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樺太は1945年(昭和20年)8月10日、「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄したソ連軍によって侵攻されましたが、日本が戦いをやめた8月15日(詔勅の日)以降もソ連軍は武力による南進をやめませんでした。 |

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こんにちは、ゲストさん
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樺太は1945年(昭和20年)8月10日、「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄したソ連軍によって侵攻されましたが、日本が戦いをやめた8月15日(詔勅の日)以降もソ連軍は武力による南進をやめませんでした。 |
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千島のことが日本に知られるようになったのは、今から300年以上前の江戸時代のことです。
もともと千島には、アイヌの人々が住んでいました。北海道の松前藩の記録に、「1615年に北海道の東に住んでいるアイヌの人々が、ラッコなどを松前藩に納めた」とあります。
ラッコは千島の近くの海でしかとれないので、この当時から松前藩と千島の交流があったことがわかります。
さらに、松前藩は、1644年に家来の村松広儀(むらまつひろよし)に命じて、「正保御国絵図(しょうほうおくにえず)」という地図を作りました。
この地図は、千島の島々を描いた世界で最も古いもので、松前藩が千島の島々を知っていたことがわかります。ロシア人が千島のことを知ったのは1697年のことです。
この年、アトラゾフという人が、カムチャッカ半島で、クリール人から千島の島々のことを聞きました。
ここでは以下、国後島、択捉島及びウルップ島から北のパラムシル島、シュムシュ島までの島々を「千島」と呼びます。
2018/9/9(日) 午前 10:43 [ 日本の美しい国と心と環境を護る ]