|
ある朝、校長宅に隣接したソ連兵宿舎前にソ連兵が2人そろって立っているのを確認した父は
笑顔で近づいて行った。
母とわたしは玄関前でそれを見ていたのだが、2人のソ連兵は父を日本人学校の校長だと知っているの で、挙手の礼で挨拶した。
以前、ほかの欄でも記述したが、当時のソ連は国をあげて5ヵ年計画を推進中で、そのせいか教師の社 会的地位は軍人なら佐官クラスの高級将校並みで、敬意を示されることが多かった。
遠くて声は聞こえなかったが、父はゼスチャーを交えて用件を伝えているようで、しばらくして
父は2人と握手して戻ってきた。
そして私たちを見ると、「ロシア語の先生交渉、成功したよ」と笑ってみせた。
実際、母と私も体験したように、身振り手振りの意思伝達の手段はお互い驚くほどに大きな効果が
あることを知った。
このときから私たち一家とソ連兵との交流がはじまった。
最初に来宅したソ連兵はワーシヤという軍曹で、後からバケツを借りにきたのがコーリャ伍長だった。
まだ戦争が終ったばかりでわたしたち日本人の将来がどうなるのかまったくわからないままに
父のロシア語の猛勉はこのようにしてスタートした。
父のロシア語授業は、彼らの立ち番のとき、休憩時間のとき、食事のときなどあらゆるチャンスを利用 して、屋外、あるいは校長宅を使って行なわれたが、母も次第に彼らを軽食などでもてなすようになり
親密の度合いは深まり、父や私たちのロシア語も急速に上達していった。
|