近代戦史と国際情勢の研究、考察

旧北方領土(樺太、千島列島)の史実伝承

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太極拳抄

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 わたしが今、所属している気功・太極拳同好会は、所属員10名ほどの小規模のクラブだが、その中で 検定資格保持者は7人もいる。太極拳教室の規模はさまざまだが、目的により色々な教室がある。
 私も目的により、もう一種類の教室に通っていて、そのクラスはあと1回で終了となるが、次回のクラ スには、すでに往復はがきで申し込み、抽選にパスした。

 どのような教室かといえば、「24式」という型を専門に学ぶ教室で、前半、後半と分かれていて、  それぞれが3ヶ月コースになっている。募集人員は100名と大人数で、応募資格条件は、「16歳以上  で、経験者」となっているが、毎回初心者が数人はいて、脱落せずに10回コースを終了しているとい う。指導する講師は3人で全員が女性である。
 
 月によって回数は違うが、大体3回か4回だ。これほどの大人数募集でも、抽選が行なわれると言う事 は太極拳の人気が高いせいかもしれない。
 
 太極拳の流派によっても異なるが、「24式」は太極拳のメインの型で、この演武が正しく行なえれ  ば、審査で1級の検定資格が与えられる。

 その審査は去る5月下旬に実施され、わたしたちのクラブでは7人が審査を受け、3人が合格した。 わたしを含めて5人が2級に挑戦し1人が合格し、5級受験者2人も審査にパスしたのだった。

 2級にパスしたのは、クラブ長老の中年女性で、誰もが合格は当然と思える人だったが、落とされた 4人は実のところ、わたしも含め、どこが悪かったのかは不明なままではないかと推察する。

 一見、それほど難しそうではない太極拳だが、これからはよほど気を引き締めて、細心の注意を払っ て学習、精進し、失敗の原因を突き止めないと、再び同じ憂き目をみることになると猛省するこの頃
 なのである。

 健康増進の目的ではじめた気功・太極拳だが、先生の熱意から検定資格に挑戦し、昨年3級に認定さ れた。規模の大きな太極拳教室でも、先生の考えから検定審査を勧めない同好会が少なくない。
 せっかく数年間の熟練した経験をもちながら、無資格の太極拳経験者をたくさん知っている。
 
 クラブの先生に感謝しながら、これでくじけず、再度挑戦し、いづれは1級資格を取得したいとあら ためて決意した。つまらないわたし事にお付き合いいただき、深く感謝。

 *この写真は、樺太引揚げ船「徳寿丸」。昭和24年夏、私たち一家はこの船で函館に帰国した。

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 この日米両軍の大計画が、単に机上のものにとどまり、現実の日程にのぼらず、流血の惨事と国土の
 荒廃を未然に防ぎ得たことは、日米両国民にとって幸いであったと言わなければならない。
 (中略)
 阿南陸相は、かっての濠北方面軍司令官として、ビワク島の戦いで一度アイケルバーガー軍の上陸を
 撃退した経験があるので、海岸の直接配備で、決戦をやるべきことを強調した。そうして自ら九州、
 関東と陣地の構築状況を視察に出かけた。(中略)

 阿南陸相は、その戦況説明で「来るべき本土決戦においては、勝利の事実をもって、国民諸君の熱烈
 なる御支援に答えん」と結んだが、すでに濃厚なる敗色は拭い去ることも出来なかったし、予期され た万雷の拍手を聞く事も出来なかった。

 本土決戦における勝算についての、梅津、阿南両大将の腹は、前述のような太兵をあつめて、1回戦
 においては必ず勝ち得る。だが、2回戦以後は補充が続かないので自信はない。
 1回戦において、大打撃を与えた時期に、なんとかして有利な終結に導き得ないものか、というので
 あったようである。

 私(著者)は、7月初め、広島司令部に転勤を命ぜられた。ちょうど、原爆投下の1ヶ月前である。
 離京を前にして、梅津、阿南の両将が、ささやかな送別の宴を張ってくれた。

 2人の将軍は、大分の出身で、しかも少年期を熊本で過ごしている。始めて少尉に任官したのも、東 京の同じ歩兵連隊であったという。クラスは梅津さんが3期上である。阿南さんにしてみれば、梅津 さんに同郷の、しかも同連隊の出身で、同じ将校団の先輩であった関係上、なにかと教えを仰いでお られたようである。

 この2人の将軍は、敗戦日本を、その最高の責任者として背負って立たなければならなかった。
 私は東京を去るにおよんで、この2人の将軍にからまるであろうところの悲劇を、想像せずにはいら れなかった。(完)
 
*higuma786
「大本営発表」の著者(元大本営報道部長、広島軍管区参謀長、陸軍少将)の記述はここで終る。
幾十年ぶりでこの本を読み直しながら、要点をかいつまんでご紹介した。
 この書は原本で、昭和27年5月20日に発行されたもので、同年7月10日までに6版を重ねてい る。復古版は2,500円くらいで入手可能なので、ご希望の方は書籍で乞ご検索。
 ご来訪いただき、お読みいただいた方々に深く御礼申し上げます。有り難うございました。

 *この写真は、鵜城漁港風景。
 
 
   

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 〇「決号」作戦とは本土決戦のことで、大本営は、米側の作戦を次のように判断していた、と著者は  語り、それは後に、大体当たっていたのである。
 
 (大本営の情勢判断)

1)米軍は航空作戦により諸組織を無力にしたあと、速やかに戦争を終結に導くために、決戦を関東地  方に指向するであろう。それに先立ち九州方面に進攻を企図する公算が多い。
2)ソ連は2月からシベリア向けの兵力輸送をやっているので、夏秋の頃にはいつでも立ち得る態勢にあ  るから、好機を捉えて攻撃の挙にでるであろう。
                        以上

 そしてその判断に基づいて「計画の大綱」が作られた。
一)戦備の重点を関東地方及び九州地方とする。
ニ)米軍の攻略企画は、努めて洋上で撃破する。上陸してきた米軍に対しては、果敢な地上攻撃で
  迅速に決勝を求める。

1)主目標を輸送船とする。
2)陸上作戦は沿岸地域で圧倒撃滅することを主眼とする。
3)挙兵皆兵の精髄を発揮して、作戦目的の完遂を期する。
                          以上

 具体的には、特攻によって洋上で四分の一、水際で四分の一、残り二分の一を陸上で撃滅しようとい う算段であった。

 (航空兵力の配備)

〇陸軍航空
 航空総軍には第一、第六、第五航空軍があって、
 第一軍は東日本を担当・・・1、100機の内、特攻が600機、
 第六軍は西日本担当・・・1,500機の内、特攻1,000機
 第五軍は鮮満、華北担当・・・700機の内、特攻500機
 合計3,300機の内、特攻2,100機、このほかに8月までに特攻1千機が整備されることに
 なっていた。

〇海軍兵力
 偵察機140機、戦闘機1,030機、特攻4,055機
 合計5,255機という計画であった。陸海合わせて一万になんなんとする機数であった。

〇地上軍
 北海道方面・・・5個師団
 *第1總軍(東北方面軍)・・・5個師団
  関東方面軍・・・21個師団
  東海方面軍・・・6個師団
 *第2總軍(中部方面軍)・・・8個師団
  九州方面軍・・・14個師団
 で、米軍が上陸した地区には隣接軍の部隊もかけつけるという考えであった。


 これに対して米側作戦は、第一が九州上陸、第二が関東上陸、日本側判断は大体あたっていたのであ る。九州はオリンピック作戦と呼ばれ、1945年(昭和20年)11月1日を期して敢行される予 定であった。上陸軍は計13個師団が参加することになっていた。
 次の関東地方に対する作戦は、コルネット作戦と呼ばれ、1946年(昭和21年)3月1日頃の予 定で、15個師団の予定であったが、欧州方面から転用された10個師団があり、合計25個師団の 参加予定となった。

* higuma786
これまでの強豪日本軍との戦闘経験から、日本本土での戦闘には予想以上の大損害を予想していた
  ことは明らかで、ヤルタ密約によるソ連軍の連合国参戦が起こり、国際法上不法なソ連軍による
  日本領土(樺太、千島列島、北方4島)の占領が行なわれ、米英連合国諸国はいまだに黙認してい  る。その上、GHQの占領政策により、日本の過去の戦争、大東亜戦争のすべてが侵略戦争だった  と歪曲され、報復裁判により祖国を想う指導者たちは処刑され、反日諸国(中国、韓国、北朝鮮)  はいまだに歴史認識や多くの史実を平然と捏造し、国を挙げて南京虐殺、慰安婦強制連行などの虚  偽内容を、戦略的に世界に発信している。
  
  自国の真実の歴史は、「大本営発表」に限らず、関連した多くの指導者達の著書を読み、判断する  ことで、その実相がわかってくる。自国に愛情をもってこそ真相が見えてくるもので、ゆがんだ心  で史実を探ろうとすると、反日国や反日思想を持った奴らの壷にはまってしまう。
  伝統的にも偉大な文化を伝承してきた日本が、左系の奴らの言うように、軍国主義で、侵略国で
  世界の非難を浴びるような残忍で非道な行動ばかりとってきたのかどうか、熟考する日本人が
  増えることを切望する日本人の一人である。コメント大歓迎。異論もどうぞ。

  *この写真は、旧日本領土「樺太」。ポーツマス条約により国際法上正式の日本領土だった。
   千島列島も歴史的に日本がロシアの1世紀も前に発見して「日本領土」の標識を建ててきた。
  
 

 

大本営発表22

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 「4月5日、沖縄がこれからだというとき、小磯内閣は退陣した。(中略)事実はレイテ天王山からル ソンにかけての敗戦のためであろう」と著者はいう。

 ソ連の対日態度が悪化したのは、1944年(昭和19年)の秋、ドイツとの戦いが峠を越して、連合側の
 勝利が確実となった頃、太平洋では日本がレイテ作戦でギュウギュウの目にあっていた頃からであ  る。

 前年の11月の革命記念日の演説で、スターリンは始めて日本を誹謗した。
 あけて20年の2月末から兵力の東送を始め、4月5日には、かって松岡外相が締結した日ソ中立条約の
 破棄を通告してきた。
 この条約は、通告後1年間は有効となっていたのであるが、日本の敗北が歴然としてくれば、いつでも
 一方的に蹂躙される可能性は、十分にあるとみなければならなかった。(中略)

 5月になると、ドイツが屈服したので、北辺はいよいよ急を告げ、ソ満国境が怪しくなってきたので、
 中国から満州へ、4個師団を転用したことは前述の通りである。
 その頃、大本営のソ連に対する情勢判断は、次のようなものであった。

 (要約)
 1)ソ連は対独戦に主役をつとめた感あり、その増大した発言権を最大限度に利用して、東欧に対す   る勢力圏の拡大と、多年の宿望である海洋への進出をはかるであろう。
 2)満州と中国に勢力を伸ばしてくるであろう。
 3)目下、極東増兵をいそいでいるが、7~8月頃には40個師団近くなるだろう。
 4)対日開戦は時機の問題。日本がすっかり弱って、ほとんど犠牲を払わずに満州をとれる時機を狙   うに違いない。

 7月10日、在満の在郷軍人40万の内、25万を動員した。
 師団や旅団の数こそ増えたが、装備は貧弱きわまるもので、かっての精鋭関東軍の面影はなかった。

 朝鮮では、7個師団が本土決戦にそなえて南鮮に位置した。
 かかる事態に立ち至っては、攻勢作戦一点張りできた関東軍も、優勢なソ連軍を相手に、南満線東方
 の山地に拠って持久を策するより他に手がなくなった。
 戦争の焦点はいよいよ本土に移ってきたのである。

 *この写真は、元樺太師団(第88師団)主要幹部。

大本営発表21

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 1945年(昭和20年)3月、日本は、航空兵力の徹底的集中と局地防衛の強化を図ることになり、大陸の
 方も東シナ海沿岸に兵力の重点を移した。

 海軍側は沖縄作戦に望みをかけ、陸軍は離島作戦の再三の失敗で、海上輸送のない本土作戦に重きを
 おいた。沖縄の防衛は、牛島中将率いる2個師団半の兵力だった。

 沖縄戦の特徴は「航空兵力を徹底的集中した特攻戦」であった。
 (中略)日本は九州に海軍機1,815機(内特攻機540)、陸軍機735機(内特攻機440)、
 台湾に440機(内特攻機250)合計2,990機(内特攻1,230機)を集中した。

 これに対する米側の作戦は、これまで企てられた太平洋作戦における最大のものであった。(中略)
 総勢54万8千人。軍艦318隻、輸送船1,130隻、陸上軍は3個師団、海兵4個師団計7個師 団12万人であった。
 
 米側は沖縄島1島をとるために、西太平洋においてフイリピンとアリューシャンの部隊を除いた
 全米軍がこの戦いに投入されたといって過言ではない。

 わが第5艦隊は、3月18〜20日と、空母10数隻の米快速機動部隊と対決して、相当な損害を与え   た。(中略)そして4月中旬〜5月下旬にかけてその激戦は硫黄島の再現を思わしめるものがあった。

 米軍は持ち運びの便利な軽い無反動砲を使用し日本軍陣地を攻撃し、6月21日、80日余の悪戦苦闘
 の後、沖縄は遂に落ちた。牛島中将は、本島の南端、太平洋の浪が脚下を洗っている断崖の丘上で
 自刃した。

 特攻「菊水作戦」は4月6日から始まり、6月22日まで出撃回数数十回、延2千8百67機が出動した。
 (中略)猛烈な防空砲火をくぐりぬけて、目標に到達したのは1割そこそこで、米提督たちは「なあ にたいしたことはない」と豪語していたが、事実は全艦隊の心胆を寒からしめたものがあったよう  だ。

 米新聞も初めは掲載を禁止、4月13日になって解除した。

 沖縄における米艦隊の損害は、撃沈33隻のうち、特攻によるもの25隻、撃破167隻のうち特攻 によるもの124隻であって、撃沈、撃破の7割5分は、特攻があげた戦果であった。

 この頃、私(著者)は鉾田(茨城県)の飛行場に特攻隊を送りに行ったことがある。
 出陣の前、香取神社におまいりして、神官が社前に武運の長久を祈念しようとした時、「われわれに は武運の長久は禁物、獲物の大ならんことを祈っていただきたい」と言ったという。
 特攻の選にもれたと言って泣いた少年もいた。あまりに志願者が多いのでクジ引きにしたのである。
 (中略)
 飛行場に立っていた私は目頭があつくなった。死を見ること帰するが如し。やっぱり特攻は戦争とい う特異な雰囲気が生んだものであった。(中略)
 戦艦大和は、4月7日、敵機延1千機の反覆電撃を受け、鹿児島西西南方100浬の沖合いで最後を遂げ たのであった。
 〇祖国のために戦死した英霊に合掌。

 *この写真は、樺太西海岸の「鵜城」港。


 

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