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樺太西海岸の雪解け頃(晩春)はいつもの事ながら大変に慌しい。
海から一山越えて奥地に入ったわたしたちの村にも海鳴りの音ははっきりと聞こえてくる。
「バリバリ、バリツ」海鳴りとは、海を覆っていた氷がさけて割れる音である。
割れた氷はゆっくりと沖合いに移動をはじめると、やがて真っ青な海面が姿をあらわす。
すると漁村の若者たちは待ちかねたように見張り台にのぼり、ニシンの大群を探す。
漁村の年収をたった2月(ふたつき)で稼ぎ出す宝の山・ニシン大群の到来である。
漁村周辺の町村は、学校も休校にして全員漁村の応援だ。全国からやん衆も殺到する。
だが敗戦翌年1946年の樺太の様相はすべてが変わった。
ソ連軍が駐屯し、ソ連各地から文官や移民が送られてきて、ソ連の民政に移行しつつあった。
漁村はソ連の「漁協(ルイバ・コンビナート)」の傘下に入ることになったが、規模が小さいため
本部から指導者がきて、いままでの日本式やり方を踏襲するということになった。
そして日本人漁民の帰国後は漁村はなくなったという。
わたしたちの村もソホーズ(集団農場)が作られるということで、海岸の国道から村に至る山道は
幾台もの建設機械が襲来?し、一気に道路の巾員か拡張され、農場の計画図面が掲示された。
夏頃には、ソ連人文官や農場労働者用の国営市場やソ連人初中等学校(10年制)ができ、そのときに
日本人子弟のための「日本人学校」が附属校として設立され、父や学校教職員たちはソ連教育庁の監督 下でソ連から俸給を受け、再び教職員として働く事になる。
国営市場は日本人も利用する事ができたが商品の種類は少なく、食料品や衣類に限定されたが、そのう ち商品の種類も増えていった。
日本人に人気のあったのは、フエルトを圧縮した防寒靴(ワーレンキ)だった。
日本時代はゴム長靴しかなく、寒い日などはいくらストーブで温めてから履いてもすぐに冷えてきた が、ワーレンキだと基が毛皮だから軽い上に保温の効果があり、重宝したものだ。
なにぶんサイズは大きかったが、大きい分にはソ連人式にぼろ切れを足に巻きつければ温かく、一石二 鳥だった。
米やもち米が国営市場で売り出された時、もっとも喜んだのは餅好きの父母だった。
噂によれば樺太師団が備蓄していた戦闘用食糧だったが、敗戦後ソ連軍高級将校が利権を獲得し
横流ししているらしい怪しい商品とのこと。
嬉しいことにソ連人はほとんど興味は持たず、そのためもち米はさらに安価だったので、日本人が
全部買い占めた。そして品切れになるとまたすぐに補充された。
どこの家でも餅つきの臼や杵、蒸篭など一式はそろっていて、この予期せぬ放出物に日本人は大喜び
した。戦争に負け、抑留の身になってから、米やもち米がふんだんに入手できるなどとは考えてもいな かった。
我が家などは翌年の秋によもぎを大量にとり、蓬餅にして砂糖醤油で思う存分に食べたものだ。
ここで樺太人による樺太詩をご披露する。
引用文献:樺太歳時記(国書刊行会)
此の月をソ領の月と仰ぎけり 石塚 遅牛
雪はまだ降りつづき居り桜餅 丹野 郷仙
鰊漬の凍りし樽を叩きけり 沢 朔風
夜は夜でけんちん汁や冬篭り 佐藤 虎尾草
以上
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