近代戦史と国際情勢の研究、考察

旧北方領土(樺太、千島列島)の史実伝承

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大本営発表15

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 「大本営発表」の著者・松村大本営報道部長は、「梅津と東条」のタイトルで、「端的にいえば、
 大東亜戦争の4年間、陸軍の主催者は、前3年は東条大将で、後1年が梅津大将であった」として、
 2人の素顔を詳しく語っている。

 満州事変では、参謀本部の総務部長だった梅津は、温和で無口な将軍だったが、外柔内剛の人で、
 煮え切らないところがある反面、鳴くまで待とうの家康型の遠謀もある人。
 それに対する東条は、参謀本部の第一課長や陸軍省の動員課長を歴任した切れ者で、「カミソリ東  条」の萌芽をあらわしていたという。

 東条の性格、特徴を羅列すると、「果敢な実行力、小食、清潔、一日4時間の熟睡、非常に几帳面、
 まれに見る努力家、軍服胸ポケット両方には、常にメモ用のノートが収められていた、決断の人」
 等だったが、日本がもっとも慎重を要する時(太平洋戦争の前夜)、決断を得意とする東条が首相だ ったことは、日本の不幸だったと著者は述懐し、一口でいえば、東条は優等生型を60過ぎまで持ち つづけた人で、ゴマカス、適当にやるというあいまいさをとても嫌う人で、闘志満々、私心はなく、 負けず嫌いで、ややもすると手段を選ばない傾向があり、独裁的傾向もあったと回顧する。

 そしてこの2人の将軍は、陸大卒後、ともにドイツ研究員として欧州に派遣されていた経歴もあり、
 お互いを畏敬していたという。

 絶対確保線(サイパン、テニアン、グアム)がほころびかけ、ドイツではヒットラ−の暗殺未遂事件 がおき、日本でも裏では平和論が出始めたが、7月下旬、御前会議は、「捷号作戦」を決定した。
 この作戦は、捷1号ーフイリピン、捷2号ー台湾、捷3号ー本土、捷4号ー千島、北海道の4つに区 分され、要約すると、この4区分の防備を強化し、右地区で敵の来攻を受けた場合は、集中可能な全 力をあげて、我が基地航空兵力の作戦圏内に追いつく敵を邀撃、撃滅し、重要地点を確保する、とい う内容だった。

 そして陸海配備の重点は、1号、2号におかれた。
 だが、連合艦隊は打ち続く敗戦で救いようのない大きな欠陥ができていた。それは空母兵力と燃料の
 不足だった。今や練度高き空の戦士を失い、海の王者としての昔日の面影はなく、暗雲は立ち込め  た。ただ長年懸案だった「統一指揮」の問題は解決し、北海道、台湾の陸軍飛行師団は、海軍航空艦 隊司令官の指揮下に入る。
 しかしこの段階でも、陸軍、海軍の統帥部は、各々の主張を、貴重な時間の大部分を使って、お互い の折衝に消費していたのだ。

 *この写真は、樺太・鵜城町「牛苦のアイヌ」

 
 
 

 

 

大本営発表14

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 サイパン上陸でゴタゴタしているとき、B−29十数機の編隊が、中国四川省成都を夜中に発進して
 午前4時、八幡を爆撃した。この初空襲の報を、「国民に一刻も早く発表するように」と東条首相から も指示が入ったが、直後から虚報の洪水が押し寄せ、実態を把握するのに手間どり、実際に発表でき たのは8時だった。これが戦場の真実なのかも知れない。
 8月になると、100機編隊が九州、朝鮮、満州に押し寄せるようになり、大きな被害が出た。

 海戦で、米機動部隊を一挙に撃滅する作戦の「ア号作戦」はどうなったかといえば、地上準備の1千機 は、ピアク島上陸で半数を割かれ、その他でも取られ、結局、決戦参加は、予定の20%のトラッ  ク、硫黄島の飛行機のみとなり、決戦艦隊(第1機動艦隊)は、サイパン上陸の報から、マリアナ沖 に進む。その主要陣容は、空母3、改装空母6だった。

 4群の敵機動部隊を発見し、第1波、260機、第2波、80機を発進するが、米潜水艦の雷撃で、
 「翔鶴」が沈没。

 米論者はこの海戦を「日本海軍は、ソロモン海戦で多くの駆逐艦を失ったたたりで、護衛不足となり
 この海戦で再び大きな損失を出し、敗北した」と論じ、米マスコミはこの海戦を、「フィリピン沖海 戦」と名づけ、その勝報を大きく報じた。

 著者は語る。「この頃の飛行兵は、訓練不足、技量未熟のため苦戦の割りには効果は小。おまけにグ アムに着陸した攻撃機は、待ち伏せした敵機のために全機破壊された。敵機300機が第1機動艦隊  を攻撃し、「瑞鶴」、「隼鷹」が大破、「飛鷹」は敵潜水艦の攻撃で沈没し、この海戦で、日本は
 「空母3隻と飛行機400機をうしなった」と。

 そしてこの海戦の戦果を、海軍部は、また損害を過小に発表しようとしたので、富永陸軍次官は、
 「海軍はなぜ真実をすぐに発表しないのか?米側も戦果を大々的に報道している以上、虚報はすぐに 露見してしまうのに」と海軍部の偽りの大本営発表に賛成しかねる旨を交渉しているのを東条首相が
 耳にして、「この海戦は元々陸海の協同作戦ではない。海軍はミッドウエイ以来の連敗で気の毒だ。
 海軍の責任で発表するのだから、言う通りにしたら・・・」と、海軍に思いやりをしめした。

 また戦艦「陸奥」(3万トン)が自沈し、海軍がガックリと落ち込んだとき、東条首相は、即座に
 鋼鉄3万トンを、陸軍割当から海軍に譲った。もと陸軍大臣だった東条首相だが、海軍への思いやりは
 海軍ビイキと思われるほどに大きかった。

 東条首相の思いやりもあり、海軍は、この海戦の損害を、国民を失望させないためとして、空母1隻沈 没と飛行機50機の破損と発表した。

 この「ア号作戦」の失敗は、やがてマリアナの失陥、マリアナの失陥は、絶対確保線の破綻となるの で、この段階でサイパンの増援を企画したが、制空、制海権をとられたので、どうにもならず、硫黄 島からの夜間殴りこみ以外に手はなかった。
 
 天皇は宸襟を悩まされ、6月25日、今後の作戦指導について、異例のご下問を、梨本宮、伏見宮、永  野、杉山両元帥たちにされたが、名案はなく、1)後方の防備強化を急ぐこと2)陸海空の総力発揮 のため、統一指揮が必要であることの2点が提案され、2)についてはその後の作戦で実現された。

 やがてグアム、テニアンが攻略され、サイパンの敗戦がもとで、東条内閣は退陣に追い込まれる。

 1944年(昭和19年)6月は、枢軸側の大厄年になる。
 連合軍のドーバー海峡を越えての北仏上陸で、ドイツの敗色は濃厚になり、サイパンの失陥は、B−
 29の本土爆撃の基地化となり、マリアナ沖海戦では、残存艦隊は致命傷を受けた。

 前半吉、後半凶とでたインパールの戦いは、第1次大戦型(奇襲と包囲を信条とした旧戦法)から
 空軍と火力を主体とした新戦法に大敗を喫したのだ、と著者は回顧する。

 *この写真は、樺太の火防線。山火事は樺太の名物で、原因は色々とあった。

大本営発表13

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 1943年(昭和18年)11月3日、朝、東条首相は上機嫌だった。この日は、大東亜会議(満州、中国、
 タイ、フィリピン、ビルマ、自由インド)に各国代表たちが集まる日で、7つの国旗の中、午後4時過 ぎには代表たちが集まり、和やかな談笑裡に5時すぎには散会した。
 そして11月5〜6日に大東亜会議が開かれ、11月7日には、日比谷広場に集まった国民大会の10万人の
 大衆の前で、各国代表が熱弁を振るった。
 この雰囲気は大東亜共栄圏が完成されたかのように見えたが、実際の戦況は、中部ソロモンの激闘で
 日本軍は悪戦苦闘していた。


 この頃、航空機増産のため、軍需省が発足し、割り当てから陸海軍の激しい競り合いが続く事にな  る。状況は、南方交通の途絶から資材不足となり、合わせて熟練工不足から大量生産が出来なくな  る。

 1944年(昭和19年)の航空機生産目標は5万機だったが、米国と比較すると、前年目標は12万機(内大型1万機)で、実に日本の2.5倍以上だった。
 そして船舶の損害は、昭和17年が88万トンで、昭和18年は160万トンと急増し、日本を圧迫 することになる。

 ジェームス・フィールドは、こう述べている。
 「日本の戦争遂行能力は、海上交通に依存いていたから、1943年(昭和18年)からの米潜水艦 攻撃による商船の損失は激増し、これにより日本の敗北は約束されたようなものだ」と。

 1944年2月17日、南洋群島最大の根拠地トラック島は、日本哨戒網の油断により、三群の米機 動部隊の急襲を受け、翌18日も7回の空襲を受け、飛行機325機、艦艇10隻、船舶(タンカー)2 8隻、人員700名が破壊、沈没され、戦死し、その他燃料、糧秣は灰燼に帰する大損害を受けた。
 虎の子のタンカーは全滅したのである。

 密かに海軍に「ミッドウエイの仇討ちを期待していた陸軍は驚愕、失望し、急遽、2個師団(基幹) をトラック、サイパン、グアムの守備に当てた。

 この頃から日米航空勢力の差は段違いとなり、同年3月末には、パラオを空襲され、飛行機200機、 艦船20隻を撃沈され、建て直しは、米機動部隊の撃滅しかない、と「ア号作戦」が決定する。

 ところが陸軍ではマラリア患者が急増し、戦力にはならず、サイパン、テニアン両島は、空襲と艦砲
 射撃で飛行機の大部分が破壊された。

 戦況の報道についても世界共通するのは、「勝っているときは真実の報道をし、負けてくると虚報を
 流す気持になるのは、昔から戦う者の陥り易い心理だ」と著者はいう。

 日本軍の場合、前線報告は大本営報道部から作戦部(発言力大)にわたり、そこで色揚げされること が多くなった。それで報道部と作戦部との間にゴタゴタが多くなり、著者は第二報道部長に同行して 東条首相に相談に行ったときの東条首相の有りのままの姿をこう語る。

 「君達の戦友は、今サイパンで死闘を続けているのだゾ。今もたおれつつあるのだゾ」と両眼には
 白いものが光っていた」と。

 (このような状況の中で、これは陸軍の戦果だ、これは海軍の戦果だ、取り上げる、取り上げないな どとつまらない争いなどはするな)と諭しているようにも聞こえる東条首相の言葉である。
 そして著者は、この問題の核心の「敵を2回撃退した」陸軍の戦果を、陸軍とも海軍とも書かずに
 大本営発表に入れたと述べている。

 *この写真は、樺太のトナカイ橇。トナカイの目は極端な近視だが、嗅覚は極めて敏感。

大本営発表12

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 著者(元大本営報道部長松村秀逸陸軍少将)はいう。「日本はガダルカナルを海のスターリングラー ドとしてしまった」と。

 1942年(昭和17年)12月31日(大晦日)の御前会議で、もみに揉めた結果、ガダルカナルからの
 「転進」が決定された。この日まで「転進」という言葉は使われたことはなかった。ないはずで、そ れは退却、撤退を意味する造語で、敵にうしろを見せる退却を恥とする日本軍がもっとも使いたくな い言葉だったので、このときに実態をカムフラージする造語が発明されたのだった。

 翌年3月2〜3日、ラバウルからラエ行きの増援部隊を乗せた輸送船8隻が、米軍130機の攻撃を受 け、すべて沈没した。
 4月初め、連合艦隊司令長官山本五十六大将は、地上機と合して340機で、米陸海軍機560機とラバ ウル上空で対決し、かなりの戦果をあげたが、多勢に無勢(敵の60%の戦力)で、敵は補充交代が 容易に可能で、一方、消耗戦のみの日本軍は、トラック島に引き揚げて補充再建に当たる事になる。

 そして1943年(昭和18年)4月18日、米軍に暗号解読された日本軍は、ブウゲンビル島フィン基地上空 で、P−38戦闘機30機の待ち伏せを受け、山本大将機は撃墜され、戦死した。

 一方、ガダルカナルでひどい目にあった陸軍統帥部は、ようやく米軍の強豪さを知り、主戦場を中国 から太平洋に転換したが、ときすでに遅く、なだれのように各戦場で敗退することになる。

 1943年(昭和18年)9月8日、イタリアが連合国に降伏し、枢軸側の敗色が一層濃くなってきた。

 9月30日、御前会議でつぎのような内容の「戦争指導大綱」が決まる。

 1)航空戦力を急速に増強し、主動的に対米英戦を遂行し、敵の反攻を破砕する
 2)絶対確保要域ー千島、小笠原、マリアナ、西部カロリン、西部ニューギニア、スンダ、ビルマを   含む太平洋、インド洋とし、海上交通を確保する
 3)大東亜共栄圏の結束を強化する

 だったが、著者は「このときすでに遅まきの感があった」と語り、「すでに1942年(昭和17年)3月に は、航空機の増産、絶対確保要域の設定、海上交通の確保に着手すべきだった」と反省する。

 そしてこの「戦争指導大綱」に基づいて作製されたのが次の「作戦計画」だった。
 
 (作戦計画)

 1)防備強化して大打撃を与える
 2)ビルマ、スマトラは絶対に確保する
 3)中国では現占拠地を安定確保し、対ソ紛争を避ける
 そしてこの防備完成の時機を昭和19年の中期と予定した。

 連合艦隊は、ブウゲンビル島沖の航空戦(対敵戦力5割)で悪戦苦闘したが、昭和19年3月には、ラバ ウル西北方アドミラルテイ島、4月には、ニューギニアのホーランジアを占領され、太平洋の孤児とな り、遊兵化した。

 陸海空三位一体の大消耗戦で、(空軍が主役)ミッドウエイの影響は大きかった、と著者は回顧す  る。

 *この写真は、ソ連軍の自動小銃と拳銃。自動小銃は71発装填で、日ソ戦(樺太)では日本軍を悩ま  せた。俗称マンドリン。この後に出たのがAK−47自動小銃。

大本営発表11

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 「米英蘭軍は、オーストラリア、インド方面より逐次戦略要点を奪回してくる算、大なり」と判断し ておきながら、日本陸軍は米濠遮断作戦として、第17軍(実力1個師団)を、ニューカレドニア、フ イジー、サモア諸島から1千マイル以上離れた東部ニューギニアまでの広大な地域に配備していた。
 そしてその攻勢時期については、1943年(昭和18年)頃と予想していたのだ。

 ところが敵の反撃は早く、ニュージーランドの要港オークランドから出航した米軍輸送船団20数  隻は、2つの艦隊に護衛され、ガダルカナル島を急襲した。

 1942年(昭和17年)8月7日のことで、これが本格的な反攻の皮切りだった。
 ガダルカナルには日本海軍、陸戦隊員300人と2つの飛行場建設に従事する作業員2000人が常駐してい ただけで、2つの米機動艦隊掩護の下で、米海兵隊1個師団の将兵が上陸し、飛行場を占領した。

 米軍ガダルカナル上陸の知らせを受けた第8艦隊は、翌8日夜、重巡5、軽巡2、駆逐1計8隻の陣容で
 ルンガ泊地に殴りこみをかけ、得意の夜襲で米重巡4を撃沈した。敵艦隊は、上陸部隊や輸送船団を 置き去りにして遁走したので、日本艦隊はそのまま引き揚げ別の任務についたが、輸送船には攻撃を 加えていない。
 日本艦隊が立ち去ってから米艦隊は戻ってきて、積載してきた武器弾薬、食糧の荷揚げを掩護した  が、もし日本艦隊がこれら輸送船団を攻撃、撃沈しておれば、敵の補給に甚大な損害を与える事が出 来たことと惜しまれる。

 その後、第1次、第2次ソロモン海戦と日本艦隊の一部はガダルカナル島奪回をはかり、幾度も攻撃を 加えたが、陸揚げされた重火器、戦車の反撃に会い、上陸日本軍部隊800名は壊滅した。

 制空権を取られた日本軍は、このあたりで作戦を変更すべきだったが、この戦場を見切ることが出来 ず、ずるずると深みにはまっていった。日本軍の補給路は途絶し、米軍の補給は、1万トンクラスの
 輸送船が港に横づけし、豊かな食糧、武器弾薬、物資の中で、ラジオを聞き、テニスをやり、コーラ を飲みながら、生活を楽しみながら戦う毎日になった。

 そして今度は日本軍の反攻を、兵力増強を図りながら、待ち伏せる戦闘になる。
 日本輸送船は、いたるところで米潜水艦の待ち伏せに会い、主要輸送船11隻が沈没し、大打撃を被  る。

 日本艦隊は、苦しい中でもその熟練した勇猛さで、敵艦隊に被害を与えるが、1942年(昭和17年)10 月頃から米艦隊の先制攻撃をうけるようになり、とくに開発の進んだレーダーと砲撃の組み合わせに よる「電探射撃」が開始され、日本海軍の得意中の得意「夜襲」が不可能になっていく。

 だが、日本軍は情勢悪化の中で、益々むきになり、マイナスは増大し、日本軍の弱点を暴露すること になる。
 ガダルカナルへの補給は、潜水艦や小舟艇によるわずかな補給が唯一の頼りとなるが、昼間は爆撃、
 夜間は魚雷艇の攻撃で途絶えがち。栄養失調の続出で、文字通り悲惨の極みとなる。
 この関頭にたって撤退の決意までには、いろんないきさつがあった。

 「見敵必殺」「退く戦術われ知らず」など、退却は罪悪とされ、精神価値を極度に重視してきた日本 軍は、こんな場面での戦局の転換はもっとも不得意であった。

 *この写真は、フレップ(こけもも)の実。樺太名産「フレップ酒」の元。
  


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