村にソホーズ(集団農場)ができ、そこで働くソ連人労働者がシベリア方面から続々と移入し、
首都モスクワ近郊からは初中等学校教師志望の若いソ連人女性が来訪したり、村の民生署勤務になるソ 連人が下見に来たりと、雪解けの村にはたくさんのソ連人が来訪した。
学校は新任のソ連人女性校長と日本人学校長の父が協議して、詳細が固まった。
職員室の内部は仕切られる事なしに、ソ連人学校と日本人学校が同居することになり、ソ連人学校長も
異議はなかった。
日本人学校は戦前同様に漁村の子弟も通学することになったので、人数は多く2つの教室を使用したの に対し、ソ連人学校の児童は1年生から10年生まで合わせても20人足らずで、1教室でも広すぎるくら い。屋内運動場がひとつであることから、日本人児童とソ連人児童の休憩時間に差を設けた。
ソ連児童の7年生から9年生は日本の新制中学生にあたり、10年生は高校1年に相当したが、はじめは
数の上で圧倒的に日本児童が優位だったせいで、ソ連児童はとてもおとなしく、静かだった。
でもそれが2年も経つと、日本に帰国する日本人が増え、ソ連人労働者の入村人口が増えてくると
児童の数は圧倒的にソ連人が増え、3対1に逆転した。
するとどうだろう。それまで猫をかぶったようにおとなしかったソ連児童ががらりと豹変し、とくに8 年生から10年生の高学年生が敵意を剥き出しにして日本児童に難癖を突きつけてきたり、日本人教師
に対しても挑発するようになる。それまで日本児童はソ連児童に対してきわめて友好的で、協力的で
しかも親切で、恨みを受けるような仕打ちはまったくしてはいなかった。
日本児童は教師に相談し、教師は校長(父)に上申した。
父はありのままをソ連人校長に報告すると、ソ連人校長も薄々は気づいていたらしく、やはり同じよう な問題でてこづっているらしく、日本人教師が今後そのような現場を目撃したら、注意を与え、もし反 抗するようなら「実力行使をしても良い」という承認を得たのだった。
そしてまもなくそのときがきたのである。(続く)
*写真2枚は、平成5年ごろにポレチイエ村を撮影してきたもの。
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