換嬢はその状況を最後まで日本に報告した後、服毒自決したのです。


彼女たちの慰霊碑は北海道稚内市の、樺太(サハリン)の海が見える小高い丘上の公園に建っています。
わたしも慰霊碑の存在を知ってからすぐに遠方から慰霊にかけつけました。
もしわたしたち一行の乗った脱走船が故障で漂流しなければ、8月20日ごろには真岡港を通過し、ソ連艦艇に発見され、確実に砲撃を浴びて海の藻屑と消えていたはずなのです。

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千島のことが日本に知られるようになったのは、今から300年以上前の江戸時代のことです。
もともと千島には、アイヌの人々が住んでいました。北海道の松前藩の記録に、「1615年に北海道の東に住んでいるアイヌの人々が、ラッコなどを松前藩に納めた」とあります。
ラッコは千島の近くの海でしかとれないので、この当時から松前藩と千島の交流があったことがわかります。
さらに、松前藩は、1644年に家来の村松広儀(むらまつひろよし)に命じて、「正保御国絵図(しょうほうおくにえず)」という地図を作りました。
この地図は、千島の島々を描いた世界で最も古いもので、松前藩が千島の島々を知っていたことがわかります。ロシア人が千島のことを知ったのは1697年のことです。
この年、アトラゾフという人が、カムチャッカ半島で、クリール人から千島の島々のことを聞きました。
ここでは以下、国後島、択捉島及びウルップ島から北のパラムシル島、シュムシュ島までの島々を「千島」と呼びます。

2018/9/9(日) 午前 10:43 [ 日本の美しい国と心と環境を護る ]


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